第1回
はじめに
書籍として出版する際には、最初に「序章」を置いて、まずはカント哲学全体の私の眼から見た概観を与えたいとも思うが、それは最後まで書いてからのほうがよいと思うので、この連載にかんしては、いきなり個別的な議論から始めることにしたい。これは、そのようにカントの個々の議論に即して私の観点からの疑念を提示していき、結果的に全体を「掘り崩す」ためのものである。掘り崩すことによって、カント自身が夢にも思っていなかった(であろう)その真の意義が掘り出される、と信じてのことである。
したがって、これをカント哲学への入門として使う方はあまりいないとは思うが、そのように使うこともできることは強調しておきたい。そういう入門の仕方こそが、ある哲学への最も有効な入門の仕方であるともいえるからだ。始めから解説言語で語られた平坦な説明からは哲学的な何ごとも学ぶことはできない。ちょうど芸術批評がそれ自体芸術作品でなければならず、そういうもののみがかろうじて作品への通路を開くのと同様、哲学もまたある独自の哲学的観点から批評されたときに始めて、対象への突破口がかろうじて開かれうる、と考えられるからである。私のカント批判からカントの真価がはじめてわかるということがありうる、と私は信じている。
第一章 世界はどのようにできているか 「超越論的感性論」への入り口として
一 感性と悟性、個別的なことと一般的なこと
1 カントはわれわれの認識の源泉を感性と悟性とに分類した。平たくいえば、感じることと考えることに、である。どうしてそのように分類したのかという問題を念頭に置きながらも、カント自身の議論とは独立に、ことがらそのものに即して、この分類の起源がありそうな場所を、まずは気楽に逍遙してみよう。この連載のこれからの議論は、この分類でいえば、ほぼすべて悟性論にかんするものになって感性論にかんする問題提起はあまりないと思うので、ここではその道すがら、感性論に属する私が思いつく問題点を思いつくままに気楽に指摘していき、後半から次第に、この連載全体の主題に通じる論点を少しずつ提示していく、というようにしたいと思う。
2 まず明らかなことは、われわれの認識の源泉は五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)から来るものだけである、という事実である。その他に、自分自身について感じることとして、身体感覚(「頭が痛い」など)や気分(「憂鬱だ」など)などを考慮に入れるとしても、そうした「感じられる」ものしかないことは明らかだろう。「考える」ことや「分かる(理解する)」ことは、それとはまた別のことであるはずだ。入口といえるものは「感じる」ことにしかない。この区別を理解するために、ここでまずは、とくにカントとは関係なく、だれが考えてみても単純にわかることを、いくつか確認しておこう。
3 すぐに気づくことの一つは、われわれはこれらの感覚をかんたんに識別できる、という事実である。すなわち、見えているものと聴こえているものとを、味と臭いとを、等々、われわれは容易に区別でき、むしろ混同することのほうが難しいだろう。ということはつまり、それらを「感覚」とか「感じること」といった一つの種類に括ることのほうが多少とも高度の抽象力を必要とする技巧的な仕事であるともいえる、ということでもあるだろう。さて、ではそれらはどのような意味で同じ種類だといえるのか、と考えてみれば、その分類根拠は、カントの言うとおり、「考える」こと、「分かる(理解する)」こととの区別においてである、という答えが比較的かんたんに思いつかれるかもしれない。感じられるものごとは、理解するということとは関係なく、それが何であるのか、どういうものなのか、さっぱり分からなくても、文字どおり理屈ぬきに、とにかくそう感じられればとにかくそう感じられる、それでおしまい、というあり方をしているからだ。カントの用語でいうと、感じることが「感性」であり、分かる(理解する)ことが「悟性」である。
4 ここでは、カント的分類の問題には深入りせずに、もう一つのさらなる区別に進もう。われわれはまた、それぞれの感覚の内部においても、たとえば赤い色と青い色とを、甘い味と辛い味とを、容易に区別できる。そのうえでまた、空間的に離れた場所にある(個数的に)二個の色を(種類的に)同じ色として、すなわち「違う場所にある二個の同じ色」として、捉えることができるし、時間的に離れて味わった(個数的に)二個の味を(種類的に)同じ味として、すなわち「違う時に味わった二個の同じ味」として、捉えることなどもできる。おそらくは「赤い」とか「甘い」といった名が付与される以前から、潜在的にその区別は可能であったであろう*。前者は空間の存在を、後者は時間の存在を前提としており、後者の場合には、すでにして記憶力の介在を必要とするだろう。あたりまえのことだが、いま味わっている味を過去に味わった味と比較するためには、過去の味の記憶を必要とするからである**。記憶がもたらすこの持続力は、後に言語を介した他者とのコミュニケーションを開始するに際しても不可欠の前提であらざるをえない(決してその逆であることはできない)こともまた、だれが考えても明白だといえるであろう。
