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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

ゲームについて大真面目に考えた人たち

  人生はクソゲーだと言う人も、いや神ゲーだろうと言う人も、「人生はゲームだ」という点では同じ穴のムジナです。彼らに真っ向から反論するためには、「人生はそもそもゲームじゃない」と主張することが近道かもしれません。しかし、私はそのような近道を通りたくありません。

 

 「人生がゲームかどうか」ということを考えるために、今回はウィトゲンシュタイン、バーナード・スーツ、平尾昌宏という三人の哲学者がゲームについて考えたことを検討したいと思います。そもそも「ゲーム」という言葉を哲学界隈で多用したのが、晩年のウィトゲンシュタインでした。彼がゲームに着目したのは、ゲームには厳密な定義がないと考えていたからです。サッカーのようなゲームもあればチェスのようなゲームもありますが、子供がただなんとなく壁にボールを打ち付けている行為も、ウィトゲンシュタインはゲームと見なしています。

 

 ウィトゲンシュタインによる対象の広大なゲーム解釈に反論しているのがバーナード・スーツです。私は彼の反論に同意できませんが、彼の「ゲーム内部的態度」という専門用語はこの連載にとって大事なヒントを与えると思っています。人生がどのようなゲームであるかは、プレイヤーたち(つまり私たち)がどのような態度で生きているかに関わってくるからです。

 

 最後の平尾昌宏さんの『人生はゲームなのだろうか?』という一冊は私が論じたいことと被ることも少なくないですが、厳しく評価しました。結論から言えば、平尾さんは「人生はゲームじゃない」と言っています。

 

ウィトゲンシュタインと言語ゲーム

 まずこの連載について大事なヒントとなるウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念について考えたいと思います。この概念が導入されるのは、晩年の著書である『哲学探究』です。やや長くなりますが、ここでは私の解釈を交えながら『哲学探究』の23から引用したいと思います。

 

 「「言語ゲーム、、、」ということばは、ここでは、言語を話す、、ということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることを、はっきりさせるのでなくてはならない。」

(藤本隆志訳「哲学探究」『ウィトゲンシュタイン全集8』、大修館書店、1976年、82頁)

 

 ウィトゲンシュタインはここでまず、なぜ「言語ゲーム」(ドイツ語では“Sprachspiel”)という言葉を使っているのか理由を説明します。

 『論考』を書いていた頃、彼の眼中にあった言語はもっぱら世界の図のようなものだったのではないでしょうか。「地球は丸い」や「太陽は東から登る」といった命題こそ、初期ウィトゲンシュタインにとって有意味でした。その一方、言語という図でどうしても語り得ない領域がありました。それは例えば、図そのものだったのです。図では世界を語ることができても、図自体は示すことしかできない。だからこそ、「語り得ないことについては沈黙するしかない」という図自体について語ってしまった文だって、本来は沈黙によって示すしかなかったはずです。

 『哲学探究』を書いた時点のウィトゲンシュタインの言語に対する見方は過去のそれと比べてだいぶ変わっています。若きウィトゲンシュタインがまるで世界の外側に立っているつもりでその図を作ろうとしていたのに対して、晩年のウィトゲンシュタインは言葉を話すというその行為自体が世界の内側でなされていることに気づいています。言葉を話すとは生活様式(Lebensform、「生の型」とも訳せる)の一部であるとはそういうことでしょう。ここからウィトゲンシュタインは、様々な言語活動の具体例を取り上げています。

 

 「言語ゲームの多様性を次のような諸例、その他に即して思い描いてみよ。

  命令する、そして、命令にしたがって行為する――

  ある対象を熟視し、あるいは計量したとおりに、記述する――

  ある対象をある記述(素描)によって構成する――

  ある出来事を報告する――

  その出来事について推測を行う――

  ある仮設(ママ)を立て、検証する――

  ある実験の諸結果を表や図によって表現する――

  物語を創作し、読む――

  劇を演ずる――

  輪唱する――

  謎をとく――

  冗談を言い、噂をする――

  算術の応用問題を解く――

  ある言語を他の言語へ翻訳する――

  乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。

――言語という道具とその使いかたの多様性、語や文章の種類の多様性を、論理学者が言語の構造について述べていることと比較するのは、興味ぶかいことである。(さらにまた『論理哲学論考』の著者が述べていることとも。)」(32–33頁)

