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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

山崎正和さん――劇作家でもあった美学者

 

山崎さんの膨大にして多彩な著作の愛読者の多くは、その著者が美学者であったことを知らずにいるのではなかろうか。美学の専門家にしても、山崎さんの美学書を劇作家の余技と見るのが多数派のような気がする。しかし、その美学は、たしかに劇作経験を反省的に純化したものに始まったが、それゆえの勁さを示し、世界観的思想として広がり、生き方に直結して深化していった。「藝術は九分の刻苦勉励と、一分のひらめきがあって成就する。それを研究する美学でも、九分の博覧強記と一分のひらめきがあって大成する」。これは、後述するが、わたしの美学に対する山崎さんの評言だが、山崎さん自身における劇作と美学のパラレルな関係を語ることばとして読むことができる。

 

山崎さんとわたしには、細いながら交流の回路ができた。それは演劇研究を含む美学に関する回路である。途切れそうになったこともあったが、山崎さんが亡くなるまで続き、最後には強い思想的共感を分かち合った。この葦の髄から天井を見る態で、このひとの肖像を書きたいと思う。

 

 

まずは演劇。昭和38年、山崎さんは『世阿弥』で、岸田国士戯曲賞を受賞された。「新劇」の全盛期で、この新人の出現はちょっとしたニュースになった。大学3年で劇作に憧れていたわたしは大いに刺戟を受け、掲載誌を買って読んだ。華やかな道具立てながら、せりふは難解だった。足利将軍とその庇護を受ける藝術家という対比が、光と影というメタファーで繰り返される。この光と影を、光があって初めて影ができるという力の関係として捉える見方が判っていなかった。藝術ではなく権力の方が光であることをしっかり把握していなければ、この構図に込められた思想は見えてこない。権力に抗する実存というサルトルの『キーン』の日本版としか受け止めなかった。大分たって、昭和62年の再演を観る機会があったが、印象は変わらなかった。そして今回、久しぶりにこの戯曲を読み、見えるところは相当に変わってきたが、それを説明するには山崎さんの学位論文『演技する精神』(昭和58=1983年)を経由する必要がある。寄り道ではない。わたしの山崎像にとっては、こちらが本筋で、しかも核心をなす。山崎さんの仕事、生き方は、ここに言語化されてかたちをなし、最晩年の成熟まで続いていった。

 

これを一読して感銘をうけたわたしは、翌年、学会誌(『美学』137号)に詳細な書評を書いた。この著作には、藝術の存在理由を突き止めようという明確な意思が込められており、同学の士にそれを広く伝え、思索に踏み込もうとしないこの学問のありかたを少しく革新したいという、ひそかな野心があった。「私の関西演劇――くるみ座から大阪大学演劇学講座まで」という講演(別冊アステイオン『それぞれの山崎正和』所収)のなかで、山崎さん自身、学生時代の京都大学哲学科の雰囲気を語っている。そこでは「ドイツ観念論」の研究のみが哲学の正統で、現象学さえうさん臭く見られ、実存哲学をやればジャーナリズムに染まっているとして譴責された、という(戦前の京都学派が展開した思索としての哲学から、アカデミックな転回を遂げた状況だ)。ちなみに、東大はずっと自由で、竹内敏雄先生は美学の新しい動向に大きな関心をもってらした(『美学新思潮』全5巻の編集、『現代芸術の美学』など)。しかし、アカデミズムの雰囲気は同様であり、わたしにもよく分かる。藝術哲学としての美学は、本来、藝術とは何か、それが存在するのは何故なのか、という根本的な問いについての思索としてあるべきものであろう。そのような思索の(つまり西洋哲学の)研究はあっても、自らの思索は希薄、という状況のなかで、山崎さん(もちろん、劇作家であり、ジャーナリスティックなひとと見られていたと思う)の挑戦は瞠目すべきものだった。

 

