二宮敬先生――強靭なるはにかみ
ご紹介が必要だろうか。知的分野に関心をお持ちの方なら、知らないということはあるまい。しかし、誰もが聞いたことのあるお名前ではないかもしれない。この肖像をたまたま覗いてくださったがご存じない、ということがないでもなかろう。そこでまず、人名辞典風にご紹介しよう。東京大学のフランス語フランス文学の教授としてフランス・ルネサンス期の文学の研究教育に専心された。その中心的な研究対象はラブレーであり、エラスムスである(エラスムスはフランス人ではないし、フランス語で著作したわけでもない。しかし、エラスムス抜きのラブレー研究はありえない〔もちろん、これは二宮先生から学んだことだ〕。とすれば、フランス文学、英文学などと近代的な国別に文学活動を区切ることの方に無理がある)。ラブレーとの出会いは渡辺一夫のエッセイを機縁とするもので、二宮先生はその高弟だった(大学における教師と学生の関係を師弟として捉えることに、わたしは違和感を覚えるが、渡辺‐二宮のケースはそうとしか呼べない。二宮先生は渡辺先生に対して、純潔な敬慕の念を懐きつづけた)。『渡辺一夫著作集』(筑摩書房)は先生と大江健三郎との編集である。そのほか、『大航海時代叢書 第Ⅱ期』『17・18世紀大旅行記叢書』(岩波書店)の編集委員を務められたことも、先生の学問を知るうえで重要な事実だ。
昭和38(1963)年、わたしは東京大学で駒場(教養学部)から本郷(文学部)に進学した。フランス文学を専攻しようと考えていたが、それはフランスの演劇にかぶれていたからだ。二宮先生は若手の助教授(今なら准教授)でらした。新参の学生は文字通り入門するような立場だから、先生方はずっと昔からそこにおられたように思いがちだ。しかし、いま、この肖像を書くべく調べてみると、なんと先生はわたしどもと同時に着任されたところだった(言い換えれば、昨日までは、そこに渡辺一夫先生がおられた、ということだ)。なぜかこの発見に、わたしは新鮮な感動を覚えた。
35歳の助教授は、当時の文学部の先生方のなかでは、ひときわ若い。その若々しさの印象は、終生変わらなかった。小柄であることもその印象を強めた。服装に関してはやや異端だった、と言えようか。おしゃれでらしたことは間違いない。学部長在任中はネクタイを着用されたが、それを苦痛と感じておられた。眼に残る印象では、タートルネックの薄手のセーターにジャケットを愛用され、どちらもその色合いが瀟洒だった。若年の日、戦禍を生き抜くために「海軍の学校」(経理学校だそうだ)に入られた、ということだが、その選択の一因は制服のデザインだったかもしれない(海軍士官の制服のかっこよさは周知のところだ)。復員後、アテネ・フランセに通い始めたときは、「海軍の蛇腹の制服に白手袋、二重まわしを改造した黒マントという、いま考えれば珍妙だが、当時の主観からすれば相当にいきないでたち」(『フランス・ルネサンスの世界』543. 以下引用に際して書名を省く)だったそうだから、おしゃれであることは間違いない。この通学の道すがら、渡辺一夫のエッセイ集と出会ったのだが、フランス・ルネサンスへの専心は、服装の趣味まで洗練させてしまったらしい。上記のように装いは抑制基調となった。
忘れずに付言しておきたい、シガレットが先生の「動くアクセサリー」だった(こんなキャッチコピーがあったように思う)。どこへいらっしゃるにもピー缶(丸い缶に入って密封された両切りのピースで、香りが抜けていないとされた)を手放されない、ヘビースモーカーだった。それが先生の命を縮めたのではないか、といまもわたしは思っている。ただ、享年74歳は奇しくも渡辺一夫先生と同じで、満足しておられたかもしれない。
先生の抑制された瀟洒な装いは、そのはにかみとつながっている。先生のはにかみぶりは、なにより学問における度を越した謙遜さとして現れる。例えば、ご自身を「いんちき教師」(533)と評される。また、卒業論文の一部を取り出して学会発表された論考について「学問の真似事みたいなこの文章」(346)と紹介されている。これは、『パンタグリュエル』第8章にある有名な文章、すなわちパリ留学中の息子パンタグリュエルに宛てて父のガルガンチュアが送った教育論を対象とし、そのなかの「霊魂」「死」についての諸家の解釈を批判して、自説を提出したものである。「諸家」とは、ラブレー研究の泰斗アベル・ルフラン、ルネサンス史の大家で先生が深く尊敬してらしたリュシアン・フェーヴル、そして中世哲学研究の権威エチエンヌ・ジルソンらである。若さゆえの気負いはある。気負いはあっても、普通に歯の立つ相手ではない。具体的な論点を挙げてこれらの大家の説の批判に及ぶことができたのは、わたしなどから見ると恐るべきことだ。その批判の核心にある精神は、「テクストに現れる mort〔死〕或いは mourir〔死ぬ〕という言葉を、ためらうことなく現代的意味に取っているが、そうして良いという根拠はテクストの何処にも見当たらない」(337)の一文に集約される。この歴史意識は先生の学問の中核にあり、初期の論考により鮮明だ(航海記への関心も、その延長上にある)。この〈違いの感覚〉はラブレー自身のテクストにも適用される。新作を出さない「沈黙」の間にも、ラブレーは既刊本の「増補・訂正・削除」に務めており、その「異本文の検討」が、「ラブレーの成長の跡をなまなましく伝えてくれるし、〔……〕新しく獲得した精神の権威と批判の自由を守りぬこうとするルネサンス人の苦渋をも明らかにしてくれる」(327)。