*名づけとともに初めて区別が可能になるといったことがありえないのは、それならそもそもどうして名づけるなどということが可能なのか、を考えてみれば明らかだといえる。名づけが私的な(自分だけの)名づけであっても公的な(他の人と共通の)名づけであっても、その点には変わりがない。感じられるものにかんする原初のこの識別可能性こそが、感性を悟性へと、すなわち感じられることがらを理解されることがらへと繋ぐ隘路であったことは疑う余地がないと思う。
**記憶された甘さの表象は甘く感じられはしない(甘さならまだしも、過去の痛み体験を思い出すたびに痛く感じるとしたら、たまったものではないだろう)。とはいえ、それはたんなる「甘さ」という概念であるわけでもなく、あのとき感じたあの甘さそのものを表象してはいる。すなわち感覚は、概念化されることも、また感覚それ自体が再現されることもなしに、思い出されうるのである。(非常に先走った指摘をここであらかじめしておくなら、感覚的要素のこの独特の持続感は持続的自己意識の成立のために是非とも必要なものではあるのだが、だからといって持続の事実そのものを保証するわけではない。その同一性の感覚が何らかの仕方で後から作られたとしても、そうであることを判別はできないのだから、この持続的な同一性感は誤りでありうるからである。それに対して、いま感じている感覚は誤りであることはできない。たとえそれが何らかの作り物であっても、その誤りえなさに変りはないからだ。先走り過ぎの指摘だが、この違いは重要である。)
5 空間の存在にかんしては、自分の身体を動かして何かに近づいたり遠ざかったりすることができるという能力の介在もまた、大きな役割を果たすに違いない。それができることによってもまた、見えたものの形を触って確かめるといったこともできることになり、丸くてすべすべのものと角ばったものとの違い(という同じ一つのこと)を、視覚によっても触感によっても同様に識別できる、といったことも発見されるであろう*。その結果、異なる二つの感覚によって共通に捉えられるその対象自体は感覚(感じられるもの)を超えた何かであることが確認されるであろう**。
*これを「発見」と見るのは論点先取ではある。むしろ逆に、ここで新しい同じさが「発明」されることによって「空間」という共通対象が「構成」される、と見ることは可能だからだ。しかし、どちらでも同じことだともいえる。いずれにせよ、その種のことを前提せずしては、対象「を見る」ことも、対象「に触る」ことも成立せず、それゆえ、対象そのものはまだ存在していない、とはいえるだろう。
**「その結果、…」と言ったが、見えたものの方向へ自分(の身体)が行くという概念自体がすでにして、対象自体はその感覚を超えた何か(触れたりもするもの)であることを前提していたはずである。これらがもし連動していなかったら、視感も触感もたんに雑感(色々な感想という意味ではなく、音の場合の「雑音」にあたる、統一性がなく対象を指向しない感覚の集まり)に留まっていたであろう。
6 ところで私は、『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』の第1章の段落2において、「土とか石とか鳥とか雨とか風とか…。そういう一般的な種類というものがあって、あらゆるものはその一例である」と言った後に、こう言っている。
さらにそれらに、丸いとか冷たいとか白いとか…一般的な属性があって、さらに動くとか縮まるとかぶつかるとか…一般的なことをする。ここでもまた、一般的な種類がまずあって、あらゆることはその一例なのである。
ここでは、そもそも一般的なことがらというものが存在すること自体の神秘性とならんで、その階層性の存在*が指摘されている。土も石も鳥も…、土や石や鳥や…であることとは独立に丸かったり冷たかったり白かったり…できる! それだからこそ、この石は丸いとか、すべての石は冷たいとか、ある石は白いとか、主語で指される実体と述語で指される属性とを繋げる「判断」というものをくだすことができるわけである。
