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V.E.R.D.I. ヴェルディ 受容のリトグラフ 林いのり

世界的作曲家の「国民意識」

確かに、音楽は普遍的なものだ。しかし、それを書く人間は、それぞれ生まれ育った国によって違っている。仕方のないことだ。人は、今もこれからも、自分が生まれた土地によって形づくられる存在であり、どんなに努力したところでその本性を完全に変えることはできない。(1887年のインタビューにて)[1]

 

普遍的な音楽と、「イタリア人」である作曲家

 「音楽に国境はない」という言葉をよく耳にする。ある音楽作品や演奏が異なる文化圏の人々の共感を呼び起こすとして、しばしば実感をもって用いられるフレーズだ。ヴェルディのオペラは、まさにその言葉を体現しているように思われる。前回取り上げた《ナブッコ》の「行け、我が想いよ」は時代を超えて世界中で愛唱されている。《ラ・トラヴィアータ》第2幕でヴィオレッタが「愛して、アルフレート」と歌うときには、世界中の人々が涙を堪えることだろう。作品や演奏が文化や言語の壁を軽やかに越えていくことは、誰もが経験的に知っている。しかし、音楽を書く「人間」はどうだろうか――。

 冒頭に挙げたのは、ヴェルディが1887年にインタビューで発した言葉である。「普遍的」な作品をいくつも生み出した作曲家は、「音楽の普遍性」とは一見対照的な思想――芸術と国民性の結びつきを強く意識した態度――を、そっけないほど明確に示している。この言葉に従えば、彼自身、自分の「本性」を「イタリア」という国と分かち難く感じていたことになる。では、彼の「イタリア」的な「本性」とは何だったのだろう?

 前回は、ヴェルディの「愛国者」というリトグラフが創造される舞台裏をお見せした。今回は、ヴェルディ自身が「イタリア」と自己の関係性をどのように考えていたのか、その言葉や行動から考察してみたいと思う。

 まず注目したいのは「作曲家」としての国民意識[2]である。彼が考える「イタリア音楽」とは何か、そして、その表現者・継承者としてどのような自覚を持っていたのだろうか?

 

「歌の時代」の終わりに──ヴェルディの〈イタリア音楽〉と国際化する次世代

 1. ヴェルディのポリシー

 冒頭のインタビューの引用箇所の前で、ヴェルディとインタビュアーはミラノの市政を話題にしている。「古い特権を壊した代わりに、さらに悪い新しい特権を生み出してしまった」と語るインタビュアーに対し、ヴェルディは「まさに音楽にもおきていることだ」と答える。そこからイタリア・オペラの未来へと話は移り、以下の発言に至る。

 結局のところ、人は誰しも自分のできることをし、本性の導きに従って感じたままに書くときには、何かしらを成し遂げるものだ。私がもっとも我慢ならないのは、イタリア人がドイツ人のように書いたり、ドイツ人がイタリア人のように書いたりすることだ。イタリア人はイタリア人として、ドイツ人はドイツ人として書くべきだ。両者の本性はあまりに異なっていて、混じり合うことはできない。確かに、音楽は普遍的なものだ。しかし、それを書く人間は、それぞれ生まれ育った国によって違っている。

ここには、ヴェルディの2つの考えが示されている。1つは、ヴェルディの中で、音楽が普遍性を持つことと、作曲家が己のルーツ=生まれ育った文化や本性に従って音楽を書くべきだという考えは矛盾しないということ。もう1つは、「混じり合うことはできない」本性をもつ2つの国として、イタリアとドイツを想定していることである。

 政治的な背景(北部イタリアの一部はオーストリア帝国に支配されていた)と重ねて「イタリア音楽」「ドイツ音楽」を対立させた考え方は、当時のイタリアに一般的であった。その中心にあったのが、ワーグナーが提唱した「楽劇」と、従来のイタリア・オペラの美学的な対立である。「楽劇」が、言葉と音楽・歌とオーケストラが一体となったドラマの完成を目指したのに対し、イタリア・オペラにおいては、歌が劇全体の要であり、覚えやすく美しい旋律が不可欠な要素であった。つまり、歌をあくまでドラマの構成要素の一つと捉えるワーグナーの芸術は、従来のイタリア・オペラの作り方に比べ、歌や歌唱旋律を優先していないように捉えられたのである。インタビューの続きでは、ヴェルディも同様に考えていたことが示されている:

