web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

〈間合い〉とは何か――二人称的身体論

居心地を感じる――建築空間での間合い〈諏訪正樹〉

居心地

 今回のトピックは「居心地」です。

 居心地が良い、悪い。誰しもそういう身体感覚を抱いたことがあるでしょう。どんな場所に居心地の良さを感じるのかは、その人の感性や人生背景に依存することです。居心地の感じ方は、人によって様々、個人固有性が強いという性質があります。「人によって様々」というと、そんなものごとは研究対象になるのかと訝しむ方もいるかもしれません。いわゆる「科学的研究」は客観性や普遍性を原則としてきたので、居心地のようなものごとが探究の俎上になることはあまりありませんでした。しかし、主観的で個人固有なものごとを探究することも、人の知の姿を明らかにする上では重要であると、私たちは思っています。

 居心地と聞くと、思い浮かぶのは自宅の部屋やリビングルームでしょうか。毎日過ごす場所ですから、居心地が良いようにレイアウトを整えている人も多いでしょう。家具の配置、テレビの位置、座る場所、向きは、壁や窓の位置に応じて決めます。

 窓の位置は重要です。大きな家具は置けないという制約があるだけでなく、窓からは光が入り、外が見えます。光が入らない場所は鬱屈するでしょうから、光をどう取り入れるかは暮らしにおける重要なデザイン項目(注1)です。

「外が見える」ことも重要です。専門的には「視線の抜け」とも言います。視線が外に抜けることで、内側の空間にいながらにして、閉鎖的な鬱屈感が軽減されます。窓の外にはどんな建物や自然があるか? 座る場所からは何が見えるか? そんなことも室内レイアウトのデザインには関わります。

 今回は、居心地というものごとも、実は、空間を構成する様々なモノとの間につくり出す「間合い」の結果であるということを論じたいと思います。

私の間合い:右側に小さな占有スペースをつくる

 私たちが居心地を感じる空間は、自宅だけでありません。公共の建築空間で、あるいは、街を歩いている時にも、(意識に上らないことも多いのですが)私たちの身体は常に居心地を感じ取っています。カフェのような屋内空間であれ、ストリートや広場などの屋外空間であれ、その場所の周りにどんな大きさのモノがどのような配置で存在するか、私たちの身体はそれに対して何を感じるか(注2)によって、居心地の良さが決まります。

 私は昔からカフェが好きでした。勉強したり本を読んだりするために、いまでもよくカフェ巡りをします。カフェでのエピソードについて、拙著『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(諏訪2016)で紹介したのですが、居心地を論じるための糸口として、ここでも紹介します。

 そのカフェで私は、窓際から二つ目の席に座っていました。テーブルとそれを挟む二つの椅子を一つのセットとすると、そのカフェは、テーブルと椅子のセットが、窓際から奥に向かって並ぶ、ありふれたレイアウトでした。私は窓に一番近いテーブルのスペースを空けて、二つ目に陣取っていたわけです。私の右隣が、窓に一番近いセット、その向こうが窓、その外が歩道です。私の背は店内の壁です。

 二つ目に陣取ったのは意図的でした。一番窓際に座ると、歩道を行く人から私のプライバシーが守られないからです。わざと右隣に一つ空けて、そのスペースを誰にも浸食されない私だけの空間(私の占有空間)に仕立てたのです。空いた店内では、そのような贅沢も許されるでしょう。

 本連載で第一回から用いている「エネルギーのようなもの」の観点で語るならば、一番窓際の席に座ると、歩道を行く人の動きが目の端に入り、時には、彼らの視線をダイレクトに感じます。彼らの運動エネルギーと、視線が私にコンタクトする圧力が私に突き刺さり、いたたまれなくなるのです。テーブル一つ分のスペースを空けると、道行く人のエネルギーが私に向かって放たれても、スペースがあるお陰で私まで到達しない、つまり私に対する侵害がないというわけです。