ヴァリアント研究の重要性は渡辺先生の教えだったようだが、二宮先生はそれを厳密に実践された。この「パンタグリュエルの一節」が考察の対象としているのは、初版時(1532)のラブレーの思想である。ところが流通している印刷本はどれも1542年版に拠っている(345)。そこで先生は、その一本を「つぶして」初版本を復元された。どのようにされたのかは詳らかでないが、おそらく、後の加筆部分を黒塗りし、削除された部分は手書きで挿入されたのではないか、と思う。「検索の便宜が整った現在、そんな愚かなことをする者はいないだろう」とは、1999年の述懐である(1950年代の当時、洋書はいまの想像を絶して高価だった)。しかし、ちょっと違うのではないか、と思う。検索が問題なら、刊本記載のヴァリアントを拾ってゆけば済む。わざわざ初版本を復元されたのは、それを通読されるつもりがあってのことに相違ない。「霊魂 âme」という用例箇所を拾い読みするのと、その版を通読してそこに出てくるこの語の含意を考えるのは、まったく異なる研究態度で、両者の間には気の遠くなるような隔たりがある。それを「愚かなこと」とされるのは、はにかみの精神以外のなにものでもない。それが過剰である部分にさえ、わたしなどは簡単に騙されてしまい、いま、汗顔の思いにさいなまれる。
先生のはにかみは、後進のリクルートメントにおいて、逆説的な言辞となって現れる。優秀な学生には仏文に来てほしいのに、そうではないようなそぶりをされる。塩川徹也さんが駒場の教養学科の学生だったとき、二宮先生は出講授業でモンテーニュを読まれた。受講者は塩川さんひとりで、対面授業が1学期間続いた。口では「君がいなければ来なくて済むのだが」というようなことをおっしゃりながら、この秀才相手の講義を愉しまれた。学年末には、かれを自宅に招いて打ち上げを催し、フサ夫人を交えて昼から始まったその宴は夜分に及んだ。その際、卒業後の進路を尋ねられ、仏文の大学院への進学を考えているとの答えを得て、先生は「困ったような笑みを浮かべながら、〈それだけはおよしなさい〉と言われた」そうだ(以上、塩川さんによる)。もちろん、「それはとてもうれしい」という意味だ。逆の「それは残念だ」ヴァージョンもある。国文学者で、江戸文学、特に上田秋成の研究者として著名な長島弘明さんは、当初フランス文学を学んだが、四年次に国文へと転向された。そのことを報告された長島さんに、二宮先生は「それはよかった」と大変喜ばれたそうだ。自分はそんなお荷物だったのか、と長島さんがめげられたのは当然だろう。後年、先生は「それはあなたのためによかったという意味だ」と説明された(長島さんによる)。これはナイーヴな照れ隠しで、本意が「それは残念だ」という意味であることは、距離をおいて見るものの目には明らかだ。
二宮敬のはにかみについて、さらにもうひとつ、紹介したいことがある。先生の唯一の単著『フランス・ルネサンスの世界』(筑摩書房、2000年)は、密かに夫人のフサ先生に献呈されている、その流儀である。本を開くと、先ず、厚手の紙に書名、著者名、出版社名などを記したページが出てくる。これは扉と呼ばれる。そのあとにまえがき、目次がつづく。目次構成が数章ずつをくくる「部」で区切られている場合、その部のタイトルを記したページがそのあとに来る。これが中扉である。『フランス・ルネサンスの世界』の場合、中扉のまえに、もう一度、書名「フランス・ルネサンスの世界」と大書したページが置かれている。敢えて呼ぶなら、これも中扉かもしれないが、類例はないだろう。なぜこのページが置かれているのか。そのわけは、そのページの裏面(ふつう、誰もそこは見ない)にある。そこには「最愛の妻に」という献辞が、しかもラテン語で記されている。
ここで止めても、先生のお姿はそれなりに見えるように思うが、もう少し筆を加えたい。わたしにとっては、ここからが本篇である。
先生と最後にお目にかかったのは、井上究一郎先生のお通夜の席でのことだった(1999年1月)。わたしは井上先生に仲人を務めていただいた(今道先生からのご依頼による)ので、ヒロコとともにうかがった。深くフランス文化に傾倒してらした井上先生の葬儀が仏式であることに、小さな違和感を覚えた。焼香をし、精進落としの席に導かれると、そこは畳敷きの部屋で、中央に二宮先生を囲む一団があった。先生はカジュアルな装いだった。わたしどもの姿を認めると、先生は大きく手を振って呼び寄せてくださった。周りには10人ほどの女性と数人の男性がいらした。フランス文学の研究者たちで、井上先生、二宮先生のお弟子さんたちと見受けられたが、わたしはどなたとも面識がなかった。その一座の方々に、二宮先生はわたしを「仏文の卒業生だが、哲学の先生になっちゃった」と紹介された。そこで、たまたま隣り合わせに座った吉川一義さんと歓談した。わたしにとっては狷介で、ちょっと煙たい感じのあった井上先生が、専門を同じくする若手に対して、親密に接し、指導しておられたことを知り、新鮮な感銘を受けた。ヒロコは二宮先生と歓談したのだろうか。わたしは先生と特に会話することなく辞去してしまった。これが最後の機会になろうとは、夢にも思わなかった。翌日の告別式にも、わたしどもは伺ったが、二宮先生のお姿はなかった。黒ネクタイを締め礼服をお召しになるのがいやだったもの、とわたしは確信した。
