web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

ミケーレ・マッラ(Michele Marra)――更に異なる自己を求めて

 

 

ミケーレ・マッラは、イタリア出身の日本学研究者で、54歳の若さでなくなったとき、カリフォルニア大学(ロス・アンジェルス校=UCLA)の教授だった。この職業環境ゆえ、逡巡した挙句、あるときアメリカ国籍を取り、ファーストネームをマイケルとした。当人はこの英語名に違和感をもっているようには見えなかった。それでもわたしには、「マイケル」はペンネームもしくは藝名のようなもので、ミケーレが本名という感じがしている。だから、ここでもミケーレと呼ぶことにしたい。

 

ミケーレに初めて会ったのは、多分1993年のことだ(このときかれは、国際交流基金の招きで大阪大学美学科に滞在していた)。あらかじめ電話があったはずだが、それは覚えていない。当時わたしは東京大学に勤めていたが、その研究室の一隅で、わたしが授業から戻るのを、待っていてくれた。椅子に座っていたが長身で、少し猫背のように見えた。構えたところのない人懐っこいひとで、「隠し立てのない(openness)、雅量のある(generosity)、物静かだが決然とした(quiet determination)、生のあらゆる恵みに対する感謝の気持ち(gratitude for all of life’s blessings)」というのが、その人柄をよく表している。誰もがこれと同じ印象を覚えたと思うが、このことばは、死に直面していたときのかれをインタビューしたUCLAの学生新聞 Daily Bruin のアンドラ・リンのものだ。数回会っただけで、彼女はミケーレの人となりを的確に捉えた。

 

ミケーレは流暢な日本語を話したが、その日本語には、どこか関西風のアクセントがあった。現代の日本美学を研究したい、というのが来訪の動機だった、こんな西洋人は稀だ。奇特なひとと思い、大いに歓迎した。日本研究を志すというだけで、その動機を訊きたくなる。ましてや美学、それも古典ではなく、現代の美学に関心があるというのは何故だろう。かれは何かを言ったかもしれないが、覚えていない。驚くようなものではなかったのだと思う。ともあれここから交友が始まった。特記すべきは、1998年末にミケーレが組織したUCLAでの『日本の解釈学――美学と解釈に関する現今の議論』という国際会議と、2001年、幕張で開催された国際美学会議のなかでわたしの企画した日本美学のパネルである。前者にはアメリカの日本研究者のほか、日本からも多くのひとが招かれて参加し、わたしは「自動詞性の詩学」の報告をした。後者では、「日本美学における伝統」というテーマで、かれに登壇してもらった。かれに会った最後は、その発病まえ、多分、2005~06年ごろのことだ。新宿西口の土佐料理屋で歓談した。地上に出ると、高層ビルの背後に月が昇り、2人してしばし見とれた。だから、実際に会ったのは数えるほどだが、それぞれの機会には濃密なときをともにした。

 

かれは日本にも多くの知己がいたし、そのオープンな性格からして、その数は増えていったに相違ない。大西克礼(東大美学の2代目の教授)に関心があるというので、ご遺族を紹介すると、わざわざ九州まで訪ねて、歓談した。このような「聖地巡礼」はファンの心理だ。だから、日本美学への関心も、その活発な好奇心の所産だろう、くらいに了解して、それ以上に訊ねることをしなかった。しかし、その研究人生には、ほかにも謎めいたところが少なくない。

 

ミケーレは北イタリアの寒村で生まれ、近隣のトリノ大学でアジアの言語を学んだ。そこの教育の柱はサンスクリット語とパーリ語で、これは仏教哲学を学ぶ武器となり、のちに日本文学を解釈するとき役に立った。日本語と出会ったのもそこでのことだった。ただし、担当の教師は、文法を教えるだけで、漢字やかなを読むことのできないひとだった。本腰を入れて勉強しようとしても、当時、和伊辞典は存在せず、和英辞典を活用すべく、ミケーレは英語を独習したという。これは生半可な関心ではない。じきに小説を読めるようになったというのは驚くべきことだが、1979年、現代日本文学研究で学位を取得している(そのとき23歳だから、実質は学士号のようなものだったのかもしれない)。そもそもアジア言語を専攻しようと思ったのはなぜなのか。さらに、劣悪な条件のもとで、なぜ日本語と日本文学を学ぼうとしたのか。

 