 私にとっては「占有するスペースは右側にある」ことが重要だということに、実は、最近気づきました。じっくり考えたり、様々なことに想いを馳せたりするとき、私は、右上を見るようです(注3)。私の部屋では、机に向かうと、窓が右側に位置し、外の緑が見えるように、椅子と机をレイアウトしています。カフェで考えごとをするときにも、私は基本的に右前に意識を向かわせるため、壁ではなく窓であることによって視線が抜ける必要があったのでしょう。しかし一方で、窓の外のエネルギーが私の身体に向かうことにもなるため、小さな占有スペースを設けて、私の身体が発するエネルギーと外界からのエネルギーがぶつからないようにしていたわけです。第一回で論じたように、雑踏を歩くときに、他者の運動エネルギーと私が進む運動エネルギーがぶつからないように臨機応変に調整をしていたことと同じです。良い居心地を形成するということは、他者との間に、エネルギーの侵害や干渉がないように、間合いをつくるということです。

 私にとって、右側の占有スペースは小さい必要があります。大きなスペースだと、この先、誰かが入ってくる可能性を感じるからです。今は空いていても、誰かが入ってくるかもしれないと思うと、妙にそわそわします。将来起こりそうな他者の侵入のエネルギーを想うからでしょう。

侵害されたエピソード

 私が右側に一席分だけ空けて居心地を形成したのもつかの間、年配の女性が二人、ガヤガヤと店に入ってきました。嫌な予感がしたのですが、彼女たちは、あろうことか、私の右隣の席に乱入してきたのです! 店内は空いていました。他にも座れる席はたくさんあったにも関わらず、こんなに小さなスペースに侵入するか?! と信じられない思いでした。私の居心地はあっけなく崩れ去りました。彼女たちの発話の(音響)エネルギーが、右から容赦なく襲いかかり、基本的に右前方向に発する私のエネルギーとぶつかったからです。

 なぜ、わざわざ右隣に入ってきたのか? 彼女たちの関心事は、窓際に陣取ることだけだったのでしょう。他者の存在が醸し出すエネルギーなど一切関知せず、したがって私の存在は眼中になかった。他者が放つエネルギーも、自分たちが放つエネルギーさえも意識せず、したがって、間合いなるものも感じてはいなかったのでしょう。

 さて、カフェに入ったばかりなので出るわけにもいかず、私はどういう行動に出たと思いますか? 席を替えることもできましたが、あまりに露骨です。私が取った行動は、席を少しだけ左に向けて、20~30度程度、身体の向きを変えることでした。右側に向けていた私のエネルギーを、女性たちのエネルギーとぶつからないように、少し左にずらしたのです(注4)。依然として彼女たちの声は私に届いていましたが、かなり居心地が改善したことは覚えています。ちょっとした工夫を凝らすことで居心地が大きく変わるというのは、実に驚くべきことです。

 もちろん、窓の外への視界の抜けが失われたことは大きな損失でした。私の意識を向ける占有するスペースは、もはや、店内全体という広大なスペースになってしまい、そわそわ感もありましたが、公の場所なので、贅沢は言っていられません。私にとって次善の策でした。

パーソナルスペースという概念

 心理学には、昔から、パーソナルスペースという概念があります。自分の身体を中心にある一定の半径で描いた空間は、他者に侵害されたくない領域であるというわけです。他者がそこに侵入すると居心地が悪くなります。

 パーソナルスペースの広さは、人や文化によって異なると言われています。人口密度が高い国で育った人のパーソナルスペースは狭いかもしれません。欧米のバスは、乗客は互いに詰めて立たないので、すぐ満員になります。日本で生まれ育った我々からすると、詰めればもっと人が乗れるのにと感じます。バス停で待っている人も、ちらっと車内を見て、もう乗れないと諦めます。彼らのパーソナルスペースは日本人に比べてはるかに大きいのでしょう。

 間合いの問題は、まさにパーソナルスペースの問題でもあります。しかし、その概念は、この連載で用いている「エネルギーのようなものの集中や平滑化」という考え方に比べると、精密さに欠けると考えています。自身の意識や動きがもたらすエネルギーの方向や強さを論じないからです。私が右前に意識を向かわせているならば、私のパーソナルスペースは左に比べて右の方が大きいにちがいありません。だからこそ、右隣に女性たちが来たとき、「乱入された!」と感じたのです。ちなみに、あの女性たちが私の左隣に陣取っていたとしたら、居心地はそれほど崩れなかったかもしれません。右前方向に向かう私のエネルギーとのぶつかりが少ないからです。

 雑踏を歩くとき、まさに左に方向転換をしようとした瞬間には、パースナルスペースは左側が大きくなるでしょう。その瞬間に右側に他者が詰めてきても、あまり問題視はしないかもしれません。パーソナルスペースの左右の大きさの差は、意識の強さや歩くスピードに応じて決まるのです。

