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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

川野洋さん――村八分を乗り越えた飄然たる大人(たいじん)

 

人工知能の開発が大きく進展し、その活用がさまざまな分野で広がりつつあるいま、川野さんの仕事に関心をもつひとも増えているのではないか。少なくともわたしの場合、その意義がようやく見えてきたところだ。しかし、いま川野さんの思想に共鳴している人びとのなかでも、あの事件のことを知るひとはごくわずかだろう。客観的に見ると、川野さんの学問人生はその傷跡を留めていないように見える。しかし、ご当人にとっては釈然としないままの痛恨事だったと思う。また、川野さんが幅広く展開した美学や哲学を理解するためにも、その次第を考え合わせることが役立つかもしれない。だから、先ずはそこに焦点を置いて、この肖像を始めることにしたい。

 

1967(昭和42)年5月、川野さんは東大出版会から『美学』という一書を公刊された。ときに著者は42歳、単行本としては処女作で、野心的な企てだったと思う。野心的というのはそれが教科書として書かれたものだったからである。約300ページ、前半が西洋の美学史、後半はそれにもとづく美学の体系という構成になっている。だが、ほどなく、東大の美学研究室は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。川野さんは、学生時代に聴講した竹内敏雄先生の美学概論のノートを使って書いたので、これは剽窃だ、という嫌疑によるものだった。ただし、ご当人がそのことを「はしがき」に明記しているので、厳密に言えばすでに剽窃とは言えないだろう。では何が問題だったのか。参考にしたことは明記されているが、どの程度かは言われていない。騒ぎになったことからして、当然、引き写しのような事態が想像された。竹内先生は、年々概論の推敲を重ねてらした。それを1巻の大著(『美学総論』)として公刊されたのは、10年以上のちのことである。その完成に先立って、推敲過程にあるヴァージョンを公にされたことに激怒された、ということだった(或いはこれは、聞かされた話にわたしの加えた解釈だったかもしれない)。それに対する川野さんの言い分は、こういうものだった。学説は、一度公表されれば公共の財産であり、アルキメデスの原理やパスカルの法則のように、その名を挙げただけで、それとして流通する性格のものだ。――このやりとりを、わたしは直接聞いたわけではない。そのように伝えられたのだと思う。この言い分を聞いて、川野さんは変な人だと思った。美学とは異質な自然科学的な考え方のひととも思った。文系の著作物のつねとして、竹内先生の美学体系は個性的な一種の創作であり、公共性を理由として自由に流用することの許されるようなものではない。わたしのあたまに刷り込まれたこの最初の構図の歪みは、容易に修正されなかった。

 

川野さんの弁明は、火に油を注ぐ結果となった。拙宅にも書状が送られてきた。そのときわたしは修士課程の1年生で、研究者としてはものの数ではなかったから、きっと美学会の全会員に送られたのだろう。差出人は竹内先生と、『美学事典』(弘文堂刊)の川野さんを除くほとんどの著者が名を連ねていたのではなかったろうか(音楽学の野村良雄先生はそれを肯ずることを拒まれたという、うっすらした記憶もある)。文面は川野さんの剽窃を糾弾する内容だが、刺戟的な文言の幾つかが記憶に刻まれた。「川野某」という呼び方にはほとんど唾棄するかのような響きがあったし、「研究室に出入りし」とは、あたかもそれが許されざることで、盗作する目的で忍び込んだかのように、聞こえないこともなかった。そして、「『美学事典』の著作権を守るために」という一句には、竹内門下の方々の共著を主要部分とするこの著作物からの引き写しもあったのか、と思わせた。しかもそれは、その著者たちを川野さんに敵対させるような感じもして、やりすぎではないか、という不快感が若輩者のこころにも湧いた。手紙にこめられたこのような敵愾心を感じただけで、わたしなら挫けて、二度と立ち上がれないような烈しさだった。わたしは聞かされた説明を疑っていなかったが、風変わりでも科学者なりの考え方をそこに見ていたから、「事実」とこの扱いの間に行き過ぎたアンバランスを感じていた。この直後だったと思う、東大出版会は川野洋著『美学』を絶版にした。残部を裁断しての絶版だったと思う。同会の刊行目録にも記載はない。つまり、川野さんのこの著作は抹殺された。それが剽窃であるなら、当然と言える処置だった。