山崎さんの核心的なテーゼは、〈現実の行動は、完結しないという点で不完全なものである。演劇はそれを模倣的に再現することによって完結性を授ける〉というように集約できる。藝術とは自然の模倣である、という古典的な理論を、これは根拠づける思想だ。著書から引用すれば、次の箇所がこの要点を表明している。

 

模倣は、現実行動が未完で終わった地点でその仕事をひきつぐのであり、逆にいへば、現実行動は模倣においてこそ、初めて真の現実行動になりうる。

 

質的にとらえて「現実は不完全」と言って一般化してしまえば、「理想化を伴う自然模倣」という古典的な標準学説に回収されてしまう。その完全性を「完結性」と特定したところに妙味がある。誰でも、これはひそかに感じたことのある事実だ。古来、悲劇は死で終わり、喜劇は結婚で終わる、と言われてきた。親の反対をはぐらかしてめでたく結婚にこぎつけた若い恋人たちは、幕が下りたあと、あしたはどうなっているのか。ハムレット亡きあとのデンマークはどうなってゆくのか。現実はそのように続いてゆく。その連続性を断ち切って、いまの輝きを、その輝きだけを切り取って見せる、それが演劇という模倣藝術の本質である――ちなみにこれは、喜劇の「終わり」に関するアンリ・グイエ先生(拙訳『演劇と存在』)の卓抜な直観でもあった。山崎さんの「完結性賦与」は、作品一般の特性であり、行動の藝術である演劇は人生を映す鏡となり、人生を照射する。それは「人生そのものが自己を完全化しようとする努力の延長である」。このように見るとき、演劇は人生に遍在してくる。

 

演劇性は「かたち」を介して人生に浸透する。すなわち、完結性の顕示として、見せること、見ることが重視される。ここで山崎さんは、演劇には「二重の伝達相手」があるとして「鼎話的構造」なるものを主張する。第一の伝達相手は、言うまでもなく観客である。しかし、実はそのほかに想像上の伝達相手が存在する。それは、完全性を見張る目のようなものと考えられる(だから、現実には目の肥えた観客と符合するだろう)。演技的行動のなかに練習や想起の努力が含まれるのは、この理想の見張り人を意識してのことであり、演技は「表現者の自己抑制」を伴っている。礼儀作法、化粧、服飾、ごっこ遊び、酒席での回顧談などが参照される。山崎さんが社交性、礼儀作法に強い関心を懐いていたことは知られているが、その原点はこの演劇哲学にあり、更にそのルーツは、おそらくその人となりにある。

 

華やかな活躍ぶりを遠くから眺めれば見えてこないが、この自己抑制はわたしの山崎像の核心にある。それは山崎さんの哲学、劇作、そしておそらく生き方の主要な「動機」となった(すぐあとで紹介する山崎さんの言う意味での「動機」である)。人文書院の編集者だった松本章男さん(京都の地理、風土のなかに古典和歌を読む多くの名著がある)は、山崎さんについて、「何をやっても成功するだろう、と思った」と述懐しておられる。松本さんにとって山崎さんは同じ高校の少し後輩にあたるそうだが、おそらくそれまで面識はなかった。哲学体系の美学の巻への執筆依頼でお会いになると、役割が逆転して、松本さんの方が話し手になってしまった、とのことだ。山崎さんは毎日のように訪れるこのような機会に、人間観察をしてらしたのではなかろうか。それが劇作の原資になる。山崎さんの社交性は並みのものではなかったように見える。上記の講演は、日本演劇学会が関西の演劇を主題として催した会合で、そこには、関西演劇学界の主要人物たちが列席されていた。山崎さんの講演は即興で行なわれたようだが、話題の折々のそれらの人びとの名をもれなく織り込んで進められている。

 