トリノ大学の課程を終えるとすぐに、奨学金を得て筑波大学で2年間、日本の古典文学を学んだ。しかし、「日本でのアカデミックな経験から、自らのゴールに到達するためには、アメリカに来て、大学院教育を受けなおす必要があるということを、マッラは理解するにいたった」。これはUCLAにおけるかれの同僚3人の書いた追悼文の一節である。だから、具体的にかれが何を考えていたのかは、ミケーレ自身が同僚たちに語っていたに相違ない。かれは何を「ゴール」としていたのか。「大学院教育」とは、研究者となるための基礎教育、という意味だろうが、日本文学研究の基礎を学ぶのに、なぜ、日本ではなくアメリカでなければならないのか。これは多くのひとが懐く疑問ではなかろうか。相当に重たい疑問だ。明らかなのは、かれが日本文学研究に求めていたものを、日本の大学教育は与えることができなかった、ということである。いまでは新しい傾向が見られるようだが、日本の大学における日本文学研究は訓詁注釈の性格が強い。外国人であるミケーレが関心をもつような主題ではない。かれの最初期の著書は、日本の中世における文学活動と政治権力との関係を扱ったもので、これは若手の研究テーマとしては、日本の大学では歓迎されないだろう。そしてこの研究の方向性は、美学についても妥当する、と考えてみるべきだろう。渡米したミケーレは修士から始めて、2つの大学で博士号を獲得し、1993年にUCLAに招聘された。

 

この歩みがのぞかせる謎に、せめて正面から向き合うことなしには、ミケーレの肖像は書けない。その謎を解くかぎは「解釈学」にある、とわたしは考えた。上記の同僚たちによる追悼文は、UCLA着任の1993年が重要な年であったことを特筆している。この年、かれはイタリアの、というより同郷のトリノ大学教授G・ヴァッティモと大阪大学で出会い、その影響のもとで、「かれの研究は新たな段階に入り、中世文学の研究から日本の美学と解釈学の領域へと移っていった」としている。ヴァッティモは美学から出発して、解釈学によってポストモダンの旗手のひとりとなっていた。同郷の、母校の教授で、国際的に著名な哲学者に日本で出会うというこの(えにし)にアイロニーをみとめつつ、ミケーレは、「日本のイメージを構築するために西洋の解釈学をもちいること」への欲求が高まった、と想起している(『近代日本美学――読本』の謝辞)。

 

ミケーレにとってヴァッティモは、間違いなく特別な存在だった。上記1998年のUCLAでの研究集会は「日本の解釈学――美学と解釈に関する現今の議論」と題されていたが、ヴァッティモは特別ゲストのようなものとして招聘されていた。すなわち、基調講演をするだけでなく、すべての発表について質問、というよりコメントをする役割だった。しかし、参加者たちが実際に行なった研究発表の多くは、日本の美学説や藝術を扱うもので、特に解釈学的な問題意識をはらむものではなかった。わたしの「自動詞性の詩学」(その日本語版は三田哲学会の『哲学』に寄稿してあるが、既に改訂版を用意している)は日本的な思考法を主題としているから、解釈学的と見ることもできるが、わたし自身はそれを解釈学という枠組みで考えたことはない。解釈学が個々の研究なり思想なりをはめ込む枠組みをなす世界観の問題だとすれば(解釈学とは何かについては、以下に簡略な説明をおこなう)、どのような研究報告もミケーレには解釈学的なものとして見ることのできる、そのようなものだったのかもしれない。

 

長くはなかったその生涯において、ミケーレは多くの著作を残した。それぞれの論考は必ずしも読みやすいとは言えない。だから、わたしはその多くを読んではいない。しかし、その肖像を書くうえで、かれが解釈学をどのように解し、なにゆえにそれを重視していたのかを知らなければなるまい、と思った。なにしろ、それはかれの研究人生の画期をなしたものだ。それが上記の謎を、ひいてはかれが生涯を賭けて何を追求したのかを、照明してくれるはずだ。そう思ったとき、かれの最後の著書である『日本についての試論――美学と文学のあいだ』 (Essays on Japan, Between Aesthetics and Literature, Brill, 2010)に収録されたいくつかの論文に目が行った。この本はかれが最後に刊行した著書で、その1ページに満たない短い序文は、刊行動機と内容を語って、不思議な感動を呼ぶ。著者を3人称で呼び、切迫した病状に促されて過去10年間に書いた論文の集成を思い立ったこと、人文学に必要な時間的成熟が足りず、学習した「ディテール」を関連づけることが十分にできていないことを語り、最後にこの本を2人の特別な友人(その1人がヴァッティモ)に捧げること、その友人たちとの交友の場にいつも俊江夫人がいてくれたことが書かれている。かれがディテールと呼んでいるのは、個別的な知識や認識のことで、そのいくつかが関連づけられるなら一つの主題を展開した1冊の本になる。この試論集はその生成途中にあったミケーレの研究者、思索者としての姿を伝えるもので、なかには相当に主題への結晶を見せている論考もあるはずだ。また何より、その序文の短さそのものが読む者の胸に迫る。それは死に直面しながら、情感を克服していた(あるいは絶えず克服しようとしていた)ことを映す事実である。