もちろん趣味や嗜好は移ろうもので、芸術の思索的分野で日々なされるあらゆる発見を賢く活かし、利用することも必要だ。だがそれは、自分自身の性質と個性(il proprio carattere e la propria individualità)を裏切らずに行う必要がある。そして何より肝要なのは、歌と声に、主導権と自由な表現の場を守らせることである。

ヴェルディは、自分自身がそうしてきたように、外国の様式や新しい技法を取り入れること自体は否定していない。しかし、「自分自身の性質と個性」――自分が生まれ育った国の音楽が土台であるべきなのだ。そして具体的にもっとも重要な点として挙げられているのが、「歌と声canto e voce」の優位を保つ、ということである。こうしたヴェルディの考え方は、1887年当時からするとカチカチに保守的であった。

 ところが面白いことに、「作曲家ヴェルディ」は、当時、まったく保守的と見なされていなかった。彼の中期(1850年代〜1860年代)の作品は、多くの批評家に「進歩的すぎる」と批判され、その理由は、旋律の美しさよりもオーケストレーションにこだわっていると見なされたためであった。しかし、彼がもっとも価値を置いたのは「歌と声」であり、「旋律の美しさ」ではなかった。具体的な作品の例は次回にゆずるとして、ここではヴェルディの「イタリア人として書く」ことは、すなわち「歌を重視して作曲する」ことに等しかったことを覚えておきたい。彼の次世代作曲家に対する評価基準も、まさにそこにあったからである。

 

2. ヴェルディと後輩の作曲家たち

 1880年代、ヴェルディの作品はイタリアの多くの都市の「定番」であった。ジェノヴァでは1年間に上演される作品の4分の1、ミラノでは5分の1を、ヴェルディ作品が占めていたという。しかし、流行の最先端をいく「一流の」劇場――ミラノ・スカラ座やカルロ・フェリーチェ劇場(ジェノヴァ)――では事情が異なった。スカラ座の上演記録を調べると、1880年代〜1890年代のプログラムに目立つのは、トマ、グノー、ビゼーのようなフランス作曲家のオペラ・コミックと、ポンキエッリ、フランケッティ、プッチーニ、マスカーニといった、ヴェルディの次世代にあたるイタリア作曲家たちの作品である。

 ヴェルディは1893年までオペラ制作を続けただけあって、常に流行に目を配っていた。書簡には、話題作が発表されるたび劇場でチェックし(フランケッティの《クリストフォロ・コロンボ》やプッチーニの《マノン・レスコー》など)、さらにヴォーカルスコアを入手して研究していた記録が残されている。しかし、彼自身は教育機関に属したり、批評活動を行うこともなかった。それは「同業者」としての矜持であったかもしれない。

 若きヴェルディがドニゼッティやメルカダンテから多くを吸収したように、若い世代もヴェルディから影響を受けた。しかしヴェルディの目に、彼らの音楽は、ワーグナーや、ビゼー、マスネの作風により傾倒しているように映っていた。例えば、プッチーニの処女作《妖精ウィリー》については次のように述べている:

彼〔プッチーニ〕は潮流に従っており、それは当然のことだ。彼は旋律へのこだわりは維持しており、そのことは古風でも現代風でもない。ただ、彼の音楽では器楽曲的な要素が全面に出がちなように思われる――別にそれ自体は悪くないのだが、注意が必要だ。オペラはオペラであり、交響曲は交響曲なのだから。私としては、ただオーケストラを踊らせる楽しみのために、オペラに交響曲風の大騒ぎを持ち込むことが良いアイディアだとは思えない。[3]

 ヴェルディは、プッチーニの旋律を重視するアプローチは、時流に左右されないものであると評価している。一方で、オペラに「器楽曲な要素elemento sinfonico」が目立ちすぎることで、オペラの音楽ではなくなることを憂慮している。オペラは「歌と声」に主導権を持たせるべきだ、という主張が「オペラはオペラ、交響曲は交響曲」という言葉にあらわれているだろう。ちなみに、プッチーニはこの評価を出版者のリコルディから直接伝え聞き、生涯忘れることはなかったという(もっとも、プッチーニがオペラを志すきっかけとなったヴェルディの《アイーダ》こそ、当時オーケストラが重厚すぎると批判されていたのではあるが……)。