カフェでの居心地研究

 最近、私は、カフェの居心地を研究テーマにしています。ネットで少しだけ調べたり人に評判を聞いたりしてカフェに出向き、毎回他のお客さんの座り方に応じて、ここぞと思う場所に陣取ります。その席での居心地について感じることを書き綴ったものが、私の研究データになります。

 2017年秋からの1年3ヶ月で約50軒のカフェを巡り、居心地についての記述を蓄積してきました。その記述を基に、私の身体は何を感じ取り、どう解釈して、カフェの居心地を楽しんでいるのかを分析し、幾つかの楽しみ方のパターンが存在するらしいことが見えてきました。当初は「カフェの何を楽しんでいるの?」と尋ねられても、ほとんど表現できなかったのに、今では、居心地の正体を前よりも明確に表現できるまでになりました。以下は、その一端を紹介します。

 このような、身体で感じることを一人称視点で表現する認知行為を、私は「からだメタ認知」と称しています(諏訪2016)。心理学には従来から「メタ認知」という概念があります。「自身の認知を認知する」という意味の専門用語です。「認知」とは何かについて、従来の心理学と1990年代以降の認知科学には大きな違いがあります。従来の心理学では、頭で考えた内容を「認知」と捉えていました。一方、最近の認知科学では、身体に依存して生起するものごと(つまり、知覚、身体の動き、そして身体と外界のインタラクションそのもの)をも含めて「認知」と捉えます。知の研究が、なかなか言葉になりづらい身体的な側面にも積極的に迫ろう(注5)という意図を持ち始めた所以です。「認知」が意味することがこのように拡張された昨今にあっては、自身の身体に依存して生起するものごとを言葉で表現する行為としての「メタ認知」を考えざるをえません。私はそのことを強調する意図から、敢えて「からだ」という文言を入れて、「からだメタ認知」という用語を造語しました。

「写真日記」:3種類の記述

 からだメタ認知を促す手法として、「写真日記」というものがあります。拙著『知のデザイン--自分ごととして考えよう』(諏訪、藤井2015)の共著者である藤井晴行氏が、かつての共同研究者と一緒に開発した、建築分野での方法です。「写真日記」では、空間の写真を撮り、それを基に、事実記述、解釈記述、経験記述という三種類の記述を行います。私が実際にカフェで記述した文章を例にして三つの記述を説明します。

 カフェに行くと(お店の許可を得て)空間の写真を撮り、スケッチもします。私の視点から見たパース的なスケッチをすることもありますが、多くの場合は、平面図的に(真上から見た図)を描きます。図1は、都内のあるカフェで描いたスケッチです。

 

【図1:あるカフェの平面図スケッチ】

 右上に入り口があります。そこから入ると、左前に、一枚板の大きな中央テーブル(大きな縦長の長方形として描かれている)があり、その上には背の高い観葉植物と野菜の籠が鎮座ましましています。私は、中央テーブルの右下の丸いテーブルに着席しました。meと描かれているポジションです。私の背中はL字型の格子柵(図では点線で描かれている)で守られています。その格子柵が窓際のカフェスペースと、中央テーブルがあるスペースを緩やかに分けています。

 次に示すのは、私が書いた「事実記述」のほんの一部です。 

(事実記述の例):「大テーブル」の真ん中に観葉植物(ヤツデ)が置かれ、僕から見て左側には野菜(本物かどうかわからんけれど)を積んだ大籠がある。ワインやスコッチ類の瓶も並べてある。 ‥(中略)‥ 柱状の桟が柵のようにL字型に並び、そのL字形によって、中央空間と窓際のL字型スペースに分けられる。僕の座る丸テーブルはその「L字柵」を背にする。中央スペースには「L字柵」に沿うように丸テーブルが(僕のも含めて)3つある(2017/11/13の記述から抜粋)。

 大テーブルの存在と、その上に観葉植物や野菜の大籠が置かれていること、ワインやスコッチの瓶が並んでいることを書いています。L字型の柵、大テーブルがある中央空間、窓際スペース、私の座る丸テーブル、私が座る位置の位置関係も記述しています。これらは、この光景を写真に撮れば必ず写り込むであろう(客観的に観察できる)ものごとです。