 

このようにして、ミケーレにとって解釈学とは何かをつきとめるべく、『日本についての試論』のなかの数篇を読んでみた。だが、読むほどに混乱する、というところがある。それは、ニーチェ―ハイデガー―ガダマー―ヴァッティモとつづくヨーロッパ本流の「解釈学」を紹介しつつ、「日本の解釈学」と言うときには国学(特に宣長)の古典解釈の方法を指し、これを批判する、という両義的な用語法に由来することだ。本流「解釈学」は、唯一の真理を主張する「形而上学」に対する批判を核として、一切の認識が「解釈」で、その解釈はひとさまざまに多元的である(ヴァッティモの言う「弱い思想」)という主張に集約される。それに対して、宣長に代表される「日本の解釈学」は、上古の神話世界に見いだされる「真理」の表現としてのみ個々のテクストを捉える「強い解釈モデル」である、と言う(p.93)。ひとくちに解釈学と言いながら、正反対ではないか。おまけに、日本の物語や小説は多声的で(人物たち、語り手、時、ところ、読者たちの「声」が多層的に交錯する)、ガダマーの言う「地平融合」の見事なモデルである、と言ったりするので(p.283)、読んでわたしはひどく混乱した。しかし、ミケーレがヴァッティモとの出会いに強い衝撃を受け、単なる文学研究から、その研究法の批判的な反省を含む「美学と解釈学」へと言わば転身したことを考えるなら、本流の解釈学(=「弱い思想」)がかれの立脚点であることに、疑問の余地はない。それについては、例えばつぎのように言っている。

 

現代社会において〔人文学が課題とする〕歴史的知識はどのような価値をもつのか、そしてその知識はどのように活用されうるのか。これらは単純な、あるいは無心の問いではない。現に、これらに答えようとすれば、われわれの主観性という問題に向き合う必要がある。或る対象に向き合うときはいつでも、主観はその対象を再現=表象するのではなく、そのイメージを創り出す。主観がどのようにしてそのようなイメージを創るのかについては、主観は好きなように自身を対象の解釈に写し込み、そのようにして他なるもののイメージを創ると言うことができよう。元の対象は或る主観によって浸透されることなしに存在することはできない。(p.81)

われわれが「過去」と呼ぶものは、解釈過程の結果としてのみありうる。さて、解釈が主観性に深く根付いている以上、ありうる解釈の数は無限となる。〔人文研究が捉えようとする〕過去はもともと客観的実在として存在するのではない、という事実からして、ありうる過去の数もまた無限となる。客観的実在の概念が消え去るとともに、誰も解釈の正しさを保証することはできない。(p.82)

 

三十一文字しかない和歌だが、読むたびに新しいものが見えてくる、とかれは学生に語っている。解釈学の拓いた地平は、このような多様な読み方を裏付けるものであり、アメリカでの日本研究を決断したかれの選択を正当化してくれるものだったのではなかろうか。すなわちかれが日本の研究環境になじめなかったのは、国学の伝統をひきずるようにして、唯一の真理を信奉する風土だった、と見ることができる。同時に、「日本的解釈学」が「強い解釈モデル」のものであるにも拘らず、日本の物語や小説そのものが多声的な構造であるというのは、日本文学にミケーレが感じた魅惑の正体を捉えたものであろう。かれが解釈学について書いていることがわたしを混乱させたのは、①本流の解釈学(伝統的な形而上学を批判してポストモダンの思潮を構成する)、②国学的な日本の解釈学(現代日本の文学研究の基調でもあり続けており、ミケーレはこれを自身の生き方としては拒絶した)、③日本文学そのものの多声的構造(それは「弱い思想」を形象化したようなものであり、これこそが日本文学のなかでかれを魅了したものである)という3つの相を、混然と並べているからである。

 

解釈学をめぐってかれの書いていることは、以上のように解きほぐすことができると思う。しかし、更に奥がある。その追悼文においてヴァッティモは、『日本についての試論』を通読し、日本学とは別に、解釈学や哲学におけるミケーレの貢献が注目に値すると言っている(かれが特に注目した2つの論考をわたしは読んでいない)。先ず取り上げているのは、ハイデガーの「存在」概念についてのミケーレの次の言葉である。「ハイデガーにとって存在(Sein)とは、何もないのではなく何かがあるようになさしめるところの差異である。存在はもの(entities)をものたらしめるところのものである」(p.152)。これは、存在を出来事(event)として捉えるもので、通常のハイデガー解釈とは異なるとコメントしつつ(「存在」概念としては、正統的なもののようにわたしには見える)、ヴァッティモはこれを肯定的に評価している。それが注目に値するのは、おそらく最終章の次のことばと響きあうからである。

 