『演技する精神』に戻ろう。この著作には、最後にもうひとつ、重要な論点がある。それは行動そのものの構造である。「行動には意志と動機といふ二元的な力が働いてゐる」と山崎さんは言う。これは心身の二元性に対応し、意志は精神的な契機であり、動機は身体的契機と見られる。この動機概念はやや紛らわしいが、或る行動をうながす状況からの力、というような意味で使われている(山崎さんはこれを「被担性 Gtragenheit」の概念と重ねている。これは、日本語でいえば「担われていること」「乗せられている感じ」、さらには「波に乗っているような感じ」に相当するオスカー・ベッカーの用語で、山崎さんはこれを好んだ)。この行動の実態をもっともよくとらえたのは世阿弥であり、特にその「離見」の概念の中に読み込まれている。すなわち演技者(俳優であり、われわれでもある)は、或る気分(観客の創り出している「気」)のなかから決意するのであり、前提抜きに決断する「自由意志」という概念を、山崎さんは強く批判する。

 

この「被担性」の概念、もういちど繰り返すなら、われわれのふるまいが周囲の状況(とわれわれ自身の性向)の函数においてなされるという思想こそ、戯曲『世阿弥』と『演技する精神』をつなぎ、最晩年の名著『リズムの哲学ノート』に到る山崎さんの思想の核心にあり、その社交的人格の根底をなしていたものだと思う。そこで、『世阿弥』をふり返ることにしよう。

 

『世阿弥』の「行動の完結性」はどのように創られているのか。悲劇は主人公の死で幕を閉じ、喜劇は若い恋人同士の結婚でフィナーレとなる。これはドラマの構造である。ここでドラマというのは、語源のままに普通の意味での「行動」を純化したものであり、筋立てに相当する)。初めに問題が提起される。若者たちは愛し合っているのに、金になる縁組を考えている親はそれを認めない。父親の国王が急に亡くなった。その死にはいくつも不審なところがある。これらの問題の解決へ向かって展開してゆくのがドラマであり、その解決が演劇作品を完結させる。しかし、『世阿弥』の場合、解決すべき、あるいは解決が可能であるような「問題」は存在しない。あるのは光と影の絶対的な対立という状況だけだ。状況の函数としての俳優(すなわち、藝術家であり、普通の行為者でもある)というこの主題は、あの「離見」に由来する。上記の講演のなかで山崎さんが披歴したことのなかに、くるみ座の稽古場の風景がある。演出家は、観客が容易に理解してくれないものであることを、繰り返し指摘し、俳優たちを叱咤していた。演技者はたえず外からの目を意識して、自己を制御しなければならない。『演技する精神』はこの稽古場で得た直観を理論化したものとさえ見ることができる。『世阿弥』において、観客と演者の関係は、義満という絶対的な権力者とその庇護を受ける猿楽師として特定されることにより、その権力構造が浮き彫りにされる。影は光を受けることによってしか影たりえない。その認識はあっても、そこから脱出することは原理的にあり得ない。つまり、ここにドラマの余地はない。

 

状況のみあって解決すべき課題を欠く演劇は、叙事的なものとなるほかはない(若いとき、ジャン=ルイ・バロー一座のクローデルに深く感銘を受け、「リアリズム演劇」とは異なる可能性へと傾倒するようになった、という)。劇中の世阿弥は、権力の恣意に、空疎な絶対的な力に対してノンと言い続ける(義満は声だけで、舞台上に現われない)。そこに変化はない。従って、ドラマの完結による終わりはない。光と影のそれぞれの派生的人物たち、義満の息子らや公卿たち、下層の藝人たちがサブプロットの小さなドラマをつくり、筋を進めてゆくなかで、世阿弥は動かない。その頑強さが光=権力の側のドラマを生みはするが、変化しない主役を頂く戯曲はどのように完結するのか。この自己を譲らない主人公に対してついに下された遠島の処罰を受けて、戸板に乗せられた状態の世阿弥を包んで、盂蘭盆会の踊り子たちが舞い、踊る。レビューのようなフィナーレである。これは、ドラマの終わりではなく作品としての完結である。その絢爛たるフィナーレは、世阿弥の実存を寿ぐものだ。

 