この日の、手を振って招き寄せて下さったお姿が、目に焼き付いている。周囲の方々へわたしを紹介してくださった言葉とともに、二宮先生にとってわたしが何者だったかが像化されているような気がするからだ。略言すれば、他家へ養子に出したできのわるい三男坊、といったところだろうか。仏文の若手に対しては何らかの緊張感を懐いておられたと思うが、わたしに対しては或る気安さを感じておられたように思う。書いてよいのかためらうところもあるが、半世紀近くまえのことだ、よしとしよう。わたしの昇格人事のとき、投票結果の内容をもらしてくださったこともあった(暗黙の禁則のようなものがあって、わたしもどなたかにそれを洩らしたことはない)。また、お昼にさそってくださったときに、普段は表に出されない思いを吐露されたこともある。先生の示してくださった親近感に対して、わたしも深い敬慕の念を懐いていたが、先生の学問を真に理解してはいなかった。そのことを、いま、痛切に思う。
井上先生の葬儀の際、渡辺守章さん夫妻からの生花が飾られていた(わたしどもも、もちろん、供花した)。その守章さんから、「本郷には、二宮さんと塩川君という、文学じゃないひとが二人いる」、と言われたことがある*。かれが「文学」と見なしていたのが、「文藝」であり、「純文学」であることははっきりしている。かつてはわたしも、同じように思っていた。多分、フランス・ルネサンス文学の基本的な参考書をお訊ねしたのではなかろうか。リュシアン・フェーヴルを推奨され、何だ、歴史学者ではないか、と拍子抜けしたことがある。ただ、二宮先生がご自身のお仕事を、守章流「文学」と連続的に捉えてらしたことは、間違いない。わたしは先生の授業に1コマしか参加していない。それは、バルベー・ドールヴィイの講読だった。この作家についてわたしは何も知らなかった。先生ご自身、このひとの名の末尾を「…ヴィイ」と発音するのは日本でわたしだけだ、と豪語(?)してらした(一般には「…ヴィリー」と表記されていた)。いまでもよほどマニアックな読者でなければ、この小説家の名を知るひとはあるまい、と書こうとして、念のため検索してみると、驚くほどの数の翻訳があることを知り、驚嘆してしまった。ひとは何を考えているのだろう。わたしにとってその作品は二流以下、作者は文学史に名をとどめるようなひとではない(ちなみに、渡辺・塩川共編著『フランスの文学』のなかの当該章は田村毅さんの担当だが、バルベー・ドールヴィイの名は出てこない)。二宮先生は何を思ってこれを取り上げられたのだろう。『フランス・ルネサンスの世界』のなかに、学生時代、渡辺一夫先生の演習でバルベー・ドールヴィイを読んだという一節が出て来て(492)、驚かされた。二宮先生は渡辺先生の仕事の跡を辿ろうとされたのだろうか(少なくとも読むテクストは違っていた。渡辺先生の『緋色のカーテン』に対して、二宮先生は『魔性の女たち』だが、このタイトルは先生のはにかみと不協和に響きあう)。
- * 渡辺守章さんとは、二三度、お会いしたことがあるが、言わば業務上の会談だった。この発言もそのような脈絡でのものだ。渡辺さんは、高橋康成さんらとともに、教養学部のなかの専門コースとして「相関藝術論」を作りたい、と考えてらした。どこの大学にもあるようだが、同じ専攻を他の学部では作らない、という内規のようなものがあり、既に存在した「美学藝術学」に対して、この呼称を認めてくれ、という趣旨での面談だった。最初は今道友信先生が応対されたが、先生の退官後はわたしが呼び出された(もともと単に「美学」科だったところに、「藝術学」を付け加えたのは今道先生だった)。結局、「相関藝術論」を企画しておられた方々はこの名称を断念し、「表象文化論」を作られた(これはよい選択だったように見える)。ここに引いた言葉は、そのような会談のなかでのものである。「文学じゃない」発言で渡辺さんが何をおっしゃろうとしていたのか、覚えていない。しかし、その発言の内容は「文学」とは何か、に関する問いを正面から提起するものだったから、言葉として記憶に刻まれた。――守章さんと、わたしは個人的に打ち解けることはなかったが、クローデル、ラシーヌ、マラルメなどの訳書をいただき、演出されたジュネや『シラノ』の舞台を見せていただいた。ふかく尊敬に値するお仕事だった、と思う。――ちなみに、渡辺さんは放送大学で、塩川さんと共編著でフランス文学の教科書を書いておられる(『フランスの文学――17世紀から現代まで』 1998年)。この本の頃になると、考え方が変わっていたのかもしれない。その第15章は「思想と文学」と題され、フーコーを含む思想家たちが取り上げられ、「文章の技藝」としての「文学が拡散」し、文学が存在し得なくなった状況を語っている。それでもなお、これらの思想家が「恐るべき文章家」であったことが強調されている。しかし、それが「文学」の常態なのではなかろうか。ちなみに、「文学じゃない」はずの塩川徹也さんは、パスカル研究の世界的泰斗だが、ここで「古典主義時代の小説」を論じ、『アストレ』、『クレーヴの奥方』、『マノン・レスコー』、『危険な関係』を取り上げている。
二宮先生のなかの「純文学」的な面について、書いておきたいことが、まだある。先ず、『フランス・ルネサンスの世界』の書き出しは、比類なく文学的だ。すなわち、この本のはじまりは、1485年、眠っているかのように微笑みを浮かべた姿で発掘された、金髪で雪肌の古代の美少女ユーリアの話だ。このエピソードは美しく「再生」としてのルネサンスを描き出している(ちなみにこれはブルクハルトからの引用だが、フランス文学者の参照文献としては珍しいのではあるまいか)。これだけではない。「単語の目鼻立ちや体臭」(471. 「体臭」という比喩に注目)をつかもうとする精神が、先生ご自身の文章、訳文にみなぎっている。文中の引用に際しては、ラブレーは渡辺一夫訳を、ロンサールは井上究一郎訳を使っておられるが、ご自身の訳もある。それが「文学的」に見事だ。たとえば、ラブレーの死後、かれを酔漢として描いたロンサールの一篇(590. 井上訳はない)や、綱屋小町こと女流詩人ルイーズ・ラベを揶揄した戯れうた(464)を一読されるのがよい(ラベについてのこのエッセイにはフェミニスト二宮敬の面影が映されている)。そもそも、明晰で無駄がなく、引き締まったその文体は、フランス文学者のものだ。古典主義期に創られた文章美学を具現している。二宮先生の文学性についてもうひとつ。これは相当にわたし個人の思い出の色彩が強いが、ピエール・ガスカールをめぐってのものである。留学から帰ったあと、井上先生の推挽を得て、武蔵大学で非常勤講師としてフランス語を担当したことがある。その際、一度だけ上級の読本を読むクラスを割り当てられた、多分、そのときのことだ。二宮先生が制作されたガスカールの短篇の教科書版があるのを見つけて、それを講読した。大量に送られてきていた教科書見本をすべて処分してしまったので、残念ながらタイトルも分からないが、文章の美しさに感銘を受けた。今回調べてみると、先生には、なんと、渡辺一夫・佐藤朔との共訳になるガスカールの訳書があることを知った(岩波文庫)。渡辺先生のイニシアティブによるものかと思われるが、それを含めて興味をそそられたが、まだ読んでいない。
「あゝ、そうかもしれませんね」。このように応じて下さったことが2度ある。1度目は先生の東大在職中のことで、多分本を借りに研究室を訪ねたところ、先生がいらした、ということだったかと思う。さらに「多分」を重ねることになるが、その時に借りた本に関係してのことだったのだろう。トマ・セビエ(Thomas Sébillet)に話しが及んだ。当時、わたしはボワローの『詩学』を主たる研究対象としており、ボワローに先行した詩学をも参照していた。セビエには『フランス詩学 L’Art poétique franҫois』(1548)という著作がある。詳細は忘れてしまったが、同時期の別の文献にこの文人のことが挙げられ、その名が Sebillet ではなく Sebilet とLが一つで記されているのに出会っていた。Lが2つなら「セビエ」だが、1つなら「セビレ」だ。そこで、このひとの名は「セビレ」だったのではないでしょうか、とお伺いをたてると、そのお答えが「あゝ、そうかもしれませんね」だった*。
- * 今思えば、わたしの異説は単純すぎるものだった。16世紀には、フランス語の綴字法が確立していなかった。そこではSebiletと書いて「セビエ」と発音していた、という可能性もありえたからである。これを突き止めることは、思いのほか難しそうだ。発声されていた語音は、文字によってしか表記されないからである。『フランス・ルネサンスの世界』には、1回だけセビエへの言及があり、「トマ・セビエ」と表記されている(108)。ただし、この論考が書かれたのは、わたしが愚説を持ち出したときより前のことと思われる。ちなみに、セビエの名のEの字にはアクセント記号がついている。フランス語においてアクセント記号の使用が確立するのがいつなのか、詳らかにしない。『フランス・ルネサンスの世界』には、「Cセディーユ」(アオウの前でもCをカ行ではなくサ行で読ませるために、Cの下につけるヒゲ)の発明についての言及はあるが(490)、アクサンの歴史についての記述はないようだ。
「あゝ、そうかもしれませんね」を、わたしはもう1度聴いた。お宅に招いて頂いたときのことだ。この訪問は忘れがたいもので、かつ、この肖像のなかで、これを語る機会はほかにありそうもないので、いま書いておきたい。少しだけ本題から逸れる。何をお考えになったのだろう、お招きいただいた。(ご夫妻は二人して、〈わたしは勤めを辞める、あなたはやめないで〉、という睦言のエール交換をしてらしたから、1993年ごろのことかと思う。先生はその翌年にフェリス女学院大学の定年をひかえてらした)。フサ夫人は、ヒロコにとって、東京女子大におけるクラス担任で、憧れの先生だったことを、わたしは知っていたから、二重にうれしいお招きだった。それまでお目にかかる機会はなかったものの、フサ先生をわたしも身近に感じていた。ラ・ロシュフコーの訳書(岩波文庫)を頂いていたし、更にそれ以前に、『ふらんす手帖』があった。これは、女性のフランス文学者たちが編集、刊行されていた研究誌で、その名称に加えて、六隅許六(=渡辺一夫)の表紙デザインも瀟洒だった。いつからか、わたしはこの雑誌の恵送に与っていた。何故かをあまり考えなかったが、いま、フサ先生のご配慮だったのかと思い到る(わたしが紀要に書いたボワローの注解3回分の抜き刷りを敬先生にお送りし、17世紀の専門家であるフサ先生のお目に留まった、というのがありそうな経路だ)。お訪ねしたこの日、道が分かりにくいからと、敬先生は途中まで迎えにきてくださった。わたしどもは非常な歓待を受けた。大鉢のお寿司に加え、先生お手製になる牛タンの味噌漬けが出された。これは渡辺一夫先生直伝のレシピで、味噌につけられた状態のタンを見せて頂いた。数日前から準備してくださったに相違ない。わたしが十分に感謝を表現できたのか、いま不安を覚える。『ふらんす手帖』のお礼を申し上げなかったことは、間違いない。こういうときに、わたしはいつも至らない。