 

 「おはよう」「おやすみ」「お願い」「ありがとう」「ごめん」「よいしょ」「ルンルン」「黙れ」「このやろう!」「いたたたたた」……このように、私たちが生活の中で行っている言語ゲームは非常に多様で、決して「世界の図を作る」用途に限ったものではありません。山頂まで登り切った時の「ヤッホー」も、お坊さんが意味もわからずとなえている呪文も、臨済禅師の「カーッ」という叫びも一つの言語ゲームです。では、それらのゲームに共通しているのはなんだろうか? 全てのゲームに共通しているものは、実はないということを説明するためにこそ、ウィトゲンシュタインはゲーム(ドイツ語では“Spiel”)という言葉をここで使っているのです。

 

考えるな、見よ!

 『哲学探究』の66で、ウィトゲンシュタインはこう書いています。

 

「たとえば、われわれが「ゲーム〔遊戯〕」と呼んでいる出来事を一度考察してみよ。盤ゲーム、カード・ゲーム、球戯、競技、等々のことである。何がこれらすべてに共通なのか。――「何かがそれらに共通でなくてはならない、、、、、、、、、、、、そうでなければ、それらを〈ゲーム〉とはいわない」などと言ってはならない――それらすべてに何か共通なものがあるかどうか、見よ、、。――なぜなら、それらを注視すれば、すべて、、、に共通なものは見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかもそれらの全系列を見るだろうからである。すでに述べたように、考えるな、見よ!」(69頁)

 

 最後の「考えるな、見よ!」はまるで目の前の師匠が弟子に投げかけるような叱咤のようにも聞こえます。つまり、「ゲーム」について考える前に、私たちが生活の中でどのように、どのようなゲームをしているかをまず観察せよということです。そうすれば、「共通項があるはずだ、、、」というのは単なる先入観でしかなかったことにも気づくであろう、と。

 

 ここで注目したいのが、「ゲーム〔遊戯〕」という訳語です。『哲学探究』の原文はドイツ語ですが、ウィトゲンシュタインがここで使っているSpielという言葉は英語にはGameと訳されています。その訳語がそのまま日本語としても使われていることが厄介だと、私は思っています。なぜなら、原文のSpielにはもちろん「ゲーム」という意味もありますが、遊戯、演技、演出、プレイ、悪戯も全てドイツ語ではSpielと言われています。Das Spiel der Wellen は波の戯れ、Das Spiel der Blätter im Windは風に吹かれる木の葉のそよぎを指します。Die Schraube hat Spiel(このネジにはあそびがある)と言った場合、Spielには「余裕」や「ゆとり」、あるいは「緩い」という意味もあります。英語由来の「ゲーム」にはそれらの一部の意味しかないので、ウィトゲンシュタインがここで言いたい一番肝心なことが、ややもすると見落とされがちかもしれません。

 

 ウィトゲンシュタインは続けます。

 

「たとえば、盤ゲームをその多様な連関性ともども注視せよ。次いで、カード・ゲームへ移れ。そこでは最初の一群との対応をたくさん見出すであろうが、共通の特性がたくさん姿を消して、別の特性が現れてくる。そこで球戯へ移っていけば、共通なものが多く残るが、しかし、たくさんのものが失なわれていく。――これらすべてが〈娯楽、、〉なのか。チェスとミューレ〔三目並べ〕を比較せよ。あるいは、どこでも勝ち負けとか、競技者間の競争があるのか。ペイシェンス〔神経衰弱のような一種のカルタ遊び〕を考えてみよ。球戯には勝ち負けがあるが、子供がボールを壁に投げつけて再び受けとめている場合には、この特性は消え失せている。技倆や運がどのような役割を果しているかを見よ。そして、チェス競技における技倆とテニス競技における技倆とが、どれほどちがっているかを見よ。また、〔ひとが手をつないで行なう〕円陣ゲームを考えてみよ。ここには娯楽という要素があるが、しかし、どれほど多くの他の特性が消え失せていることか! このようにして、われわれは、この他にも実にたくさんのゲーム群を見てまわることができる。類似性が姿を現わすかと思えば、それが消え失せていくのを見るのである。

 すると、この考察の結果は、いまや次のようになる。われわれは、互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目を見、大まかな類似性やこまかな類似性を見ているのである、と。」(69–70頁)

 

定義されたゲームは、もはや本物のゲームではない

 ゲームの定義をしようとすると、「ルールがある」「勝ち負けがある」「終わりがある」「リセットができる」「楽しい」などなど、様々な条件が考えられますが、それらはウィトゲンシュタインが実際に考察している「ゲーム」(厳密には、「ゲーム」の範囲を超えた「シュピール」(Spiel)もそこに含まれていますが)の一部には当たるものの、それが当たらないゲームもあります。

 彼が取り上げている例の中でとりわけ興味深いのが、「子供がボールを壁に投げつけて再び受けとめている」ゲームです。この場合、子供はおそらくルールや目的も決めずに、一人で遊んでいるのではないでしょうか。まるで、子猫が毛糸の玉と遊んでいるように。そして円陣ゲームも興味深いと思います。ドイツ語ではReigenspielですが、それは先の輪唱する(Reigen singen)という言語ゲームとほぼ同じ意味です。幼い子供たちが歌を歌いながら、輪を作って踊っているという遊びです。ウィトゲンシュタインはここで取り上げていませんが、『哲学探究』の23で出てきた「劇を演ずる(Theater spielen)」というのもSpielの一つです。

 

スーツの反論

 さて、「考えるな、見よ!」というウィトゲンシュタインに疑問を投げかける人もいます。バーナード・スーツというカナダの哲学者はその一人です。スーツに言わせれば、ウィトゲンシュタインこそゲームについて考察することを放棄し、その実態をちゃんと見ていなかった、と。

 スーツの唯一の著書である『キリギリスの哲学』は1978年に初版が発行され、2015年にようやくその日本語訳が出ました。「まえがき」では、まず「本書の大部分はゲームの理論(a theory of games)の定式化に費やされている」(ⅲ頁)と断っています。実際に、スーツによる「ゲーム」という概念の定義はその後、ゲーム理論に大きな影響を与え、スポーツ科学の分野で注目されたようです。しかし、この本の哲学的な意味の一つは、痛烈なウィトゲンシュタイン批判にあるのではないでしょうか。「まえかき」では、スーツはまず

 

「本書の志向は、言葉の伝統的な意味の一つにおいて哲学的である。すなわち、定義を発見し定式化する試みである」(ⅲ頁)

 

と断っています。その試みは、伝統的な意味での哲学というよりも、数学や自然科学のそれではないでしょうか? カオスに満ちている森羅万象に共通点を見出しては概念化し、法則を発見しては定式化すること。ところが、その態度を取ろうとするスーツは自分がまるで少数派に属しているかのような物言いをしています。

 

「むろん私は、定義を求める研究に関するかなり広範な幻滅が当今の哲学業界、それどころか知的業界全域に蔓延していることを承知している。そして、このアンチ定義的な態度の最も有力な(そして間違いなく最も風変わりな)主唱者は、ウィトゲンシュタインである。彼はよく知られているように、何かを定義しようとする試みの無益さをこれ以上なく示す実例として、ゲームを定義する試みを選んだ」(ⅲ頁)

 

 そして、先の『哲学探究』の「見よ!」(『キリギリスの哲学』では「じっくり見るのだ、、、、、、、、と訳されている)に言及し、スーツはウィトゲンシュタインに厳しい批判を浴びせます。

 

「不幸なことだが、ウィトゲンシュタイン自身はこれに従わなかった。たしかに、彼は見た。だが、ゲームが定義不可能だとあらかじめ決めてかかっていたので、ちらっと見ただけで、ほとんど何も見なかったのだ」(iv頁)

