web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

セビーリャの君――ひととアイドル

 

1992年の夏、スペインは暑かった。マドリードで国際美学会議があり、それに出席したあと、ヒロコに健太郎、マイコとともに、レンタカーでスペインの幾つかの都市を回った。旅程にセビーリャも加えておいた。『セビーリャの理髪師』の舞台への関心が少しと(大体、このような「名作の舞台」は作品の内容とほとんど関係がないのだが)、そのとき開かれていた万国博覧会への関心が少しあった。

 

旅に出るとき、準備や予習を念入りに行うほうではない。なかば行き当たりばったりだ。万博も予約が必要だったのかもしれないが、思いつきもしなかった(劇場やコンサートは昔から前売りを買う必要があったが、美術館にまで予約制が取り入れられるようになったのは、そのあと大分経ってからのことだ)。会場は町を流れるグアダルキビール川の川中島に設けられていた。この年はコロンブスの「アメリカ大陸発見」500年記念の年で、スペイン政府はこの種の催し物に力をいれていたし、「植民地主義」を含めて、関連の議論が盛んだった。セビーリャ万博は規模も巨大で、入場することはできたが、数時間で見てまわることのできるようなものではなかった。日本館は建物も大きく斬新で人気が高く、待ち時間が長くて、とてもその列に並ぶことはできない。そこで待たずに入れるところを幾つか観るしかなかった。感想としては、敗者の弁になるが、既に情報の時代になっているなかで、物産というモノを見せることにどれほどの意義があるのか、という疑問を覚えた。入場者も、ディズニーランドの人込みとはほど遠いものだった。

 

広大な会場には、モノレールの鉄道が施設されていた。これも一種のアトラクションと思い、乗ってみた。そのプラットフォームで、ひとりの女性と出会った。出会ったというのは不適切だが、見かけたというのとも違う。目撃した、というのが少しは当たっているかもしれない。わたくしども四人は車両に乗り、座席についていた。気づいてはいなかったが、逆算すると、たぶん、中年のカップルがやってきて、その電車に乗るのらない、という一場があったのだろう。男は車両に乗って席にすわり、女性はホームに残った。少しすると、彼女は、屈むように身体を折り曲げ、絞り出すような声に力をこめて、二度叫んだ。

 Je me sens mal!  Je me sens mal!

フランス人だった。英語なら « I feel sick » というところだろうか。この « Je me sens mal! » は何と訳すことができるだろうか。「訳す」というのは、この女性の訴えようとした気持に最も近い日本語表現は何か、ということだ。「気分が悪いのよ」というのが字面に合わせた普通の訳だが、ちょっと違う。字面を離れて、「吐きそうなのよ」としたらどうだろうか。「むかつくのよ」か、あるいは「もううんざりよ」の方が適切かもしれない。このように日本語をいじってみると、二人の間にあったはずのドラマのストーリーが微妙に色合いを変える。向かいの席に座った男のほうは、「わたしはこんなひとは知りません」とでも言いたげに涼し気な表情を浮かべていた。車中の乗客たちもそこに目を向けないようにしていたようだ。やがて、ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き始めた、女性をホームに残して。

 

このどうでもよいような些末な出来事を、同行の家族三人は覚えていない。しかし、わたくしには強い印象を残した。それは、一言で言えば、アイドルがひとに戻ったという衝撃のせいだ。その女性をアイドルと聞いて不審に思われるかもしれない。では、アイドルとは何か。この場合は異人というくらいの弱い意味である。確かに普通の用語法を外れているかもしれない。『新明解国語辞典』は、その原語 idol が偶像という意味であることを付記したうえで、「限り無き崇拝(憧れ・寵愛)の対象となるもの」と定義している。これは第五版によるものだが、この辞典らしい個性を残している。この性格づけはAKB48やら乃木坂46など、ふつうに「アイドル」と呼ばれる存在には妥当するだろう。しかし、セビーリャの君の場合、わたくしは崇拝していたわけではないし、憧れや寵愛の対象ではまったくない。彼女が口にした « Je me sens mal! » の意味合いがどうあれ、また、連れの男との間に何があったにせよ、大声で叫んだのは、周りの人びとに向かって、その男の仕打ちを暴露し、それを知ってくれと訴えているわけである。品性がよろしいとは言いかねる。また、身をかがめて力をこめた全身のイメージは鮮明に記憶に焼きついているが、その風貌は覚えていない。つまり、見目麗しきゆえに覚えている、というようなことでもない。ではどうしてアイドルなのか。わたくしがここでアイドルと呼ぶ人びとの基本条件は、自分が日々生きているひととしてのこの世的な条件を超えた、あるいは免れた異人性であり、その異人性が憧れや崇拝の念をひき起すなら理想的アイドルだ。しかし、その付随的な感情が伴わなくとも、異人種にはいかほどかのアイドル性がみとめられる。

 