無遠慮な甘えであったに相違ない。この日の歓談のなかで、わたしは先生に、「ユマニスムは普遍性の思想を広めすぎたのではないか」という趣旨のことを、申し上げた。その答えが「あゝ、そうかもしれませんね」だった。わたしは、西洋文化に対する憧れとともに、こころの底に残る違和感への意識が強くなり始めていた。しかし、「戦中戦後の人々の態度の豹変に何もかも信用できないような気分になっていた」とき、渡辺一夫先生のエッセイ集『空しい祈禱』に出会い、それをご自身の「運命」とされた先生にとって(536)、ユマニスムの根底にある普遍性への確信、すなわち、古典古代の示した人間理解は、ローマ教会の精神的支配下にあった16世紀人にとっても、こころの拠りどころとなるものだったという思想は、先生の実存の根底をなすものだった。「そうかもしれませんね」と言われても、この確信の揺らぎようはなかったと思う。
それでもなお、「そうかもしれませんね」と応じられる。二度経験したわたしには、それが先生の口癖のようなものと感じられた。口癖と言っても口先だけの物言いということではない。この言葉はユマニスムの精神そのものに相違ない。何故なら、古典古代の文学、思想の研究を旨とするユマニスムの核心には、「権威主義の排除」(192)による「自由検討の精神」(27、209)があるからだ。その自由検討はユマニスムそのものにも向けられる。先生が「ユマニストの心性」(368, 376)と呼んで批判されるのは、「ユマニストの言語ラテン語」を絶対視、あるいは神聖視し、俗語(ラブレーの場合ならフランス語)による表現を否定しようとする近視眼的な態度のことである。ラブレーが最初に刊行したパンタグリュエル物語は『第二之書』だが、これに対する最初の批評が、ラテン詩人でユマニストのニコラ・ブルボンによるもので、これをユマニストの本道を踏み外した「低俗軽薄な作り話、卑俗な言辞」と決めつけていた。「ユマニストの心性」に染まったブルボンには、何故のユマニスムなのかという肝心の点が見えていなかった。ことは「ユマニスムと印刷術とが俗語散文物語の作者にもたらした新しい課題」に関わっている。古典古代の人間観を蘇らせようとするユマニスムが「文化秩序の根本的な組みかえ」となりうるためには、その思想が広く人びとのあいだに浸透しなければならない。それはいずれ俗語による表現へと展開することの必然をはらんでいた。この動向は、印刷術という普及のための新メディアの促すところでもあった。印刷術に関する先生の実証的な研究によれば、1540年代には印刷物におけるラテン語の優位は失われている(110)。エラスムスは終生ラテン語で著作した。そのことを批判する意見もある。しかしかれは自らの考えが全欧的に行き渡ることを願っていたがゆえにラテン語で著作したのであり、原初のキリスト教の思想を明らかにしたうえは、「すべてのキリスト教徒が聖書を読み、彼らのためにこれが各国語に翻訳されるのは当然かつ必要なことである」(232)と考えていた。
「あゝ、そうかもしれませんね」は、ユマニスムの核心をなす自由検討の精神を体現するだけではなく、寛容論につながっている。寛容は印刷術と並ぶ、先生のルネサンス研究のもうひとつの柱である。印刷術に関する論考は、わたしなどにとってはわくわくするほど面白いが(印刷術は不特定多数の読者を生み出し、「文学生活の条件」〔87〕を激変させ、近代的な「文学」や「藝術」を生み出す大きな力になった)、寛容論は、戦中戦後を生きられた先生の血肉となった思想だ。或る思想が絶対化し権威となることへの強い警戒と深い嫌悪が貫いている。その批判対象となっている実例のひとつが、「檄文事件」(1534年。128-131)である。「檄文」とは、カトリック教会の行っている聖餐の儀式を激しく批判したアジビラである。福音主義者たちは、またカトリック批判を主導していたエラスムスやルターでさえも、この典礼を否定していたわけではない。身分の隔たりなく信者が一堂に集い、これに与ることによって「神の前の平等」を実感する機会となっていたからだ。ところが「檄文」はこれを論理的に否認し、それが権力者に悪行の免罪符になっていると難詰するなどし、その廃止を訴えるという内容だった。ときのフランス国王フランソワ一世は、福音主義運動に一定の理解を示していたが、檄文のなかに反逆の徴を見て態度を一変、そこから烈しい弾圧を始める。すると、それがまた改革派の態度を硬化させ、宗教戦争の時代へと続いて行った(323-5)。檄文は改革派にとってよい効果をもたらすものではなく、カトリックの強硬派を利することにしかならなかった。そこで、二宮先生は、今なら「にせ旗作戦」と呼ばれるような「反動的カトリックの黒い手」の介在を疑い、日本の戦後史の幾つかの事件(松川事件、三鷹事件、下山事件)との類似を指摘しておられる(166、179)。研究対象となった16世紀の事件のなかに、ご自身の経験された現実を見つけられたのか。それよりもむしろ、先生の現実感覚が檄文のにせ旗たる可能性を直観されたのではなかろうか。飛躍しすぎと言われるかもしれないが、このことは、わたしのなかで、次の1行と深くつながっている。「われわれは、〔……〕人間世界を包む悪の生臭さに嘔吐を覚え、殉教者が死の直前に体験したかもしれない精神の地獄を思いやって慄然とせざるを得ない」(141)。過酷な弾圧のなかで殉教を強いられた人びとの記録を読んでの、先生の率直な思いである。この想像力を導いているのはやさしさだ。思いは3世紀の懸隔を超える。