 事実記述とは、空間に存在するモノ、モノの形や色、モノとモノの配置など、写真に写りこむ客観的に観察可能なものごとのうち、(本人が特に意識するに至った)「事実」を記述した内容を指します。後述するように、事実記述を丹念に書くことは、からだメタ認知を促すうえで非常に重要です。

 次に、解釈記述の例を示します。

 (解釈記述の例):圧倒的な存在感の「大テーブル」と、それを後ろで見守る、太い直方体の柱。「太い柱」は、側面が本日のメニューになっている。この「大テーブル」がこの店の主役であり、その向こうのメニューは引き立て役。 ‥(中略)‥ L字柵の柱の列が、中央空間をハイライト舞台に仕立て上げている。もしこの柱列がなかったら、単にだだっ広い空間となって、中央空間はぼやけてしまうことだろう。L字柵のおかげで、背後に列記[原文ママ](注6)としたカフェスペースを抱えながら、ライトをふんだんに浴びた中央舞台として映えるのだ。一方、L字のカフェスペースは、表通りの方に追いやられ、場末感が満載になる。(2017/11/13の記述から抜粋)。

 解釈記述とは、本人が特に意識した「事実」を基に、どういう解釈が芽生えたかを書いたものです。大テーブルが<圧倒的な存在感>であり、この店の<主役>であること、後ろにある太い直方体の柱はそれを<見守る>存在であり、<引き立て役>であることが書かれています。L字型の柵で窓際と中央が仕切られているからこそ、中央空間は<ハイライトされた舞台>になり、窓際は<場末感>が漂うスペースになるとも書いています。

 ここに示した<>付きの文言は、客観的事実ではなく、私だけの主観的な解釈です。誰もがこの解釈を思うわけではありません。そもそも、空間に存在する事実のうち、ある一部のことに意識を当てる(例えば、大テーブルと直方体の柱の位置関係)こと自体が、私の主観的選択です。ある一部の事実に意識を当て、それに対して主観的な解釈を施すからこそ、居心地を感じる認知が生まれるということができます。

 最後に、経験記述の例を示します。

(経験記述の例):雑多な音の波と、光の濃淡がつくりだす陰影空間に身を任せるのが心地よい。あちらこちらに出没する他の小さな光空間と、マイスペースが、互いに、実は境目のあまりない大きな中央舞台を共有する。うまく棲み分けているという共存感か。喧騒の中になって、自分は自分の空間を作り上げている。大都会の中に自分なりに空間をつくり、棲み分け、各々がたくましく生きている(2017/11/13の記述から抜粋)。

 経験記述とは、様々な事実に意識を当て、それに独自の解釈を施したことから、その空間で身体が得ているであろう総体的な経験を記述するものです。このカフェには、光の工夫によってあちらこちらに小空間が形成され、私が陣取る近傍空間、ハイライト的な中央舞台、場末的な窓際がうまく棲み分けている共存感があると、私は感じたのです。「大都会の中に自分なりの空間を作って、各々がたくましく生きている」と、カフェを出て都市にまで想いを馳せて、しかも空間を完全に擬人化して、記述しています。このような妄想も大いに結構というわけで、私は経験記述のことを、個人的に「妄想記述」とも呼んでいます。

事実への着眼を自覚することが、からだメタ認知の肝

 事実、解釈、経験(妄想)を敢えて二分すると、事実vs.解釈/経験(妄想)に大別できます。「写真日記」の手法が卓越しているのは、メタ認知を行う本人に、自身の身体が着眼しているであろう事実を記述させ、明示的に「意識させる」ことにあります。居心地は空間経験そのものです。空間経験はすべからく、身体が着眼している事実に端を発して生じるものごとです。身体がその事実に接し、そこに意味を見出しているからこそ、解釈や妄想が生まれるのです。解釈や妄想が認識の目的だとすると、事実への着眼はその基盤です。

 しかし、空間を語りなさいと命じると、人はややもすると「事実記述」を省略してしまいます。試しに、どこかのカフェで、私と同じように居心地を表現してみてください。解釈や妄想的な記述は書きやすいですが、その基盤として身体が空間のどんな事実(存在、形や色などの属性、位置関係)に向き合っているのかを記述することは、慣れないと難しいものです。私の経験上、最も自覚しにくい事実は「位置関係」です。多くのモノが空間に存在している時点で、すでに、位置関係はありとあらゆるところに生じています。それを「関係」と自覚すること自体が、暗黙性の高い認知なのです。