アイドルの原型は、幼児にとっての「美人の先生」である。かれらにとって美人の尺度は、容貌というよりも優しさだ(「かれら」と書いたが、そこには女児もおそらく含まれる)。ただし、容貌よりも優しさというような二分法はおそらく不正確で、先生の優しい心映え、物言いい、その笑顔が容貌そのものであり、この渾然とした存在の全体が美しいのだ。かれらは先生の「ありのままの」顔など知らない。美しさのこの動態的概念は美学者が大いに参考にすべきものだと思う。この美しい先生は幼児たちにとって殆どこの世ならぬものである。だから崇拝する。先生は自分たちの烈しい悲しみやわずらいを超越している。もちろん、先生はおならをしないし、トイレになんか行かない。一緒に給食を召し上がるかもしれないが、がつがつ食べたりはしない。

 

この原体験があって、(そう呼ぶかどうかは別として)アイドルというカテゴリーができる。AKBのようないわゆるアイドルではない。「偶像」という原義、すなわち「現実とは異なるイメージ」に沿った意味でのアイドルである。自分の生理、心理、ものの考え方感じ方では理解し難い神秘的なところのある存在だ。わたくしにとっては女性であることが要件で、女性ならだれでもアイドルと言えるところさえある。恋人は強い意味でのアイドルで、その女性に神秘的なところを認めてこその恋人である。この一種の神格化は妄想と言えば妄想だが、プラトンが言ったように、恋愛は一種の狂気だ。そして妄想も狂気も「ひと」と切り離すことができない。つまり、並みの「ひと」であるからこそ、「アイドル」をみとめ、偶像さながら崇拝し、憧れる。いかほどか相手を神格化しないなら、恋愛とは言えない。とすると、逆向きに、女性にとって男はアイドルなのだろうか。恋人ならおそらくアイドルだろうが、どんな男でもアイドル性がみとめられるのだろうか、男にとって、すべからく女性が、あるいは強く、あるいはほどほどに、アイドルであるように。また男にとっての男はどうか。「小僧の神様」のようなケースがあることは間違いない。それはこどもにとっての大人の場合で、これは理解に難くない。また、詐欺師に騙されているようなケースも、そこではたらいている心理はおそらく変わらない。それでも、あのひとはトイレに行くはずがない、とまでは思わないのではあるまいか。しかし、分からない。何しろこれも狂気の一種なのだから。

 

狂気を知らない冷酷な男にだまされるお嬢さん方がいるらしい(詐欺師に騙されるのと、多分同じ心理作用だ)。そのような女性の狂気は、その女性が「ひと」である証しで、彼女自身のアイドル度を下げる。わたくしにとって男のアイドルは考えにくいのだが、それは多分、自身が男であるせいだろう。しかし、女性こそがアイドルだという考えはひとつの学説になっている、と言ってみたい。柳田國男の「妹の力」を参照しよう。柳田の論考は、日本各地に残っている風習やあらたな変化に注目し、そのルーツを上古の慣行に求める、という骨格で書かれている。そのためこのエッセイについても、タイトルの「妹」をわたくしは「イモ」と読んできたが、「イモウト」と読むべきだろう。一貫して兄と妹の関係を論じているからである。――講演旅行で久しぶりに故郷に帰った柳田は旧友たちに、生活していて気づいた近頃の変化を話してくれ、と頼む。そこで聞かされた話のなかで「一つ意外であつた」のは、「兄妹の親しみが深くなつて来た」という観察である。それまで、女のたしなみとは家のなかで「絶対に何ものでも無いかの如く、見せかける技術」であつたし、男の方も「いつでも怒つて居るのかと思ふやうな簡単な、ぶつきら棒の応対をするのが、父でも夫でも男たちの普通の態度」だったから、これは大きな変化だった。それについていろいろな解釈がありうるのを紹介したうえで、柳田は上古において、あるいは上古以来、妹が家のなかでもっていた特別な地位をあげ、その旧習の復活としてこの新風俗を説明しようとする。古来、「女には目に見えぬ精霊の力が有つて、砥石を(また)ぐと砥石が割れ、釣竿天秤棒をまたぐとそれが折れる」と信じられていた。そこで「祭祀祈禱の宗教上の行為は、もと肝要なる部分が悉く婦人の管轄であつた」。そのわけは、女性の「感動し易い習性が、事件ある毎に群衆の中に於て、いち早く異常心理の作用を示し、不思議を語り得た」ことにある。しかも、「国の神は一つ以前には地方の神であり、更に溯れば家々の神であつた」とすれば、一家の繁栄はその神の加護次第であり、それはつまるところ、家の女子の巫女力とでも呼ぶべきもの(これは柳田の用語ではない。念のため)にかかっていた。「(かつ)ては人間の処女の心姿共に清き者の中から、特に年若く未だ(とつ)がざる者のみを点定して、神の尊き霊が御依りなされし時代があつた」。その習慣を伝えた神社の場合、「必ず代々の兄の家が神職を相続」した、と言う。――ここでちょっと脱線させてほしい。柳田のこの記述を読んで、直ちに思い合わされたのは、『魏志倭人伝』の邪馬台国の記事に関する和辻哲郎の解釈である(『日本倫理思想史』第1篇第1章)。和辻はその記事が、現地を訪れた中国人の見聞記に基いて書き手が解釈した結果である、と見なし、この前提に立ってテクストを読もうとしている。これは解釈学的に卓抜な洞察とおもう。その上で、卑弥呼に関する記述の解釈にかかる。倭人伝のテクストの概略は次のようになっている。《倭国はもともと男子の王が支配していたが、数十年前に内乱が起こり、その結果、人びとは一女子を王に擁立した。それが卑弥呼で、鬼道に長け、衆を惑わす力があった。すでに相当の高齢だったが独身で、厳めしく警護された楼観城柵のなかに住まい、一人の弟が国の統治を佐け、千人の婢にかしづかれている。しかし誰も直に会うことはできず、ただ一人の男子のみがその側に出入りを許されている》。これを和辻は「社」と「巫女」と「神主」の話として読み取る。「卑弥呼」とは伝聞した音名を漢字に移したもので、もとの意味は「日御子」と見られる。すなわち3世紀の前半には日の女神(記紀の天照大神)の神話、その信仰が成立していたことを、この中国の文書は伝えている。わたくしは邪馬台国論争の詳細には疎いが、和辻説が有力であるような印象はない。そのことは不可解だ。とくにヒミコの名の解読には説得力がある。なぜ人びとがこれに従わないのか、少なくとも取り上げないのかいぶかしく思う。もとのテクストにおいて、国政を助ける弟と、食事を運び、ヒミコの命を受けてくる一人の男子が同一人物なのかどうか曖昧だが、和辻の「神主」は後者を指しているだろう。また、和辻が「巫女」としているのはヒミコではなく、「千人の婢」を指すらしい。ヒミコ自身は神格化された存在とみられているようだ。――ここで柳田に戻ろう。ヒミコと「巫女」、「神主」と「弟」のアイデンティティについて不整合なところがあるが、柳田の言う上古の家の宗教と、和辻の読んだ邪馬台国と卑弥呼のそれぞれの体制には、著しい近似性が認められのではないか。そう考えてよければ、柳田の説いた巫女としての妹、神主としての兄という家の宗教のかたちは、邪馬台国のころに遡るものと見られることになろう。上記の柳田の論の続きを紹介するなら、妹の霊力がよい神を呼び寄せることのできた家は、その兄の経営のもと、繁栄を享受することができた、と言う。