「いわゆる大学紛争の渦中」にあった先生は、「職を辞そうと考えたことがあった」(565)。『フランス・ルネサンスの世界』のなかでは珍しいご自身の経験に言及された箇所である。しかし「詳細は述べない」と言われて、これ以上の説明はない。辞職を考えられたということを、もとよりわたしは知らずにいた。全国に広がったこの「紛争」のなかで、実際に辞職した教師も何人かいた。報道で知ったかぎりでは、その人びとの辞職は、学生に対する大学側の対応に抗議してのものだった。二宮先生の場合はむしろ逆だったのではないか。先生の寛容論を読むとそう思われてくる。また、「ひそやかな精神の連帯」(558)を大事とされたお気持ちも思い合わされる。この紛争(抗議活動に参加した学生たちは闘争と呼ぶ)は東大の医学部で始まった。当初の問題は、従来のインターン制度に替えて新たに導入されることになった「登録医制度」で、これによれば若手の医師たちが、1年間無給で働かなければならないことになった。そこで抗議活動が起こる。それは東大に限ったことではなかったが、東大医学部は拠点校で、自治会はストに突入した。その状況のなかで学生と医局員の間で衝突が起こり、大学執行部はその関係者に処分を下した。このとき処分された学生のひとりは無実だったらしい。それに対する抗議、処分撤回要求から、事態はさらにエスカレートしていった(わたしは当時大学院の学生だったが、このような詳細をきちんと認識し、記憶しているわけではない。以上、ウィキペディアの「東大紛争」による)。紛争は1年ほどで収束したが、争点は大学自治、学問と権力など理念的なものへと拡大し、解消されるはずもなかった(「産学共同」、「軍学共同」はいまなおアクチュアルなテーマだ)。東大の文学部では、その後10年以上にわたって学生自治会と教授会の対立が続いた(学生らによる文学部長室の占拠とそこでの火災は、1978年のことである)。二宮先生世代の、当時若手だった先生方は、心身共に疲弊されたと思う。
以下、純然たるわたしの推測である。この推測は、東大紛争の展開のなかに、ルターやカルヴァンの運動とのアナロジーを見たことに基づいている。檄文事件以降の宗教戦争の歴史とユマニストの自由検討の精神に照らして、当初の医学部学生たちの抗議に対し、二宮先生は理解ある姿勢でいらしたのではないかと思う(エラスムスの経験したこととしてだが、「過酷な懲罰と強制以外に能のない、人間として劣悪極まる教師が横行している」との記述がある〔264〕)。しかし全共闘の学生たちは、自らの思想を絶対化し戦闘モードに入っていった。それは、カルヴァンやルターのたどった軌跡と重なる。例えばカルヴァンの場合、カトリックからは「第一級の異端として仇敵視され、生涯を亡命者としてすごすことになった」。檄文事件のあと、弾圧を逃れてフランスを脱出し、1541年ジュネーヴに定住して、「この町に理想的な教会国家を実現すべく努めた」。その結果、1552年には市議会がかれの『キリスト教綱要』を正統として認知し、これに対する一切の批判を禁じてしまう。その翌年のことだ。フランスに投獄されていたスペインの神学者ミシェル・セルヴェが脱獄に成功し、ナポリに逃れる途中、ジュネーヴに一夜の宿をとった。その存在はたちまちカルヴァンに知られるところとなり、投獄、裁判ののち、火刑に処せられてしまった。「カルヴァンの教理がもし絶対に正しい正統説だとすれば、これに異論を唱えたセルヴェは明らかに異端である。しかし思想の領域に属する異端を司法・政治権力をふるって死刑にする必要があるのか。またそうして良いという根拠はどこにあるのか? もともと聖書解釈の自由を求めて亡命したカルヴァン自身が、カトリックの目から見れば最大の異端ではないか?」(48-9)。ルターの場合も変わらない。トマス・ミュンツァーを指導者とするチューリンゲン農民団の蜂起に対し、暴徒らを「打ち殺し、締め殺し、刺し殺さなければならない」と叫ぶ。「1523年カトリック側から見て異端者であったところのルターは、1525年自ら正統の目をもって再洗礼派異端を見ている」(144-5)。
「正統」の批判者だったルターやカルヴァンは、自らこそが正統と主張するようになると、「異端」を抹殺せずにはいられなくなる。「かくして改革派の不寛容の根拠は、カトリック側のそれと期せずして一致した」(151)。死刑をもいとわず「異端」を弾圧することの正当性を論じたてる両者の、神学的な無理筋の議論を辿ったうえでの(例えば141-150)、二宮先生の結論である。寛容とは、「正統」が「異端」に対して取るべき許容の態度である。思想の問題ならそうあるべきであろう。しかし、「正統」が自らの正統性を権力によって守ろうとするとき、「異端」を暴力的に排除しようとして、弾圧がはじまる。二宮先生の所説を、敢えて略言するならば、そうなるだろう。ラブレーが『第一之書』末尾の「テレームの僧院」において、当時の僧院を批判する精神で描いた理想の僧院は、「欲するところをおこなえ」をモットーとする自由の場所だった。カルヴァンはこれを無神論的な思想として罵倒する(406-7)。カルヴァンの徹底した性悪説に対し、ラブレーは自由であるかぎりのひとの生来の善性を信じていたし、その思想はエラスムスから学んだとみられる(329)。信仰の意義を絶対視して自由の否定に突き進んだルターにとって、エラスムスは敵である(202-9)。カルヴァンとラブレーの人間観の対立は、「ルターとエラスムスの自由意志をめぐる対立の再現」(48)だった。二宮先生がラブレーとエラスムスに深く傾倒されたことは、改めて言うまでもない。「ラディカル」と呼ばれた全共闘系の諸集団は、小さいながらも暴力という権力によって武装し、自らを正統化しようとした。ごく一部とはいえ、異端に相当する人びとを粛清することさえあった。これは東大でのことではないが、異論を拒む姿勢に変わりはない。それは、二宮先生がご自身の生きた世界のなかに見た宗教戦争のアナロジーだったのではあるまいか。