*もしこの階層性がなかったなら、すなわち例えば土は必ず冷たく、石は必ず丸く、鳥は必ず白いといったように、属性がみな種に付随していたり、通常は変化や運動もそれぞれの種に固有のものであったりしたら、実体と属性を繋げて「判断」をくだすということ自体が成り立たなかった、とも考えられうるだろう。すなわち、この種のことは、アプリオリであるとはいっても、もとをたどればかなりの程度はこの世界のたまたまのあり方に依存しているともいえるのである。(もちろん、この問題提起は感性についてではなく、悟性にかんするものである。もっと限定するなら、カテゴリーの作られ方にかんするものである。)
7 一般的なことと個別的なことというこの区別を悟性と感性というカント的区別に繋げて理解するためには、一般的なことはそれが実現する(実例となる)ためには空間時間的な位置づけを持つ必要がある(逆にいえば、空間時間的位置づけを持つことこそがすなわちそれが実現するということである)という事実に注目する必要がある。段落4において私は、「空間的に離れた場所にある(個数的に)二個の色を(種類的に)同じ色として、すなわち「違う場所にある二個の同じ色」として、捉えることができるし、時間的に離れて味わった(個数的に)二個の味を(種類的に)同じ味として、すなわち「違う時に味わった二個の同じ味」として、捉えることなどもできる」と言ったが、ここで働いている、同じ種類のものの個数という考え方それ自体が、空間と時間という感性的なものをそれ以外の(種類というものを作り出している)諸概念から区別することによってはじめて可能になっているということを、ここから理解していただきたい*。
*それはつまり、時間と空間それ自体が、じつは概念ではなく、端的に存在する個別的な(=独自成類的な)もの(につけられた名前)であることを意味する。「空間」も「時間」も固有名、それもある類に属する一つのものにつけられたそれではなく、端的にそれしか存在しない唯一のものにつけられた固有名なのである。それゆえ空間的・時間的に位置づけて区別することは概念的に区別することとはまったく違う種類の仕事であるわけである。
8 しかし、そうすると今度は、個別的なことと一般的なことというこの(存在論的な)区別が、感じられることと理解されることという(認識論的な)区別と、本当に重なるのか、そこが疑問に思われてくるかもしれない。「石」は概念であり一般的なものだが、時間空間的に個別化された「この石」は(一般概念を使って指されているにもかかわらず)個別的なものであるからだ。それは、個別的なものではあっても、たんに感じられるものではなく、すでに概念を経由して、概念的に把握されたものである。とはいえ、もしそう言うのであれば、「白い」や「冷たい」のような直接的に感じられるものでさえ、そう捉えられる以上は、やはりすでにして概念を経由した、すなわち概念的に把握されたものだといわざるをえない。理解されることと感じられることとの対比と、一般的なことと個別化された(空間時間によって)こととの対比とが、そのまま綺麗に重なるわけではないのだ。概念を介して個別的なものを捉える、ということができるからである。もしそれができなければ、感性を悟性へ繋げること自体が不可能であったろう。
9 カントは、感性と悟性という対比と並行的に、直観と概念という対比も用いるが、こちらもやはり、以上で論じた個別的なことと一般的なことの区別から理解したほうがよい。直観とは個別的なことを、すなわち空間時間的に個別化されたことがらを、それとして捉える能力のことである、というように。その際に実際には一般的な種類(すなわち概念)による把握が補助的に使われるとしても、ともあれ個別化された何かを捉える際には必ず直観がはたらく(というより個別的な事象を捉える際にはたらく能力のことを直観と呼ぶ)のである。概念によって捉えられるのはその概念の一事例であるが、空間時間的な位置づけによって捉えられるのは唯一の空間、唯一の時間のある一部分である。空間と時間はそれ自体が概念ではなく直観される「これ」という一つのものだからだ。概念による把握はその事例を把握し、直観による把握はその部分を把握する、と理解すべきだと思う。
二 置き移し(Übertragung)と押し付け
10 以上の記述はカントの議論をなぞったものではなく、感性論におけるカントの議論(その中心的な問題意識)と関連があると思われることがらを思いつくままに拾ったものにすぎない。が、カントの議論もまた、概してはこのような素朴な捉え方に整合的であるとはいえる。ただ一つだけ、ここで特記すべき事実を指摘しておきたい。それは、ここまでの段階で、他人の存在は必要とされていない、ということである。それと並行的に、カント自身の議論も、じつは他人の存在を考慮に入れることなしにも成立するようにできているのである*。観点を逆にして言い換えるなら、現実には存在している他人というものがそもそも何であるのか、『純粋理性批判』におけるカントの議論からは少しもわからないのである**。