山崎さんは晩年に、自身の作劇法を劇化している。『芝居――《八洲朱鷺男の城》』(平成17=2005年)である(初演の順序で言えば、最後の戯曲になるが、『山崎正和全戯曲』では、なぜか、後ろから3番目に収録されている)。この上演を観たとき、訳が分からず困惑した。ピランデルロ風(『作者を探す七人の登場人物』)とは思ったが、何故ピランデルロなのかは分からなかった。そもそもピランデルロを面白いと思ったことはない。これが「芝居」というタイトルのままに、作劇法の演劇であるとの理解に達したのは、この肖像を書いてのことだ。それでもなお、分かり切らないところが多々ある。そもそも、その作品を紹介するのに粗筋を書かなければなるまいが、それが容易ではない。敢えて試みるなら、次のようになろう。――主人公の八洲朱鷺男は、売れっ子の作家だ。その名前(ペンネーム)の意味あいも作中に説明がある。昔の日本の、いまはどこにもいない男だそうだ。かれに呼ばれて3人の男女がやってくる。主人公不在の豪華なもてなしのあとで趣向が説明される(説明役は内弟子の若者)。芝居の状況は朱鷺男が書く。3人はその状況に身を置いて言葉を交わし、即興劇を創ろうというのである(作家志望の内弟子がそのせりふを書きとめる)。3人と朱鷺男をつなぐのは、20年あまり前のこと、夭折した天才作家がいて、かれらはその天才の弟分だった。女性は編集者になり、男の1人は批評家に、もう1人は政治家になった(「文学」にまつわるこの設定も意味ありげだ)。朱鷺男だけが天才のあとを継いで作家となり、成功を収めた。3人の会話(すなわち即興劇のせりふ)は、天才の死の謎、かれの遺作の長篇小説が消えてしまったこと、かれのひらめきに満ちた大量の創作ノートの行方を巡って展開してゆく。そのなかで、朱鷺男への嫌疑(殺害、盗作)が強く示唆される。

 

いわば全体が劇中劇だが、そのタイトルである『八洲朱鷺男の城』とは、第一義的にはかれの屋敷を指すものだろう。その屋敷のつくりも、またかれ自身が聖セバスチァンに異常な執着を見せているところからも、三島由紀夫の戯画であることは明らかである。また、作品が聖セバスチァンごっこから始まるところからも、死が主要モチーフであることが見てとれる。せりふによって筋が運ばれなければ演劇は成り立たない。3人の登場人物は不可欠だ。しかし、それが会話、歓談に終わらず、作品となるには、作者が必要だ(ピランデルロのテーマ)。かれらの間でも、誰が作者になるかが意識される。では、作者であるための条件とは何なのか。作品に結末をつけることである。山崎さんはそう考えている。最後に「作者」になったと言われるのは、この屋敷に居候のように同居していた若い娼婦だ。筋の展開のなかで、彼女は、自分の母が天才作家と同棲していた娼婦ではないか、と思うに至る。そして、ホモの朱鷺男への愛を告白する。その朱鷺男は、もう天才の影として生きることをやめようと思っている(「影」とは言われていないが、要約して説明しようとすれば、ほかに言いようがない)。娼婦はある賭けによって決着をつけようとする。自らセバスチァンごっこの射手となり、矢が外れたら、どこか外国へ行って一緒に暮らそう、と言う。その賭けは実行され、当の娼婦の思いに反して、矢は朱鷺男の胸を射る。この即興劇の参加者たちは、彼女が作者であると認める。そして、矢に射抜かれたままの朱鷺男を横抱きにした娼婦の、「ピエタ風」の構図のなかで、幕が降りる。――ちなみにこの娼婦母子、『世阿弥』の白拍子に似ている。第一幕で白拍子のうたった歌が、エピローグで盂蘭盆会の群衆によって歌い踊られ、その輪の真ん中に白拍子の孫娘がおり、彼女は戸板に乗せられ死期の近い世阿弥を看取るかのごとくだった。

 

主人公の死が演劇作品を完結させ、現実世界ではありえない完全性を行動(action とは演劇用語では、作品を貫く筋のことである)に与える。藝術作品はモデルとなって、人びとの人生を照射する。そう、『演技する精神』は語っていた。大阪大学での山崎さんの門下生たちが、毎年誕生会を開いていた(こんなことをしてもらえる教育者はめったにいない)。あるとき、山崎さんはつぎのように挨拶された。「自分は君たちに何も教えることはないが、死に方を見せて上げることはできる」(堤春恵「正和出帆」、上記アステイオン所収)。このとき、山崎さんはどのような死に方を考えていたのだろうか。それが何であれ、こんなことが言えるひとも稀だろう。

 

わたしが興味深く思ったのは、『世阿弥』と晩年の『二十世紀』(平成9=1997年、初演は同12年)の間に見せた山崎さんの変容である。『二十世紀』はライフ誌の表紙の写真を撮りつづけた写真家マーガレット・バーク=ホワイトの生涯を追う構成になっている。そこで強く印象付けられるこの世紀の特徴は、かつてなかったほどに戦争の世紀だったという事実であり、日本だけの視野で生きているひとを驚かせるものがあった。いま、注目するのは、パーキンソン病を患ったマーガレットが、病院で原爆乙女シゲコ・ササモリと出会い、互いにこころを開いてゆくところである。これが作品の結末になるのだが、史実なのかどうか、わたしは知らない。フィクションかもしれない(ただし、2人の入院は、たしかに同じ時期のことだ)。フィクションならば、却ってそれだけの重みがある。アメリカでの「原爆乙女プロジェクト」とは、被爆した25人の若い女性にアメリカでの治療機会を与えようという事業だった。その1人であるシゲコは顔半分を包帯に包まれ、整形手術を受けようとしている。ある日、間違えてマーガレットの病室に足を踏み入れたところから2人の交流が始まる。写真を撮ろうとするマーガレットに対し、はじめシゲコは激しく拒む。それまでフラッシュを浴び続けてうんざりしていた。しかし、語り合うなかで、2人はそれぞれに変ってゆく。マーガレットは、病による筋肉の硬直のため、自身でシャッターを切れないという現実を受け容れ、シゲコはアメリカから与えられた善意のみを見て、被害を許す心持ちとなり、自ら包帯をはずして、よい写真を撮ってもらおうとする(これが最後のせりふだ)。世阿弥は、生涯、光である義満を恨み続けた。いわばツッパリだ。それに対してシゲコは、加害者からの救護を、感謝とともに受け容れ、それを通して加害を許すこころを示した。そのシゲコの気持がマーガレットにも伝わって、その受容と転身に繋がってゆく。山崎さんは、30年の余を経て、個我の実存から受容へと転身した。その旨のわたしの感想に頷かれたから、これは自覚しておられたことだった。

 

平成30(2018)年、山崎さんは文化勲章を受けられ、翌年、「山崎正和さんをお祝いする会」が東京で開かれた。思ったほど大きくない部屋に、目ではかって100人ほどの参会者があった。式は進んで、個々の参会者からの祝辞を山崎さんは受けられた。杖に体を預けるような状態で、それでも立ったまま応対された。わたしも、列に並んでご挨拶した。わたしが名乗ると(お会いするのは何十年ぶりかだった)、即座に2つのことを言われた。ひとつは「『美学辞典』は美学界の宝です」、もうひとつはかつて『演技する精神』を学会誌に書評してくれたことへの謝辞である。やはり、山崎さんとわたしとのつながりは、もっぱら美学という学問においてのことだった(繰り返すまでもないが、山崎さんは京大美学の出身で、そこでの研究を継続されつつ劇作にも手を染められた)。山崎さんは頭のなかに、このような、それぞれの知人が何者であるかについての簡明なコメントを付した人名録をもってらしたらしい。かれの社交性の現れだ。『美学辞典』は別として*、『演技する精神』の書評はそれが山崎さんとの細いつながりを保ち続けることができた機縁であったことを、改めて知らされた。わたしの方は、藝術の根源を問おうとする思索に注目し、学界に対して、その学問スタイルを分かち合うことを呼びかけるつもりだったが、その思索者の方は、美学界のあるべき本流との位置づけをよろこんでくださったわけである。

 

    *山崎さんは『美学辞典』のどこかに目を通されたであろうか。ひょっとすると、この過大な評言は、奥さまからの感化かもしれない。苳子夫人もまた京大美学に学び、文藝学を専攻された美学者で、大阪藝術大学の教授でらした。あるとき、一度きりのことだが、苳子さんからお便りを頂いた。たしか、ご論の抜き刷りが入っていて、そこに『美学辞典』が注記されていた。お便りは、この拙著への謝辞だった。謝辞とは言え、書籍をお送りしたことへの礼ではなく、著作そのものが有用だったとの趣旨の珍しい謝辞だった。わたしは苳子さんにお会いしたことはない。学会の全国大会では、この世代の女性たちは一群をなしていたから、そのなかにお見かけしていたかもしれない。お顔を知ったのは、上記『アステイオン』誌の「山崎正和写真館」所収の一葉の写真からである。

 

山崎さんからは言及されないので、『リズムの哲学ノート』の感想をお送りしたことを申し上げた。この本は祝賀会の一月ほど前に刊行されたもので、会に伺うことを考え、わたしは根を詰めて読み(山崎さんの美学書はどれも、すらすらと読めるようなものではない)、長めのお便りを差し上げてあった。おそらく大量の郵便物にまぎれて、読んではいらっしゃらなかった。山崎さんは少し驚かれた。そのあと10日ほどして、これに関する返信が届いた。

 

まず、この著作を紹介しよう。山崎さんの美学書は『演技する精神』『装飾とデザイン』(2007年)『リズムの哲学ノート』の3巻である。素材の点で言えば、演技論、造形論、時間構造論となって、表現活動のほぼ全体をカバーしているように見える(これだけでも稀な偉業だ)。このなかで、わたしにとって造形論は比較的刺戟に乏しい。髄所に新鮮な洞察を含みつつ、〈装飾対デザイン〉という二元論的な図式が濃厚で、それが造形史の説明に適用され展開されるところに、山崎さんの学生時代の思想的環境を思わせる。これに対してリズム論は、演技論と深く結ばれ、山崎さんの哲学的思想を深められたかたちで表現している。『演技する精神』において、演技が言わば観客によって促されるものであり(「離見」の含み)、それをモデルとして、行動が自由意志によるという説を強く批判していた。演技という表現において制御されたすがたが「かたち」だが、それは「ひとつの姿勢の感覚、あるいは身体的なリズムの感覚として〔……〕心身的な感応によって直接捉へられる」ものととらえられていた。ここで言うリズムは、外界からやってきて演者をそこに乗せるような力動性である。それから齢を重ね、あるとき、一種の癌の診断を受け、余命の自覚に至った山崎さんは(あとがき)、このリズムを主題的に論ずることを決断した。そのリズムは当然世界のなかにあり、わたしを包み込む動きとなるはずであり、著者の、それまでの思想の根底にあったものに焦点を当てて捉え出したものである。リズムとは「力の流動とそれを断ち切る拍子の共存」からなる現象として定義される。

 

これを山崎さんは鹿ししおどしで表象する。ご存じない方がおられるかもしれないので、(要らぬ)説明をすれば、鹿おどしは日本庭園に装備されることのある仕掛けで、1メートルほどに切った竹の一端を斜めに切り、重い節の方がぎりぎり下になるよう微妙なバランスをはかってシーソー状に設置する。斜めにカットした方は、中空に来るが、その上の方に細い水路が設えられていて、一定量の水を落下させる。落ちた水は下にある竹の仕掛けの斜め切りの節にたまってゆき、いっぱいになると、その重みで仕掛けは跳ね上がる(あるいは下がる)。すると、たまった水は流れ出るので、竹筒は直ちにもとのバランスに戻る。そのとき、重い方の節の部分は、下に置かれた石を打って、独特の音を立てる。水流が一定である以上、この音は等間隔で響く(拍子)。(ちなみに山崎さんには、これを主題とする名エッセイがあり、教科書によく取り上げられた)。

 

虚空に響く鹿おどしの音は、宇宙に広がるリズムを凝縮したものだ。宇宙にはリズムがみちみちている。太陽の運行と夜昼の交替、月の満ち欠け、水面に広がる波紋、われわれの呼吸や心臓の鼓動等々である。リズムは宇宙に秩序を作り出す。山崎さんのリズム論の核心をなすのは、個体とりわけ身体の存在、役割と、(わたしの言葉だが)自動詞性である。リズムをなすのは流動とそれをせきとめる刻みであり、せきとめるのは個体の役割である。個体は生命の流れを区切るものであり、その個体は死ぬことによって個体となる(完結性)。このように個体が交替してゆくことによって、初めて進化が可能となる。ひとについて言えば、個体であるのは身体的存在だ。その身体は宇宙のあるいは外界のリズムに響きあう共鳴器である。実在は無数のアスペクトをもつが、観念はそれをひとつに絞り込んだ抽象物で、リズムの刻みに相当する。それに対して身体は、この実在をそっくりそのまま直感する。「イメージは〈湧く〉ものであり、観念は〈浮かぶ〉ものであり、人はどんな妙案であり〈思いつく〉ものだと言い慣わされている」。宇宙と共振するリズムの現象は、この自動詞的な精神生活の構造そのものである。リズムを集約する個体が生命を刻むものである以上、より端的には身体的存在であるわれわれ個人が死を免れないものである以上、リズムには「はかなさ」が伴う。「月光の美や新年の賑わいに全身を浸されながら、そのなかで一抹のはかなさの思いに襲われたとき、人は経巡るもののリズムを覚える」。

 

思い切って、ということはやや乱暴に要約すれば、山崎さんのリズム論はこのようなものだ。感想をお送りする際、共感のしるしとして、拙稿「自動詞性の詩学」の抜き刷りを同封した。山崎さんがリズムについて考えていたのと同じことを、わたしは日本語の文法のなかに捉えていた。返って来たお便りは、原稿用紙にワープロで印字するという珍しい書式のものだった(それまでは手書きだった)。そこには、自著へのわたしの感想に応答するよりまえに、拙稿への感想が先に書かれていた(わたしの感想がやや粗雑だったのかもしれないが、相手をたてる山崎さんの社交性の現れでもある)。私信ではあるが(プライヴァシーに関わることではないので、心中でお許しを乞いつつ)、その一部を引用させて頂こう。感想(「批評」と呼んでいる)と拙稿への謝辞に続けて、次のようにある。「何十年ぶりか、かつて『演技する精神』のご書評を〈美学〉誌上に賜ったとき以来の感動を味わい、同学の友情を痛感しました。/貴論の『自動詞性の詩学』ですが、綿密な分析に敬意を覚えながら、結論に満腔の賛意をもって読了しました。〔……〕もしオスカー・ベッカーが生きていたら、あの「Getragenheit」の造語者がどんな顔をしたか、見たかったところです」。オスカー・ベッカーは山崎さんにとって格別の先駆的哲学者だった。いまでは、『美のはかなさと藝術家の冒険性』のことも、その著者であるドイツの哲学者のことも、知る美学者は多くないだろう(もっともベッカーは数学の研究者で、美学の論考はこれしかないらしい)。個体史のなかで言えば、過去のひとだ。しかし世の評価を気に掛ける様子は、山崎さんにはない。巻末に、リズムを主題とする思想的背景に触れ、来し方の思想的成熟過程を窺わせるとともに、世界観の到達点を語ったところがある。それは、『二十世紀』の見せた寛容と受容の生き方と呼応し、それを哲学的に説明するものでもあるが、振り返れば、その哲学が『演技する精神』の成熟形であることが判る。ひとは「運ばれ」て(getragen)生きているとの指摘に続けて山崎さんはつぎのように書いている。少し長く引用する。

 

ベッカーの論文の表題は『美のはかなさ(Hinfälligkeit)と藝術家の冒険性(Abenteuerlichkeit)について』だったが、それをいえば人生のあらゆる営みについて、人がこのはかなさを感じることが決定的に重要だと、筆者は考えている。すべて人の企ては冒険的であればあるほどはかないのであって、それを実感することは自由意志の傲慢を防ぐために、もっとも端的な契機となるだろう。〔……〕無常観とはリズムの感覚の派生物であって、どんな営みにも始めと中と終わりがあることを知る世界観である。そしてこの世界観を悟達した人は、あらゆる行動について過剰な意志を抱くことはないだろうし、個別の具体的な行為についても終わりの到来を敏感に悟り、心やすらかに諦めることができるはずである。

 

ここで自由意志の活動(就中、政治的自由の追求、「近代化」を求める活動)をも積極的に認める「常識と哲学の二元的並立をよしとする」立場を示したうえで、次のように続ける。

 

〔……〕そうした近代化への努力が人生のすべてであるとは信じたくない。それどころか心の深い奥底では、いかなる政治改革や技術開発の試みも所詮は木の葉の先端にしたたる一粒の水滴であり、随時、随所に生じては消えるリズムの一拍にすぎないと感じるのである。

だが、そう感じることは、裏返せば一滴の水のしたたりのうちに世界の躍動を感じとり、月の盈ち虧けにも潮の干満にも自己の生命の延長を感じることに通じている。渺々たる日常の些事のなかにも序破急の弾みがあり、それは数億光年の宇宙の運動原理と同一であるのを感じ取ることにも通じている。けだしリズムを感じるとは人間をその枠外に拡大することであり、常識が価値の秩序としているものから解放することなのである。

 

極点に辿りついてしまった。だから、以下のことは蛇足にすぎないが、思想的共鳴の証言として、やはり触れておきたい、「終わり」に関わることだから。「自動詞性の詩学」に山崎さんが共鳴してくださったことは右に触れた。だが、まだ、その先があった。このやりとりのなかで、少し後に出ることになっていた『美学への招待 増補版』をお送りすると予告しておいた。その初版は、入門書ゆえお送りしなかったと思う。増補版には、美を恵みとして与えられるものとする1節があり(初版よりも詳しい)、山崎さんの世界観への共感のしるしとしてお送りした。来信はなかったが、毎日新聞の書評欄(9月8日)とりあげてくださった。冒頭に挙げた文は、その年の総評(12月15日)のなかでのものである。そこで「著者畢生の大著」と評してくださったのは、汗顔の思いだが、書評文のほうで山崎さんが注目されたのは二つあり、ひとつは、作品には作者の意図 intention が表現されるのではなく、in-tension(内なる緊張)があり、それを捉えるのが作品理解だとする考えであり、もうひとつが手で作った仕事の成功が、恵みとして美をもたらすという考えで、おそらく前者は後者の文脈で捉えられている(わたしはそう考えていたわけではないが、その通りだと思う)。そして、「ちなみに、人生そのものを〈向こうからやってくるもの〉、天与の〈リズム〉に乗せられることだと考える私にとって、これは思いがけなくわが意を得た美学説となった」と、結んでおられる。

 

これはわたしへの惜別のことばだった。上記の私信にも、結びに「春爛漫の一刻ですが、今年はどんな夏を迎えるのでしょうか」とあり、それとはないのだが、その夏を自分は見ることがないのではないか、とのひびきが感じられた。山崎さんが亡くなったのは、それから1年ほどあとのことだった。教え子たちに約束した「死に方を見せる」こととは、このような「悟達」の姿そのものだったように思われる。

 

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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