 

川野さんは、学問的には戦闘的だったが、風貌も人柄も円満な方だった。その世代としては長身ながら、姿は丸みを帯びていた。この事件の頃にも、頭髪はやや希薄だったかもしれない。難しい顔をしておいでのところを見かけたことはない。暖かい声のゆったりした話し方には、尖ったところはまったくなかった。あの廻状が出され、禁書処分を受けたあとも、悪びれることはなかった。やがて研究室にもおいでになったし、『美学事典』の共著者の方々も以前と同じように接しておられたのではなかろうか。すこし経つと、竹内先生ともわだかまりのない会話をされるようになっていた。これは川野さんのたぐいまれな人徳だ。心中に葛藤があったに相違ないが、それを見せないことによって、あの事件そのものを、今度は川野さんが抹殺した。ただ、既に余人とは異なる研究の方向性を取っておられたこともあり、その後の研究活動は、いよいよグループとは離れたかたちになっていったように見える。また、それがご本人の学問の地平を大きく広げるのに寄与したとも言える。

 

そのような身の置き方をしておられた川野さんと、わたしは特に親しかったわけではない。それでも、東大に赴任したてのころだった、川野さんから電話がかかってきて、おしゃべりしませんか、と誘われた。当時、東大の本郷キャンパスの片隅にあった学士会館分館で、夕食をご馳走になった。食事をしながら訥々と話されたのは主として昔話だった。覚えていることはひとつしかない。東大の美学研究室で助手をされていたとき(つまり、「川野某」は竹内先生の愛弟子だったわけだ)、結核にかかって東大病院に入院されたということだ。何本かの肋骨を切除する手術(胸郭成形術というらしい)を受けられた。退院のとき、担当の教授から、「外出から帰ったら、かならずうがいをし、普通の石鹸でよいから手を、指の股までよく洗いなさい」と言われた。これを話されたのは、この教えをずっと実践してらしたからだ。怠け者のわたしなどからみると驚くべき根気強さ、勤勉さだ。終生続けられたに相違ない。また、この単純な処方が、いま、新型コロナ・ヴィールスの流行への対処法として強く勧められていることにも驚く。素朴な療法がすなわち基本的療法ということだろう。退院後、川野さんは故郷の鹿児島に帰り、療養された。

 

あの事件についてお話ししたことが一度あった、そんなうっすらした記憶がある。それはこの学士会館でのことだったのかもしれない。記憶が薄れているのは、それが既に落着したことと考えていたからだろう。川野さんがどのように切り出されたのかは覚えがない。覚えているのは、わたしが「あれはだめですよ」と返したこと、川野さんがいつもの口調で「そおーぉ」と受けられたことだ。「あれ」とはアルキメデスの原理云々のことで、わたしが「だめ」としていたのは、そのような自然法則と竹内美学のような個性的な創造物は同列に論じられない、という意味だった。しかし、ふたりは何が・・「だめ」なのかという点について、同じことを考えていたのだろうか。

 

昔話の折にお訊ねしなかったのが悔やまれるが、コンピューターへの関心を高め、研究の軸足を紙から電子に移されたきっかけは何だったのだろう。いずれにせよ、それは故郷から再度上京された頃のことだ。あの事件のときには既にこの「転回」を経てらした。いくつかの事実を考え合わせると、『美学』が刊行されるほんの少し前のことと思われるが、たまたま居合わせた研究室の助手室で、「短歌の分析と生成」という論文の抜き刷りを頂いた。コンピューターで作った短歌に関するリポートだった。わたしにはちんぷんかんぷんで、それがわたしの川野さんに関する最初の印象だった。意味不明な記号の羅列のなかで、アウトプットされた短歌だけが読むことのできるものだった。なかには、機械が作ったにしては感心するようなものもあったが(「潮流は釣り場を保ちとうとうと東国後にむかいて走る」)、ひとの手が加わっていることに、当然の限界を思った。いま、これを読み返してみて、理解できる部分は増えたものの、特にこの「限界」について、なお著者に質問したいところがある。

 

その頃のコンピューターは真空管によるもので、いまのパソコン並みの性能を求めると、巨大な部屋いっぱいの回路構成が必要だったし、記憶媒体も厚紙に穴を開けたパンチカードが使われていた。その時点でコンピューターの可能性に着目するには、それなりの原理的確信があってのことだったろう。日本の美学界のなかで、この分野の発展の可能性を見抜いていたひとは、川野さんを除いて、たぶんひとりもいなかった。この冒険的な企ては、ついには大きな成功を勝ち得た。常勤職としては、開学時より東京都立航空工業短期大学に参加され(あの事件のときは助教授だった)、定年まで勤めあげられた(この組織は改組を繰り返し、川野さんが定年で退職されたときは東京都立科学技術大学となっていた)。そのあと、長野大学、東北藝術工科大学に教授として招聘されたのは、コンピューターの専門的能力を見込まれてのことだったろう。その川野さんが、終生、原稿は手書きだった。「MS-DOSはいいです。しかしウィンドーズはねぇ」とおっしゃっていた。コンピューターとは、プログラムを組み、一段々々コマンドを打ち込んで動かすものであって、アイコンをクリックすれば作動するようなものは玩具だ、という誇りが窺われた。さらにうがって見れば、ツリー状にコマンドを書き込んでゆくプロセスのなかに、精神のはたらきの構造を見てらしたのかもしれない。相当な速筆だったのだろう(速筆は速読を前提としている)。残された論考は膨大な数にのぼり、主題も多岐にわたる。美学では藝術哲学はもとより、原義的な意味でのデザイン論が目につくが、音楽享受を論じたものもあり、「民俗藝術」はゼロから生まれて来るべき仕切り直しの藝術を指す用語として使われ、いまの藝術状況に向かい合ってらした。加えて、各種のコンピューター・アートの制作、自然言語の分析、コンピューター言語の解説、更には海中ロボットの作動制御に関するものなど、目の回るような多彩さだ。

 

東北藝術工科大学を退職されたあと、川野さんは日本大学文理学部哲学科で、大学院の非常勤講師をしておられた。哲学科が新たに美学コースを設けることになり、そこにわたしは呼んで頂いたのだが、その意向を託され伝えてくださったのは川野さんだった。わたしが着任して2年目、川野さんはこの非常勤職でも80歳の定年を迎えられた。長い教師人生の最後の授業の日に、わたしはささやかな慰労の席を設けたいと思った。川野さんも、わたしと一時を過ごすことを望まれた。しかし、わたしのこころざしとは異なり、ことは川野ペースで進み、川野さんの馴染みの店(食堂なのか居酒屋なのか分からない、老夫婦の営んでいた店)にゆき、結局、ご馳走になってしまった。「ちょっとトイレに」と席を立たれて、その間に支払いを済まされた。ではお勘定となったとき、それを知って驚いたが、ひとつのマナーを教えられた。この歓談のとき、川野さんに老いをまったく感じていなかったことも、付言しておきたい。

 

まえの学士会館分館のときと同じように、この最後の晩餐の折も、よもやま話に終始したのだろう。ひとつのことしか覚えていない。それは、あの『美学』のことだった。それを読んでほしいという趣旨で、「お送りしてもい~い」と言われた。この「い~い?」は同意を求めるときの川野さんのいつもの柔らかな口調だ。わたしは内心、頂いても読めないな、と思ったが、お断りはできない。数日後、大きな包みでコピーが送られてきた。

 

心理的にも、またお仕事のうえでも、乗り越えてこられていたが、あの事件については納得がいかないまま、のどに刺さった骨としてずっと抱えてこられたことが分かる。わたしを食事に誘ってくださった2回が2回とも、この話題をもちだされたのは、その真相を分かってほしいと強く思っておられたことを示している。わたしの方は、説や思想の借用に関する考え方の違いの問題と思っていたので、読んでも何かが変わるとは思えなかった。そこで、自らの仕事にかまけて、手をつけないまま時が流れた。今回、肖像を書くために読むことを思い立ったのだが、これがなければ読まずに終ったと思う(おそろしいことだ)。PDFにして保存しておいたかたちで、この問題の書を読んだ。そして、その内容に初めて接し、嘆息とともに自らの短慮を恥じ、川野さんに深く詫びなければならないと思うことになった。事件の真相が分かったわけではない。ただ、わたしが聞かされ、そうだと思い込んでいたことは、まったく事実ではない。少なくとも剽窃とされるべき事実はみとめられない。

 

まず驚かされたのは、文体の違いである。上記の論文のような記号の羅列ではない。のちの川野さんの文章はこの自然科学論文のスタイルを基調とし、ぶっきらぼうで愛想がない。それに対して『美学』は平明で、会話に近い温かみがある。加えて、美や藝術のような基本概念については、オリジナルとまでは言わずとも、十分個性的な捉え方が見られる。では、何が剽窃の嫌疑を受けたのだろう。

 

頂いたコピーには「原はしがき」と「訂正はしがき」のふたつがついていた。後者が公刊されたもので、前者はおそらく校正刷りからのコピーだ。川野さんの本意は、この破棄された「原はしがき」にあり、書籍に収録された「(訂正)はしがき」は、何らかの事情で言わば書かされたものだった、ということなのか。それとも初案は誤解を招くおそれがあったので、修正の努力を払った、ということをおっしゃりたかったのか。いずれにせよ、「原はしがき」を保存しておられたという事実そのものが、何かをつよく訴えている。両ヴァージョンの主たる違いは、《竹内先生の講義を参照した》というくだりにある。長く引用するのはどうかと思うが、これはお許しいただこう。上記のように、川野さんの『美学』は、美学史と「体系」の二部構成をとり、この両者を絡み合わせる工夫をこらしている。特に「体系」の部の構成について、川野さんは次のように書いていた。「この美学の構想とその展開にあたって、わたしは東京大学に在学したころ(昭和25-30年)の竹内敏雄先生――先生にはいまなお深い学恩をうけているのであるが――の美学概論の講義をよりどころとした。それは、西洋の美学の重要な思想内容が、そこできわめて客観的に、公平に摂取され体系づけられていると考えたからである。と同時に、わたしは〈新しい美学〉なるものを試みるため、師説を基本的部分として生かしながらも、わたしなりの立場からこれを作りかえようと努力し、その結果これに若干の修正をもつけくわえた。……」 これが改訂版になると、モデルとしたのは、東大における大塚保治、大西克礼、竹内敏雄三代の「美学概論の構想」となり、そのうえで、次のように付言している。「とくに学生時代より現在にいたるまで、深く暖かい指導を受けてきた恩師竹内敏雄教授の東京大学における美学概論の講義は、この本の美学体系の骨子として生かされた」。おそらく問題視されたのは(しかし誰が問題視したのか)、《師説を基本的部分として生かしながらも、わたしなりの立場からこれを作りかえようと努力した》という部分である。

 

謙譲の表現が誤解を呼んだということはありそうだ。この問題箇所は、教科書としての正統性の保証を「師説」に求める意図と、師に対する学恩を語ったものである。しかし、字義通りに読めば、オリジナルな「師説」の流用を告白したものと受け取られるかもしれない。このことを考えつつ、たまたまわたしは、竹内先生の『美学総論』のなかの、藝術の分類と体系に関する箇所を開いた。そこにはカインツとスリオの図表が示されている(小文の読者の方々にとっては些末なことなので、それらの説明は無用であろう)。その同じ学説と図表は川野さんの『美学』にも使われている。川野さんが竹内先生の概論の講義で学んだものと見て、ほぼ間違いあるまい。加えて、これらは『美学事典』においても紹介されている。このような関係から、『美学事典』が「被害者」として挙げられたものではなかろうか(ちなみに、こちらの方は読み較べができる。引き写しはまったく認められない。しかも、例えば「新カント派の美学」に関する事典項目と川野さんの美学史の記述では、後者の方が詳しく分かりやすい)。川野さんは、竹内先生の美学講義の特色として、《西洋美学の重要な思想が、客観的かつ公平に取り入れられ体系づけられている》ということを挙げていた。つまり、竹内美学の個性的な思想を借りたのではなく、個々の問題について西洋美学史のなかのどの学説を代表例として紹介するか、という点で参考にした、ということと思われる。たしかに、余人の知らない西洋の学説を見つけて紹介したひとは、なんらかの独占意識をもつかもしれない。しかし、それを学んで自身の著作に活用しても、剽窃を云々されるものではあるまい(しかも川野さんは学恩への謝意を表明していた)。川野さんが、アルキメデスの原理を例として挙げ、公表された学説は共有財産と主張した、ということは、このような状況における発言として、ぴたりと収まる。「公表された学説」とは、わたしが誤解したように竹内美学そのものではなく、例えばカインツやスリオのような西洋の学説だったに相違ない。川野さんの主張通り、だれもがそれらを参照し論ずることができる。

 

川野洋著『美学』は上記のように文章も平明で、はつらつとした印象を与える。とくに、総論的序説である「美学の世界」という第1章においてそれが顕著で、少なくとも川野さん以外の誰も懐かなかった美学像が提示されている。「はしがき」の冒頭で、「客観的で公平な、しかも未来に向ってひらいた新しい美学の道を示す」のが、本書の意図だと言っている(「客観的で公平」が竹内美学における諸学説の扱い方に関する評言でもあったことに、注意したい)。また、版元である出版会の狙いが、「フレッシュで魅力ある美学入門書」にあったことも語られている。魅力を感ずるかどうかはひとさまざまかもしれない。しかし、未来志向で「フレッシュ」であったことは間違いない。川野さんの見るところ、印象派に始まりオブジェという〈造らない藝術〉が現れ、さらに技術革新による映画やテレビなどの新しい藝術形態が生まれるという状況は、伝統的な美学にとって危機的な状況を生み出した。その状況下の美学は、新しい藝術運動を支える基礎的な科学でなければならない。その位置は、医学にとっての生理学や病理学に、また健脚にとっての地図に相当する、と川野さんは言う。そのような科学的美学を、川野さんは脳科学に基づく「生理学的美学」や、情報理論、分析美学などに見出した。これらはそれぞれ相当に異質な性格のものだし、そもそも「科学」を強調することは、多くの美学者にとって耳障りだ。しかし、川野さんにとっての科学とは、内省的な美学の主観性とは異なる「論理性」を旨とする学問形態を指すものだった。もちろん、その「論理性」もまた、一般には美や感性とは不調和な特性と見なされている。注目すべきは、それが「哲学」の課題の延長上に考えられていることである。ウィキペディアの「川野洋」の項目には、川野さんの出発点が新カント派の研究だったということが記されている(ただし典拠は示されていない)。そこで川野さんは、カント的な先験的原理、すなわち現象や認識の根底にあって、経験を支えている原理という哲学的理念に馴染んだはずだ。『美学』にも「先験的」や「ア・プリオリ」の語が頻出する。科学を要求することは、哲学の精神と符合する。このような「新しい美学の道」は著者の積み重ねて来た確信に立脚したものだ。42歳の若さにしてのこの確信には、わが身を振り返って驚きを禁じ得ない。

 

しかし、その「体系」の部が、このフレッシュなヴィジョンに則して書かれている、とは言えない。事実、情報理論や脳科学は「体系」的な広がりを欠いているから、それに準拠した美学体系は難しい。そもそもそれら自体が、蓄積されてきた美学の思想や概念を前提にしているところがある。むしろ、新しい「方法」と伝統的な諸概念の関係をこそ問うべきであろう。川野さんの『美学』はそのような試みであったはずだ。しかし、その『美学』は不幸な誤解によって、葬り去られた。それから半世紀が経ち、その美学史の記述のなかで最も生気に富んだ「現代の美学」の章は、「現代」と言えなくなってしまった。しかし、日本の現代美学史というものを考えたとき、この損失は回復されなければならない。幸い、全国の40ほどの大学が本書を所蔵している。これを熟読してくれるひとが現れてくることを、期待しよう。わたし個人としては、川野さんに直接「読みましたよ」とお伝えできなかったことに、悔悟の念がうづく。おそらく、だれかに読んでもらいその内容を知ってもらうことだけが、この件についての慰めとなったはずだ。

 

あの教師人生最後の晩餐以降、川野さんにお会いしたという特別の記憶はない。しかし、わたしにとって真の驚きは、その後にやってきた。2011年、ドイツ、カールスルーエの現代美術館がHiroshi Kawano Der Philosoph am Computer(川野洋 コンピューターと取り組む哲学者)という展覧会を開催し、コンピューター・アーチストとしての先駆的な仕事を顕彰した(ヴィジュアル・アートが主だが、川野さんは上記のように短歌のような言語作品、さらに音楽をも試みていた)。送ってくださったそのカタログに添えられた短い手紙には、奥様とともに渡独し、この晴れの舞台に臨んだ喜びがにじんでいた(老夫婦の旅行としてこれ以上のものがあるだろうか)。わたしはすっかり混乱してしまった。わたしにとって川野さんは美学者以外の何ものでもなかった。ところが川野さんにはアーチストとしての顔があり、その面からかれの仕事と生涯を見ているひとがいる。ひょっとすると、そういうひとが多数派なのかもしれない、という事実を突きつけられた。たしかに、あの短歌の制作は知っていたし、『コンピュータと美学』(東京大学出版会 これは『美学』の顛末に関する出版会からの償いの意味を込めた出版だったのだと思う。竹内先生が亡くなった2年後に刊行されている)のジャケットには、川野洋作の Red Tree という画像が使われていることも知っていた。しかしそれは、研究の単なる副産物だと思っていた。川野さんの意識においてもそうだったのではなかろうか。しかし、美学を研究するために、藝術制作がなぜ必要なのか。

 

美学者のなかには、藝術制作のまねごとをしたり、なかには相当本格的な制作を行ったりして、それを思索の糧としているひとがいる。少なくないかもしれない。川野さんの場合は、コンピューターが絡んでいる。美学研究にコンピューターを活用しようとした場合、作品を制作することが必要になるらしい。なぜなのか。それには、既にふれた〈現象や認識の「先験的原理」〉に対する深い関心が関係していると思う。美しい藝術作品を成り立たせている原理を明らかにしようとするならば、そのような作品を制作するプロセスを解明するのが近道だろう。制作原理を解明するためには、仮説を立て、それを作動させてみる、すなわち藝術制作をシミュレートしてみて、その結果の出来ばえに即して仮説の有効性を検証するに如くはない。思弁的な美学では、仮説がすなわち学説となり、この検証過程を欠いている。コンピューターは仮説を実際に動かしてみることを可能にする。おそらくそのような哲学的関心に導かれて、川野さんのコンピューター・アートの制作は始まったものと思う。

 

『コンピュータと美学』のなかでは、「計算美学」という言い方がされており、耳障りな術語と思った。また、晩年の川野さんはその思索的エッセイを「感性計算論」という総題で、紀要に連載してらした。どこに「計算」があるのですか、とうかがったことがある――わたしがこれを知ったのは、下記の書籍化されたかたちによるものだ。だから、あの「最後の晩餐」の後にもお目にかかったことがあったわけだ。それは多分日大哲学会の懇親会でのことだったろう。ほかには考えられない。――このぶしつけな質問に対して、川野さんは、いつもの温和な笑顔で応じられたが、答えては下さらなかった。「わかってないな」と思われたのだろう。その通りで、わたしには分かっていなかった。それに気づいたのは、脳科学に立脚する philosophy of mind (これに「こころの哲学」という日本語を充てることに、わたしは強い違和感を覚える)の論者たちが、認知作用全般を computation と見なしていることを知ってからのことである。川野さんは computation の意味で「計算」という語を使われたに相違ない。コンピューター=計算機という訳語からの自然な展開だったのだろう。しかし、computation は計算ではない。計算という日本語の意味するのは、足し算・引き算、掛け算・割り算などで、数値の所与から数値の答えを引き出す作業である(比喩的な用法は別にして)。いまコンピューターが行っているほとんどの作業は計算ではない。その作業の原理的なかたちが computation だが、ある所与を+と-の二分法的識別を繰り返してその所与の特性を抽出することである。特に感性のはたらきが computation と見られることに、わたしは同意し、その主張に共鳴する(「繊細の精神」は「幾何学の精神」に立脚する)。しかしそれを「計算」とは言わない。あの間抜けた質問をしたとき、computation のことをわたしは理解せずにいたが、川野さんの方にも「計算」という日本語の日常的な用法に関する無関心があった。