*A347(B405)とA353-4とにおいて、他者の問題が登場するが、それは私の意識が「置き移された」(あるいは「置き替えられた」)ものとして、である。しかし、そもそもなぜ置き移す人(私)と置き移される人(他者)とが――そのような差異が――存在しうるのだろうか。それはいったい何の差異なのだろうか。いいかえれば、そもそも他人とは(それと相関的に他人でない人とは)いったい何なのか。カントはこの問題をまったく説明していない(おそらくは考えてもいないようだ)。それゆえまた、それにもかかわらずなぜ「置き移す」などということが必要でかつ可能なのか、という問題もまったく説明されていない。だから当然、その際にはいったい何が置き移され、何は置き移されずに残らざるをえないのか、もまったく説明されていない。この後者の問い(何は置き移されずに残らざるをえないのか)は、もしそれがなければそもそもこの差異自体が生じないだろうからきわめて重要であって、その決して置き移されることができないものの存在こそが、その人を「他人」ではない人、すなわち「私」たらしめていることになる。それはいったい何であるのか。
この問題はそもそも、①感性と悟性とか②現象と物自体とか、といったカント的な道具立てによって説明可能なのだろうか。それもまた明らかではない。①で説明するなら、置き移す側には感性が歴然とあるが、置き移される側には悟性(あるいは悟性によって概念的にそういうものとして理解されたかぎりでの感性)しかない、といったことになるだろう。すると、他人というものにはじつは感性がない? ②で説明するなら、置き移す側には物それ自体が直接に露呈している――だから実のところはそれが何であるのかわれわれには決してわからない――が、置き移される側にはそのような不可思議なものの露呈などなく、だからそちらこそが通常の意味でごくふつうに客観的に実在する現象としての人間主体である、ということになるのではないか。
私としては是非ともこの問題を、カントに深く考察してほしかったのだが、残念ながらこれはまったく手つかずに残されており、もっと悪く解釈すると、③超越論的弁証論における「誤謬推理」において、批判対象である「合理的心理学」の主張の一部として(すなわちその問題を考えること自体が誤りであるとして)葬り去られている。それとの関連については、その問題を扱う箇所においてさらに論じることにする。
**『純粋理性批判』における、という限定は不要かもしれない。カントを読むことによっては、ふつうに存在しているあの他人たちとはいったい何であるのか、自分と他人との違いとはいったい何の違いであるのか、そうしたことは少しもわからないからである。私は、『〈私〉の哲学 をアップデートする』所収の「青山発表の提起した問題に触発されてカント的世界構成との関連を再考する試論」において、現実に存在している他人というものがそもそも何であるかにかんして、若干のカント的な(と私には思われる)議論を提示してみた。
11 結局のところはまたその同じ問題に復帰して終わることになるとは思うが、ここからは、空間と時間とはどう同じな(どこが違う)のかについて、少し考えてみたい。すでに明らかになったように、空間と時間は個別的な現象が生起する場であり、逆にいえば、個別的な現象は必ず空間と時間のもつ構造によって秩序づけられて生起する。その空間と時間の違いを、まずは主観的な確実性の違いという観点から考えなおしてみよう。知覚によって捉えられる空間的な事象に比べると、心の中に起こる情緒や気分のような、時間的な位置づけははっきりと持つが空間的位置づけははっきりとは持たない事象のほうが、主観的な確実性が高いように思われる。そこに見えたものは、それだけでは本当はそこに在るかどうか確定しないが、内的に感じられたものは、必ず感じられたとおりに在るからだ。なぜ必ず感じられたとおりに在るのかといえば、現象の背後にあるべき本体というものがそもそもなく、感じられたそのあり方がすべてだからである。もちろん、その現象を因果的に引き起こしている物理的な事象はあるだろうが、何がそれを引き起こしていようと、そんなこととは関係なく、その結果感じられた感じそれ自体のほうが、ここではその事象の本体そのものなのである。
