木村忠太さん――純朴なる野人
世間的に見れば変人に違いない。藝術家だから許される、これぞ藝術家というような語り口、考え方のひとだ(もっとも、髪をふり乱したベートーヴェンや、狂気の果てに耳を切り落としたゴッホのような藝術家像は、いささか過去のものではあるが)。この画家とどのような機縁で出会ったのか、まず、それを語らなければなるまい。何人ものひとがそこに関わり、それらの人びととわたしを結ぶ糸が、不思議な縁で絡み合って、木村さんとお会いすることができた。
まずはジャン・グルニエ(Jean Grenier, 1898-1971)。アルベール・カミュの師として知られたフランスの哲学者、エッセイスト、文学や美術の評論家だが、いま日本でこの名前を知るひと、その著作に注目するひとは多くなさそうだ。かれが亡くなったとき、その著作はサルトルの作品より後まで生き続けるとまで言ったひともいた。日本にその名が知られるようになった始まりは、井上究一郎先生の紹介活動によるものだ。先生は滞仏中、ガリマールのウィンドーの中央にグルニエの著書が飾られているのを見て(フランスでは、伝統的に、各出版社がそれぞれに自社の刊行物を店頭販売する仕組みだった)、日本では未知の重要作家として紹介に努められた。主著とされる『孤島』の教科書版を作られ、さらにその全訳を刊行された。こうしてグルニエはわたしの身近にあった。やがてこの文人哲学者は、E・スリオの後を襲ってソルボンヌの美学の講座を担当するようになり、その美学上の主著『藝術とその諸問題』が刊行された。わたしは、その書評を学会誌『美学』に書いた(書評とはいうものの、実態は詳細な内容紹介である)。これが活字になったとき、グルニエは既に亡くなっていた。井上先生はこの書評をよろこびつつ、著者に見せられないことを残念に思ってくださった。
グルニエの死の年に、日動画廊は木村忠太展を開催し(東京、大阪、名古屋)、そのカタログにグルニエは KIMURA という紹介文を寄稿していた。おそらく著者からの指名によって、井上先生がこれを訳され、その一本を送ってくださった。それは木村さんが先生に宛ててパリから送った封筒に入ったもので、いまもその状態で手元にある。差出人の名は大文字で KIMURA とのみ記されていたが、それは木村さんが作品に記したサインと同じ字体だ。やや丸みを帯びた文字で、筆太に書かれている。グルニエはその寄稿文のなかでこれを特筆し(KIMURAというタイトルはこれを指している)、そこに木村さんのentierな性格(直訳なら「無欠の」「全一的」、辞書的には「一徹な」、井上訳では「一本気で押し通している」)の表現を見ている。カタログの図版を見て、わたしは木村さんの絵に魅了された、その明るい色調にも、その構成の妙にも。井上先生は、「かれは大声で叫びながら画くらしい」と感嘆してらしたが、わたしの感じた魅惑は、ちょっと違う感じがした。
1973年、わたしはフランスに留学した。7月から始まったボルドーでのフランス語研修には、人文系と藝術系の留学生が集められた。このときの仲間の多くとは、いまも親交がある。そのなかで木村さんとかかわってくるのは、乙丸哲延さんだ。東京藝大の学部生から、難関のフランス政府給費留学生試験を突破した秀才だ(藝術家に「秀才」という形容ができるなら、の話だが、そうでなければ何と呼んだらよいのだろう)。当時は抽象画を画いていたが、いまはフランスの風景を描く具象画家として活躍している。演劇への関心から美学を志し、デカルトで修士論文を書いたわたしは、この頃、絵画については通り一遍の知識しかなかった。乙丸さんは藝術家としては珍しく理論や絵画史に強い関心をもつひとだった。そこで乙丸さんは、西洋絵画についてのわたしの先生になった。若者同士の熱い会話のなかで、多分、わたしはグルニエによる木村論の話をした。記憶しているわけでないが、一年後に起こったことから逆算して、確かだ。
一年目の留学生活を乙丸さんはニースで送った。そこでかれは、わたしのグルニエ=木村への関心を先輩画家である福本章さんに話し、福本さん経由で話は木村さんのもとに届き、「会ってもいいよ」ということになった。このようなくねくね道をたどって、ようやく木村さんの肖像を書く端緒につくことができたわけである。
この幸運に、わたしは戸惑いを覚えなかったわけではない。グルニエ個人にさほど強い関心を覚えていたわけではないからだ。――いまは違う。思いがけないことだが、木村さんの肖像を書こうとして、上記のKIMURAを読み直し、ウィキペディアでそのページを見て、いくつかの著作のタイトルに強く関心を覚えるようになった。KIMURAはまさに木村忠太の肖像とも言える文章で、画業とそのひととなりとを統一的にとらえようとしている。若かったときには、そのことを読み取ることができずにいた。短いテクストながら、解釈を展開してみたい気持ちに誘われるが、それは別の主題だ。ともかく、このような成り行きで、1974年8月のある日、留学先のエックスからマルセイユを経由して約5時間、ニースに行った。所用で同行できないという福本さんに代わって、奥様が先導役となり、乙丸さんと3人で木村さんの別荘を訪ねた。カンヌの丘の中腹にあり、レンガ作りの小さな建物の庭にはイチジクや桃などの木が無造作に植えられ、とても良い感じだった。知人のフランス人たちも「どうやって見つけたんだ」と羨ましがったという。その庭でお話を伺った。
はじめは当然、グルニエさんの思い出話だが、やがて話題の中心は木村さん自身のことに移っていった。わたしは、この人物にすっかり心を奪われた。目の前にいるそのひとは、作品から受けていた印象とは一致しない。声量のある声で、確信に満ちて語る、芯のつよい、きわめて個性的なひとと思った。何より個性を印象づけたのは、声の抑揚で、ときどき声に力が込められた。力説するのとはちがう。ただこころのなかの情調の変化を映すものと思われた。情調と言っても喜怒哀楽ではない。多分生命力の流れのリズムのようなもので、木村さんはありのまま、そのリズムの起伏に乗って話した。グルニエさんが「過剰な感情」と見たのもそれだろう。話の半分以上はご自身の制作経験に関するものだが、帰りの列車(ニースからマルセイユまでは約3時間かかる)のなかで、覚えている限りのことをノートに書いた。読み返すと驚くほど詳細で、語り口まで写し取っている。夜気の快かった記憶もある。このノートをもとに肖像を書きたい。悪筆のせいで、自分の書いた文字を判読できないところもあるが、仕方ない(そのような箇所は伏せ字にしよう)。木村さんにお会いしたのはこれ一度きりだ。
子供のころのグルニエさんが懐いていた将来の夢から話は始まった。誰にでもそんな夢があるのではありませんか、と振ると、次のように語ってくれた。「子供のころわたしは、春夏秋冬があるだけで、いま何月なのかも分からなかった。小学校を終えてようやくひらがな、カタカナを覚えた。わたしより下には誰もいなかった。それで工藝学校に入ったが、周りの連中は誰も、わたしが特待生だということを知らない。それならというので猛烈に勉強した。はじめにわたしの下に3人できた。やがてそれがふえていった。おふくろはびっくりしてしまったが、勉強しすぎて身体をこわし、医者にとめられて、勉強はやめた」。――なかなかの語り手だ。何より印象的なのは、ひとを等級付けする闘争心である。猛烈な努力がそれに伴う。小学校時代のうつけぶりは、すでに天才の徴だったのかもしれない。そうでなければ、工藝学校へ特待生として進むことはできなかったろう。
このように自身の子供時代のことを語ったあと、話題をグルニエさんに戻した。あたまのよいひとと思った。かれは、ここに来た若者はグルニエさんのことを訊きに来た、ということを忘れていなかった。「グルニエさんは哲学者で絵の見えるひとだった。何かの天才だと思った」。あるとき、グルニエさんは「きみに訊ねたいことがある」と言ってメモを取り出した(これはカタログの紹介文なり、評論文なりを書くためのインタヴューだったに相違ない)。(どんな質問への応答だったのかは、ノートを書いた時点ですでに記憶がなかったが)、「わたしは宇宙の調和を行動する」と言うと、「グルニエさんは面食らって、こいつはバカではないかという顔をした。ソルボンヌの哲学の先生を捕まえてこんなことを言うのだから。それに今の画家にこんなことを言うひとはいませんよ」。そのどや顔が目によみがえる。「しかし、だんだん話をしているうちに、それがホラでないことが分かった。あのとき、グルニエさんの魂とわたしの魂はぴたりとひとつになっていた」。実際、その日の別れ際、グルニエさんは「今日は木村君とフェンシングの試合をしたみたいに気持ちがいい」と言った。「グルニエさんはよく人を見抜いた。ちょっと会っただけでわたしのとことんを見抜いていた。あのひとはいい絵の前に座ると、〈わたしは幸福です〉と、本当にうれしそうな顔をしていた」。この最後のフレーズ、木村さんの絵の前に座って「幸福だ」と言ったというフレーズには、奥様も唱和された。画家にとっても、その伴侶にとっても、こんなうれしい評言はないだろう。
木村さんはフランス語を話されなかったから、奥様が通訳されたはずだ。「わたしは宇宙の調和を行動する」という不思議なフレーズを、奥様がどう訳されたのか訊かずにしまった。木村さん自身は言語間に生ずるギャップの意識をまったくもっていなかったから、ご自分の言わんとする通りの趣旨がそのまま伝わったと思っていたに違いない。それでもコミュニケーションが成り立っていたことを疑う理由はない。上記のKIMURAを読むと、グルニエさんが木村さんの「とことん」をつかまえていたことがわかる。その「とことん」とは、すでに引用した「entierなひと」という一句だ。この幼少期の思い出、グルニエさんとの「フェンシングの試合」についてのことばのなかに、すでにそれがはっきり表現されている。木村さんの言葉は筆太だ。世界は光と影、善と悪のように単純に色分けされていてニュアンスがない(その絵画とは大違いだ)。人を見抜くひとがおり、それの分からないひとがいる。絵の見えるひとがいて、それの見えない大勢がいる。前者が天才で、後者は凡人だ。劣等生だった木村少年も凡人ではなかった。その天才を知らない世間のほうが間違っている。いつだって天才は世の誤解という難にさらされてきたではないか。グルニエさんのように別種の天才をも驚かせる、そしてついにはその理解をかち取るというのは、天才の勲章だ。
もののわからない愚かどもの典型として、日本の洋画家たちがやり玉にあげられる。かれらの描く油絵は油絵ではない。「明治から100年経って、いまだ油絵はない。日本の絵かきは油絵が解っていない。日本画と質というものがちがう。日本画では絹や■〔「絵」としか読めないが、それでは話が通らない〕が即質だが、油絵では魂が絵具で質を作り上げていかなくてはいけない。ちょうど貝が内側から貝殻を作っていくように。それを日本人は解っていない。日本画と同じようなつもりで画いている。そして、絵具を重ねていけばそれいいと思い込んでいる。あんなものは油絵じゃない。ちっとも質ができていない。日本ではうそがまかり通る。絵の見える奴は一人もいない。パリではそれは通用しない。見える奴がいっぱいいる。日本人は器用だから、すぐそのまま取り入れる。ちょっと見たのではおやっと思うが、よく見るとにせものだということがすぐ分かる。真実がない。パッとみせようと思う。しかし、フランスの若い画家はパッとしない。ありのままの真実をもって苦しんでいるからだ。日本の画家はすぐに70歳の境地を求める。一歩々々やらなければいけない。絵は20歳には20歳の真実があり、30歳には30歳の真実、70歳には70歳の真実がある。20歳で70歳の真実を求めてもダメだ。フランスは低いものでも認める。それが自分の真実はこれですとさらけ出したものであればいい。それが藝術家の良心だ。一にも真実、二にも真実、あくまで真実だ。文学とは何か。人や社会の真実を描くから文学であり、面白い読み物は文学じゃない。きれいなのは décoratif (装飾)であって、絵ではない。わたしはこの世には一本通ったものがあり、善が勝ち、うそが負けることを信じている。それを信じないでどうやって生きるのか」。
異様に強い言葉だ。これを書き写し、読み返すたびに、その迫力に圧倒される。「質」、「真実」、「良心」などは、フランス語で grand mot (大げさな言葉)と呼ばれるものだ(哲学用語は概して grand mot である)。会話のなかでこれらを口にするひとは、あまりいない(使われるのは「真理」や「真実」ではなく「本当の」、「本物の」だ)。しかし、 木村さんには似合う。「質」や「真実」、「良心」が文句なしに価値であることは、近代西洋世界の常識的なイデオロギーに基づいている。だが、そのありふれた grands mots を借りて木村さんがとらえた経験は、かれ自身のものであり、オリジナルだ。油絵具で造り上げるべき「質」がどのようなものであるのか、わたしには分からない。日本の西洋画家は誰もそれを解っていない、ということだからわたしが分からなくても不思議はない。とくに著名な画家たちに対して厳しい評価を下す。「三岸節子が展覧会をやった。あんなのは絵じゃない。真実がない。何故か、花の真実とは、さわればゆれることだ。三岸節子の花は、金づちでたたけばカーンと音がする。林武も輪郭に黒の線を入れたりする。それで形が強化されるとおっしゃる。そんなものではない」。林は独立美術協会の創立者で、東京藝大の教授、木村さんもこの協会に属していた。木村さんが無邪気に語った昔話には、林が社会的な大物だったことを映す言葉もあった。それにひきかえ、どうみても、木村さんは肩書をもたない、画家以外の何者でもなかった。そして「真実」を極めることだけを旨として、生きて仕事をしていた。
「真実にもいろいろある。始めは見えるままの姿をうつすことが真実だ。それを何年もやって、くるっとひっくり返った。目に見えるものを通して全宇宙の真理を捉える。赤を青に、緑を黄に変えられるようになる。そこに自由がある。シャガールは夢の真実、ピカソやマチスはものの真実、ゴーガンは××[失念した]の真実を画くのだが、わたしは好かない。いきなり夢の真実を画いてもだめだ。わたしは光の真実を求める。モネの後継者だと思っている。ピカソなどは、ものの真実だ(と、エヴィアンのびんを指し)、これをもっと本当、もっと本当と追求していくから、線がねじまがってくる」。
「真実」はキャンバスの上では「質」とひとつのものであろう。そこで、「宇宙の調和を行動する」に戻ることができる。素材となっているのが街角の風景であれ、一本の花樹であれ、そこに木村さんは宇宙を見ていたと思う。この調和をグルニエさんは「全一性 le Tout」と呼び、木村さんそのひとの「entier」な性格と照応させ、KIMURAという大文字のサインをその象徴として捉えていた。この「宇宙の調和」に関する木村さんの言葉もあった。――「80歳をすぎたら、理論物理学のひとに来てもらって、木村の理論というものを世に残したい〔世に残すという意思に注目しておこう。後述する〕。中心のありかたを発見したんだ。昔は自然に中心をつかんで画いていた。あるとき、中心がふうと消えてしまった。それからは絵具がどんどん無くなっていく。キャンバスの裏に画く。絵はできない。お金は入らないので、八年間辛かった。布という布をキャンバスにして画いた。八年間、起きて寝るまで画いた。便所へ通う窓から木が見える。その木がいつの間にか緑になり、赤くなった。春から秋まで三日くらいに思えた。ダルマが八年間壁に向かったというが、そんなことは珍しいことでも何でもない。しまいには画くことをやめて、三角の紙を切って考えた。……最後は直観だ。モンスリ公園の入口でパッと見つけた。昔の絵は三角が一つだが、近代絵画には三角が四つある。赤の三角、青の三角、黒の三角、それに中心の三角。これを見つけてからは、中心を自由に右にも左にも置けるようになった。この四つの三角は、宇宙の中心と照応している。そこから■学〔「易」学か?〕が出てくるらしい。組み合わせると360いくつある」。そこで、E・スリオの20万の劇的状況の話をすると、「同じことを考えるひとがいるんだな」と愉快そうにしていた。
中心を見つけるということは、全体の調和を実現する、ということである。この調和については付言したいことがあるが、ボナールの話題のあとに続けることにしよう。わたしは、日動画廊のカタログを見たときすぐに、ボナールに通じるものを感じた。別段特殊な見方ではなく、ごく常識的な印象だったと思う。しかし、話のなかにボナールという名は出てこない。ご自身をモネの後継者と名乗ってらした。ボナールは触れてはいけない名前のようにさえ思われた。しかし、思い切って訊いてみた、「ボナールはお嫌いですか」と。これを訊かなければこころに小さな闇が残り、後悔すると思ったからだ。つかえがとれたような反応が返ってきた。「ボナールは好きで好きで、画集を買うのがこわかったくらい好きだった。でも、ボナールに似せようとしていたわけではない。似ているとしたら、内面が似ていたからだ」。これは額面通りの真実だと思う。ただ、ボナールに似ていると言われることに、強いこだわりを感じてもいたとお見受けした。「昔、パリの個展を見にきたフクシマが〈ボナール〉と言って帰ってしまった。そのあと、ニースでは若い学生が、《どこからボナールが来たのか解った》と言った。それを聞いて《こいつはフクシマより目が見える》と思った。しかし、今では怖くもなんともない。あんなものは通り越してしまった」。フクシマとは、聞き手のわれわれ(福本夫人、乙丸さん、わたし)が知っているはずの人物という語り方だった。福島繁太郎だろうか。また、この最後の言葉だが、それをわたしは「ボナールを超えた」という意味のものとして、違和感をもちつつ記憶していた。しかし、いまこのノートを読み返すと、批評家から「ボナールに似ている」と言われることを指していたものと、理解が変わった。そう考えないと、「怖くない」というのは意味をなさない。つまり、評論家のことばに、怖れを感じていた、ということだろう。
木村忠太の絵画は、いかなる点でボナールを思わせるのか。幸福な色彩感覚を措いて何もないと思う。色調も違う。その違いは、造形的な構成、まさに「中心」と「調和」に関係していて、木村さんの画面の調和について、形と色を別個のものとして扱うことはできない。木村さんの語った「中心の探求」でも、色彩(赤、青、黒の三角形)は構成原理となっている。ボナールの画面はいまだ自然の景観のまとまりをベースとしているが、木村さんの画面ははるかに抽象的だ。一般に具象画家と紹介されているが、また色彩越しに見える花木、樹木、緑地、通り、車、建物などのかたちが作品の魅力の成分となっていることは確かだが、情景をそっくり写したようなものではない。色彩とこれらの断片的モチーフとを掛け合わせて、画面全体の調和を実現しているように見える。
木村さんがパリに来たのは、美術の本場だからというのではなく、「より世間知らずに(indépendent)」になる(井上訳では「より孤立する」)ためだ、とグルニエさんは書いている。その八年の苦闘を振り返り、「これはあと戻りできないからできたことだ」と言う。奥様も大変でしたね、と言うと(世間との交渉は一切、奥様が引き受けられていた。当然、ことばの習得から始めて)、「あいつだって同じだ、あと戻りできなかっただけだよ」と答えた。「わたしだって他の日本人と同じだ。パッといきたい。だけど、500年も1000年もパッとしたいんだ。レンブラントより長持ちする絵かきになりたい。いや、きっとなる。それは今まで、一段々々のぼってきたから出てくる自信だ。ひとつ問題を解決すると、どこからか次の問題がすーと出てくる。それを一つひとつ解決してきた。50年経てば、こういうことを世界中の評論家が書く。皆がわたしの絵を買いにくる。しかしその時には、日本人には高くて買えない。しかし、それはわたしの死んだあとだ」。すでに見た《後世に残す》という意思の、本領だ。後世に期待するひとは少なくない。そこには、いまわたしの価値を認めない世間に対する復讐の色合いがある。
ホラと受け取られるかもしれない。亡くなって35年が経ち、「高くて買えない」ということにはなっていないようだ。しかし、現役だ。これは既に大したことと言ってよい。そもそも、価格は価値と一致するのだろうか。木村さんはその一致に疑いをもっていなかった。そしてその並外れた自信は、仕事の手ごたえに由来することはもちろんだが、あの単純な二元的世界観、人物であれ絵画であれ、その価値の見えるひとと見えないひとがある。さらに、世界は善と悪で織りなされており、最後には見えるひと、善が勝利する、という確信に基づいている。
カンヌにお訪ねして数年後、木村さんから、カタログのための略歴をフランス語にしてくれ、という手紙をもらった。これには困惑した。このような文書の文体を知らなかったからだ。いくつかの先例を参照し、何とか作成して送った。出来上がったカタログに掲載された略歴のページのテクストは、わたしの書いたものとは相当に異なっていた。わたしが未熟だったには相違ない。木村さんは、わたしが怠けているせいだと思ったらしい。「ダラカンにならないでください」と言ってきた。「ダラカン」は、その頃でもすでに古びた言葉だった。いまではほとんど死語ではあるまいか。「堕落した(労働組合の)幹部」を略したものだったが、木村さんは「だら(けた)漢=男」と解されたらしい。わたしは、反論あるいは言い訳の返事を送った。多分、言語は美術とは違う、ということを書いたと思う。カンヌでの話のなかで木村さんは、西洋の油絵の「質」を追究していると、自分の絵は「とても日本的」と評される、と言っていた(ボナールとの違いを言っていたのかもしれない)。ことばは違う。慣用を含めた文法に従わねばならず、「とても日本的」は通用しない。もちろん、フランス語の達人たちは、略歴のようなものを書いても、非の打ちどころのないテクストを作るだろうから、所詮は言い訳だった。
「ダラカンにならないでください」には、憂国の思いによるところがあったかもしれない。紹介してきたように、木村さんは並外れた自負を懐いていた。「わたしは日本人で初めて油絵を会得した。ヨーロッパは老化している。わたしは東洋の血をもった新鮮なヨーロッパ人だ。わたしがその老化を救う」。言葉は借り物だが(新旧論争のときに語られた「古代人」と「近代人」の比較。誰かが語った言葉を吸収するほど、木村さんは勉強家でもあった)、この自負には愛国者の顔がのぞいている(わたしも留学生活中に感じたことだが、異国に暮らすひとの懐く愛国心だと思う。日本にいても木村さんが愛国者だったかどうかは分からない)。だから、ご自身を例外としつつ、故国の現状、行く末を心配していた。「日本がもっとよくなってほしい。絵がこんなにダメなんだから、船や自動車も本当に大丈夫なのかと思ってしまう。フランスにはすごい奴がうようよいる」。
ちなみに、この略歴の翻訳について、謝礼として、小さな(はがき大くらいの)デッサンを頂いた。「大事にしたほうがいいですよ。いいデッサンですからね」と言われた。大事にしている。大切にしまい込むのではなく、机のわきの書棚において、折々ながめている。展覧会に出され、カタログに載っているデッサンは、下絵ではない。ボナールのエッチングと似たところがあり、細かい線によるハッチングが色彩感を伝えている。このやりとりの数か月くらいあとのことだ。居心地が悪かったので手紙を送ると、安堵の返事がきた。「怒らせたので、もう手紙は来ないかと思っていた」と。木村さんは、純真なよいひとだった。
そのあとの手紙の記憶はない。やりとりがあったとしても、用事がないので、間遠になったはずだ。最後にわたしの方から一方的な接触があった。多分、1982年の年末のことだ。パリへ資料調べに行き、セーヌ川に沿った左岸の大通りを歩いていると、街角の小さな建物の店舗スペースが日本の画廊になっていて、木村忠太の展示をしているのを見つけた。なかに入ってリトグラフを手にとった。思いがけない衝撃だった。そこにあったのは自画像だ。それ以外の画題のものがあったかどうか覚えていない。自画像という標題がついていたのかどうかも分からないが、あきらかに自画像だった。しかも、不気味だった。写実的ではないものの、ひととしての存在感が迫ってきた。それは鬱になった木村さんそのものだった。かつての画面の、幸福感にみちた明るさは無くなっていた。色調は重く、暗い。何があったのだろうか。部屋の片隅で二三人の日本人と思しき人びとがいて、打ち合わせをしていた。なかのひとりは木村夫人かと思われた(わたしにはそのお顔の記憶がなかった)。しかし、気後れして、声をかけることができず、外に出た。晩年の木村さんは不本意な状況を生きたのだろうか。あるいは、それが木村さんの「70歳の真実」だったのだろうか。あの不気味な自画像は、インターネットの「画像」でも見ることはできない。