なぜ自殺をしてはいけないのだろうか?
一切皆苦。ドイツ語には、Leben ist Leidenつまり「生きることは苦しむこと」と訳されます。
もう少し控えめに解釈すれば、この世に生まれるのも、歳を取るのも、病気して死ぬのも、どれも自分の意志でするわけではない。また、自分で選んだこの人生に対して「ああ、ほかの人生ではなく、この生老病死でちょうどよかった!」と思うこともまずない。「生きることは苦しむこと」が言い過ぎなら、生きることはなんとなく物足りないと言えば仏教の脱出ゲームに参加したくなる人も多くなるのではないでしょうか。
もちろん、仏教の脱出ゲームに参加したくない人や、そもそもその意味が分からないという人もいるでしょう。たとえば、こういう反論が予想されます。
①「生老病死のうちの老い、病と死に関してはなるほど、あまり楽しいイメージはない。しかし、その根本にある『生』は違う。僕は生まれたこと自体に文句はない。人生って、総じて考えた場合、苦しい側面よりも楽しい側面が多いのでは? 少なくとも僕自身はこの世に生まれたことをまったく後悔していないよ」
②「自分の意志でこの世に生まれたわけではない。それくらいは認めよう。年を取るのも、病気をするのもまあ仕方がない。しかし、そのことにそれほどの不満があるのなら、さっさと死ねばいいのではないか? 『生』は自分で選択できないけど、『死』はいつ、ほとんど、どの場合でも選択できるだろう」
今回はまず二つ目の反論についてじっくり考えたいと思います(一つ目の反論には次回戻る予定です)。
人生のWhy?とHow?
当たり前のことですが、この連載を読んでいる読者の皆さんは例外なく、ある過去の時点でこの世に生を受け、現時点ではまだ生きている最中のはずです。皆さんの中には、タイトルに同意して「人生はまさにクソゲーだ」と言う人もいれば「いや、神ゲーと言わないまでも、少なくともプレイしてみる価値はあるかもしれない」と言う人もいるのではないでしょうか。あるいは「人生はそもそもゲームではない」というご意見もおありでしょう。
つまり、「生まれてきてよかった」と言う人、「生まれてこない方がよかった」と言う人、「どちらともいえない」と言う人がいると思います。あなた自身は、そのうちのどれにあてはまりますか?
「生まれてきてよかった」という人のなかにはおそらく、人生のWhy?(「なぜ生きるのか?」)にそれほど関心のない人が多いでしょう。その人は生まれてきた事実に文句がないので、その理由をことさらに問題にする必要はまったくない。生まれてしまった事実は変えられないし、現にこうして生きているわけだから、いまさら「なぜ生きるのか?」と問うてもしょうがないじゃないか! そんなことより、人生のHow?を問うてみろ。振り返る暇なんてない! 日々前進するのみ、と。
その一方、人生のWhy?を問うことなく、そのHow toを論じても本末転倒だという人もいるはずです。「なぜ生きるのか?」という問題が解決されない限り、「いかに生きるか?」という問題には意味がない、と。
人生のWhy?に対して、「一人の女性と一人の男性が結ばれて、その結果としてたまたま僕が生まれたに過ぎない。それ以上でも以下でもない」というあっさりした回答を与える人もいるでしょう。もちろん、この「回答」は、なぜほかでもなく私がその二人の子として生まれたかという肝心の問いにまったく答えていません。それを問い詰めれば、おそらく「理由なんてないよ」と言われておしまい。
古くから「神による創造」とか「輪廻転生」といったご教示もあります。どちらも、やはり答えになっていない気がします。
「キリスト教が説くような、全知全能の神は果たして存在しているのだろうか?」「その神が存在したとしても、なぜその神がよりにもよってこの世を創造したのだろうか?」と重ねて問うこともできます。なんにせよ、全知全能の神によって創造されたわりには、この世界はあまりにも出来が悪すぎるのでは? あるいは百歩譲って、この不出来な世界が神によって創られたことを認めたとしましょう(いうまでもなく、仏教徒の私がそれを認めるわけではありませんが)。そうしたとしても、なぜこの世界のちょうどこの時代に私が誕生しなければならなかったかという疑問の答えにはなっていないでしょう。「被創造物の一人である、このどうしようもない一人はなぜ僕なのか?」という問いは未回答のまま。
輪廻転生にせよ、私がこの世に生まれた答えになっていないでしょう。前世のカルマの結果として、今の私がここにいると言ったって、そんな「前世」はなぜあったのか、「前々々々々々々々々世」がなぜあったのかという話になる。輪廻転生というポイント稼ぎゲームはなぜスタートしてしまったのか? 私はなぜほかのプレイヤーの誰かではなく、このプレイヤーとしてそのゲームに参加させられているのか!?
また、仏教の無我説は輪廻転生説をよけい理解しがたくしてしまいます。今ここの私は「無我」だから、そこに一貫した主体が存在しないという。つまり十年前の私と今のこの私は同じ「私」ではない。もっと言えば、昨日の私だってもはや私ではない。一刻いっこく移り変わってゆくこの現象を仮に「私」と呼んでいるに過ぎない。ならば、どうして私であるはずのない、前世の「誰か」のカルマの結果を今ここの私が生きなければいけないだろうか。昔から提起されているこの問題に対しては、仏教哲学は様々な解決策を提案してきましたが、本当に納得するような答えには、私はいまだに出会ったことがありません。
つまり、人生のWhy?に対する答えは結局、「なぜだかそうなっている!」でしかない。
毒矢をどう抜く?
仏教には有名な毒矢の比喩があります。この世に生まれてしまった事実を、毒矢が身に刺さっていることに例えているわけです。そこで「なぜこの矢が私に刺さっているのか」「矢を放ったのは誰か」「その理由はなにか」「その毒の正体は……」といつまでも問い続けても、毒が回ってやがて死んでしまう。なぜだかわからないが、身に刺さってしまったこの毒矢を抜くことが先決だというのがこの比喩の言いたいところでしょう。つまり、仏教も結局Why?よりHow?というふうに問題意識をシフトさせようとしています。しかし、最初からこのWhy?を疑問に思わない人(身に毒矢が刺さっている覚えのない人)には、仏教も響いてこないでしょう。
この気づきと実践の過程を仏教で、昔から「苦・集・滅・道(く・じゅう・めつ・どう)」というフォーミュラで表しています。パーリ経典のどのテキストにも必ずと言っていいほど登場する、いわゆる四聖諦(ししょうたい)です。
「苦」とは物心ついてしまった誰にでも立ちはだかっているWhy? です。旧約聖書によれば、アダムとイブは智慧の実のなる木から禁じられた果物を食べてしまい、楽園から追放されてしまった。その時、まさに毒矢に刺されてしまったのではないだろうか? なぜこの僕が、なぜこの私が、裸でイバラだらけの世界に放り出されてしまわなければならないのか?
仏教は苦の問題に、「集」という一応の理由を与えています。簡単に言えば、「執着があるから苦しみが生じる」。もちろん、そこでは「なぜそもそも執着があるのか?」という次の問題が発生しますが、そういう問題提起の方向性を変えるためにこそ毒矢の比喩が使われていたはずです。なぜ執着をするのかではなく、いかに執着を減らすか――Why?からHow?へ、それが「滅」のポイントです。そして最後の「道」はまさにその「執着」を減らすための実践方法です。具体的には、正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)と正定(しょうじょう)という八つの道です。
さまざまな解釈はありますが、正語・正業・正命(正しい言葉遣い、行いと生活態度)はいわば日常における実践の心構えです。仏教でいう「戒」もこれにあたります。
正精進・正念・正定は坐禅を中心とした修行面です。精進は努力、念は今で言うマインドフルネス(心が今ここに気づいていること)、定は精神の安定、平穏さです。
最初の二つ、正見と正思は仏の見方、仏の世界観。仏教で言うと、「戒」と「定」に続く「慧(え)」すなわち仏の覚りです。
ここでもまた、「そもそも八正道の『正』とは何か?」というややこしい議論を始めることもできます。師匠が弟子を厳しく叱っても「正語」に反しないだろうか? 正しい坐禅とそうでない坐禅の区別は何か? 「嘘も方便」と言われるくらいだから最初から「正」も「不正」もないのでは? むしろこうして「正」と「不正」を分別している心こそ一番いけないのでは?……釈尊なら、このような問いにどうお答えになられていたのでしょうか。おそらく「そのディスカッションはもうよしなさい、それより実践に励んでは?」ではないでしょうか。
仏教の教えの中には、八正道のほかにも八大人覚というのがあります。こちらは少欲、知足、遠離(おんり)、精進、不忘念(ふもうねん)、禅定(ぜんじょう)、智慧と不戯論(ふけろん)からなっています。
一番有名なのは、やはり最初の「少欲」と「知足」でしょう。八正道では中心をなしていた日常生活における実践的な心構えです。それをこのように最初に置くのが理にかなっているようにも思えます。
それに続く「遠離」もしくは楽寂静(ぎょうじゃくじょう)、「精進」、「不忘念」と「禅定」とは静かな環境の中の瞑想実践です。少欲知足の生活の中心に、坐禅という芯がある。
その結果として得られるのが、「智慧」すなわち悟りです。ところが、八大人覚の場合は最後に「不戯論」が置かれていることがポイントではないでしょうか。それは悪く言えば、「正とは?」「不正とは?」「妄念とは?」「禅定とは?」「智慧とは?」というごもっともな問題提起をもみ消そうとする試みと言えなくもないですが、私はむしろ仏教史の中で長く繰り返された戯論としか言いようのないディスカッションから学んだ智慧だと思うのです。
私事で恐縮ですが、私は22歳から52歳まで兵庫県の山間部にある安泰寺というお寺にお世話になりました。毎年12月から3月まで雪籠りをするのが常例でした。その間、坐禅ももちろんしますが、禅寺としては珍しく薪ストーブを囲んでの勉強会がほぼ毎日開かれています。普段のお寺では棒読みすることはあっても、きちんと読んでいないお経の一字一句の意味を紐解き、自分の生活と照らし合わせる貴重な機会です。それこそ「坐禅とは」「修行とは」「悟りとは」と大いに議論しあえる機会でもありますが、それがいつの間にか議論のための議論、つまり「論破ゲーム」に成り下がってしまう経験をしたことは一度や二度ではありません。ですので、最後に「不戯論」で釘を刺そうとした八大人覚にはうなずかずにいられません。
それはともかく、一度も人生のWhy?という問いに躓いたことのない人は、自らの人生を根本からHow?で問うこともできないのではないでしょうか。答えのないWhy?から出発し、How?という実践的な問い方に進む。How?の実践の中で、Why?という最初の問題が解決されるというより、消化される。その肝心かなめな人生問題はやがて戯論に思えてしまい、そして消滅する。そういう段取りを踏まないで、いきなり「よりよく生きよう」「より強く生きよう」というHow toから始めても、いずれか消化されなかったWhy?という問いが頭を出すかもしれません。
死ねばいいのに!?
「この世に生まれた以上は、Why?と問うてもしょうがない。それよりなにより、前を向いて八正道を実践せよ。毒矢を抜け!」――そんなことを言ったって、人生の選択肢の中にはいつでも自死(自殺)するというオプションもある。生まれてしまった事実は変えられないが、ゲームを終えようと思えばいつでも終えられるではないか? そういうごもっともな意見もあるのではないでしょうか。
先ほどの二つの反論の②です。生きることが楽しいという人が、生きることが苦しいという別の人に向かって「じゃあ、死ねばいいじゃないか」と冷たく跳ね返すときもあれば、生きることが苦しいその本人が「いざというときは死ねばいい」という思いを返って安心材料としている場合もあるでしょう。子供のころの私もまさにそうでした。
では、仏教では自死(自殺)をどう考えているのでしょうか?
仏教は「抜苦与楽」つまり苦しみを取り除いて、安楽を与えることを勧めています。それならば、生きること自体が苦しく自ら死を求めている人の自死(自殺)を認め、安楽死も肯定しているはずですが、そうではありません。
その一つの理由は、自他とかかわらず、何ものにも害を加えてはいけないからです。
私見では、自らの選択とは言え「自死」はやはり自殺と思うのです。どういうことかと言えば、頭のてっぺんから足のつま先までの自分の全存在が「死にたい!」という一念に燃えたならば、その時から息を止めてそれこそ「自死」をすればいいはずなのに、なぜかこの簡単な方法で自死した人の話は聞いたことがありません。その理由は簡単で、肺や心臓など首より下の自分が死にたくないからです。「死にたい」と思っているのは頭で、その頭の一存で身体全体を殺してよいかどうか? じっくり断食でもして、頭と身体とがじっくりにらめっこした末に死ぬことにしないと……そう考えているのは、仏教ではなく私自身です(ちなみに、私の場合は二週間が限度でした)。
仏教の答えはどうかというと、実はかなりファジーです。
お寺などでは、ジャータカを子供たちによく読み聞かせします。ギリシャのイソップ寓話にもよく似た、釈尊の数々の前世の物語です。例えば、火の中に飛び込むことによって、お聖さんに自分の体を食料として与えたウサギの話を聞いたことのある日本人は少なくないでしょう。似たような「いい話」がジャータカに続出しています。
あるいは涅槃経の中に出てくる雪山童子の話も有名です。ある時、雪山童子は鬼の口から「諸行無常、是生滅法」という仏の教えを聞きます。生まれたものは、かならず消えてなくなる。それこそこの世の生滅の正しい姿である。ゲームはいずれか終了してしまうということです――この二句のお言葉に衝撃を受けた雪山童子はその鬼に、教えの続きを教えてほしいと頼みますが、鬼は腹が減り過ぎてこれ以上は話せないと言います。どうしても人肉を食いたい、と。それを聞いた雪山童子は「私の身体でよければ」と言って、話の続きをお願いしたのです。ただし、死ぬ前には少しだけの時間が欲しいと言ったのです。
その時、鬼が教えた続きは「生滅滅巳、寂滅為楽」というさらなる二句でした。「勝った、負けた」「損した、得した」そのゲームが終わったところに、寂滅というニルヴァーナがあるということですね。それだけの話のために、果たして自分の身体を鬼に与える価値があったのだろうかと私などは思いますが、雪山童子は大いに喜んで、そのお言葉をそこらじゅうの木の幹や岩に彫ってから約束通りに鬼の犠牲になったのだそうです。
ジャータカの物語の中で出てくるこういった自死の場面はいずれも肯定的に描かれています。お聖さんの修行を支えるための献身、仏教でこの世を照らすための求道心の表れとしてかつてまだ菩薩だった釈尊は自死という手を選んでいるわけです。
「抜苦与楽」を教えに掲げる仏教が自死を否定しない理由は何だろう。それはおそらく、自ら死を選んでいるその生き物(ウサギや雪山童子)が、その死によって味わう苦しみよりも、その死によって得ている(あるいは与えている)「功徳」が勝っているからでしょう。ウサギの焼身よりお聖さんの満腹、雪山童子の余生より真実の教えがこの世に広まることが大事というわけです。
もちろん、ウサギや雪山童子の自死(自殺)は、現代人が望むようなゲーム・オーバーを意味しません。いずれも釈尊の前身の物語ですから、自死した後も彼らは次々生まれ変わり、菩薩の修行を続けているはずです。つまりジャータカの中で見られる自死(自殺)の例は、ゲームを直接に終了させることではなく、ブッダに近づくための方法だったのです。ゲームの脱出ではなく、「成仏ゲーム」の中のワン・シーンでしかありません。
仏教教団に集団自殺が!?
しかし、ゲーム脱出に直結している自死(自殺)もまたパーリ経典の中で見られています。ゴーディカ、ヴァッカリ、チャンナという三人の仏弟子はいずれも自らの首を切って自殺してしまっているのですが、釈尊は彼らが解脱して、生まれ変わっていないと言っているのです。つまりこの三人は悟りの最高段階まで上り詰めた後に、自ら死という選択を選んだのです。二度とこの世に返らない人を仏教では阿羅漢(あらかん)と言います。
長い間、生々流転したものがその苦しみに気づき、その原因を自らの執着に見いだし、その執着を減らすべく八正道に励む。その行く末、執着をゼロまで減らしたのが阿羅漢です。一生や二生では到達できないとされています。仏教の志を起こしてから、仏道の修行を経て、悟りをひらいて涅槃を得るまでに必要な時間は、一説では「三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)」と言われ、この宇宙が誕生してから今日までの時間よりも長い年数です。
それはともかく、あらゆる執着から解放されたはずの阿羅漢が果たして自らの首を切ってしまうだろうか、というのが問題です。阿羅漢にもはや「生きたい」という欲求がないのは当然かもしれませんが、「死にたい」という欲求もないはずです。長期の断食ならともかく、なぜ首を切るという強烈な手段が必要だったのだろうか? そう思うのは、おそらく私だけではないでしょう。仏教の学僧たちも、このことでだいぶ頭を痛めていたはずです。一説では、三人の比丘は決して阿羅漢として自殺をしたのではなく、自らの首を切ったその瞬間、その「いたい!」という思いによってこそ最後の悟りを得ることができ阿羅漢になったのだそうです。阿羅漢が自殺をしたのではなく、自殺者が死ぬ一歩手前で阿羅漢になった(そしてニルヴァーナを得た)というのです。かなり苦しい言い訳に聞こえなくもありませんが、それで一応理屈が合うことになるのでしょう。
それから、仏教の歴史に残る集団自殺事件もあるのです。初期仏典の中の雑阿含経によれば、釈尊は15日間に及ぶ「一人リトリート」の前夜に弟子たちに説法しました。その日はお馴染みの「一切皆苦」の教えに加え、身体がいかに汚れているかを強調しました。師匠の留守の間に誘惑に負けないように、肉体的な執着からの離脱を促していたのでしょう。
ところが、釈尊が一人で森林の中で瞑想している間、一日に何十人もの弟子たちがナイフや毒を使い、あるいは首つりや投身によって自殺を遂げた。またある仏弟子は修行仲間に「勇気がないなら、私に頼めばあなたを死なせてあげる」と言って60人もナイフで「安楽死」させたと、そのお経は伝えています。
15日ぶりにサンガに戻った釈尊は弟子の数が減ったことに驚き、愛弟子のアーナンダにその訳を訪ねます。そして真相を知ってから自殺行為の愚かさを戒めると同時に、自殺幇助をも厳しく禁じたのです。
ある時は自殺行為を肯定的に扱い、ある時にはそれを否定する。三人の比丘の場合には、「自殺が縁になって阿羅漢になった」と言う。仏教の自殺観はやはり筋が通っていない気がします。
どうして自殺を認めないのか?
人生というクソゲーを終了させることが仏教の狙いなら、どうして自殺を認めないのか?
いくつかの答えが考えられると思います。
まず一つ言えるのは、初期仏典の中で出てくるような集団自殺を釈尊が認めてしまったならば、教団は今日まで続かなかっただろうということ。もちろん、諸行無常を説く仏教ですから、教団がいつ消滅してもよかったはずです。しかし、そのときには生きとし生けるものの救いの方便として、教団をなるべく長く後世に残したいという釈尊のご慈悲が働いていたのではないでしょうか。
あるいは、多くの戒律がそうであるように、自殺の禁止も釈尊の滅後に初めて明文化された、教団の生存のために仕方なくとられた苦肉の策だったという可能性もあります。
教団内の仏弟子はひょっとして、こう考えていたかもしれません。ゲームを脱出するためには、自殺をした方が一番早いに決まっている。しかし、そうすれば教団はこの一代で終わってしまい、次世代の出口が見えなくなってしまう。それぞれの仏弟子にはせめて一生このゲームに付き合ってもらい、出口へのカギをバトンタッチしてもらおう。
あるいは、もっと単純だったかもしれません。初期の仏教教団の出家の条件は(今から比べても)かなり厳しかったようです。
まず出家するための最低年齢は20歳。当時の平均寿命から考えて決して若くない。多くの若者はその時点ではすでに結婚し、子供も持っていたはずです(釈尊もその例外ではなかった)。
出家には、親の同意が必要。しかし長男をはじめ、すでに結婚しているわが子の出家を許す親は多くないでしょう(だからこそ、自らの指を切ったりして親にその決意を示す子も出てくる)。
その出家した子供たちが釈尊の下で次々自殺してしまっては、平成日本のオウム騒ぎどころではなかったはずです。自殺を禁じて、メンバーたちが自然死するまでその面倒を見なければ、教団は在俗できなかったはずです。
自殺禁止がなければ、おそらく今日に仏教はなかったのでしょう。今日仏教があるためには、自殺禁止は(たとえ教義上不要であったとしても)必然でした。
仏教の立場から考えれば、話は変わります。教義の上からも、自殺を禁じる必要があったと、オーソドックスな仏教は言うでしょう。
断食のような消極的な方法を除けば自死は殺意を伴っていなければできません。その殺意は自分自身に向けられているとはいえ、その根源は執着です。執着を減らしてからでないと、死んでもゲーム・オーバーには至りません。なぜなら、執着は苦しみを生み、今生の苦しみは来世につながります。
もちろん、この説明は輪廻転生を前提にしないと意味がありません。来世を信じない人には、「次のゲームはさらに苦しくなるよ」と言っても効果はないでしょう。しかし、少なくとも私自身は理屈っぽい現代人にも仏教の話が届いてほしいと思います。なぜなら、私自身が現代人だからです。しかも理屈っぽいドイツ人の現代人。
現代人の私が考えること
古臭い迷信に興味がない、生臭坊主のお説教なんて聞きたくない――私と同様、読者の多くも考えておられると思います。それは私も皆さんも、信仰心より理屈っぽい頭の持ち主だからでしょう。
欧米ではもともと、仏教はキリスト教と違い自然科学との親和性が高いとよく言われます。あるいは昨今の日本でも、マインドフルネスに代表されるようないわば欧米化された仏教が注目されているようです。21世紀を生きるために役立つ、新しいブッディズムこそ知りたい、と。
無常や縁起を説く仏教は、量子論やカオス理論に問題なく対応している。無我の教えは、最先端の脳科学にも裏付けられているとか。
少なくとも、私のような欧米人のインテリの中には「仏教には、科学に対応してほしい」「対応してもらわなければ困る」という人は少なくないと思います。キリスト教の反知性主義な匂いにうんざりし、自然科学と矛盾しない何らかの精神的な支えを求めている人が多いからです。お寺の行事など古くさい仏教に関心がない日本人の中にも、そういう人が増えているのではないでしょうか。
私のような頭でっかちなインテリ僧侶の前にまず立ちはだかるのは、輪廻転生説です。前世の行いの結果として、今の私が誕生した。今生の行いが原因となり、来世の行き先が決まる……しかし仏教の説く「諸行無常、諸法無我」が本当なら、その輪廻転生の主体であるはずの「私」は何か?
いや、ある生き物Aの「我」が死んだ後に別の生き物Bとして生まれ変わるのではない。そうではなく、生き物Aのカルマだけを、死後に誕生する生き物Bが引き継ぐのだ……というご説明を聞いたことはあります。常住の「我」はなく、無常・無我・縁起なるカルマがあるのみ。しかし、その話を聞いた生き物Aは「あとは知らない」と思いはしませんか? AとBを何らかの形でつなげておかないと、輪廻転生説の正味はなくなります。しかし、正味を持たせたところ無我説はどうなるか?
ですから、この説はそもそも仏教の核心ではないと言う人も少なくありません。私の周りには、「輪廻転生は方便に過ぎず、はっきり言って善良なうそだ」という近代的な僧侶もいれば、輪廻転生説を前提にしないと仏教が分からない(あるいは実践できない)という古風な僧侶もいます。
あるいは「死後の世界があるかないかは、いっぺん死んでみないと分からない」という人もいます。後者は良く言えば「穏やか」、悪く言えばお茶を濁していると評価すべきでしょうか。私もその一人です。
死後の世界はあるのだろうか?
正直に言って、私にはその答えが分からない。
本音を言えば、死後の世界はあまりあってほしくない。せいぜい100年で人生ゲームが終わってしまえば、それでいいような気がします。「もう一度チャンスを!」と言う人もいるでしょうが、私は決してそう思いません。だって、再び生まれ変わったところで楽しいこともたくさんあるでしょうが、苦労も多いでしょう。人生の甘いところも苦いところも、両方とも深く味わいたいというお方もいるかもしれません。私だって、一回や二回くらい生まれ変わったってかまいませんが、それが永遠に続く輪廻転生を想像すると、やはり億劫としか言いようがありません。しかし輪廻転生があったとしても、私はとくに困らない気がします。だって、生まれ変わったところで「生まれ変わった!」という気づきは持たれないはずです。現に、今こうして生きている私にはそんな気づきはどこにもなく、むしろ生まれる前には何もなかったような気がし、死後の世界も本当はないんじゃないかという楽観をしているわけです。地獄にせよ天国にせよ、その判断基準は前世との比較ではないでしょうか。
私がもし死後に生まれ変わったとして、そんな比較はできないはずです。だって、現に今も前世と今生を比較していない(できない)わけです。生まれ変わったところで、おそらく今生と同じように前世の記憶もなければ来世の予知もないでしょう。
来世が本当にあるとしたら、そこはいわば「今生の二番煎じ」でしかありません。しかも、その時点で私が「前世の二番煎じ」を味わっていることには、まったく気づかない。どの「生」も、その都度の私にとってはじめて味わう「一番煎じ」の生です。
言うまでもないことですが、死後の世界の有無が私個人の好みで決まるわけではありません。ゲームが一回で終わってしまうという考え方は、あまりにも楽観的でしょうか。
あるいは輪廻転生説には楽観主義や悲観主義とは別次元の、純粋なゲーム論理的な理由があるのかもしれません。自殺して簡単にゴールができる脱出ゲームより、よっぽど工夫しないと終えられない方が面白い。そういう意味では、仏教という脱出ゲームにとって輪廻転生は「あったほうがいい」。もちろん、その「いい」とは面白いという意味しかなく、面白いから正しいというわけではありません。