 そんなヴェルディが、好意的な感想を残した作品もある。マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》がそのひとつだ。《カヴァレリア》の大成功を聞いたヴェルディは、さっそくボーイトと共にスコアと台本を研究し、その結果を他の友人に書き送っている。

プレリュードは愛らしく、新鮮で、しなやか。トゥリッドゥ〔主人公の青年〕のセレナーデの着想も素晴らしい。最初の合唱もまた非常によくできていて、最初から最後まで民衆的な性格で満ちている。(中略)そして「母への別れAddio alla madre」に到達したとき、思わず叫んだ。「こいつは舞台をわかっている!」[4]

「プレリュード」、「トゥリッドゥのセレナーデ」、「冒頭の合唱」は、たしかにいずれも旋律が美しく、今日でも人気の曲である。しかし、より興味深いのは「母への別れ」と題された場面に対する評価だ。なにがヴェルディの琴線に触れたのか、この場面を簡単に説明しよう。

 トリッドゥは、人妻ローラとの恋仲が明るみに出た結果、彼女の夫と決闘することになる。死を覚悟したトリッドゥが、母に別れを告げる場面が「母への別れ」である(実際はトゥリッドゥの独唱)。弦楽器が高音域で不吉にトレモロを奏でる中、トリッドゥが平静を装って「おふくろ、あのワインは強いな」と呼びかける。決闘に行くとは言えない彼は、酔ったふりをしながら「もし俺が帰らなかったら、(元の許嫁である)サントゥッツァを大事にしてやってくれ」「たまにで良いから、俺のために祈ってくれ」と話し、困惑する母を「さようなら」と抱きしめて退場する。

 ヴェルディが「こいつは舞台をわかっているquesto sente il teatro!!」と叫んだこの場面は、ただドラマティックなだけでなく、徹底的に「歌」にフォーカスした作りになっている。トリッドゥの独唱は、テノールの「泣き」が存分に堪能できる感傷的な旋律で書かれており、対してオーケストラには決して歌を超えたり、代弁したりするほどの力は与えられていない。時折無伴奏になる瞬間があり、オーケストラは歌手が歌い終わってから雄弁に語り出す。このように、音量や音質にコントラストを作り出すことで、歌の表現に観客の耳目を集中させるテクニックは、ヴェルディ自身もドラマティックな場面で多用していた。マスカーニへの賛辞は、オペラにおいて歌声の力を最優先する自身の劇作法を、若い世代の作品に見出した喜びでもあったのだろう。

 残念ながら、ヴェルディが評価するイタリア・オペラ――つまり、前の世代までの慣習的な技法を土台としたオペラは、多くの後輩たちの志向と一致しなかった。かといって、彼らに激しい批判をしたわけでもなく、距離をおいて彼らを見守っていたことがいくつかのエピソードからわかっている。《アンドレア・シェニエ》を残したジョルダーノには、題材に関するアドバイスをした。フランケッティには、アメリカ大陸発見400周年記念のオペラを作曲する機会を与え、若きプッチーニが新作《マノン・レスコー》を初演する際は、自身の《ファルスタッフ》よりも前に上演できるよう気を配った。発言こそ「歌を重視するイタリア音楽」の伝統を次代へと引き渡そうとしているヴェルディだが、実際の行動には、音楽界の変化に直接介入することは避け、自らの信条と矜持を保ちつつ、個人ができる範囲で支援する姿勢がみられる。

 

政治家・実業家としてのヴェルディ

1. 国会議員としての活動(1860年代)

 発言と実際の行動が一致しないという側面は、政治家、実業家として活動する中にもあらわれる。ヴェルディの作品は政治と結びつけて解釈されることが多く、作曲家自身も政治家として活動していたことは前回くわしく触れた。しかし、彼の政治家としてのポリシーが語られることは少ない。1865年に友人で台本作家のピアーヴェに送った書簡が、彼を「名ばかり議員」と思わせてしまったからだ:

今なお、私はあらゆる望みと好みに反して議員であり、求められる素養も才能も、この「囲い」の中で不可欠な忍耐力も全く欠いている。(中略)もし自分の議員としての伝記を書くならば、立派な紙の真ん中にただ1行、こう記せば十分だ。「450人中、議員は449人である」。ヴェルディという議員は存在しないのだから。[5]

ヴェルディは若い頃から(オペラ制作は別として)、やりたくない仕事はキッパリ断るタイプだ。《ナブッコ》の成功後、ヴェルディは政治家や文化人がたくさん集まる社交場――クララ・マッフェイ侯爵夫人のサロンに出入りし始めたが、1848年に第一次解放戦争が起こった際はパリに滞在し、直接的な政治活動はほとんど行なっていなかった。ではなぜ、不本意ながらも政界へ足を踏み入れたのだろうか。

 風向きを変えたのは、1859年の第二次解放戦争だった。この戦争でははじめ、オーストリアと戦うイタリア(サルデーニャ王国)をフランスのナポレオン3世が支援していた。ところがナポレオン3世は密かにオーストリアと単独講和を結び、戦争を思わぬ形で終結させてしまう。それによりヴェネツィア地方がオーストリア領に残されたほか、故国パルマ公国を含む中部イタリアは、なんと戦争以前の旧体制(君主制)へ戻ることになった。この事態は多くのイタリア国民同様、ヴェルディにとっても受け入れ難いものであった。戦いに勝ったとて、体制が変わらないのなら、多くの血は何のために流されたのか……ヴェルディはパルマの反乱者のため個人でライフル100挺を調達し、サルデーニャ王国への併合を求めるパルマの州議会にも、故郷ブッセートの代表として参加した。

 この講和は、サルデーニャ王国の政府内にも大きな亀裂を生んだ。当時の王国首相であり、イタリア統一運動の中心人物だったカミーロ・カヴール(1810-1861)は、国王エマヌエーレ2世に抗議し、自らは首相を辞任した。彼こそ、ヴェルディを政界に連れ込むことになる人物である。

 サルデーニャ王国への併合を求める交渉に参加していたヴェルディとカヴールは、共通の知人がセッティングした会談で初めて言葉を交わした。この時、ヴェルディはカヴールの理念や人格に大いに感銘を受け、彼を「全てのイタリア人が『祖国の父』と呼ぶべき人物」であると感じた。その後首相職へ復帰したカヴールも、この国民的作曲家の存在が、自身の政治活動の良いアピールになると確信し、ヴェルディに、サルデーニャ王国初の議会に立候補するよう依頼する。ヴェルディは仰天した。何せ、パルマの州議会と国会では全く重みが異なる。律儀なヴェルディはカヴールがいるトリノに出向き、直接断ろうと考えたが、直接顔を合わせてしまったのが裏目に出た。丸め込まれて1861年に立候補する羽目になったのであったヴェルディは、選挙活動を全く行わなかったにもかかわらず、圧倒的な知名度によって当選してしまう。こうして、イタリア王国の成立と同時にヴェルディ議員が誕生したのである。

 そもそもカヴールへの忠誠心から議員になったヴェルディは、心情的には右派でも左派でもなかった。彼が議会内での座席の位置に悩み、最終的には中央左寄りに座っていた友人、クィンティノ・セッラの隣に座ることにしたというエピソードは、彼の政治への距離の取り方を象徴している。それでも彼は、自分の役割と責任について十分自覚していた。議会には勤勉に出席し、カヴールに依頼された音楽活動と音楽教育の変遷に関する提案の作成に尽力した。ヴェルディの提案した内容は、現イタリア上院議会の記録[6]から確認できる:

①ローマ、ミラノ、トリノにある主要なオペラ劇場を国営化し、政府の支援を受けた合唱団とオーケストラを備えること。
②夜間の歌唱学校を設立し、希望者には無料で門戸を開くこと。
③音楽院と都市のオペラ劇場の連携を強め、音楽院の学生が劇場に出演できるようにすること。

劇場の事情や教育の現状をよく知っていたヴェルディらしいアイディアだ。さらに、商売人の息子であるヴェルディは、極めて堅実な経済観念の持ち主であった。彼は、文化の復興や教育の充実といった、国の未来につながる事業にはお金を出すべきだと考えた一方で、無駄な費用――たとえば、自分の名を冠した劇場建設だの、地方の有力者が建てたがる銅像や記念碑だの――にはきっぱり反対している。しかし、当時の財政事情や、音楽教育・劇場経営に対する保守的な議会の姿勢からすれば、こうした国家管理・公教育化の発想は急進的と見なされた。さらに、頼みの綱のカヴールの急死により、立案の夢は途絶えてしまった。しかもその数年後には皮肉にも、彼が強く反対していた「ジュゼッペ・ヴェルディ劇場」がオープンする。ヴェルディの政治への熱意はこれを境に冷めていき、ピアーヴェ宛ての手紙のとおり、任期の終わりまで淡々と議会に通い続けるだけになってしまった。

 

2. 上院議員、実業家としての活動(1870年代以降)

 ヴェルディは1874年11月、顕著な功績で国の名誉を高めた市民として、上院議員に任命された。とはいえ彼の上院への参加は形式的で、発言もほとんどしなかったと言う。しかし、これは彼が社会問題に無関心であったり、政治的な責任を感じていなかったということではない。同僚議員で親友であったピローリと頻繁に交わしていた書簡には、政府への失望と社会問題への深い思索が示されている。特にヴェルディが憂えたのは、農村部における労働者の貧困と、それに伴う労働者と資本家の対立の激化、より良い環境を求めて人材が流出していく移民問題であった。

 貧困は非常に深刻だ。これは重大な問題であり、もっと深刻になれば治安すら脅かしかねない。これは「飢え」の問題なのだ!!!!!! 大都市では商業が大きく落ち込み、倒産が相次ぎ、それに伴って失業が広がっている。(中略)地主たちは金がない。たとえ少しばかり持っていたとしても、将来が不安でそれをしっかり懐にしまいこんでしまう。税の負担があまりにも重く、必要最低限のことしかせず、日雇い労働者に仕事を与えないから、土地は荒れ、そしてその間に国の富は減っていく。うちのほうでどれだけたくましい若者たちが仕事を求めているか、(中略)こういうことこそ「政府」は知っているべきだ。(1878年3月12日付ピローリ宛)[7]

ヴェルディは裕福になってからも、労働者の目線を決して失わなかった。彼は農民たちの反乱が武力で押さえつけられることで国の分断が進むことを憂慮し、自身の経営するサンターガタの農園や酪農場で200人以上の労働者を雇った。農園で働く人々のためには、冬の間の仕事を確保するため、乳製品の工場を建設した。地方のインフラ整備にも関心をもち、病院の設立と運営にも携わった。

 こうした活動が、全て実業家として、個人の裁量で行われたことは興味深い。1860年代から関わっていた国政を見限ったヴェルディは、民間人の立場からの社会支援に基軸を移したのである。彼は貧しい家庭に生まれ、裕福で寛大な資本家バレッツィの支援を受けて大成した。その経験が、支援を必要とする相手を常に見極める目を養ったのだろう。1899年には、引退した音楽家のための養老院「憩いの家」が完成する。ヴェルディはこの家を、「私の最も優れた作品 L’opera mia più bella」と評した:

そこには、運に恵まれなかった、あるいは、若い頃倹約の美徳を持たなかった、老いた歌手たちを迎えることにしている。貧しく、愛おしい、私の人生の仲間達よ![8]

音楽家を志す仲間と青春時代を送り、音楽と共に逞しく生きる友人をもつ筆者は、この言葉に潜む温かい眼差しに胸が熱くなってしまう。ヴェルディは、生涯を通じて政治的には中立的な姿勢を保ちつつも、華々しい政治闘争にはかかわらず、常に現場に根ざした活動を続けた。音楽家としての彼が「イタリア音楽」の存続と発展に責任を感じていたのと同様に、政治家・実業家としての彼もまた祖国に対して責任を持とうとしたのではないだろうか。

 最後に、これまで見てきた「作曲家」ヴェルディと、「政治家・実業家」ヴェルディの在り方が交差する事例を紹介したい。彼が2度にわたって手がけたレクイエム(1869年の《ロッシーニのためのミサ》、および1874年の《マンゾーニのためのミサ》)である。

 

 2つの《レクイエム》企画と「国民意識」の変化

 ヴェルディの名声のほとんどはオペラ作品によって得られたものであるが、晩年に手掛けた死者を追悼するミサ曲(《レクイエム》)もまた、モーツァルトとフォーレと並び「三大レクイエム」と称されるほど高い評価を得た作品だ。ヴェルディに詳しい人ならば、レクイエムが実は2回企画されたこともご存じだろう。そしてそのいずれも、彼の「国民意識」と深く結びついた作品である。

 最初に企画された《レクイエム》は、現在では後に作られたものと区別して《ロッシーニのためのレクイエム》と呼ばれている。当時ベートーヴェンと並び称された国際的な作曲家、ジョアキーノ・ロッシーニが逝去したのは1868年11月のことであった。訃報を聞いたヴェルディはすぐ、このイタリア音楽界の英雄を追悼するために「国中の優秀な作曲家が共作して、ひとつのレクイエムを書く」ことを企画した。ヴェルディの提案を受けた出版者ジューリオ・リコルディは、早速実行委員会を結成し、ヴェルディを含む13人の作曲家を選定した。各参加者は自身の担当曲を仕上げたものの、指揮者や劇場関係者との軋轢や作曲者同士の意見の不一致により、結局計画は頓挫してしまい、《ロッシーニのためのレクイエム》は幻のまま終わった[9]

 13人もの作曲家による合作であれば、それぞれの個性や作曲技法がぶつかりあうのは必至で、作品に統一感を持たせるのは至難の技である。全国の主要な音楽院の教授をバランスよく選出したため、選ばれた作曲家たちは教鞭得意分野も年齢もさまざまであった。それぞれが完成させた曲は調性やテンポもバラバラで、ヴェルディ自身「作品としてのまとまりは重要視していない」と述べている。そもそも、一周忌にロッシーニの故郷ペーザロで初演し、それ以降は演奏しない一回限りの上演が前提とされおり、芸術作品としての完成度が二の次とされていたこともうかがえる。ここから分かるのは、ヴェルディの企画の意図は、優れた楽曲の創作よりも、イタリア音楽界を代表する作曲家たちが結束し、国民的英雄ロッシーニを追悼するという政治的行為にこそあったということだ。作曲家はイタリア出身者に限定されていたし、無報酬での参加が条件とされていたことにも、芸術活動というより「国家事業」としての性格が感じ取れる。まだイタリア王国が成立して間もなく、国家統一(1871)も達成されていない状況下で、ヴェルディは国家の一体感を象徴するイベントを夢見たのではないだろうか。最終的に《ロッシーニのためのレクイエム》はお蔵入りとなり、ヴェルディの担当した最終曲「リベラ・メ」も、リコルディ社の書庫でホコリをかぶることとなった。

 一方、ヴェルディの2つめの《レクイエム》のほうは今日まで演奏され続けている。こちらはヴェルディと同時代に生きた文豪アレッサンドロ・マンゾーニに捧げられた。マンゾーニは当時のイタリアを代表する国民的な作家であり、ヴェルディと同様に、上院議員も務めていた。ヴェルディがこの作家の芸術を深く敬愛していたこと、その死に際して《レクイエム》の作曲を決意したことは有名である。しかし実は《レクイエム》の企画はマンゾーニの死の2年前から始動してはいた。ヴェルディの周囲の人々は、今やイタリアを代表する作曲家となったヴェルディによる《レクイエム》の完成を諦めようとはしなかった。ヴェルディは長らく渋っていたが、1871年にリコルディに宛てた手紙の中で「すでに書いた『リベラ・メ』を元にして他の部分を作曲できそうだ」と書いている。もっとも、実際に作曲が進み出したのは明らかにマンゾーニの死後であり、初演は1874年5月22日の一周忌ミサに決定した。

 1回目の《レクイエム》と異なるのは、はじめから国内外での再演を想定して作られたことである。献呈先にはマンゾーニが据えられたものの、前提はあくまでヴェルディ自身の手による《レクイエム》全曲の完成であった。ヴェルディにとっての「追悼」は、周囲を巻き込んだ国家事業から、個人として最高の芸術作品を作ることに変化したのである。ふたつめの《レクイエム》を聴けば、ヴェルディがこの曲に自分の技術を全て注ぎ込もうとしたことが一目瞭然であるはずだ。オペラの劇的な戦闘場面と同様の技法で書かれている「怒りの日」冒頭、《ファルスタッフ》の最終場面を思わせる複雑なフーガ「サンクトゥス」、極めてシンプルなポリフォニーで始まる「アニュス・デイ」……そして随所で《アイーダ》や《ドン・カルロ》に使われた音楽が聞こえる。そこには、バッハやパレストリーナを敬愛した「オペラ王」の、持てる技法が詰め込まれている。さらに、第1曲目の「安息を与えたまえ」と、第2曲目の「怒りの日」の主題は、最終曲におかれた「リベラ・メ」の音楽を引用する形で作られた。ここには《レクイエム》の冒頭と最後に同じ音楽をおくことにより全体の統一感を演出する意図がある。《ロッシーニのためのレクイエム》で作曲家たちの結集を呼びかける姿からは、統一途上のイタリアにおいて音楽の果たすべき社会的役割を考える姿勢が読み取れる。一方、《マンゾーニのためのレクイエム》では、普遍的な音楽作品の創造を通じて社会と向き合う姿勢が鮮明になっている。この変化こそ、ヴェルディの国民意識の変化のあらわれと言えるのではないだろうか?

 

結び:ヴェルディの「国民意識」とは

 今回は、ヴェルディの言葉と行動の記録に焦点を当てることで、「愛国者」と称えられてきたヴェルディが、どのように「イタリア」という国と自らを結びつけていたのかを探ってきた。作曲家としても、政治家としても、ヴェルディの目指す「イタリア」は、国家統一後の「イタリア」が目指した方向性とは必ずしも一致しなかった。彼の根底には、19世紀前半の文化的価値観に根ざした美意識があり、それは制度や組織への従属ではなく、音楽界と社会への個人的な関与として表れた。ヴェルディは、音楽院や国会など組織の中で動くのではなく、個人として活動することを好んだ。彼の「国民意識」とは、新生国家への忠誠ではなく、自らが半生を過ごした時代の「イタリア」に根差したものであり、将来の音楽界と社会に対し、個人として責任を果たそうとした独自の美学だったのである。

 

[1] Gino Monaldi. 1887. “Un colloquio con Verdi” in «Il Popolo Romano», n.45, 15/2/1887 以下、特記しない限り引用内の強調は筆者による。

[2] 本稿では「国民意識」という言葉を、単なる政治的立場としてのナショナリズムではなく、「自らがいかに『イタリアの国民』であるかを自覚し、それを表現する意識」として捉える。

[3] アッリヴァベーネ伯爵に宛てた1884年の書簡より。Annibale Alberti. 1931. Verdi intimo: Carteggio di Giuseppe Verdi con il conte Opprandino Arrivabene (1861-1886). 311-13. 

[4] 作曲家のジョヴァンニ・テバルディーニに宛てた書簡より。Anna Maria Novelli and Luciano Marucci. 2001. Idealità convergenti: Giovanni Tebaldini e Giuseppe Verdi: ricordi saggi testimonianze conmmenti. 93. 

[5] Mary J. Phillips-Matz. 1993. Verdi: a biography. 439.

[6]Giuseppe Verdi e l’impegno politico: il Mestro in Parlamento” in Senato della Repubblica.(2025年5月17日閲覧)

[7] L'impegno politico” in Conoscere Verdi2025517日閲覧) 

[8] G. モンテヴェルデに宛てた書簡より。Lubrani, Mauro. 2014. I lieti calici di Verdi: il vino, la cucina, le donne, la salute nella vita del Maestro. 518.

[9] 今日ではMessa per Rossiniとして全曲を聴くことができる。

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著者略歴

  1. 林いのり

    音楽学者、声楽家。1992年神奈川県生まれ。東京芸術大学音楽学部声楽科を卒業後、お茶の水女子大学大学院にて音楽学を学ぶ。博士(人文科学)。日本学術振興会特別研究員、お茶の水女子大学グローバルリーダーシップ研究所特別研究員などを経て、2025年4月より、エリザベト音楽大学音楽学部講師。ヴェルディの劇作法を中心に、19世紀後半におけるイタリア・オペラ作曲家の活動と受容の研究を行なっている。早稲田大学総合研究機構オペラ/音楽劇研究所招聘研究員。

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