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スヴニール とりどりの肖像  佐々木健一

リュシアン・ペルネ(Lucien Pernée)――秀才の失意

 

フランス政府の給費留学生試験に合格し、エックス・アン・プロヴァンスの大学に行った。博士課程(第3課程と呼ばれていた)には必修単位がなく、出席すべき授業はなかった。加えて、指導教官のジャン・ドプラン先生は、「授業には出るな、教師たちはフランス語ができない」と言われた。国語の乱れを憂い、外国からきた学生を劣化したフランス語(おそらくは軽薄な言い回し)にふれさせまい、という配慮だった。しかし、わたしはそのようなハイレベルの志を懐いていたわけではなく、少しでもフランス語の実践を積みたいと思っていた。だから困惑したが、内緒でギリシア語初級のクラスに出てみた。その時の先生がペルネさんである。180センチを超える長身で、威圧感はないものの立派な体躯、金髪、メガネの奥にはブルーの瞳が微笑んでいた。若々しく(出会ったとき、かれは31歳、わたしは30歳、日本風に言えば同学年だった)、授業は意欲にあふれていた。

 

ペルネさん――後に手紙やメールを頻繁に交換するようになると、ファーストネームで呼び合うようになったが、家庭内でヒロコと話すときはかれを「ペルネさん」と呼ぶ。おそらくその距離感が正確だろう。著書を送ってくれたとき、「昔のすぐれた学生で、友人であるケンイチ・ササキに」という献辞を添えてくれたし、終生 vouvoyer (「お前」や「きみ」というより「あなた」に近い二人称の呼び方をすること)を越えることはなかった。だから「ペルネさん」と呼ぶことにしよう。かれの関心の所在は、古代ギリシアの文学よりは言語にあった(晩年にソポクレスについての研究集会を主催し、成功を収めたとのことだが、かれのソポクレス論に触れる機会を逸してしまった)。古典学者の多くは、哲学を含む文学に関心があり、文学のために言語を学ぶのではなかろうか。しかしかれは、言語そのものへの関心から古典ギリシア語に入り込んだ。どの言語にも、他にはない特異性あるいは個性があり、それをつかむのがその言語を習得するための要だ、というのがかれの根本的な言語観だった。そこで、古典ギリシア語の理解を深めるために、現代ギリシア語の授業(プロヴァンス大学は、地中海文化の研究を重視して、このような授業を開講していた)に学生として参加した、ということをかれ自身が授業のなかで語ったこともあった。この言語観は、チョムスキーの普遍論の対極にあるものだが、留学生だったわたしの言語経験と照応するところがあり、そこから大きな刺戟を受けた。留学から帰って最初に書いたフランス語の論文は「時枝とバンヴェニスト」を比較して、日本語の個性を明らかにしようとするもので、これをペルネさんに献呈した。また、建築についてのエッセイを送ったところ、君らしいと評されて少し驚いた。自分の書くものに個性的なところがあるなどとは思っていなかったからだ。自己自身は見る側にあるから、その個性を捉えるにはことさらな反省的構えが必要になる。だから、かれの指摘を受けるまで、それは言わば死角にあった。しかし、いまでは、自身を規定している日本的な感じ方、思考法が関心の中心になっている。これはペルネさんの導きによるものかもしれない。

 

このようにしてギリシア語の個性を把握しようとしつつ、その理解に則して初学者への教授法を工夫するのが、かれの野心だった。つまり入門の授業こそが、かれのやりたいことだった。あるとき、多分、職の展望についての私的な会話のなかでのことだったろう(そのときかれは assistant 助手で、次は maître assistant 〔主任助手とでも訳せようか〕だが、その地位を得るには相当の選抜が待っていた。つまり、何人もいる助手のなかで、主任助手になれるのはひとりだけ、というような状況のなかにいた)。「自分は高校(リセ)で教えることは何でもない。少し若いひとたちに教える、というだけのことだ」と言っていた。社会的地位に恬淡としたかれの思いとともに(かれは准教授のまま退職した)、右に記したかれの学問的野心にも由来する言葉だ。ギリシア語ならギリシア語の核心的な個性をいかにして教えるか、という教育法の開拓が関心事だったから、授業は、毎回、自分でタイプライターを打って作成したプリントを教材としていた。その工夫の蓄積は、やがて(わたしの手元にあるかぎりでは)2冊の実習書として結実したが(いずれも Fernand Nathan 社刊)、それはかれが手づから作成したプリントをそのまま製版して作られている。