12 カントはしかし、A38,B55において、このような見解を次のように批判している。外的対象にかんしてはその現実性を証明することができないと考える人々も、「われわれの内的感覚の対象(私自身や私の状態)は意識によって直接的に明らか」だとみなすので、それゆえに「外的対象はたんなる仮象でありうるが、内的対象は否定しがたく何か現実的なものである」と考えたがる。しかし、そういう人々はどちらも現象にすぎないことを忘れているのだ、というようにだ。しかし、内的対象のほうが「何か現実的なもの」であるというこの差異は、現象にすぎないか物自体であるかという差異とは関係ない、それとは別の問題ではなかろうか。それは現象としてのあり方の内部における差異にすぎないだろう。すでに指摘したように、心の中に起こる情緒や気分のような内的に感じられたものが必ず感じられたとおりにあらざるをえないのは、現象の背後にそれがそう現象しているといえるようなそれがそもそも存在せず、感じられたあり方こそがすべてであるから、いいかえれば、それが本性上の「見かけ存在」にすぎないから、である。
13 「我思う、ゆえに我あり」の確実性なども、じつはこれと同じ種類の問題であって、この場合の「我」の存在の疑いえなさは、それが本性上の「見かけ存在」であるがゆえに疑いえないにすぎない。隠された本体なきまったき現象的なもののそれゆえの絶対的な現実性という問題がここにはあるのだ。たんなる用語法の問題であるともいえるが、「物(それ)自体」という表現を、ことがらに即して使うことが適切であるならば、それゆえにこれこそが「物(それ)自体」なのだ、と言ってここでのカントの議論に反論することもできるはずである。それは、表象的なあり方こそがその本体そのものであるような、そういうもののあり方だからである。
14 このような点から見ると、時間的にだけ現象するもののほうが主観的な確実性があり、その意味でより「現実的」である、といえそうに思えるかもしれないが、必ずしもそうはいえない。空間の存在を前提とした「あの辺りにあんなものが見えている」といった知覚現象も、客観的な空間的位置や対象名にかんする主張と切り離されれば、やはり不可謬でありえ、絶対的な主観的確実性を、すなわちまったき現象性を持つことができるからである。逆に、時間の存在のみを前提とする主観的現象であっても客観的な時間的位置にかんする主張がともなうなら、それは本体のある、したがって誤りうるものとなって、ここで言われている意味での「現実性」は失われうるからである*。
*空間的なものは、棒状の物体に目盛りを付けて「物差し」を作れば、それだけですぐに客観的に計測可能となるが、時間的なことがらは、それを計測するための目盛りに当たるものを「付ける」のに若干の工夫が必要となる。それにはおそらく、まずは第一に、周期的に変化する自然現象の力を借りることが必要だろう。客観的な自然現象の力を借りるのであるから当然、この段階ですでに時間は客観化されることになり、それと相関的に、主観的な時間把握は可謬的なものに変じる。しかし、ただ周期的に変化するだけで、それが空間的位置の変化ではない場合、「目盛り」として使うには不便であろうから、変化を目盛り化するために、第二に、その周期的変化は空間的位置の変化であることが望ましいことになる。そのために最もふさわしいのは、地球上から見た太陽の位置の変化と、それと相関的に作成可能な日時計のようなものだろう。第二段階が時間の空間化であり、それがすなわち「時計」の成立であるといえよう。
15 (段落14は段落13にかんする注のような従属的段落なので、以下の議論はむしろ段落13から続くことになる。)しかし、このような問題が、じつは段落10の注*で論じた私と他人の差異の問題との関連で生じていることを見るのはたやすいことだろう。本性上の見かけ存在のもつそれゆえの「現実性」という問題は、もとをたどれば、なぜか他人である人たちとは異なる、なぜか私である人というものが現に存在しており、それに直接的に与えられることがらというものが存在している! という問題であろうからだ。ここで、それに直接的に与えられることがら(が存在している)とは、いかに置き移そうとしても、それだけはいかにしても置き移されえないもの(が存在している)、ともいいかえることが可能であるだろう。いかなる置き移しも、その舞台の上でなされるほかはなく、舞台それ自体はそのままにとどまるほかはないからである。現実にはその舞台がすべてであり、実のところはそれしかないのだから。
16 本性上の見かけ存在というものが存在するのは、なぜか端的に置き移す側である人が存在しているからであり、いいかえれば、なぜか現実に私である(=なぜか他人ではない)というあり方をした人が存在するからである*。このような仕方で、カントがその存在を問題にしていない(あるいは気づいていない)二つの問題が一つに繫がることになる。その場合、段落10の注*で区別した①と②は一致することになるだろう。端的に与えられた直接的に感じられることこそが、物それ自体(原初においてそれ自体として存在する事象)でもまたあることになるからだ。それが存在する原因等々といったことは、後から「関係」のカテゴリーが適用されて作り出される悟性的な構成物にすぎないことになるだろう。
*この「端的に」や「現実に」を、だれにでも成り立つ一般論として、すなわち「可能的な現実性」として理解しないことが肝要である。そのことこそがここで議論している問題の出発点なので、ここでそう指摘されても、その違いの意味がわからない方は、この先を読んでも無駄である。
17 しかし、この議論には大きな問題が含まれている。私自身にとってはこれまで何度も繰り返し語ってきたことでもあり、それゆえこの連載の読者の方々の中にも耳にできたタコも腐りはてたとおっしゃる方もおられるとは思うのだが、少なくとも、あの問題がここにもあるぞ、との指摘だけはしておかないと、この議論は完結せず、後にも続かないので、ごく簡単にならざるをえないが、この段落と次の段落で、一応の指摘だけはしておくことにしたい。それは、カントが他人とは「私の意識」が置き移されたものだと言うとき、また「われわれの内的感覚の対象(私自身や私の状態)は意識によって直接的に明らか」だと言うとき(いずれも傍点は引用者)、その「私」とはいったいだれのことなのか、という点にすでにして最大の問題が含まれている、ということである。一つの解釈は、それはカント自身のことを指している、というものである。たしかに、これらの文章を書く瞬間、カントは自分自身のことを意識したではあろう。しかし、おそらくそれは、たんに一例として、であったにすぎまい。彼の主張内容としては、それはだれにとってもの「私」のことを意味していた、に違いない。だが、もしそうだとすると、そのときすでに、「私」の「置き移し」は起こってしまっており、そこから他人へ置き移されると言われているそこがすでにして置き移されたほうの「私」になってしまっている、ということになる。この種の問題を言語で語る際には、当の「置き移し」がすでに起こってしまっている状態を出発点にして、その「置き移し」の生起が論じられざるをえないことになるわけである。「置き移し」の議論が論点になっていない「私自身や私の状態」の場合は、もちろん、あからさまにそうである(すなわち「置き移し」はすでに終わってしまっている)。私自身の用語を使ってよいなら、ここにはすでにして「累進構造」がはたらいてしまっているわけである。
18 この問題の根底には、最初の出発点である「私」は「だれにとってもの、その人の自我」のようなものであってはならない、という問題がある。もし世界が最初から、並列的に存在している諸自我からはじまる平板な(=端的な開始点のない)世界であったなら、「置き移し」によって解決されるべき問題、いいかえれば「置き移し」によって初めて成立する(客観的)世界、などといったものは存在しなかったはずだ。幸か不幸か世界は、少なくともいま与えられている世界は、そうではなく、それを必要とする世界なのだ。この世界は、それが実在するためには、原初に「置き移し」が起こることを必要としており、その「置き移し」からしか始まることができない、とても奇妙な世界なのだ。なぜなら原初には、なぜか世界そのものがただそこからだけ開かれているため、そのそこ(あるいは開けそのもの)とその結果開かれてある世界とが分離できないあり方をしており、それだけしか存在していないため、現にあるような(いわば客観的な)世界を作り出すためには、まさにその原初の事実そのものを、世界の中に現れているある種のものどもに「置き移す」という奇妙な作業が必要になるからである*。
*まさにその原初の事実そのものを、であるがために、すなわちそれをこそ「置き移す」ことになるために、結果として、いま語っているこの(不可欠の)作業それ自体が二重の意味をもたざるをえなくなるのだ。それが、先ほど指摘した「私」の二重の意味の成立の真の根拠であり、また、以下においては、その同じ問題が空間時間論にも反映されて現れることが示されることになる。
三 右と左――置き移されるものとしての
19 空間にかんして、カントは『純粋理性批判』では左右の問題に触れていないが、『プロレゴーメナ』§13においてこう言っている。
私の手あるいは私の耳に似ており、それとすべての点で等しいものとして、鏡の中のその像以上のものがありうるだろうか。しかし、鏡に映った手は原物の代わりにはなりえない。原物が右手なら鏡像は左手であり、……
カントはこの例を、ここには悟性的に理解できるような違いは何もなく、その違いがただ感性のみに関係していることの例として、提出している。ところでしかし、鏡の中の手が左手であるということには二つの意味があるのではなかろうか。一つは、⒜鏡に映ったその人物にとってそれが左側にある(という意味でそれは左手である)という意味であり、もう一つは、⒝その人物主体との関係を離れて、その手だけを単独で捉えても、それが左手型をしている(という意味でそれは左手である)という意味である。かりに物体が相互に貫入可能だとして、悟性的には合同であるはずの右手と左手をぴったりと重ね合わすことはできない、というカントの主張点から推察するに、カントの考える感性的世界とは、一般に主体との関係を離れても客観的に左右の区別が存在するような世界であり、ここでの例示の意味も、⒝のような意味に解するのが妥当であろう。
20 しかし、厳密に考えてみれば、この二つはただ重なり合わないだけで、そこに左右という区別があるわけではないだろう。左右は、上下と前後との関係で導入されるのだから、上下と前後という区別が有意味であるような身体的物体(主としては人間身体)の存在なしにはありえないからだ*。それゆえ、身体から切り離された右手と左手は、ただ重ならないというだけで、左右が逆なのか前後が逆なのか上下が逆なのかはわからない(というよりその区別は存在しない)。時間でいえば、これはいわゆるB系列(「より以前―より以後」の相対的関係だけがあって、「未来―現在―過去」の絶対的な区別がない系列)に相当するであろう。そこには相関的な「関係」があるだけである。
*身体とはこの場合、眼があってそれゆえに見える方向というものがあり、通常、それが意思的に移動できる方向と一致しているようなもの、を指している。それが前後の方向を決定することになり、(上下の方向は大地と重力の存在などによってすでに決定されているとすると)そこから左右が決まることになる。身体ではないたんなる物体ではそれは起こりえない。ここで重要なことは、原初においては、それ「しかない」もの、端的にそこから世界が開けているものにも、それにもかかわらずやはり、その世界の内部に位置づけられうるようなこの前後方向が(感性的にアプリオリに)存在している、という事実である。この事実が感性的な空間世界の出発点である。
21 そのことから遡って考えてみるに、A系列に相当するものが生じるのは、そのようなたんなる相対的な重ならなさだけでなく、ある起点(基点)から見ての左右が逆転することによる重ならなさが生じる場合であることになる。この重ならなさは、時間でいえば、たんに時間軸全体が逆転するのではなく、ある特定の現在から見て過去と未来とが逆転している、といったことを意味することになるだろう。しかし、それだけでよいなら、特定の現在そのものは任意にどこにでも設定されるとも言えるので、けっして絶対的な現在が存在するなどとは言えまい。それはまだ、私の従来の用語法に従って言うなら、(「B関係」と対比された)「A関係」であるにすぎない。そこにはたしかに過去、現在、未来の区別がありはする(し、ある時点は最初は未来で次に現在になり最後には過去になるといった「A変化」も起こりはする)が、それでもそれは任意に相対的に想定可能な(その時における)現在にすぎず、端的にどこが現実の現在なのか、という肝心の「A事実」がそこに厳存してはいない。A系列という概念の内には、そうした一般的なA的関係以外に、A事実というものの厳存の主張が含まれており、そこでは、一般的なA関係(時間の場合はA変化でもある)の存在という事実を超えて、そのどこが端的に現実の現在であるのか、という端的な「A事実」の存在がさらに不可欠となるのである。すなわち、どの時点をとってもその時点にとっての現在というものは必ずあるのだが、それらとは別に、そのうちのどれが端的な現実の現在であるか、という(ある意味では真に驚くべき、しかしある意味では全くあたりまえの)「事実」がさらに必要とされるわけである。
22 空間の場合、この「どの時点をとってもその時点にとっての現在というものは必ずある」に相当するのはもちろん、諸意識、諸自己の存在、従来の私の表記法に従って言うなら、「私」たちの存在であり、「それらとは別に、そのうちのどれが端的な現実の現在であるか、という(ある意味では真に驚くべき、しかしある意味では全くあたりまえの)「事実」が…」に相当するのはもちろん、端的にそこから世界が開けている唯一者としての〈私〉(山括弧のわたし)の存在である。「空間」と限定した場合には、さらにその〈私〉が身体を持っており*、「自身にとっての上下・前後・左右をもつこと」が必要となるだろう。鏡像との対比というカントの例に即していえば、それはあくまでも鏡像でない側の人間にとっての左右であり、鏡像は――いや鏡像などではなく、自分と向かい合っている現実の人間であっても――あくまでも派生的な、すなわち現実のではない、左右を持つだけであることになる。
*厳密に考えれば、身体を持っていなくとも、上下のあるある空間的位置に、全空間がそこから開ける知覚的原点(いわゆる幾何学的な眼)がありさえすればよい、ともいえるだろうが、ここではその問題までは考えないでおくことにする。
23 そこから出発する場合には、鏡像や他者にとってもそこからの左右というものがあるといえるのは、〈私〉が自分にとっての左右をそこへと「置き移し」たからにほかならないことになる。各時点にその時の現在があるという考え方についても、同じように理解することができる。各時点にそれぞれその時点にとっての現在が(したがって過去や未来が)があるといえるのは、端的な現実の現在が、すなわち〈現在〉が、そこへと「置き移され」た結果でしかありえないことになる。それなら、置き移さないこともできるのか、といえば、ある意味では、それはできないのだともいえる。もし置き移さなければ、時間も他人も存在できないからである。もちろん、存在しなくたってかまわないではないか、とはいえるのだが、その場合、何も始まらないことになるだろう。もちろん、何も始まらなくたってかまわないではないか、ともいえるのだが、事実はこのようなことが現に始まってしまっており、いったいこれは何が始まってしまっているのだろうか、ということが、ここで研究されるべく課せられた課題なのである。
24 カントのいう感性の形式としての空間と時間にかんしても、実のところは事情は同じである。その根源的な備給源泉は端的な現実の〈私〉の存在と端的な〈現在〉の存在にこそある、と考えることができるし、ある意味ではそう考えないことにはそもそも何をやっているのか理解できないとさえいえる。しかも、その「置き移し」は必ず成功するのだ。なぜなら、すべてはじつはそれが成功したところから出発しているし、そうであらざるをえないからである。いわゆる「超越論的な主観」とは、要するには、この二義性(あえていえばこの矛盾*)に付けられた名であるともいえるだろう。それは、〈〉で表現されるような独在性の事実と、それが不可避的に持つある形式が「置き移し」可能であるという事実――したがってすでに置き移されたそれ――との結合体である。とはいえ、もしそうであったなら、端的なA事実と置き移されたA事実としてのA関係だけが存在することになるはずだが、カント的な感性形式としての空間時間は、そこからもう一段の抽象を経て、もはや置き移されたほうの出発点さえもなくてよい、しかしそこから由来する形式を抽象的にはなお残した、B系列的なあり方をしている。B系列としての空間時間が、そうではあってもあくまでも直観的に捉えられる個別的なこれであり、C系列のような(どこにでも概念的・一般的に適用されるような)悟性的な存在ではないのは、その遠い起源を〈私〉や〈今〉に持つからであろう。段落19及び20で問題にしたような、人間身体から切り離された右手と左手の形の理解にも、〈私〉の左右が入り込まざるをえない。おそらくはこの遠い由来によって、段落7及び8で指摘された、「感性」や「直観」のもつ二つの意味もまた繋がっているだろう。B的な空間や時間は、現実の〈私〉や〈今〉はどこにも存在しないのに、いたるところに――生き物が存在しないところにさえも――それが存在するかのような、どこからでも左右や過去未来が開けてる「ヌエ的」な世界なのである。
*矛盾というのは、そもそも決して置き移し不可能な事実の、その不可能性そのものの置き移しを、それが含んでいるからである。しかし、世界はそのことからこそ始まっており、それ以外の始まり方はありえぬともいえるのだ。
25 もし、置き移しを拒否して、端的なA事実主義に徹するなら、他人の左右も私のそれからそのまま押し付けられるべきものとなり、他時点における現在などといったものを置き移しによって作り出すこともなく、あくまでも端的な現在の視点をそこへとストレートに押し付けることに徹するべきであることになる。その場合、鏡像は左右が逆になるといった事実も存在しないことになり、もし左右逆転のケースを考えたいなら、対象の形などとはまったく無関係に私がこちらから(全く勝手に)押し付けるべきであることになるだろう。ここには、「押し付けvs.置き移し」という対立があるのだ。カントの世界は、置き移しから出発する世界であり、それは最初の成し遂げられる置き移しを(前提するが)もう見ないことにすることよって成り立つ世界である。とはいえ、それは完全に無視されているわけではない。今回に引用したいくつかの箇所をはじめとして、カントはその問題を気にはしてはいるからだ。おそらくは気にせざるをえないのだと思う。なぜなら、その事実こそがカント的世界構築を暗に駆動しているとさえいえるからである。彼の理論哲学だけではなく道徳哲学にまでも、そのことが響き渡っているように私には思われる。そのことを示していきたいと思う。