 

「妹の力」とは女性ゆえに異界と通じる霊力であり、兄の経営能力はこの世的な力である。すなわち妹はアイドルであり、兄は「ひと」にすぎない。女性には天性、アイドル性があるということになるだろう。ただし、その度合にはさまざまなグレードがある。『今昔物語』に出てくるような鬼婆、骨と皮ばかりにやせ細りながら、生への欲望は強烈で、口汚く悪態をつきまくる。この世への執着ゆえに「ひと」そのものとも言える。しかし、それはわたくしの「ひと」観を遥かに超え、理解が及ばない。もちろん崇拝したりはしない。それでも呆然と感心する。この文字通りの意味での異常性のゆえに彼女もアイドルの末席に置くことができよう。

 

セビーリャの君はわたくしにとって異邦人で、女性だった。留学して初めてフランスに行ったとき、電車やバスに乗り合わせ、レストランで近くに座り、郵便局や事務所の窓口で向かいあうような人びと(役所の窓口にいるひとは、なぜか、例外なく不機嫌だった)が、何を思っているのか分からず、その表情を読むことができなかった。だから、いつも疎隔された感じがあった。このような意味で、女性の異邦人たるセビーリャの君は、二重に異界のひとだった。崇拝していたわけではなく憧れていたわけでもないが、わたくしの目にはアイドル的な存在だった。だから、その「アイドル」が「ひと」の条件をさらけだし、苦悩を叫んだときに、わたくしは衝撃を覚えたに違いない。

 

あらゆる意味でアイドルと言えるひとを考えてみよう。例えば、オードリー・ヘップバーン。その若々しい美貌は、いかなる苦悩も知らず、老いることなどありえないかのようだった。時が経ち、彼女は、貧困、飢餓、病苦、更には戦火に苦しむ世界中の子供たちを救済する活動に、その後半生をささげた。ひととしてこの上なく高貴な活動は、人並みはずれた稀な性格ゆえ、そのアイドル性にも光輝を添えた。しかし同時に、伝えられる近況の映像には相応の老いの影が射すようになった。このようにして、ひと原理がアイドル性を侵蝕するようになってゆく。アイドルはひとの輝きであり、輝いたひともやがてひとの条件に帰らざるをえない。そして、いつだって、アイドルの還俗には悲哀が伴う。オードリーの場合はとりわけそうだ。だがそれは、セビーリャの君の場合も変わらない。つまり、そこかしこで出遭わざるをえないことであり、つまるところ、命のさだめに相違ない。

バックナンバー

著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

関連書籍

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる