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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

恒川隆男さん――言語を奏でる

 

恒川さんとわたしは同期の同窓生だ。わたしはフランス文学の課程を卒業したあと、美学で学問を目指すことにして、学士入学した。その前年、同じように学士入学していた恒川さんとは、いわば同級生になり、翌年、そろって卒業した(わたしの場合、東大文学部を卒業し、別の課程に学士入学した場合には1年で卒業できる、という制度が当時はあった)。かれは法学部を卒業し、三菱銀行に就職したものの、1年で辞めて大学に戻っていた。エピソードをひとつ。或るとき、3000万円ほどの現金を別の支店に運ぶように言いつかった。大卒の初任給を基準に比較すると、当時の貨幣価値は今の10倍くらいになるから、これは今の3億円にも相当する大金だ。恒川さんは札束をアタッシュケースに入れ、手にさげ、ぶらぶらと歩いてこの運搬業務を果たした。しかし上司からはこっぴどく叱られた。盗まれたり紛失したりしたらどうするのか、というもっともな理由からだ。ちょっと愉快そうに話してくれたことだから、反省していなかったことは間違いない。銀行員としての適性がないことは明らかだ。それ以前に、そもそも何故、法学部に入ったのだろう。

 

恒川さんとの出会いは、美学に入る前の年、仏文専修の4年生だったとき、今道友信先生の演習に出た、その教室でのことだ。レイモン・バイエというフランスの哲学者の著書を読む時間で、美学への志望をわたしに促す動機のひとつになった。その教室で恒川さんは、指名されると立ち上がって答えようとした唯一の学生だった(少しすると、先生から、立たなくてよい、というお許しが出た)。立ち上ったものの、発声するまで時間がかかった。よほど緊張していたに相違ない。バイエのテクストは難解で、その難しさが参加者たちの絆を強めた。なかでも、恒川さんに加えて、電通大から学士入学していた木下邦一さん、詩的な童話の名作『山太郎』の作者で、東京外語のイタリア語科から学士入学していた川路重之さん、のちにバッハの国際的研究者となった小林義武君らとは、長い友情を育んだ。恒川さんは、ピアノが上手とのことで、とりわけ音楽が好きだった。そこで、卒業のリポート(この年から「卒論」がなくなり、リポートに格下げされた)として、フランスの音楽学者ジゼール・ブルレの『音楽的時間』の研究を書いた。A5版2巻の大著で、難解と言われていた。ブルレには『創造的解釈=演奏(アンテルプレタシオン)』という同じサイズの姉妹編もあり、恒川さんはこれにも論及したはずだ。読むだけでも大仕事だったはずだが、当然、そのリポート自体、卒論サイズをはるかに超える大作だった。

 

驚いたことに恒川さんは、大学院進学に際して、美学ではなく、フランス文学でもなく、ドイツ文学を選んだ。修士論文のテーマが何だったのか、わたしは覚えていない。2年経ち、修士課程を終えると、かれは静岡大学の教養部に職を得て赴任した。あとで述べるが、それまで一緒に読書会をもち、殆どかれの指導に与っていた風のわたしは、この別離を非常に残念に思った。いちど、静岡に訪ねたことがある。藤枝市の公務員住宅が住まいで、静岡駅からバスで小一時間かかった。その日は、ご母堂が来てらして、夕飯をご馳走になった。息子の様子を見に(あるいは世話をするために)、ときどきいらっしゃるとのことだった。部屋は殺風景で、会話から推量できたのは、とりたてて刺戟のない職務をこなす生活らしい、ということだった。

 

1974年、恒川さんは東大教養学部に転じた。この異動はわたしにとって吉報だった。やがてわたしも東大の美学に配置換えされると、駒場への出張講義の機会ができ、その日はかれの研究室でお昼を食べた。それでも、新しい環境のなかでのかれの学究生活がどのようなものだったのかは、知らずにいた。後になって、美学の後輩の津上英輔君と伊藤るみ子さんが、恒川さんに私淑していることを知って、その(えにし)に驚いた。詳しく尋ねると、ある学期にかれらのクラスのドイツ語担当だった恒川さんに、その学習法について教えを乞うたのがきっかけで、大学院受験のための勉強会の指導をお願いし、夏合宿にまでつきあってもらった、ということだ。ふたりにはひとを見る眼がある、と思った。ドイツ語の教師としての力量は言うまでもない。頼まれて学生の勉強会を指導してくれる先生は多くはなかろう。誰もが忙しい。ふたりは恒川先生なら、と直観したのだと思う。恒川さんの方も、義務感から引きうけたのではないだろう。学究生活について、かれは独特の価値観をもっていたと思う。それは法学部から銀行勤務、そして学究生活へという人生行路の選択と不可分のものだ。やがて駒場を去り、津田塾大学に移り、そこも2年ほどで辞めて明治大学へと転じた。そのわけを尋ねたことはなかったが、誘われれば断らない、ということではないか、と勝手に推測した。学生の勉強会に応じたのも、同じようなノリだったかもしれない。

 

その津上君は、テクストの読み方を恒川さんから学んだ。「微細なニュアンスまで含めて,自分のものにする読み方」だ、という。このような言葉にすると、当たり前のことのように聞こえる。しかし、恒川さんのその教えが、かれのその後の研究生活の基礎となり、いまもそれを実践している、ということだから、言わば身体に染みついている。簡単に説明できるようなものではなかろう。津上君が深く記憶しているエピソードがある。それはドイツ語の単なる語句の説明にすぎない。「ダメ男」に相当する語句が出てきたとき、恒川先生はそれを「金もない、頭も悪い」と説明し、それをよく繰り返したという。このフレーズを口にするとき、恒川さんは「少し偽悪的な笑い」を浮かべ、暗に自身をそのモデルに擬するかのようだったそうで、そのことが津上君を魅了した。――大学の教師が「カネ」という単語を発することは稀ではなかろうか。経済学の専門家でさえ「カネ」とは言わないだろう。恒川さんの「カネ」は、あのアタッシュケース事件や、銀行員の道を選び、すぐにそれを放棄したことと、つながっているに相違ない。ただ、このどぎつい発言にもかかわらず、欲望は淡泊だったと思う。定年退職するとき、研究室の蔵書を処分しなければならない(いまでは、図書のためのスペースが逼迫しているので、このようにする大学が少なくない)。そこで恒川さんは、学生たちに好きなものを持っていかせ、残りを「しようがないから」引き取った。もっとも、誰も読まないテクストでも、かれが読めば豊かな世界を開くのかもしれない。

 

恒川さんは外国語を読むのが大好きで、その読みには天才的なところがあった。弟の邦夫さん(一橋大学名誉教授)はフランス語で、ヴァレリー研究の泰斗だし、お二人の父君(お名前は亡失してしまった)は、たしか、早稲田大学のフランス語の教授だった。外国語理解の血筋のようなものがあるのかもしれない。わたしがそのことを強く感じたのは、修士課程のときの読書会でのことだ。誰が言いだしたのかはもう分からないが、わたし自身だったかもしれない。当時の美学専修課程は、それまでの学風のままにドイツ語が必修で、初学者のわたしにはそれを学ぶ必要があった(その前の1年、学士入学して、大学院入試のためにドイツ語を詰め込んだだけだった)。恒川さんを巻き込み、増成隆士君(筑波大学名誉教授)、河尻彰子さん(わたしの高校の同窓生で、お茶の水女子大学を卒業して美学に学士入学していた)の4人で、無鉄砲にもハイデガーの Sein und Zeit(存在と時間)を読んだ。ハイデガーの思想はもとより、その独特のドイツ語表現も初めて出会うものだった。あとのお二人はいざ知らず、わたしに関するかぎり、恒川さんの説明を聴いて初めて、テクストの真意に触れることができる、ということの繰り返しだった。だから、恒川さんに対してわたしも津上君と同じような間柄だったわけである。

                                                 

このとき恒川さんから教えられたことのなかで、いまも重要と思っているのは、ハイデガーのテクストの多声的構造に目を開かされたことである。どの箇所について、どのようにかれが説明したかは覚えていない。しかし教えられたことの印象は鮮烈だ。そのことをここで説明したいと思う。かれの言語的センスとでも呼ぶべきものを紹介するうえで、(少なくともわたしの知る範囲で言えば)不可欠だからである。そこで、以下、少しハイデガーの思想に立ち入ることにする。この哲学者にも、またドイツ語にもなじみがない、関心がない、という方もおられよう。そのような方々にもわかっていただけるようにお話ししたいと思うので、少しお付き合い頂ければうれしい。くりかえすが、これは、恒川流の「読み」としてわたしが理解したところを紹介するものだが、以下の説明のようにことば化したのはわたしで、恒川さんがそのように話したということではない。

 

例として “das Umhafte” という語句を糸口にしよう。これは多分、どのドイツ語の辞典にも載っていない。ハイデガーの造語だ。当時のわたしは辞書と首っ引きという状態だったから、辞書に載っていない単語が出て来ると途方にくれる。この単語の意味は、「um 性」「um 的なもの」「umらしさ」「umの umたる所以」などと解することができる。“-haft” という接尾辞は、名詞や形容詞につくのが普通だが、“um” は前置詞あるいは接続詞で、この造語は並みの作りではない。初学者を呆然とさせるに十分だ。すなわちハイデガーは、この前置詞/接続詞を名詞のように扱った、ということである。前置詞や接続詞は物のような対象を指すのではなく、それらの間の関係を表わす。「um 性」を問題にするとき、かれは或る「関係」を主題としていたわけである(この関係がすなわち「世界」である)。この単語は、第1部第1篇第3章のCという部分の表題に使われていて、「um世界のum性」という語句をなしている(101.念のため原書のページ数を挙げておく)。「um世界」(Umwelt)とは常用の単語で「周囲の世界」「環境」あるいは「環境世界」を意味する。そこでこの表題を、例えば原佑・渡辺二郎訳(世界の名著。手元にはこの訳書しかない)は「環境世界の環境性」と訳している。

 

これは整合的な訳だが、もとの言葉遣いの多声性を伝えていない。翻訳は主旋律だけしか伝えることができないだろうから、当然のことではある。しかし、「um性」を「環境性」に還元してよいのだろうか。ハイデガーは「um語群」とでも呼ぶべきいくつかの単語を用い、この「um性」をそれらの意味上の核としている。“Umwelt” のほかに、“warum” (65. 原書の1か所をあげる。訳書では「なぜ」)、“Umgang” (66.「交渉」)、“Umsicht” (69.「配視」)、“Um-zu” (68.「何々するための手段である或るもの」) などである。これらのうち、多くの um は、「~のまわりの、~をめぐる」という前置詞としての意味で使われているが、“warum” や “Um-zu” は違う。“Um-zu” について言えば、これは um の目的を表わす接続詞句(“um…zu+不定詞” 英語の “in order to” に相当)としての用法を名詞化したものだ。上記の「何々するための手段である或るもの」とは道具のことだが、身の「まわり」としてのumに、この目的性としてのumを重ね合わせるところに、ハイデガーの「世界」概念の核心がある。「~のまわり」を意味する um語についても、「目的性」の含意が倍音として響いている。このハイデガー的「世界」がいかなるものであるかを理解すれば、“um” の多声性の意義に得心がゆくだろう。それを次に説明しよう(ただし、以下の説明は、恒川さんの想い出から一層逸脱している)。

 

ハイデガーが、ひととしての存在を「世界内存在 In-der-Welt-sein」と規定したことは、よく知られている。《世界のなかで生きているもの》という意味だが、この風変わりな言い回しは、岡倉天心の『茶の本』に由来する。日本の、あるいはアジアの文化の特性を説くために英語で書いたこの本のなかで天心は、道教が “the art of being in the world” と呼ばれている、と指摘している。これを日本語への訳者たちは「処世(の)術」と訳している(ただし出典は不明)。著述する立場に立って考えれば、「処世」という語句を英語にしようとして、おそらくさまざまな工夫を試みた挙句に落ち着いたのが、“being in the world” だった。『茶の本』のドイツ語訳のなかのこの語句に想を得てハイデガーは、これを核として『存在と時間』を著した。ただし、「世界内存在」は「処世」と非常に異なっている。「処世」と聞くとわれわれは「世渡り」を考える。その「世」とはひとの世であり、人間社会のことである。ひとの生きている空間のなかにある物や自然などのことは考えない。それに対してハイデガーの「世界」は、まず “um” の相のもとに捉えられる。《世界のなかで生きている人間》にとっての「世界」とは、まず、かれを包んでいる環境世界(Umwelt)であり、その「環境性」とは、um…zu=目的によって編まれた組織からなっている。すなわち、ひとに直ぐに接している世界、言いかえればひとと世界の接点は、ひとが手にもつ道具である。例えば、ハンマーはすでに金床と組み合わされ、刃物を打ち出すだろう。その刃物は食物を調理するのに使われるだろう。その食物は……、というぐあいに道具は体系をなし、世界はそのような網の目としてわれわれを包んでいる(付言すれば、世界の中でともに生きるひとの存在は、あとになって出て来る)。これは「ひとの世」とは非常に異なる「世界」である。わたしなどは、そこに産業の存在から、さらには生存のための戦闘という異文化を感じる。

 

説明はすでに、必要を超えてしまった。要は、周囲かつ目的性という “um” の両義性がハイデガーの「世界」を成り立たせている、ということである。だから、その多声的なテクストは、たえずこの「世界」の姿を描出していることになる。一例を挙げよう。“Der Umgang mit Zeug unterstellt sich der Verweisungsmannigfaltigkeit des »Um-zu«.  Die Sicht eines solchen Sichfügen ist die Umsicht.”(69) これは道具との交わりが独特の「視」の様式を形作っている、という趣旨の箇所で、um を含む語を特記しつつ訳を参照するならば、「道具との交渉(Umgang. “gang”は英語の “going”に相当)は手段性 (Um-zu) の指示の多様性に従属している。そうした適応を見抜く視が配視(Umsicht. “Sicht” は「見ること」)なのである」となっている(「手段性」は「目的性」の方がよくはないだろうか)。これらに共通する um はそれぞれ全く別の日本語に移されているが、そのすべてに原義である「身の回り、かつ目的意識」という両義性を読みとることが必要で、かつ、そうしたときこの難解な文は平明なものになる。ここは「配視」と訳された Umsicht が主題なので、それについて言えば、何かをしようという目的意識をもって周囲を見回したとき、それに適した道具がいろいろ見つけられる、そのような見回しが Umsicht である。

 

上の訳文を読みにくいと思うひとが少なくないだろう。難解で、それゆえ深遠なことを言っているはずだ、と考えるかもしれない。異言語に移したとき、“um” の二重の意味をそのまま生かすことはほぼ不可能だ。だから訳は主要な意味を生かして、他を切り捨てざるをえなくなる。しかし、そうなると、何故わざわざこのようなことを言うのか分からなくなるかもしれない。ここは 《“Umsicht” という語があるが、あれもわたしの注目している「um 語群」のひとつだ》ということを言っているにすぎない。肉声による読み合わせをしているとき、翻訳するのとは事情がちがう。自立した訳文を作る必要はない。原文を目のまえに置いて、それをにらみながら、“um” が焦点にあるのだから、“Umsicht” も um を残したまま、「um 目線」というような適当な造語を工夫してあてがえば、それでよい。この《umつながり》を指摘するとき、恒川さんはとても愉しそうだった。言葉のこの遊びの次元は、初学者には捉え難いものだが、かれには既に読む快楽の源泉となっていた。それは楽譜を演奏するようなものだ。このことが恒川さんの読みの精髄につながる。かれの天才的な言語感覚は、このような演奏の性格を本領としていた。だから、文字ではなく、声で語ることが重要だった。文字について言えば、かれは大して多くの論文を残したわけではない。わたしの読んだ範囲では普通の論文で、読書会の際の熱っぽさを感じることはできない(だから、そのかれがドイツ文学会の理事長に推挙されたのは、余程のことだったとわたしは思う。かれの読みが多くの同僚たちを感服させた結果に相違ない)。かれにとっては、外国語のテクストを楽譜として、それを読解=演奏することが何よりの快楽だった。その演奏は文字で以て「翻訳」することはできない。伊藤さんや津上君のお願いに応じて、かれらの勉強会につきあったのは、それが愉しみだったからだと思う。また、津上君が習得したのも、この演奏としての読みだったのではなかろうか。

 

音楽的な読解のためには、語句に縛られ、語句に没頭する初学者の読み方を脱し、テクストとの間に自由な言語空間を確保しなければならない。そのなかで、語句同士を響き合わせるためである。ただ、ここまで説明してきたハイデガーのテクストの構成は、かなり個性的なもので、どの書き手にも見られる、というものではない。だから、これが恒川流の読み方だ、と特定することはできない。多声性の向こうに、さらに奥がある。かれがハイデガーの言葉の遊びを捉え得たのは、筆者のスタイルをつかまえる直観力によるものに相違ない。スタイルになじんでこそ、演奏が可能になる。その読書会から40年ほど後のことだ。さきに美学課程の仲間として紹介した川路重之さんが、恒川さんを講師としてパウル・ツェランの詩を読む会を企てた。誘ってもらったので数回出席した。予め選んでおいた詩を川路さんが訳し、恒川さんがコメントを付す(演奏する)という段取りになっていた。恒川さんの説明には深い感銘を受けることが幾度もあったが、数回で断念した。わたし自身が予習しなければ十分な理解を得ることができず、その予習をする余裕がなかったからだ。わたしが垣間見たかれの読みの深さは、殆ど憑依するようにツェランのスタイルを肉化したところから生まれたものだ。当然、上記のような言語空間ということを思った。さまざまなテクストを読み、そこに見られる単語や言いまわしが恒川さんのなかで蓄積され、響き合う、そのような空間だ。かれの語感、言語感覚は、このようにして生成していったものに相違ない。

 

ツェランの会を主宰した川路さんは、後に恒川さんの罹病を知らされたとき、「恒川君のいない人生など考えられない」と洩らした、それほどの親友だった。恒川さんが明治大学を定年退職するとき、最終講義もパーティもないと知って、川路さんは、その定年を祝う(「祝う」というのは「定年」を形容する慣用語句だ)会を催した。われわれのような旧友や、同僚、教え子など100人近くが集まる盛況だった。そのときのスピーチで、かれは珍しく熱弁をふるった。珍しくというのは、それまで読書会という少人数の集まりでの言葉しか聴いたことがなかったからである。読書会は言わば内輪の室内楽だが、この夜の集まりは、コンサートだった。かれは、たしかロシア語の訳を読んでの感想を糸口に、各言語の特殊性というような話をした。すなわち、訳されていてももとの言語のたたずまいが残る、ということだ。かれは外国語のテクストを読みつつ、その言語空間を育み、言語というものの不思議に魅了されていたものと思う。

 

交友記なら、スイスの哲学者エルマー・ホーレンシュタインさんのことに触れるところだ。誘ったところ、この定年パーティにも来てくれた。しかし、交友の次第は、肖像という趣旨を外れるだろう。それでも、或る会食のことだけは書いておきたい。それは、日暮里のスイス・レストランで会ったときのことだ。ホーレンシュタインさんにとっても、わたしにとっても、これが恒川さんに会う最後となった。この日、かれは小一時間遅れてやってきた。かつてなかったことで、途中で体調が悪くなったに相違なかった。このときの会話はあまりはずまなかったが、近況として、オペラについてのレクチャーをしている、とのことだった。明治大学が運営している公開講座で、映像を見せながら説明をするものだ。かれはベルクの『ヴォツェック』が好きだったが、このときはマイヤベーヤを取り上げると言うので、ちょっと意外の感を覚えた。熱心な受講者がいるのでやめられない、と言っていたが、自身の愉しみでもあったと思う。おそらく、亡くなるまで次回の準備をしていたに相違ない。

 

帰り道、よもやま話で街の景観に話題を向けてみたが、かれは心ここにあらずだった。ホーレンシュタインさんと話していたが、何の話だったのか、ホーレンシュタインさんに訊ねたが覚えていなかった。会話とはそのようなものだろう。駅のコンコースで、わたしは2人を見送った。長身のホーレンシュタインさんを見上げるように、話すことに熱中している風だった。それがかれを見たラストショットだ。そのころわたしは、週に1度、日暮里駅のコンコースを通っていたが、そのたびにかれの後ろ姿のまぼろしを見る思いがした。

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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