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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

伊藤勝彦さん――情感の哲学者

 

 

続々と集まってくる人びとのなかに、「伊藤勝彦です」とにこやかに名乗ってくださる方がいた。姓名をそろえた名乗りが新鮮な初対面だった。1974年10月初め、埼玉大学教養学部の会議室前の廊下でのことだ。新任として紹介される最初の教授会を前にして、わたしは少し緊張していた。この人事に関して伊藤さんにもお世話になったことは聴かされていたし、『デカルトの人間像』(勁草書房)は読んでいたので、身近な存在ではあった。目の前に現れた暖かい笑顔は、その空間の緊張感を和らげてくれた。私心がなく人懐っこいその優しさが、伊藤さんそのものだ。哲学者とは近づきがたい人種、というのが一般的なイメージだとすれば、やや型破りだろうか。

 

しかし、伊藤さんはそのあたりにいる「いいひと」ではない。少人数教育のこの学部では、個人研究室を学生に開放している先生方が少なくなかったし、そこで授業も行われていた。ある時、不用意に伊藤研究室のドアを開けたところ、伊藤教授は授業中で、にこりともせず、厳しい顔つきで講義をしてらした。伊藤さんの講筵に列した人びとの多くが、かれに深い敬愛の念を懐いたが、近寄りがたさを垣間見たひともいたはずだ。

 

伊藤さんが哲学者以外の何者でもない、と思ったことがある。定例の教授会のある曜日には、学部の教師全員が出講する。その日、わたしはフランス文化の研究室でお昼をとるようにしていた。松田穣先生に霧生和夫さん、それに弁当を用意した学生たちが、この昼食会のメンバーだった(わたしは学生が登校時に買ってきてくれるのり弁だった)。それを知った伊藤さんは、わたしもとそれに加わるようになった(その豪華な愛妻弁当は注目を集めた)。こんなときの会話は、「何か変わったことはありませんか」とか、「〇〇さんが本をだしましたね」など、当たり障りのないかたちで共通の話題を探るところから始まるのではなかろうか。ところが、この昼食会は伊藤さんの独演会だった。その日、ご自身が関心をもっていた話題を切り出すと、滔々と話し続ける。主要な話題は哲学界のあれこれだった。伊藤さんはそのお人柄ゆえ、同分野の年長者たちから可愛がられていた。警戒心をもつことなく、内情を漏らしたり、愚痴をこぼしたりされたらしい。そのため、伊藤さんは情報通だった。松田先生や霧生さんがそれに関心を覚えるかどうか、学生に聞かせてよいのか、というような斟酌はなかった。そして、話が終わると、「ではまた」というような挨拶もなく、弁当箱を仕舞って、プイと部屋を出て行かれた。この独演プラス「プイ」は電話でも同じだった。かれは電話マニアで、いろいろな友人たちに電話をかけまくっていて、このことはよく知られていた(そしてひそかに迷惑がられていた)。かかってくると1時間は覚悟しなければならない。椅子を用意することが欠かせなかった。そして、お昼の会のとき以上に唐突に、プツンと通話が切られるのが常だった(わたしは、相当長い間お付き合いしたが、ある時からこの電話を遠慮することにした)。さすが哲学者、どこか違う。

 

この〈どこか違う〉その違いは、伊藤哲学のスタイルにも映し出されているように思われる。伊藤さんには20点ほどの著書があるが(わたしは数点しか読んでいない)、今回読み直したのは、『愛の思想史』(講談社学術文庫)と『天地有情の哲学――大森荘蔵と森有正』(ちくま学芸文庫)である。伊藤さんは「学説史」(この言葉も伊藤さんから教えられた)に重きを置かず、思索こそが哲学だと考えていた。その意味で、この2冊はかれの主著と言ってよい。前者は順次3社から刊行され、版を重ねた名著で、伊藤さんの思想の基調を表している。後者は晩年の力作で、その主題である「天地有情」は、愛の哲学のヴァリアントと見ることができる。すなわち、伊藤哲学は、他者の解釈を俟つまでもなく、旗色鮮明な哲学だ。

 

『天地有情の哲学』のなかに、自身の処女作『危機における人間像』(1963年、理想社)の一節が引用されている。「事物と私との間にある冷たい距離をとりさることによってのみ、周囲にある〈物〉をたんなる認識の対象としてではなく、ある情感に包まれた物として共感したり、ある使用目的にさしむけられた道具として使用したりすることが可能となるのである。ところが、もし事物を私から一定の距離をへだてて存在する、たんなる認識の対象とのみ見なし、この事物と私との距離をどこまでも保持するときには、事物と私との生ける接触が失われ、事物の現実感は次第に希薄になってくるのである」。37年前に書いた文章を引用し、現に論じている主義主張の裏付けとする、というのは相当に稀なことではなかろうか。わが身に置き換えてみると、とてもそのようなことはできない。そうしようと考えたり試みたりしたことはないが、思っただけで過去の自分の未熟さに目を覆いたくなるのではないか、と思う(それでも昔の著作に愛着がないわけではない。これはどう考えたものだろう)。伊藤さんは30代の初めにすでに成熟していて、晩年になってもその思想の根幹に揺るぎがなかった。あるいは、変化がないということは、それ以上の成熟はなかったということだ、とも言える。

 

上記の引用文は、『天地有情の哲学』において伊藤さんが行っていることと、寸分の狂いもなく重なる。批判の矛先は認識の哲学に向けられ、見る主観とその対象を隔てる距離が標的となる(ちなみにこれは現代の思潮と符合する)。それに対して積極的な主張の柱となっているのは、「情感に包まれた物との共感」であり、「道具としての使用」である。この後2者は並置されているが、両者の間には随分と温度差がある。異質なものを無理やり並べたような感じがしないでもない。情感的共感は伊藤さんの生きざまを窺わせるのに対して、道具の使用はありふれた非人称的な行為だ。道具の使用を付言したのは、まったくの推測にすぎないが、親友だった渡邊二郎さんからの耳学問でハイデッガーが念頭にあったからかと思う。それは、行動を通して世界に関わる人間のあり方を根底に置いた新しい哲学で、近代的な認識の哲学とは異なる可能性をすでに拓いていた。『天地有情の哲学』の第4章は唐突にハイデガーを論じている。大森荘蔵と森有正を主題とする著作と思って読んでいると、この章の与える違和感は小さくない。その内容は『存在と時間』の紹介で、独特の解釈があるわけではない。しかも、伊藤さんが標榜する〈根源的共同情感性〉の観点に立てば当然焦点を当てられるべき「情態性(Befindlichkeit)」の概念は、素通りされている。この遺漏は、この章が《知覚論以外の哲学がある》ということを語るためだけに置かれている、と考えるとき、不思議でなくなる。それはかれのなかで、処女作において言及しただけで済ませていた(おそらく、その時にはハイデガーを読んでいなかった)テーマを取り上げて、いわば借りを返すものだった。

 

この著作のタイトルにある「天地有情」は、大森先生が絶筆となったエッセイのなかで使っている言葉である。「簡単に云えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。其の天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が〈心の中〉にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない」。これを受けて伊藤さんは、「ぼくは感動した。大森哲学もここまで深まるにいたってきた」と書いている。その感動こそが『天地有情の哲学』の原点である。ただ「天地有情」を認知したことが大森哲学の「深まり」なのかどうか、一抹の疑念を覚えないではない。そこには伊藤さんの我田引水の気味がないとは言えない。「天地有情・自他通底の世界」と題された第1章の内容は、この導入部に続く第2節以下を見れば、《過去は命題集合か》を巡る議論であり、大森哲学の知覚論的な立場が批判の対象とされている。同じ哲学者をめぐる感動に続く批判は、読者をまごつかせる。少し説明を加えよう。《過去は命題集合だ》というのは、大森先生が生前最後に刊行された著書『時は流れず』(1996年、青土社)の主張である。――過去を想起するということを、多くのひとは過去の知覚の再現と考える。その過去の想起とは、「うまかった」とか「痛かった」という命題のかたちをとるもので、思い出したからといって「痛く」も、「うまく」もない。すなわち、想起とは知覚の再現ではなく命題的だ。――この説に伊藤さんは猛然と反論する。過去の想起が命題的だというのは一面的な見方にすぎず、情感的な記憶をもつひともいる、というのがその主張だ。この反論は必ずしもうまくいっていないと思うが(その主張の裏付けとしてかれが持ち出しているのは、誰かが書いたように装いながら実は自作の告白文のようなものである。フィクションの活用をいとわないこの流儀については、あとでとりあげる)、ここでは2つのことを指摘しておきたい。まず、これは大森哲学を論じたものとは言えない。伊藤さんの言うように、「天地有情の哲学」と「過去=命題集合論」が矛盾する考え方であるのならば(伊藤さんの議論の運びから、読者は誰でもそう理解すると思う)、両者の関係を問わなくてはなるまい。『時は流れず』は1996年8月の刊行で、「天地有情」を語ったエッセイは同じ年の11月の新聞に掲載されている。少なくとも連続性があるはずだ。すると、大森先生はその哲学的人生の最後に、大きく宗旨替えをされたのか(この場合、2つの著作はつながらず、その間に断絶があることになる)、あるいはこれら2つのテーゼが矛盾するのは、一読した時の印象にすぎず、実は整合的につながっているか、である。わたし自身はこの議論に立ち入る用意はない。ただ、「天地有情」と認めたところで、その「情」が命題的だと主張する余地は残されていると思うし、また「情」は現在的で想起は命題的という見方もなりたつ。大森説はこの後者の立場のではなかろうか(現在は「知覚」的で、「うまい」「痛い」は実感されるが、想起される過去は単に命題的となる。これはヒューム的概念のヴァリエーションだが、この原知覚は「有情」であることを全く妨げない)。伊藤さんはこのことを認めたうえで、過去命題説を批判されたのであろうか。しかし、伊藤さんが「知覚の哲学」を批判の標的とするのは、それが現在の情感性を認めないからであって(すなわち命題的であって、上記の原知覚とは異なる)、過去の想起は派生的な問題にすぎない。伊藤さんが知覚の哲学を批判の標的とするのは、伊藤ワールドの要請であり、それでも派生的であるはずの過去の想起を論ずるのは、大森―森を接合させるスキームによるものだった。

 

「あとがき」のなかで伊藤さんはつぎのように書いている。「ぼくは時間論という観点において、この二人の思想を対比させてみた。しかし、天地有情という考え方は期せずしてお二人に共通していた」。しかし、『天地有情の哲学』はそのように整った著作ではない。ハイデガーの章が、大森にも森にもほとんど無縁のものであることは、すでに指摘した。だが、これが刊行され、恵送していただいたものを一読したとき、わたしは感動して絶賛した。何に感心したのか、正確には思い出せない。この20年の間に、わたしはよくも悪くも老成した。かつて見えなかったところを見るようになった。その分、読み方は意地悪くなっている。伊藤さんは、天地有情が大森、森の両者に共通していると言うが、かなり手前味噌だ。大森先生はそう書いておられるから、それは間違いない。ただ、伊藤さんはその意味を問うていない(問う必要がないことと思われたに相違ないが、はたしてそうだろうか。言い換えれば、お二人の考えていたことは同じだろうか)。森先生の方は、そのようなことを言ってはいない。世界と一体化する経験があり、それを語っているだけだ。「天地有情」とは、世界のあり方についての哲学的立言だが、森の文章はどこまでもエゴチストのもので、内省的という以上に、心情を吐露したものだ。南仏の星空のもとで、草のうえに寝転んだ。「星空は容赦なく下りて来てぼくを包んだ。それは祈りと呼ぶには余りに透明であった。そして非情だった。〔……〕ぼくは死を想った。死は生涯の果てにあるのではなく、ひとつの存在が、存在そのものに純化された時、いつもそこにあるのだ」。この非情な天地は有情ではない。しかし、それと言わば一体化した森の経験は情感にあふれている。その文章は、『若きウェルテルの悩み』のような、一人称による「告白」を思わせる。そのエッセイが爆発的な人気を博したことがあった。そのころ、知的な日本人の多くがロマンティストだった、ということだろう。それは、何故かは分からないが、恐ろしい毒を含んでいるように感じられる。どこか魅了される自分がいて、しかも同調しがたい思いがある。そして、本気でこのような思索に耽溺するひとには、ただ畏れを覚える。伊藤さんはどうしたのか。純粋に共感したように思われる。森は、この星空経験に続けて、その不安をはらんだ存在の感覚が自身の幼児において既にあったことを語り、伊藤さんは「過去」というテーマにこれをつなげている。

 

伊藤さんにとって過去は、大森が主張するような言語的制作物ではなく、行為の場面において「反復強迫」として「現在に襲い」かかってくる力である。しかし、それを裏付ける事実として伊藤さんが挙げているのは、二度とも失敗に終わった森先生の結婚と、《恵まれない後輩を案じて就職の世話をするが、裏切られる》というご自身の経験である。前者は、この本に紹介されているかぎりでは、そもそも同じ失敗のようには思われない。後者は確かにそのような経験を何度かなさったのだろう。そういう目に会いたくないということを漏らされたこともある。唐突な言葉だったので、記憶に残っている(念のために断っておくが、就職の際に世話をしたのに、あとからどこかで裏切られるのではないかと恐れた、という相手はわたしではない)。それは伊藤さんのトラウマだった。しかし、過去が襲いかかったというようなものではなく、限りないかれのやさしさが、失敗に懲りることなく同じ経験を繰り返している、と見るべきものだろう。ただひとつ、森有正という存在についての解釈だけが、伊藤さんの「過去」概念を支えている。確かにそれは命題的な想起ではない。

 

森有正と「過去」との連関を、なるほどと理解していただくには、伊藤さんのこの第5章を読んでいただくほかはない。森の思考回路が極めて個性的で、実感しないかぎり理解しがたいからだ。それでも、こうとだけ言って済ますわけにもいくまいから、敢えて概略を記してみよう。――このストーリー全体の礎石として、森の次の言葉を挙げることができる。「感覚は観念のように人からかりてくることができない。感覚はすなわちいつでも自分の感覚である。そこではすべての人がそれによって生きている。理性と感情はその基礎の上に成長する」。わたしの乏しい知識の限りでは、このように考えた哲学者はほかにいない。一般に「感覚」は、伊藤さんが批判の標的とする「知覚の哲学」を典型として、非人称的で客観的な性格のものと見られている。それに対して、森の言う「感覚」は根本的根源的に個人的個性的である。その感覚に立脚する感情はもとより、理性もまた、個性的ということになるだろう(「価値観」〔それが「理性」の根幹である〕がひとさまざまだ、という事実がある)。ひとはその幼年期において、特に鋭く感応する「感性帯」を作り上げ、それがそのひとの経験の「調性(トナリテ)」を規定する。森は幼児期に過ごした家の窓から、遠くに見た1本の樫の木に「彼方にあるものの象徴」という意味合いを認め、そこから遠くへと出てゆくのは、そこへ帰るためだ、と書いている。東大の助教授だったとき、かれはいやいやパリに留学し、当初の意に反してそこに居ついたまま帰らなかった。「パリは人の感覚を目ざめさせる場所」であり、新しい感覚を得て「今あるものを破壊して先に進もうとする意志、凶暴な意欲」が、かれをパリにくぎづけにした。伊藤さんは、それが幼児期の鋭く新鮮な感覚をとりもどすこと、いいかえれば過去を回復することだったと解し、そこに森が完成を間近にしていたパスカル研究の博士論文を完成させなかった理由を見ている。新しい感覚経験をことばで表現することが、森のパリでの新しい課題になり、パスカル研究から遠ざかった、というのはその通りであろう。しかし、それが幼少期への回帰である、という点はよく分からない。そのような不明点を残しながら、この第5章は深い共感にあふれ、伊藤さんの著作のなかでとびぬけて熱く、感動的な文章である。

 

ここで、わたしの恣意的な思いへの脱線をお許し頂こう。このように情感的な過去を強調するのは、伊藤さん自身の過去に根差したことではないか。更に想像を巡らすなら、伊藤さんは情感の、あるいはやさしさの雰囲気に包まれて育った。その結果、かれにとっての世界は情感的なものであり、それがかれの哲学の一貫した、変わることのない基調となるほどのものだった。その世界観が自身の「過去」に由来するものであることを、伊藤さんもうすうす自覚してらしたかもしれない。かれが森有正のなかにみた《始原的な過去への回帰の願望》は、実はかれ自身のものだったのではないか。パリにおいて森が経験した恐ろしいほどの孤独感への共感は、そこに由来する。やさしさを欲するひとは、さびしがり屋だ。伊藤さんは、自らを主役とするパーティが好きだった。わたしが最初に参加したのは、伊藤さんが埼玉大学から東京女子大学へと移られるとき、浦和で開かれたお別れ会だ。埼大の教え子も同僚たちも、別れを惜しんだ。にぎやかな会だった。このとき、雛子夫人は、桜の花をあしらったピンクの振袖姿ではなを添えた。年齢にそぐわぬいでたちだが、それがよく似合う美女だった。このあとも、何度かパーティがあった。

 

伊藤哲学に戻ろう。『愛の思想史』の方は、著作としての完成度はずっと高い。しかし、それを細かく紹介するのは、もはや不要のように思う。ここまで『天地有情の哲学』について書いてきたことを外れるところはあまりない。それは、「根源的共同情感性」の哲学の基礎をなす心身論である。伊藤さんは「身体」ではなく「性」を主題としているが、それは「性」においてこそ、人とひとを結びつける契機がはっきり見えるからである。「精神と性というのは同一の生命エネルギーが正反対の方向に発現すること」であり、「性的衝動は結合を求めるエネルギーである。精神的志向は分離をめざすエネルギーである」と言う。『天地有情の哲学』においても、《事実においてはじめから主客未分化》と言う大森の言葉に対し、それを認めつつ、主客分離がなければ学問は成り立たないことを指摘している(大森先生が主客分離の見方を強烈に維持していたことを、伊藤さんは付言すべきだった)。だからこのバランスの重要性を伊藤さんは認識していた。しかし、「情感性はもともと共同的なもの」とする伊藤さんの思想も思索も、圧倒的に「結合」の方向に傾いており、精神=分離の思想への批判が全篇を支配している。さらに、次の言葉に注目しよう。「人間精神はつねにコスモスから、大地から離反しようとする。しかし、個人のエゴは大いなる全体の一部であって、孤立せる精神とは、単なる一場の迷夢にすぎない」。これはⅮ・H・ロレンスの一節を引用してその趣旨をパラフレーズしたものだが、『天地有情の哲学』のテーゼはこの一文の延長上にある。処女作から変わらぬ主張ということは既に指摘したところだが、ここにもそれが見られる。一言で総括するなら、哲学者伊藤勝彦は、哲学の同僚たちを相手に闘う愛の使徒だった。

 

精神を偏重する哲学に対する批判的スタンスは、パスカルへの共感に端を発しているらしい。伊藤さんは三木清のパスカル論に刺戟されたことを語っている。その「中間者」の概念が伊藤哲学の基調につながっている。人間は天使のような純粋精神でもなく、獣でもない、その中間者だ、という考えである。「人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使になろうとすると、獣になってしまう」(『パンセ』断章678、塩川徹也訳)。これが伊藤哲学の基調をなしている、と言ってよい。ただ、その著『パスカル』(講談社《人類の知的遺産》)にこの断章は挙げられていない(それがモンテーニュ由来のことばであるためかもしれない)。その「まえがき」は三木の『パスカルにおける人間の研究』との出会いから始まり、ご自身のパスカルとのかかわりの来歴を語っている。その半分以上は森有正のパスカル研究、森そのひとから受けた薫陶に充てられている。これら2つの話題の中間に、パスカルを主題として卒業論文を書くことによって、関心が決定的なものになったというくだりが置かれている。それはひと夏、軽井沢の別荘を借り、「マサエ」という女子学生と暮らしたという話である。プライヴァシーを覗き見たような困惑を感じた。雛子夫人の顔が脳裏に浮かび、こんなことを書いて大丈夫なのか、とも思った。それを察せられた伊藤さんは、「もちろんフィクションだよ」と言われて、啞然とした。フィクションとして読んでもらえないかもしれないという不安が、既にあったのだろう。事実、それをフィクションとして読むことは不可能だ。まえがきはフィクションの場所ではない。しかも、三木のパスカル論との出会いに続けて、パスカルへの本格的な関心が大学4年のときのことだったとして、この「フィクション」が置かれている。この流れでは、ここは実話でなければ意味がない。敢えてフィクションを挿入したことの意味が、いまもわたしには分からない(「マサエ」と過ごした日々の要点は、毎日リルケの詩を1篇ずつ読んだ、ということだ。パスカルとリルケは通じるところがある、ということを言いたかったのだろうか)。

 

このような「うわの空」は伊藤さんの核心にあった、著作だけでなくひととしての伊藤さんにも。目覚ましいのは、渡邊二郎さんをしのぶ会におけるスピーチである。おふたりは学生時代からの親友同士だったから、この集まりの締めくくりとして伊藤さんが指名されたのは、当然のことだった。ことばは短く切り上げて、「〈じろう〉の歌をうたいます」と言って歌い始めた。故人をうたった歌があるのかと期待していると、〈じろう〉はじろうでも、イヴェット・ジローのヒット曲(多分「さくらんぼうとりんごの木」)だった。しのぶ会に歌は合わない。祝いの席なら参会者も手拍子で唱和するだろう。しかし、故人をしのぶ会の空気はちがう。当然、一座は凍り付いた。気まずい沈黙のなかで、伊藤さんは独唱した。とても長かったに相違ない。帰りに、岩田靖夫さんと喫茶店に行かれたが、わたしも誘ってくださった。伊藤さんは「みんなどうしてジョークを分かってくれないのか」としょげ返っていた。分かっていないのは伊藤さんの方だ。

 

うわの空とは言えない。しかし、現実感を喪った、そして愛情にあふれる出来事があって、忘れられない。雛子夫人が癌をわずらった。重度のものだった。伊藤さんから2~3度、電話がかかってきた。かれは手術を含む普通の治療法では助けられないことを、理解していた。そこで超自然の医学に頼ろうとした。たしか東南アジアから来た魔術師のような施術者のことに心酔していた。というより、文字通りわらをもすがる心持ちだったのだと思う。この人物は手をお腹につっこみ、患部だけをきれいに取り去ることができる。あとは残らず、出血もない、ということを伊藤さんは話しつづけた、わたしを説得するかのように。明日、その施術が行われ、そうすればすぐに快癒する、と言っていた。病院の医師は了承しているのか、と訊ねると、自由にしてよいと言われている、とのことだった。この件に関する電話はこれが最後で、まもなく雛子さんは亡くなられた。葬儀に伺うと、伊藤さんは平静を取り戻していて、魔術師のことはなかったかのようだった。あれはリアルにそう考えてらしたのか、それとも空想におぼれていらしたのだろうか。想像力の世界と現実の切ないほどの混淆が、伊藤さんご自身とその哲学の根底にある彩りだった。

 

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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