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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

姉の青春、兄の青春(2)――戦中を生きた若者たち

 

タッタの生涯と比べてみると、すみ姉が現に生き、また許されていた一生のかたちは、非常に異なるものだった。いま、ふたりの青春像を描いてみて、そのことに気づき、驚かされる。

 

最晩年の姉が、問わず語りに何度も語った物語がある。女学生時代の想い出だ。十代のなかば、姉は府立一女に通っていた。当時のわが家は、浅草で火事に遭い、転居した落合から、相当の距離を通学していた。経路は、小滝橋からバスで早稲田まで行き、そこから厩橋行きの市電に乗って小島町(御徒町の東)あたりで降りる、というものだった。交通渋滞などなかった頃だから、路面電車でも決まった時間で移動することができたのだろう。わたしが生を享ける前のことで、その家が落合のどのあたりにあったのか知らない。訊いておけばよかったと思うが、もう遅い。そこでわたしのイメージの世界では、どこからともなく、坂の上の方から少女が降りてくる(小滝橋はその名の示すように、なだらかな谷の底にある。下を流れるのは神田川だ)。セーラー服姿でかばんを下げている。多分おかっぱ頭だ。少し遅れてついてくる若者がいた、それも毎日だ。話しかけるでもなく、この通学路を終点までついてきて、そのまま同じ道を帰っていった。今で言えばストーカーだ。姉には2歳年下の妹がいた。その千江も気づいた。「お姉ちゃん、あのひときっとお姉ちゃんのことが好きなのよ」。――千江は、野球の球を背中にぶつけられ、肋膜炎で治療生活を送った末に、15歳の若さで亡くなっている。わたしが生まれる数年前のことだ。頭のよさは、わが家の語り草となっていた。姉に同行していたからには、千江も一女に通っていたのかもしれない。わたしの幼少期、彼女は、祖父祖母とともに肖像画になって、茶の間の鴨居を飾っていた。上にわたしが思い描いた姉のセーラー服姿は、この千江姉の画像をもとにしたものだ(姉は最期まで髪はアップにするおでこ自慢だった)。

 

その若者の素姓は思わぬかたちで知られた。家に出入りしていた米屋さんが、近くに屋敷を構えていた然る子爵家の夫人の嘆きを伝えたからだ。息子が縁談に乗り気でなく、「気持ちの整理がつくまで、待ってください」と言うばかりだ、というのである。――米屋さんについて付記しておこう。詳細を知っているわけではないが、配給制度が敷かれる以前から米穀は長く管理制度のもとに置かれ、公認の米屋からしか購入できなかった。そのため、米屋と地域の家々との関係は密で、御用聞きが回っていた。子爵家の話題は、御用聞きの日常的な噂話として語られたことだろう。少なくとも、そのように持ち出されたに相違ない。しかし、ひょっとすると、その御用聞きは既に感づいていたのかもしれない、御曹司の整理すべき「気持ち」が、この家の娘ゆえのものであることを。当の御曹司は、それが全うすることのできない恋であることを、承知していた。かれがどのようにしてその「気持ちの整理」をつけたのか、わたしは知らない。姉もまた、思い出語りのなかでは、「身分違いだったからね」と笑っていた。姉は、この王子様がどんなひとであるのか、その恋心を除けば、何も知らなかったのではなかろうか。だからこそ、繰り返し思い出される甘いエピソードとなった。

 

姉は、父親譲りの細い鼻筋が薄幸の印象を与えないこともなかったが、和装の映える美女だった。20歳という歳の差は、わたしにとっての姉を殆ど母のような存在にした。だから、小学校の会合や授業参観に来てくれることがあり、そんなときにはちょっと誇らしい気持ちになった。最晩年の姉はわずかばかりの身の回りの品々を、少しずつ処分したらしい。殆ど何も残さなかったが、なぜか、一束の手紙が処分されずにあった。同一の男性から送られてきたそのなかの1通を読んでみると、或る(元)兵士と交わした文通の片側の記録であることが分かった。さらにひもといてみれば、18世紀のフランス小説のような物語が立ち上がってくるかもしれなかったが、わたしは読まないことにした(しかし処分することはできないので、いまもわたしの机の引き出しのなかに眠っている)。書かれているのは日常的なことで、相手の男性とは恋愛感情のようなものがあったわけではないらしい。察するに、当時、学校で前線の兵士に宛てて手紙(「慰問文」と呼ばれている)を書くことが奨励されていて、そのようにして送った(宛名を特定しない)手紙に対して、誰か兵士が返答すると、そこから個人的な文通が始まる、というようなことであったらしい。SNSの時代に文通は流行らないが、その効用としては似たものがあったのではなかろうか。戦後のわたしの幼少期にも、子供雑誌の後ろの方には、文通を希望するというひとの投稿がたくさん並んでいたし、中学や高校になると、海外の「ペンパル」と英語で文通するひともいた。姉の遺品の手紙は、そのような(元)兵士から送られたものらしい。姉の書いた手紙はおそらく残っていないものの、受け取った手紙のなかには、姉が書き送ったことがらへの応答として、姉の生活を窺わせることも記されているに相違ない。姉の肖像を書くには貴重な情報源かもしれない、と考え始めたところではある。

 

その手紙の束とともに1枚のメモがあり、36の名前が書かれていた。年賀状の宛先リストらしい。わたしの知らない名前がなかばを占めていたが、《あのひとと交際が続いていたんだ》と驚くような、懐かしい名前も散見した。姉は気さくな社交家でもあった(やや見栄っ張りではあったが)。

 

すみ姉は煮豆で白米を食べるような、極端な偏食だったが、兄弟姉妹のなかでは最も長命で、90歳過ぎまで生きた。健脚ではたらき者だった活動的な生活が、健康のもとだったに相違ない。姉や兄の青春期が戦中にあたり、わが家も疎開したことについては、既に書いたとおりである。兄は軍隊に行ったが、姉は家族の疎開生活を送った。その疎開先の名内から東京へ出るには、下総中山経由のほかに、柏廻りのルートもあった。県道282号線で、昔も今もバスが通じている。多分、戦後でバス便が使えなかったのだろう。何の用事だったのかは忘れてしまったが、幼児のわたしを乳母車に乗せ、やがて義妹になる「よっちゃん」(もとは千江姉の同年の友だった)と連れ立って往復した。往復で5里、20キロを超える。途中には深い谷を横切るきついアップダウンもある。お腹が空きのどが渇いたことを、姉はよく語った。姉は記憶力が抜群で、訊いておけばよかったと今さらに思うことがたくさんある。地縁もなく縁者もいない名内にどうして疎開したのかも、不思議に思っていたことのひとつだ。最晩年の姉にそれを訊ねると、「知らなかったの?」と言って教えてくれた。当時わが家は、柏木4丁目の古刹円照寺の敷地内に、おそらく借家住まいをしていて、住職一家とは親しいつきあいがあったらしい(いま、門前の駐車場になっている辺りか)。住職の御曹司のひとりがのちの篠山紀信さんだが、ぶかぶかの大人の靴を履いた幼児の写真を姉は持っていて、それが紀信さんの幼年時代のショットである旨のメモをつけていた。おそらく、自分の死後、それがかれのもとに戻ることを期待していたのだろうが、いつの間にかなくなっていた。名内はこの住職が紹介してくれた疎開先だった、という説明でこの件は腑に落ちた。名内の住まいはお寺(ずっとただ「お寺」と呼んでいたが、それが東光院という名であることを知ったのは最近のことだ)の庫裡のような離れで、円照寺と同じ宗派の寺だった。――数年前、半世紀余を隔ててここを訪ねてみた。庫裡は壊されてしまっていて、姉がよっちゃんとそれにもたれて写真をとったサルスベリの木も無くなっていた。

 

記憶は不思議なもので、事柄によって濃淡がある。わたしは、戦後(わたしが小学生だったとき)姉が草月流の活け花を習っていて、一緒に同じ師匠のもとに通う仲間がいたことをよく覚えている。土井さんというその女性は、すみ姉に劣らぬ美人で、その家は南側に広めの庭があり、鶏頭、ダリア、カンナ、コスモスなどが咲いていた(これらは戦後間もないころ、どの家にも見られる花だった)。このひとのことを訊ねてみたものの、晩年の姉は覚えていなかった。短い間のつきあいだったのかもしれない。若い美女が2人、おめかしをして、花を抱えて歩いたとき、焼け跡の街もいっとき華やいだに相違ない。

 

お花は姉にとって愉しみだっただろうか。少なくとも嫌いではなかった。晩年まで、部屋に飾る花にはちょっとしたデザインが加えられていた。またわたしにとって、姉の活ける花は、美的教育の意味をもっていた。しかし趣味、娯楽の面で、兄と姉の間には大きな差があった。兄は、剣道に打ち込んだだけでなく、またダンスに興じただけでなく、登山を好んだらしい。兄が家から山に出かけて行ったという記憶はないので、植民貿易学校の生徒だったときのことだろうか。燧岳に登り、荒天に見舞われて遭難しかかった、という武勇伝を聞かされた。独りで登ったような印象だったが、十代の少年の登山としてはありえないだろう。汗と雨で擦り切れた5万分の1の地図が家に残っていた。さらに、わたしの幼年期、兄は写真撮影に凝っていて、写真館にあるような乾板に焼きつける大きな写真機を持っていた。或るとき、その写真機持参でわたしの遠足についてきて、先生方の集合写真をとりたいというので、担任の先生にお願いした。しかし、現像してみた結果は失敗で、そのあとわたしは学校できまりが悪かった。趣味分野において、兄のこの自由空間に比べると、姉の享受したものはつつましいものだった。歌謡曲を聴くのは好きだったが、電蓄は幼児のわたしが占領していた。結婚後もラジオを聴くだけだった。姉は山に登りたいとは思わなかっただろうし、写真機に関心はなかった。やりたいことがなかった、と言えばそれまでだが、やりたくなるような可能性が与えられていなかった、というべきだろう。社会的アフォーダンス、あるいは disponibilitéの問題だ。

 

その姉に隠れた一面のあることを認識するようになったのは、ここ4~5年のことだ。事実はわたしが子供だったころに遡る。洋服ダンスのなかに、大判の(12インチ)SPレコードのセットがあり、あるとき偶然に、それを見つけた。場違いなところに置かれていたので、何やら秘めごとめいた感じを覚えた。それがクラシック音楽のレコードであることを認識するようになったのは、自らクラシックを聴くようになってからだ。ドラティの指揮による『白鳥の湖』と、ワルターの名盤『未完成』で、これらはわたしが着服して、たぶんいまも屋根裏にある。それが何であるかが分かっても、そもそもそれがなぜわが家にあるのか、誰のものなのかということに意識は向かなかった。最近になって思うに、それらがタッタのものでなかったことは間違いない。クラシックは兄の好みではない。すると引き算的に、すみ姉のものだったということになる。しかし、わたしの知るかぎり、姉は一度として、これらのレコードをかけてみようとしたことはない。自らすすんで購入したとは思われない。きっと誰かの、ということは或る男性からのプレゼントだったのではなかろうか(高尚で高価な贈りものだった)。聴こうとせず、タンスのなかに秘めていた、ということは、苦い思い出にまつわるものだったからだろうか。

 

このような小説的空想を誘うもうひとつのアイテムがあった。10インチのSPレコード数枚からなるシャンソンのアルバムで、おもて面には屋根裏部屋から見るパリの光景がデザインされていた。藤田嗣治の描いたものだ。これもあの洋服ダンスに隠されていたのだろうか。わたしがその存在をそれとして認識したのは、姉の最晩年のことだ。特にアルバムの絵に魅了され、わたしはそれを欲しいと思い、またいずれもらえるものと思っていたが、いつの間にか消えていた。姉はシャンソンに関心を示したことはなかったから、これは間違いなく、知的な男性からのプレゼントだ。姉は「○○ツグ」さんという名を口にしていた。かれが贈り主だったのではなかろうか。記憶では、わたしが当然知っているひとであるかのような口ぶりだった。親戚縁者のひとりだったのかもしれないが、もう確かめるすべはない。子爵家の御曹司の一方的な好意は、「身分違い」ゆえにおとぎ話のようなものだった。「○○ツグ」さんの思いは、何故実らなかったのだろう。結ばれていたなら、姉の生涯はまったく違ったものになっていたのではないか。それとも、姉はかれの好みに合わせるのに肩の凝る思いをしたのだろうか。

 

晩年に繰り返された思い出語りや、手元にとどめていた思い出の品々から振り返ってみると、姉の青春は連れ合いとなるべき男性をめぐるものでしかありえなかったように見える。そのすみ姉が結婚した相手は、幼なじみで、上記の柏を一緒に往復したよっちゃんの兄だった。だがそれは、姉が選んだ伴侶ではない。父が決めた縁談だったに相違ない。姉は少なくとも歌謡曲や童謡は好きだったし、活けた花の記憶では相応の美的感覚に恵まれていた。後年、わたしがパリに招いたとき、美術館で絵を観るのも好んでいた。しかし、この伴侶は、よいひとで善人ではあったが、このような趣味をまったく持ち合わせていなかった。腕のよい職人ながら、(わたしが言うのも変だが)世渡りが下手な頑固者で、姉は経済的にも苦労した。手仕事で家計を支えることもしていた。結婚前、かれは毎日のように、仕事をおえると浅草から柏木までやってきていた。その愚直な熱意と、人柄のよさから、父はよい相手と考えたのではなかろうか。姉は姉で、父の決めた縁談に異を唱える気はなかったと思う。父親を尊敬し大好きだった。結婚後、かれの生き方に業を煮やした母が、離婚させようとしたことがあった。そのとき姉は、かれは悪いことをしているわけではない、と言って、猛然と反発した、という。頑固で世渡りが下手なのは、姉も同じだ。だから、似たもの夫婦と言えないことはない。同時に、不満はあっても、境遇を甘受していたのだと思う。夫に対しても優しさを喪うことはなかった。

 

わたしが姉の人となりについて決定的に認識を変えたことがある。それは亡くなる5年ほど前のことだ。既に連れ合いを亡くして独り暮らしをしていたので、月に1度くらいの頻度で見舞っていた。あるとき、展示するかのように、しかしさりげなく、古い岩波新書が1冊、タンスの上に飾られていて、わたしは息を呑んだ。三木清の『哲学入門』だった。何故か手にとるのもはばかられ、その由来について訊ねることばも見つからなかった(姉はわたしに見せようと思っていたのかもしれない。多分そうだ。そしてシャンソンのレコードと同様、これもいつの間にか消えていた)。粗末な紙に印刷されたその本は見るからに、またデザインからも戦前戦中の新書であり、かつて女学生の姉が手にしたに相違ないものだった。奥付を見ておけばよかったと、今にして思う。『哲学入門』の初版は昭和15年、姉が15歳のときだ。姉がこれを入手したのは、それから数年の間のことだろう。これも「○○ツグ」さんからの贈りものだったのだろうか。実際に読んで何かを理解したかどうかは分からない。十代の少女に理解を期待してもむずかしいかもしれない。しかし、少なくとも長くこれを所蔵しつづけていたことには、何かの意味がある。

 

それまで、美的な感性は別として、姉の知性については、特に注目したことはなかった。千江姉がわが家では知性のレジェンドだったので、すみ姉のその面は、家のなかでも語られることはなかった。しかし、府立一女に通っていたことは、相応の知力を物語っている。わたしにとっては、ひたすらのやさしさがすみ姉だったが、クラシックやシャンソンのレコードとともに、この『哲学入門』は、ありえたかもしれない別の人生を示唆している。なぜそれは、人生の黄昏において想起された、思春期の束の間の輝きでしかありえなかったのだろうか。その一生は、恵まれたものではなかった。姉のありえたかもしれない別の人生を惜しむ気持ちが、わたしのなかにある。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、ほか。

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