 

右にふれたように、この晩年のエッセイ群は、『唯物論 感性計算論 Meditation on Aesthetic Computation 1998-2008』として書籍になっている。表紙に computation と書かれているが、これを頂いた時点でわたしには右のように理解することはできなかった。この書籍版は、葦風梠佳さんという川野さんが非常勤講師をしていた大学の教え子で熱烈なファンの方が刊行されたものである。「唯物論」というタイトルを、川野さんはジョークと思われたのかもしれない。巻末の「著者の言葉」のなかで、「『唯物論』という私ではとても思いつきそうもない素晴らしい表題を付けて……」と言っておられる。この本は紀要のエッセイ群に「多少の改変と改修を加え」たものだが、1年ごとに章分けされ、エッセイのあとに刊行者である葦風氏の長い「コメント」が挿入されている。コメントとはいうが、実質は氏の川野論で、わたしの肖像とは異なる川野像が描かれていて興味深い。このなかに、気になるところがあった。大学院進学を考えていた葦風氏が、それを相談したときに、川野さんの与えたアドヴァイスだ。「師事したい先生がいないのなら、大学院に行っても仕方ない」というものだった。ご自身の経験に立っての考えに相違ないが、これはどういう意味だろう。

 

「独学」を通して、川野さんは広大な哲学的世界を拓いた。教師人生最後の年に、川野さんは日大の紀要に「収縮論――実在崩壊と意識創発の構図」という不思議なタイトルの論文を寄稿された。量子論と唯識論をパラレルに置き(素晴らしくいかがわしい)、物質現象からいかにして意識が発生するか、という壮大なテーマに取り組んだもので、わたしなどの理解の及ばない世界だ。しかし、それはおそらく、川野さんが取り組んでらした根源的な問いに対して書かれた最後の答案で(ただし『感性計算論』には、これについてその後の更なる展開と見られる思索も残されている)、到達した世界観が表明されたものと見られる。その基本的なストーリーは(わたしの要約だから信用して頂かない方がよいが)、《最初にあるのがミクロの粒子の無差別な波動状態で、そこに重力の偏りが起こる。この偏りの結果、粒子群が「収縮」し、われわれが現実と思うマクロな世界が現れ、それを現実として捉えている意識そのものがこのようにして創発する》というものである。その最後のパラグラフを引用しておこう。

 

収縮という実在のカタストローフは、意識ある現世を束の間の幻としてではあるが創発する。そして創発した現世の今は、その現実相を再び実在のミクロな波動が有する可能性の重なりの一つに返却して消滅する。〔……〕〔もとの〕一元実在は即自態のまま永続するという事はない。それは自然弁証法の理によって必然的に収縮という自己否定(意識の創発)を呼び、更に対自的意識を否定的媒介として自己(即自的実在)に復帰(否定の否定)する。マクロ化した束の間の生を何故か人は輝かしいと感じこれに煩悩をもってコミットする。これも確か真実であろう。この事を滑稽と見る事もできるが、亦、阿弥陀如来のようにより深く悲と見る事もできよう。しかしこれら現世の悲喜相は、逆にこの宇宙世界の本源的実在が不定なる可能世界をなし、その即自の相が暗黒無明なものである事を示していると言えないであろうか。

 

このようにして川野さんは、自然の理に従い、即自的実在に還った。悲喜相にあった川野さんとの交流が、上記のような「計算」を巡る無理解の会話を最後としたのは、ちょっとさびしい。もっとも、あの事件から始まって、わたしはずっと川野さんのお仕事を理解してこなかった。しかし、わたしのような無理解は、川野さんにとって日常茶飯事だったに相違ない。温和な笑顔を以て、あの村八分にも負けず、このような無理解にもめげず、先験的哲学から始めて情報理論、更にコンピューター・アートの制作へと続く「創造的科学」(『美学』)の理念の追求を全うされたと思う。いま見たような形而上学的悟りも、その成果のひとつだ。また、そのアート作品が独り歩きして、先駆的な成果として顕彰され、美学者よりもアーチストとして知られるようになったとしても、それは創造的な探究を続けてこられたことへのご褒美だったと思う。

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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