結局のところ、この差異こそが、わたしを日本研究へと導いたものと思う…… わたしが日本を研究したのは、歴然たる他者(an obvious Other)との出会いが、わたしの人生に差異をもたらすと考えたからではなかろうか(p.494)。

 

この動態にある「差異」、すなわち異なるものになろうとする衝迫こそが、ミケーレの生涯を導いたものだ。その「差異」を求める思いが心中にあったからこそ、自らとは限りなく遠い日本文化に注目し、日本語をなかば独習した。日本に留学し、古典文学を学んだが、おそらく「強い解釈」を旨とする学風に違和感を覚えてアメリカに渡った。やがて解釈学との出会いが、それまでの自身の歩みに支えを与えてくれた。美学への関心も、日本文学のなかに何を読み取るかについての自覚的な問題意識に促されてのことだった、と思う。差異の力学はミケーレのその後においても働き続けた。「日本美学」についての考えも、わたしが出会ったころとは変わっている(その一端を、『日本についての試論』のなかに見ることができる)。早すぎる死によって切断されなかったなら、その美学像はさらに更新されたに相違ない。解釈学が読みの多様性、その差異を認めるものであることは、自らが携わり、学生たちに教えている人文学の意義についての確信にもつながる。「人文科学における真理は、この世をどのように生きるかを理解することが、どこか他所から来るということを得心するところにある」(p.280)という言葉は、ミケーレの生涯に照らして含蓄が深い。そして「差異」を介して、学生に語ったつぎの信念とひびきあう。「人文学が成就しうることは、われわれ各人が、あらゆるレベルでの暴力の量を減らしうる、ということだ」。「差異」を重視することは、自己を絶対化しないことである。

 

     *

 

学生新聞のインタビューを受けたのは、54歳の早すぎる死を間近に見据えていたときだった。「なにもかも、どんどん明るく、どんどん輝かしくなり、どんどん澄んでくる」とかれは言った。日本文化のなかで、死は自然で問題ないものと考えられているとして、「それは否定的なもの、負のもの、何か欠損したものとは見られていない。それは苦しみの出来事ではなく、生命の一部分、一区画だ」。この死の観念が日本文化のものであるのかどうか、わたしには確信がない。ただ、その日本文化研究の生涯が、死を前にしたかれのこの異例の強さに結晶したことは間違いない。

 

ミケーレは、墓標として、蕪村の一句を選んだ。墓石にはその句が日本語で刻まれているが、かれ自身の英訳とともに記そう。

 

   花に暮れて 我家遠き 野道かな

  (Sun setting on the flowers, my house - a far away path through the fields)

 

ひとつひとつの語句がミケーレの人生を照らし出す。かれのために詠まれたかのような句だ(俊江夫人は「この歌に、彼は自分を見出していたと思います」とおっしゃっている)。まず「花」について、京都大学で日本哲学を担当した藤田正勝さんは、やはり追悼文のなかで、「美の世界、あるいは学問の世界」と解しておられる。ミケーレは「野道」の「野」を fields と複数形で訳した。漠とした広がりを感じてのことだろう。これがさまざまな領域を縦断するかれの学際的な研究姿勢に照応するとして、UCLAの同僚たちは、かれに捧げたシンポジウムに “A Path through the fields”というタイトルをつけた。「花に暮れて」の「暮れ」は、日の暮れ (sun setting)よりも詠み手の過ごし通した時間の意味合いが強いと思うが、両義的に読むことができる。もちろんミケーレにはこれを日の暮れと読むべき理由があった。かれ自身がこの句について、学生に語った言葉がある。「暗くなってきた。家に帰らなければならない、しかし家は遥かに遠い。それにそれがどの家なのか分からない」。そして付言した、「それはあとで話そう」。

 

それは、かれら夫妻が住んでいたマリブの家だろうか。あるいは、既に定めていた墓所だったのだろうか。しかし、どちらも遥かに遠いとは言えない。蕪村の句を刻んだその墓は、太平洋を見はるかし、その遥かかなたには日本がある。そして、さらにその向こうには北イタリアの故郷があるはずだ。東へ東へと居場所を求めてカリフォルニアに落ち着いたかれにとって、故国は来し方にあり、東の方角ではなく、西の方、日本を越えた向こうにあったものと思う。かれは故郷に残してきた老母に、ほぼ毎日電話していたという(俊江さんは、いまも毎週、この義母と電話で話しているそうだ。おふたりとも、なんというやさしさだろう)。最も遠くの、帰るべき「我家」は北イタリアの母の家だったはずだ。カリフォルニアの自宅から、墓所を通り、海を越え日本を経て、空を渡ってその家に到るこの軸線のなかに、差異を追究してきたミケーレの足跡が凝縮されている。

 

 

バックナンバー

著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる