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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

釈尊はなぜ喋ってしまったのか?

説法をためらった釈尊

 釈尊が悟りを開いた後に、なぜ仏教を説くようになったのか。

 この問いの意味を理解できない仏教徒も少なくないでしょう。仏教徒であれば、まず「だって、そうしなければ仏教という尊い教えを我々のために残すことができなかったでしょう?」という風に反応するかもしれません。

 あるいは「お釈迦さまは慈悲の心から説法なさったのです」というおめでたいお坊様もいらっしゃるかもしれせん。しかし、それはもちろん釈尊が仏教を説いた理由には全然なっていません。仏教という「尊い教え」を「我々のために」残す必要なんて、どこにもなかったはずなのですから。前回書いたように、釈尊の説法の結果として成立した実践方法は解脱するためのゲームという形を取らざるを得ませんでした。凡夫のゲームからスタートし、そのゲームを終了すべく長い修行を経て、最後には預流(よる)・一来(いちらい)・不還(ふげん)・阿羅漢(あらかん)という4つのステージをクリアする。そうすれば、このメタ・ゲームの「勝利者」になるのだ……。煩悩欲望に溺れた凡夫からすれば、このメタ・ゲームは確かに一段上かもしれません。しかし、そこに「勝利者」が存在する以上、メタ・ゲームも所詮はゲームにすぎません。

 ましてや、仏教が一つの世界宗教として定着した時点で、各個人が解脱をするためのメタ・ゲームという趣きよりも、大衆が「ご利益にあやかるため」という、元の凡夫のゲームに限りなく近い形で各国に広まってしまっています。釈尊ですら、いや、釈尊だからこそ、仏教はそういう宗教に変身せざるを得ないということが分かっていたのではないでしょうか。慈悲の心があればこそ、説法という新たなゲームを始めることに躊躇していたのではないでしょうか。だからこそ、釈尊は(イエス・キリストなどと比較するまでもなく)布教について極めて消極的だったと思います。しかし、躊躇しながらも釈尊は説法をしてしまった。なぜか!? 慈悲の心からなのか、それとも出来心なのか。まさか、釈尊も結局、虚栄心に負けてしまったとは仏教徒としては絶対に考えたくありませんが……。

 

苦行というゲーム

 ここで今一度、釈尊の出家の動機から悟りまでの過程を振り返ってみたいと思います。

 王子としてお生まれになった若き釈尊はそのまま行けば、父の後をついで国王になれたはずです。父はそれを望み、国民もそれを望んでいたのでしょう。そうすれば、釈尊は全世界を自分の支配下に置くことができたと、後ほど制作された経典は主張しています。もちろん、その主張を鵜呑みにする必要は全くありません。釈迦族が支配していた王国の規模はそもそも非常に小さく、それが近い将来に隣国に侵略されることが若き釈尊の目に見えていたのではないかと指摘する人もいます。釈尊の出家がその国を滅ぼしたのではなく、その逆、国が滅びようとしていたのが釈尊の出家の動機であった、というわけです。

 釈迦国がこれから栄える見込みは実は最初からなく、釈尊も一国のリーダーとしての才能が全くなかったかもしれません。しかし、後ほど制作された経典が釈尊をカリスマ性に富んだリーダーのようにも描いているからこそ、世界ゲームの無意味さがより伝わります。仮に釈尊とその国が世界というゲームの中の最も力強いプレイヤーであったとしても、父のゲームがやがて終了するように、自分のゲームも終わってしまうということくらい、若き釈尊にははっきり見えていたのです。

 「ゲームは物足りない。ゲーム・オーバーになればすべて失われるという視点から考えれば、どんなにポイントを稼いでも意味がない。あるいは輪廻転生とカルマという形で、このゲームで稼いだポイントを次のゲームにいかすことができたとしても、その次も、その次の次も……というふうにゲームが永遠に繰り返されたらそのゲームは苦痛以外の何でもない。なんとかして、このゲームから降りたい」

 親のゲーム、国のゲームに付き合っても、結局ものたりないのは自分。この世に生まれたのも、歳をとるのも、病気して死ぬのも、全ては苦しい……そこが出発点であったはずです。釈尊が実際に出家されたのは、29歳の時です。考え方によっては異常に遅い時期です。子供の頃から生存競争を目の当たりにした釈尊は、おそらく思春期に入る前から「生きることは苦しい」という根本気分を持っていたのではないでしょうか。それでも親の期待に即して従姉妹と結婚し、子孫も残しました。決して思いつきでゲームから逃げたのではなく、それなりにゲームに参加してきたわけです。それでもやがてゲーム・スコアよりも「苦しみ(=ゲーム)から脱出したい」という気持ちが勝ってしまい、釈尊は苦行を始めています。しかし、誰にも負けないほど厳しい苦行をしても悟ることができなかったと言われています。

 断食をはじめ、体を様々な方法で苦しめて、しまいには呼吸を止めるというような苦行を釈尊が6年も続けていたにもかかわらず、なぜ悟ることができなかったのだろうか。その理由はまさに「悟るため」という目的のために、苦行という手段(=ゲーム)をしていたからではないでしょうか。ゲームを降りるために別のメタ・ゲームを始めても、永遠にゲームを降りられないということを釈尊は自ら経験しています。

 

釈尊は何を悟ったのか

 自分の苦行ゲームの限界を悟った釈尊にある日、スジャータという若い娘が乳粥を施しにきます。苦行者からすれば、絶対に口にしてはいけない大ご馳走ですが、釈尊はその施しを受け取るのです。それまで一緒に苦行に励んでいた5人の仲間たちは「あいつは堕落してしまった」と言って釈尊の側を離れてしまう。この時点で、釈尊は凡夫のゲームに続いて、苦行というメタ・ゲームも降りてしまったのです。かつてのゲームの仲間たちに捨てられた釈尊の気持ちは、出家した時と同じくらいすがすがしかったのではないでしょうか。

 菩提樹の下で腰をおろしていた釈尊はそれからしばらくして、悟りを開くことになります。釈尊の悟りが仏教、とりわけ禅にとって大事な役割を持っているのは言うまでもありません。釈尊の誕生にも、その苦悩と苦行にも、悟りを無くしてはなんの意味もないからです。しかし、その肝心な悟りの中身については経典の中では意外とはっきりしたことが書かれていないのです。そも、悟りを「曰く言い難し」と一種の神秘体験として捉える人もいれば、「十二因縁(じゅうにいんねん)を悟った」と言う人もいます。十二因縁とは、人間の存在のベースには無明(むみょう)・行(ぎょう)・識・名色(みょうしき)・六処(六入)・触(そく)・受・愛・取・有・生・老死という12の要素からなる因縁のクサリがあるというようなものですが、これも四聖諦と並んで原始仏教の経典によく出てくる教義です。しかし、どうしてこの12個(11個でも13個でもよかったはずです)なのか、どうしてこの順番なのかは極めて不透明で、昔から仏教の世界で議論されています。それこそ「釈尊と同じ悟りの立場でないと、いくら考えても分からない」という人も出てきますが、果たしてそう言い逃れする本人を「悟っている」と言えるかどうか……。

 それはともかく、釈尊自身は自分の「悟り体験」についてはほとんど言及していません。それもそのはずだ、と私は思います。その「悟り」なるものを語ってしまうと、それもゲームの中の特別賞にならざるを得なくなりますから。実際には、世界の中には「悟るために修行をする」というゲームに没頭する人は掃いて捨てるほどたくさんいます。そういう「修行」は釈尊がやめた「苦行」となんら変わらないことに、なぜ気づかないのでしょうか。

 

 それはともかく、釈尊はあらゆるゲームにうんざりし、苦行という最後のゲームからも降りてしまった。

 「あー、これでゲームが終わった」

 私には、この安堵の境地こそ釈尊の悟りに思えています。この安堵こそ、釈尊が得たニルヴァーナではなかったでしょうか。原始の経典の中には、その当時の気持ちとして「全てなすべきことをなし終えて」と書かれています。要するに、仕事(=ゲーム)が終わっていた。もうなにもする必要はなかった。

 専門用語としての涅槃(ニルヴァーナ)は二つの意味で使われています。一つ目の意味は生前の解脱です。もう少し控えめに言って「悟り」。釈尊が菩提樹下で得たものはこれです。

 もう一つの意味での涅槃は正確には般涅槃(はつねはん、パリニルヴァーナ)とも言われ、死後に再び生まれてこないこと、つまり存在が完全に消えてなくなることです。つまり、生きるというゲームが生理的に終了した(心臓が止まった、息が止まった)後に、再び生まれ変わってこないことです。

 

なぜニルヴァーナを後回しにしたのか?

 仏教の教えでは、死後の般涅槃のためには生前に涅槃を得ることが必要かつ十分条件なのです。つまり、生前に悟りを開いたものだけが死後に再び生まれてこなくて済みますし、一旦悟りを開いた者がこの世に戻ることはあり得ません。逆に言えば、悟りを開いていない者が死後に「無に帰する」という考え方は仏教的とは言えませんし(それはブッダと阿羅漢のみの特権)、悟った者が生きとし生けるものの救いのために、菩薩として再びこの世に現れることも教義上許されていません。

 菩薩として人のため世のために尽くすのはせいぜい悟るまでであって、悟った後ではそういう世直しも卒業しなければなりません。

 つまり、悟った釈尊は本来なら死を待つだけでよかったはずです。仮に自分が気付いた真理を人に説法しても、その真意を分かる人はいないだろうと信じていたとも言われています。ところが、悟って間もないお釈迦さまの前にはインドの最高神と言われている梵天が現れ、彼に「どうか、ダメもとで説法して欲しい」と頼んだそうです。いわゆる「梵天勧請」です。そして釈尊はこのお願いを聞き入れ、仲違いしていた5人に説法しました(初転法輪)。その説法を誰も理解できないであろうと確信していたにもかかわらず、5人のうちの1人であるコンダンニャはなんと「生ずるものはすべて滅するものである」という釈尊のお言葉を聞いただけで悟ってしまったのだそうです。その後、釈尊の布教活動は40年以上にもわたり、多くの弟子たちを救いの道へと導くことになったのです。

 しかし、それでもなおなぜ釈尊が説法しはじめたのかが問題です。梵天といえども、インドの神々はゲームの中の存在にすぎません。ブッダはなぜ、プレイヤーの1人に過ぎない梵天のお願いを断れなかったのでしょうか。なぜそのまま完全なニルヴァーナ(般涅槃)に入らず、40年以上もこの世に留まっていたのでしょうか。

 考えられる答えは、二つほどあります。

 「好きでそうしていた」というのが一つです。釈尊はもちろん、梵天に従う必要は全くないので、説法しないで入滅しようと思えばできたのです。しかし、どういうわけか、釈尊は寿命が続く間この世に留まることを選んだのです。それは釈尊のいわば「遊び心」だった。しかし、もしこれが本当の答えならば、釈尊が最初に戸惑っていたのはなんだったのか? 最終的に「好きで」説法を始めたのであれば、梵天の勧請を待たないで自発的に説法し始めてもよかったのではないでしょうか? ましてや、経典で描かれている釈尊は心優しいとはいえ、どちらかといえば内向的な、物静かな男として描かれています。今っぽくいえば、釈尊は陰キャです。そんな陰キャがどうして急に、ましてや自発的に人と関わろうと決めたのでしょうか?

 もう一つの答えは、釈尊はなぜか「そうせざるを得なかった」のです。おしゃべりも旅も特に「好き」と思えない釈尊の背中を「何か」が押してしまったのです。しかし、その何かが梵天であれなんであれ、釈尊以外の力が彼を他動的に働かせてしまったのであれば、彼を本当に解脱者と言えるのでしょうか。ゲームを降りたものは、もはやゲームの中のあらゆる力に支配されないはずです。にもかかわらず、経典のこの場面の描かれ方では、釈尊を説法に思い立たせたのは彼の悟りでも慈悲でもなく、あくまでも他動的な梵天の力だったのです。

 仏教の教えによれば、真理に気付いたものの中には縁覚と言われる人がいます。彼らはブッダと同じように、自らの修行の果てに悟るのですが、縁覚はブッダと違い他者の救いのためには何もしない。悟った真理について、一言も喋りません。ある意味では、ブッダよりもはるかに格好いい存在です。なぜなら、縁覚は潔いので、ゲームを降りた後に、説法や救済という余計なゲームを始めないからです。

 

大乗仏教という新たなゲーム

 釈尊が亡くなって500年経ってから、大乗仏教という新しい宗教運動が起こります。大乗仏教ではブッダになるための最終ステージを声聞、縁覚、菩薩そして仏(ブッダ)という風に分けます。声聞という言葉は、初期仏教の仏弟子たちをやや批判的に指している言葉です。ブッダの教えを聞いて、それを文字通りに守りながら自らの解脱のために励んでいる「修行ゲームのプレイヤーたち」です。阿羅漢もその中に含まれているのでしょう。

 縁覚すなわち「喋らないブッダたち」はその一段上に置かれますが、ブッダの位にははるかに届きません。その理由は何か? 一つ言えるのは、仏教の自己弁護です。縁覚をブッダと同等、まして優位として認めてしまえば宗教としての仏教の存在意義が消えてしまいます。

 縁覚よりさらに上に位置付けられたのは菩薩です。菩薩とは、自らの解脱を後回しにし、人の救いのために励んでいるプレイヤーたちのことです。

 この菩薩のプレイには何の意味があるのだろうか? 釈尊の教えに従い、各々が阿羅漢の境地を目指す以外には道がないのでは? そもそも自分の修行は自分がするほかないので、人に尽くすために自分の修行を後回しにすればゲームが無意味に長引くだけではないか?

 なんにせよ「生きとし生けるもののために」「自分の救いは後回し」というその菩薩の言動ほど押し付けがましいものはなく、ブッダの境地から程遠い響きがしませんか?

 原始仏教では、預流・一来・不還・阿羅漢という最終ステージに辿り着くための通過点に過ぎなかった菩薩は、それでも大乗仏教ではなんと阿羅漢や縁覚より上位に位置付けられ、ブッダに限りなく近い存在と見なされています。

 その理由として考えられるのは、次のようなことです。

 釈尊はパーリ経典で確認できる説法の中では、確かに菩薩の実践をそれほど大事としなかったようです。「解脱ゲームには人助けはいらない!」それ言わんばかりか、釈尊はもっぱら各人の解脱のための実践だけを説いたようです。

 ところが、釈尊の言語による説法の内容がすべてなら、釈尊自身が悟った後に40年間も説法し続けた事実はなんだったか、という謎が解けません。大乗仏教の立場から考えると、釈尊の説法の内容と、その説法活動自体にはこういう関係があります。釈尊は口では声聞たちに解脱のための実践方法を説法しましたが、その実践方法は菩薩の実践ではなかった。しかし、背中では菩薩を説いたのです。なぜなら、釈尊ご自身がブッダになった後でも、菩薩を生きていたからです。つまり、釈尊の言葉から学んでいるのが声聞、釈尊の実物見本から学んでいるのが菩薩というわけです。

 

 大乗仏教が誕生してから、仏教というゲームがどう変わったか? 一言で言えば、仏教は陸上のような個人競技から団体競技に変わったのです。「チームのために、時には自分を犠牲にしなければいけない」というプレイが要求されてきました。しかし、それは「みんなのために、お前こそ犠牲になれ」という形で他人のゲームに口を挟んでみたり、「自分のために、「時には自分を犠牲にする」という真似(だけ)をする」という暗黙のルールを生み出したりしたのも事実です。

 

 「もし大乗仏教の教えが本当なら、なぜ釈尊が口でああ言い、背中でこう示したのだろうか? そんな煩わしいことをせず、最初から言葉の上でも菩薩の実践を勧めてもよかったのでは?」という人がいるかもしれません。ごもっともな反論です。ブッダが口ではなく、背中で菩薩を説いた理由があるのです。逆に菩薩の実践を背中ではなく、口で示していることこそ大乗仏教の最も危険なところです。

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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