 

 後期ウィトゲンシュタインの言語哲学をごくごく簡単に要約すれば、次の通りではないでしょうか。言葉の意味は言語使用に先立つのではなく、逆に使用が意味に先立つ、と。言葉にあらかじめ意味があり、その意味に応じて私たちは言葉を使用している――というのが幻(いわば言語の定義主義)に過ぎない――それこそ、スーツの言う「アンチ定義主義」の正体でしょう。

 

 「定義を発見し定式化する試み」は自然科学が用いる人工的な言語においては重要なことかもしれませんが、私たちが日常的に使っている言葉の場合は、順序は逆でなければなりません。

 その例として、ウィトゲンシュタインはドイツ語のSpielを取り上げました。ボードゲーム、トランプゲーム、スポーツ、遊戯、演戯、ふざけ、ゆとり、自然の力などなど……これらの意味合いで使われているこの言葉の様々な使用例には家族的類似性こそあれ、一つの共通点もないとウィトゲンシュタインは気づきました。

 いや、この「気づき」こそ「あらかじめ決めてかかっていた」ウィトゲンシュタインの先入見に過ぎないと言うのがスーツです。その反論の出発点を簡単に言うと、「Aがゲームと呼ばれているかどうかと、Aがゲームであるかどうかは別問題である」という点です。つまり、日常の言語使用を盲目的に信じてはいけないというのが、スーツの立場です。

 

「xをゲームと呼ぶことによってそれがゲームになるわけではない、ゲームが除外する集合にxが属するのであればそれはゲームではない」(177頁)

 

 ゲームと呼ばれているものの中にはゲームではないものもあれば、ゲームと呼ばれていないものの中にもゲームはあるという訳です。

 彼は2つの例を取り上げています。100ヤード競走はスーツによればゲームの一種ですが、普段はゲームだと思われていないとスーツは言っています。

 オリンピック・ゲームの中には100メートル競走が含まれているため、私には「ゲームと呼ばれていないのに、実はゲームであるもの」の具体例として説得力を感じられません。

 一方で「ゲームと呼ばれているのにゲームではない」ものとしてリング・アラウンド・ザ・ロージーという円陣ゲーム(人と人が手を繋いで、歌を歌う遊び)を取り上げていますが、スーツはそれを「ゲーム」と見なすのに強く反対しています。

 

Lusory attitude――ゲーム内部的態度

 では、スーツが発見したと自負しているゲームという集合に共通しているものはなんでしょうか? その答えは、次の通りです。

 

「ゲームをプレイすることは、ルールの認める手段[ゲーム内部的手段]だけを使ってある特定の事態[前提的目標]を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率な手段を推す[構成的ルール]。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による[ゲーム内部的態度]。この定義のもっと簡潔な、いわばポータプル版も示しておこう。ゲームプレイとは、不必要な障害物を自ら望んで克服しようとする試みである」(37頁)

 

 専門用語の多いこの定義を、私はこのように理解しています。

 あらゆるゲームにはあらかじめ定められている(玉を穴に入れたり、人より早く走ったりするといったような)ゴールがあり、そしてそのゴールに到達するためにはルールによって許されている手段と許されていない手段(反則)がある。ゴールに一歩でも早く到達したいと考えた場合、ルールに従うよりももちろん反則を使ったほうが効率的だが、ゲームに参加しているプレイヤーたちはあえて非効率的な手段を取ることに同意する。一言で言えば、ゲームをプレイするということは、自分の意思で不必要な障害物を乗り越え、守らなくてもいいはずのルールを守り、到達しなくてもいいゴールにあえて到達しようとする試みである。

 最後に述べたゲーム参加への決意をスーツは英語でlusory attitudeと言い、『キリギリスの哲学』の日本語版ではそれが「ゲーム内部的態度」と訳されています。「ゲーム内在的な態度」(川谷茂樹)、「楽しもうとする心構え」(山本貴光)、「遊戯的態度」(山田貴裕)という別の訳語もあるようです(山田貴裕「プレイスタイルの裏切り――ゲームとプレイの哲学」『京都大学文学部哲学研究室紀要』第15巻、京都大学大学院文学研究科哲学研究室、2012年、24頁)。

 要は、しなくてもいいこと、無駄なこと、非効率的なこと、をあえてする態度です。何のためか? 答えはおそらく「楽しいから」しかないでしょう。それはつまりそのゲームをただ遊びたいがためだけに参加する気持ち、簡単に言えば「遊び心」です。人生でいえば、人生に不必要な障害を導入することに同意する態度を遊び心がある態度と言えるでしょう。

 

人生にはルールだけあって、ゴールはないのか

 実は、この連載を書き始める直前に、平尾昌宏著『人生はゲームなのだろうか』という一冊の新書本が出ました(ちくまプリマー新書、2022年)。バーナード・スーツと同様、平尾さんもまずゲームの定義を考察しています。ゲームには条件[1]「終わり=目的が定められている」と条件[2]「ルールやマニュアルがある」という二つの必要条件があると言っています。スーツの「前提的目標」やら「構成的規則」やら「ゲーム内部的態度」と比べれば、非常にわかりやすくかつすっきりした定義です。

 平尾さんは条件[2]について、人生には「してもよい・してはいけない」といった法律や道徳が確かに存在しているとしています。しかし、条件[1]については「生まれたときから、何かのために生きるかが決められているとは思えないですもんね」(51頁)と書いて否定しています。つまり、二つの必要条件のうち、一つだけしか満たされていないのです。したがって、人生はゲームじゃないというのが平尾さんの結論です。

 

 今の私には、この論証について詳しく検討する余裕も力もありそうにないのですが、私見をごく簡単に述べたいと思います。

 

 著者は「あとがき」の中で、「あつ森」や「マイクラ」のようなゲームに言及します。これらのゲームには、決まった目的もなければ終わりもありません。つまり、必要条件とされている条件[1]を明らかに満たしていないのです。それでもなお、「あつ森」や「マイクラ」をゲームと言えるかどうかが問題です。

 

 もしここで仮に、この「あつ森」や「マイクラ」を終わり=目的が定められていないけれどゲームだ、として認めてしまうならば、条件[1]を根拠に「人生はゲームじゃない」と言えなくなるはずです。条件[1]から「人生はゲームじゃない」と主張するためには、「あつ森」や「マイクラ」をゲームの範囲内から除外しなければなりません。スーツの言葉を借りるならば、「あつ森」や「マイクラ」はゲームと呼ばれている、、、、、、が、実はゲームではない、、、というわけです。

 そういうふうに答えてしまうと、ゲームの概念はスーツが提案したそれよりもさらに狭くなってしまいます。もちろん、ゲームの捉え方はそれぞれですから、平尾さんがこのように定義するのも自由です。しかし、人生がゲームである可能性について考えた時には、一応の目的はあるけれど、一生終わらないかもしれない「あつ森」や「マイクラ」のようなゲーム(?)がヒントを与えるのではないでしょうか。なぜならば、私がゲームと喩える家族づくり、国づくり、あるいは自分のSNSのフォロワーを増やすという行為も、それに似ているからです。

 

 条件[2]「ルールやマニュアルがある」について言えば、本の前半では一旦「人生にもやはり条件[2]がありそう」と認めていたものの、後半では「だけど、こうして見るとねぇ、ふーむ、人生ではどの決まりも、かなり揺れ動いたり、ブレがあったりするものであることが分かります」(150頁)と書いて、以前書いたことを撤回しているようにも見えます。ここを読むと、人生には人間が作っているゲームほどの明確なルールがないため、目的がないだけでなく、ゲーム特有のルールすらないと主張しているように見えます。

 しかし、私たちがゲームと呼んでいるものはそんな狭い範囲のものなのでしょうか? ウィトゲンシュタインが「ゲーム」という言葉を持ち出した理由は、そこにはルールや目的がはっきりしているものもあれば、それが全く見当たらないゲームもあるからです。「子供がボールを壁に投げつけて再び受けとめる」「円陣ゲーム」(バーナード・スーツが目の敵にしている「リング・アラウンド・ザ・ロージー」)などなど。

