お針のばあや――居場所をもとめて
このひとにわたしは会ったことがない。ひょっとすると、赤子のわたしは対面していたかもしれないが、ものごころついたころには、もういなかった。それでも、家のなかではときおりこの呼び名が口にされていたので、わたしにもどこか懐かしいひとである。そもそも、ばあやとは既に消えてしまった文化だ。新明解国語辞典は、「家事手伝いの老女(を親しんで呼ぶ語)」と説明しているが、これだけでは、家のなかでもっていたはずの独特の存在感は伝わらない。わたしも、「お針のばあや」が何者だったのかを訊ねてみて、初めてその存在感が分かり始めたところだ。わが家の場合、「お針の」と限定されているので、台所仕事はせずに、主として針仕事をするのが務めだったのだろう。わたしがイメージしているその姿はこんな風だ。質素だが清潔な着物を着ている。白髪まじりの頭は簡単な日本髪で、座布団に座っている。その座布団の下には「くけ台」が挿しこまれていて、その台の立ち上がりの柱部分の上には針山がついている。針仕事をしながら、ばあやはときどきその針を髷に通す。髪あぶらで針のとおりを良くするためだ……。
このイメージは、その文化を生きたことのないわたしの思い描いたもので、いまだ抽象的な図柄にすぎない。「お針のばあや」ってどういうひとだったの、とすみ姉に訊いてみたことがある。「あのひとは、王子だか赤羽だかに家があったの。だけど、息子のお嫁さんとうまくいかなくて、うちに来てたの。一度実家に戻ったことがあったけど、やっぱりうまくいかずに帰って来た」ということだった。これを聞いて、「お針のばあや」は急に実在感を帯びてきた。生きることに悩みをかかえた老境の女性だ。いまなら《施設に入る》というところだろう。その代わりに他家に居場所を見つけた。しかも、彼女のことを話す母や姉らの口ぶりでは、家族同様の存在だった。おそらく給金はわずかで、それなりに気苦労もあったろうが、施設と比べて「ばあや」の生活のほうがしあわせだったのではなかろうか。ただ、おそらく姉にとっては当たり前で、それゆえ語らなかったことがある。それは「ばあや文化」の重要な一面に関わることだ。そもそも、毎日こなさなければならないほど、針仕事があったとは思われない。ばあやは単なる労働者ではない。では何者なのか。
不思議なことに、ばあやは童謡によく詠われている。わたしの知っているだけでも2曲ある。その2曲は多くのひとが知っているに相違ない。ひとつは野口雨情の「十五夜お月さん」。不思議な印象を与える詞だ。
十五夜お月さん
御機嫌さん
婆やは お暇とりました
十五夜お月さん
妹は
田舎へ 貰られて ゆきました
十五夜お月さん
母さんに
も一度 わたしは逢ひたいな。
冒頭2行目の「御機嫌さん」が、「ごきげんよう」のような呼びかけのことばであることが分かると、不思議の感は少し薄らぐ。しかし、何故いきなり「婆や」のことが語られるのだろう。このなぞは、相似的に構成された3聯を重ね合わせて理解して初めて解き明かされる。同時に、詠われているのが悲惨なほど悲しい境遇であることが見えてくる(これは例外ではなく、同じようなせつない童謡が多いのはなぜだろう)。これを詠っている「わたし」が男の子なのか女の子なのかは判然としない(「妹は貰れて」とあるから、残されているのは男の子かもしれないが、女の子だとすると、その子も別のところに「貰われて」いるのかもしれない)。その子は、婆やとも、妹とも、母とも引き離され、ただ月に語りかけることしかできない。その月は欠けたところのない黄金の月で、この子の境遇と鋭い対比をなしている。子供は月に向っていまの孤独を訴えかける。その子にとって大切な、しかし喪われたひとが3人挙げられ、3聯それぞれの主人公となっている。その筆頭に置かれているのが「婆や」だ。子供にとって「婆や」が、肉親と少なくとも同じくらいに親しいものだったことが窺える。このようなばあやは、われわれの周りにはもういない。
雨情が描いたように悲惨ではないが、婆やとの同じように親密な関係が、斎藤信夫作詞の「ばあや訪ねて」にも覗いている。パステル画風の情景を、ばあやへの慕情が彩っている。これは第1聯を見るだけで十分だ。
森かげの白い道
かたかたと馬車は駈けるよ
あかい空 青い流れ
ばあやの里はなつかしいよ
理解を左右するかぎは、「なつかしい」をどのように解するかにある。語源的な「こころに添うような親しい感じを与える」の意味でも解することができる(するとこの情景全体が、いわば「ばあや化」する)。多分、そのニュアンスが全体の基調としてある。しかし、おそらく作詞者も、これを「昔の経験をしみじみと思い起こさせる」という慣用の意味で使っているだろう。すると、ばあやを訪ねてきた子供は、かつてそこに来たことがあった、ということになる。たぶんばあや自身に連れられての小さな旅だった。そのときは身近にいたばあやは、いまはおそらく「いとま」をとって、この里に帰ってきている。このたびは、ばあやを慕うおもいに駆られての訪問だ。ただし、3聯の終わりまで行っても、ばあやに会うには到らない。その里のなつかしさがくりかえされるだけで、ばあやはどこまでも遠い。この不首尾は、喪失感の告白のように聞こえる。
すみ姉が当たり前のこととして、語る必要をみとめなかったことがある。それは、子供がなついた(それが「なつかしい」ということだ)ばあやの存在だ。姉自身、「お針のばあや」に見守られ、時にはそれとなく導かれてもいたことを、姉のことばの一端を介してわたしは承知している。ばあやとは、幼い子の養育係でもあった。
おそらく昭和19年、一家が柏木から名内へと疎開したとき、「お針のばあや」にも暇を出したのだろう。仕方なく暇を出したものの、誰もがばあやのその後を案じていたものと思う。幼いわたしにも、一度だけ「お針のばあや」にまつわる経験がある。その記憶が確かなものだと言う自信はない。さまざまな断片的知識から合成されたものかもしれない。しかし、「お針のばあや」という固有名詞とともに記憶に残されていることだけは間違いない。疎開先から東京へ戻って直後のことだった。街にはあちこちに空襲のあとが残っていた。母に手を引かれ、そのような東京の街を歩き回ったことがある。それは「お針のばあや」を探しての彷徨だった(そのように聞かされた)。子供心に、このように歩き回って、尋ねびとに巡り合うことができるものだろうか、と思った。きっと何らかの消息が得られて、それを便りにその辺りを訪ねたのだろう。努力は徒労に終わった。しかし、そのひとを知らないわたしのこころに、「お針のばあや」への一抹のなつかしさを刻み込んだことではあった。そしてそのなつかしさは、この老女のイメージを、わたしの知らないやさしさで包んでいる。