既に何度も参照しているが、二宮先生には、唯一の単著として『フランス・ルネサンスの世界』がある。先生の肖像を書く上でこれに学ぶべきことは、言うまでもない。読者にとってはどうでもよいことであろうが、この本についてわたしは懺悔から始めなければならない、という気持ちを拭えない。本篇を構想したとき、先生から送っていただいていたこの本を開けば、必要な知識がすぐに得られるものと思っていた。読みながら鉛筆でマークした重要箇所を抽出してノートをとればよい、とややのんびり構えていた。しかし、まず、書籍自体が見つからない。箱入りの学術書と記憶していたので、書棚のなかでそのような体裁のものを探したのが間違いだった。数日がかりで見つけ出したのは、中島かほるさんの手になる華麗な装幀の一巻だった。記憶の回路の実態を教えられる経験だ。さて、見つけたこの本を開いて啞然とした。まっさらな状態で、読んだ形跡がない。先生には通りいっぺんの礼状を差し上げたに相違ない。取返しのつかないことだ。そこで、遅ればせながら、600ページ近いこの大冊を初めて読んだ。そして、読むほどに先生への尊敬と敬慕の念を新たにした。ここまで書いてきた事柄については、部分的に何度も読み直している。そのたびに、感銘を受ける。何より不思議に思うのは、読んで感動したという、そのことだ。学術書を読んで感動したことは、記憶のかぎり、ほかにない。というのは言い過ぎかもしれない。もう一冊思い出す。アンリ・グイエ先生の『デカルト初期の思想』(このタイトルは『方法叙説』からの引用なので、この訳はよろしくないが、仕方ない)である。しかし感動の質が違う。グイエ先生の著作から受けた感動は、純粋に学問的なものだが、二宮先生の本からは、著者の世界観、お人柄が立ち上ってくる。
この感動を伝えられなければ、肖像として重要な色調を喪うことになろう。そのためには、思想を抽出するのではなく、どれか1篇を、そのスタイルごと紹介するほかはない。要約によってこの目的を果たそうとするのは、もとより矛盾した試みだが、ほかに仕様がない。ではどの章を取り上げるか、という選択がむずかしい。本書はルネサンス総論(寛容、印刷術の論考を含む)、エラスムス論、ラブレー論がメインだが、さまざまな主題のエッセイ、巻末の渡辺一夫論を含んでいる。紹介するならエッセイがよい。長さの点で好ましいし、専門的研究に見られる思想面は、曲がりなりにもすでにとりあげてある。ではどのエッセイか、となると迷わざるをえないが、「尻拭いはいかにすべきか」を選ぶことにしよう。エッセイとしては長いが(3回に分けて『學鐙』に掲載された)、ここには先生の茶目っ気とはにかみ、そして事象に迫る厳しい学問的探究の姿が現れている。以下の紹介で伝えたいのは、とくにその学問的スタイルである。
取り上げられているのは『第一之書』第13章の一節で、幼少期のガルガンチュアが、父親の留守中、尻拭いを種々試みて、最も具合のよいやりかたを見つけ、その次第を凱旋した父親に報告するくだりである。かれが試みたのは、腰元が着用していた頭巾や帽子などの衣類(なかには金モールのために尻に傷を負ったこともあった)、15種ほどの木の葉や菜っ葉(赤痢にかかった)、シーツなどの布類はよく、紙類は最低、驚くべきは動物類で、猫にはひっかかれたが、鵞鳥の子は最高だった、とある。この「尻拭い話としてフランス文学史に冠たる」一節に、先生が研究のメスを入れようとなさったのは、安易な読み方の危うさをみとめたからである。批判版全集の編者が、文中の「紙」に注記して、「これがおそらく十六世紀においてもっとも一般的な尻拭きだった」と書いていることが、先生の批判意識を刺戟した。「おそらくとはいったい何ごとであるか? もっとも一般的とは何ごとか?」「つらつら惟るに、いやさほど考えなくとも、物心ついて以後の自分の習慣を基準にして、人もそうだと決めてかかるのは明らかに僭越である」。伝わったばかりで少量しか生産されていなかった紙は高価であり、尻拭きに使えるようなものだったとは思われない。ガルガンチュアの試みは、文学的には意外性の効果を狙っているが、当時のひとにとって、どこまでが普通で、どこからが意外だったのか。「ルネサンスの人間は〈秣や麦藁や綿屑〉にも意外性を感じたのだろうか?」そこで先生の探究が始まる。狙いは、紙をはじめとする尻拭きの用材諸種の実態(わたしが適切と思う言い方で言えば valeur 〔価値ではなく値〕)を割り出し、文学的な効果の値を見定めることである。