 

 「終わり=目的がないから、人生はゲームじゃない」というロジックが使われているのが、本の4つのパートのうちのパートIの終わりのところです。

 続くパートIIの途中では、ゲームには「プレイヤーが自発的に参加する」(86頁)という別の条件が加わり、著者はこの三つ目の条件を(最初の二つの必要条件と区別して)十分条件と呼んでいます(108頁)。

 

 「自発的に参加する」という条件[3]さえ満たされていれば、その行為がゲームと言えるのでしょうか。

 

 平尾さんは本の中で「掃除はゲームか」ということを検討しています。掃除好きな人ならば、掃除がしたいというそれだけの理由で掃除をすることもあるでしょう。この場合、掃除は明らかに条件[3]を満たしているため、ゲームと言わなければならないはずです。

 しかし、そういう「好きだからやっているだけ」の掃除も、「ゲームじゃない」と平尾さんは結論をします。なぜなら、「綺麗にする」という目的・ゴールがあるが、そこにルールがないからです。ただ、窓掃除の時には洗剤を使わないという自家製のルールが加われば、「それはゲームに近づきます」(106頁)。

 どうやら、平尾さんは条件[3]を十分条件ではなく、必要条件と見なしているようです。つまり、「ルールがある」も「目的=ゴールがある」も必要条件なら、「自主的に参加している」も単なる必要条件に過ぎません。条件[1][2][3]はそれぞれ必要条件で、全部揃っていれば初めて条件が満たされている……と考えているのでしょうか。

 

 「目的=ゴールがある」「ルールがある」「自主参加である」という三つの条件をそれぞれゲームの条件と考えたならば、ウィトゲンシュタインの円陣ゲームはもちろん、「あつ森」や「マイクラ」も、そして自主参加では「運動会」や「罰ゲーム」もゲームの範囲から外されます。

 それなら、プロスポーツも怪しくなってしまうでしょう。確かに、プレイヤーが自主的に契約を結んでいる時点では条件[3]が満たされていますが、そのあとはやめたくてもやめられないため、それはもはやゲームではなくただの仕事です。

 私たちが普段「ゲーム」と呼んでいるそれらの多くの行為が「実は、ゲームじゃない」となれば、人生がゲームではないということは当然としか言いようがありません。

 いずれにせよ、これまで三者を見てきたようにゲームの捉え方は人それぞれです。

 

 私が「人生というクソゲーを変えるための仏教」という連載を書いている意味はなんでしょうか? 私がここで提供しようとしているのは、人生の問いに対する仏教の答えではなかったはずです。仏教の物語を使って、人生というゲームに外側を与えたとしても、その外側を信じていないほとんどの人には答えにならないでしょう。

 答えがゲームの外側にないなら、ゲームの内側にあるのでしょうか? いや、ゲームの内部に目をつけるのではなく、プレイの仕方を自覚すべきではないでしょうか。仏教を使ってゲームを変えるのではなく、違った遊び方をするのが仏教だ、と私は思います。

 

 人生がクソゲーに見えるのは、人に勝てないからとか、楽しくないからとか、自分の意思で参加していないからとか、どうせいずれ終わってしまうからではない気がします。そうではなく、人生はクソゲーだと言ったその時に、私がもはや「勝たなければ意味がない」「楽しくなければ意味がない」というゲームしか視野に入れていないからこそ、クソゲーに思えてしまうのでしょう。ややもすると、ゲームの新たな必要条件や十分条件を探すあまり、ゲームがゲームになる前の遊び心を見失っているのかもしれません。

 子猫が毛糸と遊んでいるような、子供たちが「ららら」と歌いながら踊るような、広い海に向かって意味もなく石を投げるような、そういう「ゲーム」とも言えないSpielを物心ついたあたりから次第に忘れてしまっているのではないでしょうか?

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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