 

かれの人生観は、原始人の生活形態を思わせた。特異なものではなく、多くのひとがそう思いそのように生きてきたありかただが(最近はフェミニストから攻撃されているものでもある)、言葉にして語られると個性的に聞こえた。曰く、男は狩りに出て獲物をとってくる、女は子供を育てる、というような語り口だった。かれにとっては何より家庭が大事で、大学での研究や教育も、家庭を守るためのように見えた。そのころ、かれら夫婦には、男女2人ずつ、4人の子供がいて、当時は珍しかったボックス型の車で移動していた。わたしがペルネ家と親しくなったのは、留学して半年が経ったところで、家族がエックスに来てからだ。ペルネさんは、われわれ異国の家族に、フランスの普通の家庭生活がどのようなものかを教えてやらなければならない、と思ったらしい。ピクニックに誘ってくれた。当時わたしは「ピクニック」の何たるかを正確に理解してはいなかった。少人数の友人たちとの遠足、言い換えればハイキングの別名というくらいに考えていたが、大事なのは、食事を用意して行って外で食べることだった。その当日、多分天気が悪かったのだろう、郊外のカフェで、互いに用意した食事を交換しつつ食べた。ヒロコは海苔を巻いたおにぎりを主に、彩りゆたかな運動会風の弁当を用意した。そして、ペルネ夫人からニース風サラダのレシピを教えてもらったのも、多分、このときだった(ふたりともニースの出身だった)。ペルネさんによれば「ピクニックを受入れてくれるカフェがある」ということだった。説明の必要はあるまいが、その店の食べ物をとらない、ということで、この日は、飲み物もとらずに席料をはらったように思う。食事ついでに言い添えれば、かれはワインに一切手をつけなかった。父親が大酒飲みだったので、自分のなかにもその血が流れているのが怖い、とのことだった。わたしはその意志の力に感嘆した。

 

その日の午後だったか、別の日だったか、記憶は定かでないが、ペタンクに誘ってくれたこともある。野球のボールくらいの大きさの鉄製のボールを投げ、カーリングのように相手の球をはじきながら、ゴールに接近することを競う遊びで、南仏のローカルで伝統的なゲームだ。公園があればどこでも誰かがやっているほどポピュラーで、簡単そうに見えたが、やってみると結構難しかった(そのとき初めて、ゲームのルールに従い、かれを「リュシアン」と呼んだ)。そのとき連れて行かれた公園がどこだったのか、まったく覚えがないが、周りを灌木や立木に囲まれていて、その辺りにもちらほら人影があった。「かれらが何をしているか分かるか」と訊かれたが、皆目見当がつかなかった。そのひとたちは食用にかたつむり(エスカルゴ)を採っているひとたちで、特に雨上がりのときにかたつむりが出て来る、とのことだった。また、ずっとあとになって、お嬢さんがエックスの教会で結婚式を挙げるとき、縁者や友人たちに送った案内状を日本に送ってくれた。喜びを分かち合ってほしかったに相違ないが、結婚式のときにはこういう手紙を出し、こういう次第で行う、ということをわたしに教えてくれるものでもあった、と思う。

 

こんな具合に家庭人のペルネさんだが、異例の秀才だった。どのような文脈で聴いたのが覚えていないが、かれはPhD相当の博士号をもち、若くしてC.A.P.E.S.とアグレガシオンに合格していた。前者は長い名称の頭文字をとったものだが、普通に「キャペス」と呼ぶ。仏和辞典は「中等教育教員適性証」と訳している。「アグレガシオン」の方は「〔中・高等教育〕教授資格」だ。しかし、これがいかなる「適性」や「資格」であるのかは、よく分からない。アグレガシオンをもたない大学教授がいるからである。また、アグレガシオンをもっているからといって大学に職を得られる保証はない。では、何のための「資格」なのか。旧友のマリヴォンヌ・セゾンに訊ねてみた。長い説明をくれたが、この曖昧さは消えない。彼女がミケル・デュフレンヌの後を襲うようにナンテール(パリ第十大学)に任命されたとき、23歳でアグレガシオンの試験に合格していることを審査員に高く評価されたとのことだった。このように質問しなければ語ってくれることはなかったろう。わたしは彼女への尊敬の念を新たにした。要は、アグレガシオンをもっているからといって大学の職は保証されないが、その採用にあたって有利に働く(かもしれない)、また、持たずに大学に職を得たとしても、その事実は同僚たちに記憶されているらしい。これも「ディスタンクシオン」(社会的な区別)のひとつだ。

 

それがいかなるものかを理解していただくことが必要と思って、知り得たかぎりで簡潔に説明を試みたが、わたしがペルネさんを稀な秀才と思ったのは、より単純な知識というか、経験というか、によるものだった。ある日の授業のあと、同じ教室でキャペスとアグレガシオンの国家試験についてのガイダンスがあるというので、好奇心から覗いてみた。かなりの数の学生が集まった。他のことは覚えていないが、記憶に焼きついた一事がある。それは、フランス中の国立大学を列記し、その卒業生で前年のこの二つの試験(コンクール)に合格したひとの数を書き込んだ表である。多くのゼロが並んでいた。ペルネさんは、マリヴォンヌと同じように若くしてアグレガシオンを得たとびぬけた秀才だった。その分野は「古典文学」ではなく「文法」である。この違いもよく分からないが、「文法」のアグレガシオンは、フランス語と古典語の教授資格を認めるものらしい。ペルネさんが、そのキャリアの初期にカナダで教えたのは、フランス語だった、と聴いた気がする。

 

このようなわけで、ペルネさんは自信にあふれ、輝いていた。わたしが留学から帰国した数年後、国際美学会議に参加するために渡欧した夏、ペルネ一家はアルザスでヴァカンスを過ごしていた。そこに招かれ、ストラスブールまで迎えにきてくれた。宿をとってくれて、コルマールの街を案内してくれた(グリューネヴァルトを初めて観たのも、このときだ)。4人の子どもたちのために、毎年、フランスのなかの異なる地方で夏の家を借りて、ヴァカンスを過ごすとのことだった。狩人の家長は、教育パパでもあった。わたしのような留学生への優しさもその延長上のことだったと思う

 

大学の中でもペルネさんはしっかりした存在感を示していった。ともに40歳代の初めごろのことだったと思う、わたしはプロヴァンス大学の近代文学の或る教授に会ってみたいと思った。文学研究の方法としてレトリックを援用してらした、と記憶している(当時、わたしはレトリックに熱中していた)。ただ、その方のお名前は失念してしまったし、きっかけとなった論考も見つけ出せないので、調べるすべもない。ペルネさんはその先生のお宅に連れて行ってくれた。エックスの北側の丘陵の、セザンヌが画いたような森の中に、そのアパルトマンはあった。モダンな造りの建物で、富裕な感じがした。そのお宅を訪ねるのは、かれも初めてだったらしいが、ふたりが気安い間柄であることに、わたしは強い印象を受けた。プロヴァンス大学文学部の教授会がどのようなサイズで、どのような雰囲気の人間関係なのかは知らないが、ペルネさんはそこにしっかり座を占めているということが窺われた。

 

ペルネさんは、その教授の住居のようなアパルトマンを手に入れようという気はなかったと見える。わたしが留学して出会ったころ、かれはエックスの鉄道(ローカル線)の駅前広場に面した古い建物の2階に住んでいた。大学まで歩いて10分とかからない場所だった。互いに50歳代に入ったころ、ヒロコと次女のマイコと3人で訪ねたとき、一家は引っ越して、中心部から少しはなれた近代的な団地のなかに住んでいた。このとき、4人の子どもたちは既に独立していたが、歳の離れた5番目の子どもである小学生くらいの女の子と3人暮しだった。かつて差し上げた日本土産を取り出してきて見せられたのには驚いた。こちらが恥ずかしくなるようなささやかなプレゼントでも大切に保存してくれる、そういう細やかな気配りのひとだった。そして、お返しのようにプロヴァンスのテーブルセットを頂いた(いまも時折、これをテーブルに敷く)。この住居は快適だが手狭な感じがした。そのあと一家はもう一度、街からさらに離れたところに転居した。TGV(フランス版新幹線)が開通したことによって、イギリス人たちが大挙して押し寄せ、地価が高騰し、それとともに家賃も上がって、それまでの部屋に住めなくなった、という話だった(イギリス人の書いた『南仏プロヴァンスの12ヶ月』という本が世界的なベストセラーになったころのことだ)。最後のお宅をわたしは知らない。町の中心から歩いて30分くらいかかる、と言っていた。住居を購入する気があったなら、それは可能だったのではあるまいか。そうしておけば、このような不自由を味わうことはなかっただろう。

 

住宅問題がかれの失意を誘ったかどうかは分からない。しかし、その職業に関して、かれははっきりとした失意を味わった。そのような告白めいたメールをもらったことがある。これについては正確を期したいのだが、その時期のメールがどうしても見つからない。マシーンを乗り換えるとき、「引っ越し」を忘れたとしか思えない。だから、記憶で書くより仕方ない。細部は間違えるかもしれないが、核心にあるかれの気持は、正確に捉えているつもりだ。いま、かれからのメールは1通しか残っていない(ほかに、かれの死を伝えてくれた奥様のメールがある)。それは2001年末のもので、eメールを始めた最初の連絡だった。既にあの歳の離れた末っ子の女の子も家を出ていて、フランス中に散らばった子どもたちと連絡をとるのにメールは便利だ、というのがその動機だった。やはり家族第一だ。そのなかで、定年まで9年を残し、来年退職する、と告げていた。書きたい本が何点もあり、otium のためだ、と説明していた。閑暇を意味するこのラテン語は、隠棲や清閑などの文人の理念に近いように思うが、もとよりわたしに適切な語感があるわけではない。ただ、このように解すると、otium の哲学こそ、ペルネさんの人生をつらぬいていたものだ。そしてこの時点で、かれの otium 計画は光輝を放っていた。

 

2007年の早春、あるいは晩冬にエックスを訪ね、ペルネさんに会った。待ち合わせ場所に決めたラ・ロトンド(街の中心にある大きな噴水のあるロータリー)の歩道に立ち、車で来ると思って道路を見ていたら、背後から肩をたたかれた。30分の道のりを歩いてきたのだった(夫婦二人だけになり、もう車は不要になった、とのことだった)。このときかれは、既に何度か口腔癌の手術を受けていた。相変わらず快活に、粒状の癌を取る手術のことを語ったりした。ただ、早期に引退したことを悔やんでいた。学生との接触が消えた生活の空白感のためだろう、とわたしは解釈した。間違いなく日は傾き始めていた(くりかえすが、わたしはほぼ同年だ)。別れ道で手を振るかれの後ろ姿に、かつてのように力はみなぎっていなかった。わたしは、かれを日本に招こうと計画した。若かったころ、いつか日本に行きたい、と言われた言葉がずっと心の片隅にあったからだ。それに、かれのソポクレス論を語ってもらうのは愉しみでもあった。結局、この計画は成功しなかった。かれの方でも、体調を考えてのためらいがあったから、それを説得した挙句の果ての挫折には、すまないという思いが残った。そのやり取りのなかで、かれから次のような問いかけを受けた。〈きみは今の仕事に満足しているか、生まれ変わってもこの仕事を選ぶか〉というその問いには、深いイロニーの響きがあった。自分の仕事が社会のなかで重んじられなくなっていることへの失意を、言外に語っていた。

 

かつての快活な力強さは、自信に裏づけられたものだった。その自信は、自分の能力への自負のみによるものではない。その能力自体が社会的に認知された価値に則しているという確信が、前提としてある。いま、その確信が揺らいでいた。何があったのか。10年足らず前には、自信にあふれ、otium への期待に満ちていた。揺らいだのは、おそらく、その otium の哲学そのものだったろう。この世的な豊かさ(物質的な富や「名誉」)に背をむけてこその otiumの哲学である。幾つもあったはずの著作計画についても、何かを公刊したという報せは届かなかった。今の仕事に満足かというかれの問いかけは、古典的教養に関する世の中の風向きの変化を暗示していた。わたしは少なからず驚いた。ギリシア・ローマの古典の素養はフランス文化の根底をなしていたのではなかったか。わたしの返答は次のようなものだった、と思う。〈次の世でも、わたしは多分、同じ職業を選ぶのではないかと思う。少なくともいま、この仕事に満足している。また、ギリシアの古典に関する学殖について言えば、日本では深い尊敬の念を以て遇されている〉。これに対してペルネさんは、きみがうらやましいと返してきた。

 

かれがどのような経験をしたのか、なにゆえにあの慨嘆の思いを洩らしたのか、それは分からない。しかし、いま応えるとすると、わたしの返答はかなり違ったものになったかもしれない。少なくとも、ことの現実がはるかに複雑であることが分かり始めているし、それに応じて、かれの失意の思いに共鳴するところがあるからだ。古典ギリシア語の研究者にして教師というあり方は、かつての日本における漢文の教師と似たところがあるだろう。高校生だったころ、漢文の先生方は戦後という新しい時代のなかで居心地が悪そうだった。それは東アジアの文化体系が、西洋的なものに取って代わられたことによる変化だった。今は状況が相当に変化しているはずだが、その変化もまた、諸文化を相対化する思潮に由来している。このアジア対西洋という文化的対立の契機は、フランスに於ける古典語の状況には無縁である。それでもなお、少し巨視的にみるなら、西洋社会においても、文化相対主義は広まり、価値の普遍性の理念に立脚する古典的教養の退潮は否定しがたい。ルネッサンスに由来する古典的教養は、近代社会の柱のひとつであり、ひとの「ディスタンクシオン」を規定する重要な原理だった。その原理を支えたのは、無言の敬意である。その敬意そのものを破壊する暴力的な言辞が、いま、蔓延している。もちろん、わたしはフランス社会の現状を知っているわけではない。いま身の回りで起こっていること、アメリカで起こっていることの報道などから、類推しているだけだ。ペルネさんは1市民として誠実に生き、知識人として創造的に仕事をした。その秀才に失望を味わわせるのは、仕方のないことだったのだろうか。

 

70歳に1年届かない年の春、ちょうどわれわれ一家をピクニックに誘ってくれたのと同じ花の季節だ。プロヴァンスの春は、アプリコット、さくらんぼう、アーモンドの花々が咲き乱れる。いのちの再生するその季節に、かれは死の床にあった。枕辺には夫人と、フランス各地から戻った5人の子供らが見守った。かれの末期がんは激痛をもたらした。夫人は “il s’est battu comme un diable” と伝えてきた(ただし、それは心がやや落ち着いた3か月後のことではあった)。直訳すれば「悪魔のように闘った」となるが、「烈しく抗った」という意味らしい。それでも「悪魔のように」という言い回しが頭から離れない。そのニュアンスが分かっているわけではない。それでも、それは七転八倒する苦痛を活写しているように響く。かれが逝ったのは、「もう逝ってもいいのよ」という夫人のつらいことばに誘われてのことだった、という。

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著者略歴

  1. 佐々木健一

    1943年(昭和18年)、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文科学研究科修了。東京大学文学部助手、埼玉大学助教授、東京大学文学部助教授、同大学大学院人文社会系研究科教授、日本大学文理学部教授を経て、東京大学名誉教授。美学会会長、国際美学連盟会長、日本18世紀学会代表幹事、国際哲学会連合(FISP)副会長を歴任。専攻、美学、フランス思想史。
    著書『せりふの構造』(講談社学術文庫、サントリー学芸賞)、『作品の哲学』(東京大学出版会)、『演出の時代』(春秋社)、『美学辞典』(東京大学出版会)、『エスニックの次元』(勁草書房)、『ミモザ幻想』(勁草書房)、『フランスを中心とする18世紀美学史の研究――ウァトーからモーツァルトへ』(岩波書店)、『タイトルの魔力』(中公新書)、『日本的感性』(中公新書)、『ディドロ『絵画論』の研究』(中央公論美術出版)、『論文ゼミナール』(東京大学出版会)、『美学への招待 増補版』(中公新書)、『とりどりの肖像』(春秋社)、ほか。

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