笑いを禁じ得ない話題の卑近さに比して、この研究課題は容易なものではない。おそらく文献にはめったに表れないような記述を、砂金を探すように、広範囲に渉猟しなければならない。『第四之書』第52章に、「クレメンス教令集」(カトリック教会法の基本書のひとつ)の一葉を破いて尻を拭いたところ痔瘻になったという修道士の話が出てくる。これに関して、二宮先生の想定された標準値は、「パンフレットやちらしの類」であり、これらを利用する慣習があり、それを踏まえてのラブレーの「修辞の綾」とされている*。そこで、次にトイレ用の紙製品が作られるようになったのはいつ頃か、という問題が立てられる。これについての先生の調べ物がすごい。まず注目されたのが、ユストール・ド・ボーリューという詩人の「尻拭きの短詩」という作品だが、この詩人の詩集は16世紀に3回刷られただけで、入手の難しいものだった、ということで参照されていない。注目すべきは、誰も読まないようなこの詩の存在をどのようにして見つけられたか、ということだ。それは、1881年に刊行されたラブレー著作集の中の1つの注だった(普通、研究者は、新しい全集が出ると、それ以前の全集は、特別の場合を除き、参照しない、と思う)。次の文献はさらに珍しい。「幸いな偶然」によって発掘されたのは、アンリ4世から王太子(のちのルイ13世)の侍医に登用されたジャン・エロアールという人物の日記で、これは、当時は未刊の6巻の校本だった(先生はそれをパリの図書館で読まれたわけだ)。そのなかに、5歳の王太子の排便に言及した一節がある。ことが済んだあとで、布切れを持っていなかった乳母が、木の葉で拭いて差し上げたところ、悲鳴を上げ、乳母を鞭打った。これらの記述から先生の引き出した値はつぎのようなものだった。宮廷では布で拭くのが習わしだった。しかし、(この乳母を含む)下々の者の間では木の葉を使うのが当たり前だった**。ガルガンチュアの「秣・麦藁・綿屑・獣の抜け毛・羊毛・紙」などは、現実に使われていたものを列挙したものであろう。
- * その際、「ひと昔前の古新聞の利用法」も参照されているが、ややミスリーディングではなかろうか。子供のころ、わが家ではさいわい「浅草紙」が使われていたが、切れた場合に備えて古新聞も用意されていた。古新聞の使用はかなり一般的だったように記憶している。当時は新聞が広く購読されていた。それに対し、16世紀のフランスにおいて、パンフレットやちらしが大量に流通していたようには思われない(もちろん素人の思うことだから、あてにはならないが)。これらの古紙が活用されていたとしても、それはごく一部の慣習だったのではなかろうか。
- ** ご参考までに、父より聞いた話を記しておこう。明治末期、父が少年期を過ごした石巻の在での習俗である。厠には傍らに荒縄が張ってあり、用を足したあと、それにまたがって尻拭いをしたそうだ(それを聞いて子供のわたしは、痛そうと思っただけではない。その縄は毎回取り換えられるのだろうかということが、とても気になった)。また、葉っぱを使うのも一般的だったそうだ(これはすぐに破れそうな点を心配した)。16世紀フランスとさして異なるわけではない。尻拭いの様式は、自然を含む環境によるところが大きいようだ。すると、木の葉が手近に見当たらない砂漠地帯ではどうなのだろうと、夢想はふくらむが、脱線はここまでとしよう。
このエッセイは、さらに、召使いとはいえ他人の前で用を足すという王侯の慣行(ここではタルマン・デ・レオーの『逸話集』が参照される。この17世紀の著作はいまやプレイヤード叢書に2巻本として収録されて聖化され、普及版まで出ているが、先生が参照されたのは19世紀なかばの版本である)、さらに言語表現上の慎みの一般化の歴史に議論が及び、最後に尻拭いに言及した研究書が列挙され、そのいずれもが、紙の使用という問題にはふれていない旨が注記されている(「邪悪な喜び」〔477〕をたたえ、ちょっと得意そうな二宮先生の横顔がのぞく)。
注目してきた研究手法、参照文献の広がりと量について総括しておこう。表現の細部にわたってことの「値」を求めようとする先生の研究は、膨大な資料の渉猟を要求する。それは、どこに有用な情報があるか分からない、なかば虚空のなかを探し回るようなものだ。根底にあるのはセレンディピティの精神である(⇒『とりどりの肖像』12「掘越弘毅さん」)。注記された文献は多岐にわたり、旧くなったものも無視されない。なかには10巻をこえるものもあり、しかも、拾い読みでは済まないと思われるケースが珍しくない。さらに、各章の末尾に、その本文の執筆時以降に現われた関連文献を列挙しておられる。一度取り上げたあとも、同じ問題についての新刊をフォローし続けておられたわけだ。しかも、決まって、〈新しい研究はこの通り出ているが、自分の旧著に修正を加える必要を認めなかったので、加筆していない〉、と付記される。研究の質のあかしである。二宮先生はすごい学者だった。「やめてくれよ」とおっしゃる声が聞こえる気がするが、そう書かずにはいられない。そして、そうとまで思いが及ばなかったことを恥じて、頭を垂れるしかない。
『フランス・ルネサンスの世界』を読んで感動したことは、上に告白した。感動したということは、愉しんだということだ。大冊だが内容に重複、繰り返しは殆どない。版元はこれを文庫化すべきではなかろうか。いまは稀覯本となっていて、図書館でしか読めない。あたらしい読者を得にくい状況だ。しかし、面白さは折り紙付きだ(たしかに、わたしの「折り紙」では頼りないが)。手に取ってくれれば、そのひとは愛読者となるだろう。そして、二宮敬先生のお姿に、わたしと同じような思いを懐かれるに相違ない。