 事実記述的なものごとをややもすると省略してしまうことに慣れてしまうと、自身の身体が感じ取っているものごとの多くが意識に上らない(それを意識し損ねてしまう)ことになってしまいます。つまり、解釈や妄想の基盤である事実への着眼に自覚的になって記述することが、からだメタ認知を促す手段になります。実践してみると分かりますが、解釈や妄想を記述している時に、その基盤であるはずなのに記述し損ねている事実を探してみると、結構あるものです。そして事実記述を書こうとすると、さらに新たな解釈や妄想が生まれます。このように、事実の記述と解釈/妄想の記述を行ったり来たりするうちに、自ずとからだメタ認知は促されます。そして、本来暗黙知であるはずの居心地について「結構、わたし、記述してるじゃん」という境地に至れば、しめたものです。

境界に陣取り、ぎりぎり巻き込まれはせず、ライブ感を肌で感じる

 カフェで蓄積した記述を分析(注7)した結果、私の居心地の成立には、実に多様なパターンがあることが見えてきました。その幾つかを以下で紹介します。

 私の占有スペースのエピソードは、私が醸し出すエネルギーと他者や外界のモノから発せられるエネルギーが互いにぶつからずに、エネルギー場が安定的に保たれるような、間合いの事例でした。しかし、間合いをつくるという現象は、必ずしも安定的な場に限られるわけではありません。第一回で論じた、雑踏をスイスイと泳ぎきる事例は、まさに、刻々変化する雑踏のエネルギー場に応じて、自身のエネルギーの向かう方向と強さを変えるという、臨機応変な間合いの生成でした。スイスイと泳ぎきっている本人は、ごく滑らかに間合いを形成しているのですが、端から見ていると、ちょっとでも間違うと人にぶつかってしまうようなすれすれ/ギリギリの現象に見えます。

 それに似た、すれすれ感を楽しんでいるかのような記述を、私のデータの中から紹介します。先に結論だけ言っておくと、他者やモノがもたらすエネルギーが、私の領域を侵しはしないが、もう少しで接するかのように近傍を通過することに刺激的な喜びを見出すという居心地の認識です。

壁のカーブの曲率が加速し、カーブの延長上に私の身体がある。‥(中略)‥ カーブの曲率が私の身体に向かってくるので、エネルギーの高まりを感じるのかもしれない。それを予感してここに陣取ることを決めた。‥(中略)‥ 私はどこに属しているのだろう? この濃密な空間の中か外か? ちょうどその境界線に位置している。内部のようでもあり、外部から覗き見ているような気もしないではないが、実は境界線上にいるからいいのだ。ライブ感や充満感を肌で感じながら、完全に巻き込まれて渦中の人にならないから、楽しめるのかもしれない。(2017/10/5の記述より抜粋)

 他者やモノのエネルギーが私を侵害しさえしなければ、「ギリギリの境界線に陣取ることは、渦中の人にはならず、ライブ感や充満感を肌で感じることを可能にする」という間合いの取り方です。決して安定で平穏な居心地ではなく、はらはらさせられる、侵害とは紙一重の間合いです。

 コンサートで、アーティストと観客の区別がつかないくらい会場全体が一体化し、観客だけれど渦中の人になるという間合いもあり得ます。ここで表現されている間合いは、それとは明らかに異なります。アーティストと観客の渾然一体は、観客である私と演じているアーティストの一人称が混じり合って区別がつかない状態であるとすると、第一回に論じた「同感」に似た状態(佐伯2017)かもしれません。一方、上記の間合いでは、二人称的な(共感的な)関わりが形成されています。壁のカーブの凄い曲率を肌で味わいたくて、意識的にギリギリの境界に身を置くことを通じて、壁の息遣いやエネルギーの動揺を手に取るように感得しています。しかし、渦中に巻き込まれることだけは避けているわけですから、相手(壁)と私はあくまでも別人格のままです。

多様な「意識の置き所」を見出す

 カフェは公の空間です。居心地を築くと言っても、自分の城に閉じこもり他者と関わらないように過ごすわけではありません。他者やモノと折り合いをつけながら、その折り合いを楽しみながら過ごす居心地もあります。まずは、スケッチと写真をみてください。

  

【図2:あるカフェの平面図と、座った位置から撮影した写真】

 この店は、大きな表通りに面し、間口が狭くて奥行きがある、細長い長方形をしています。面白いのは、建物のファサード(注8)に対して、表通り(及び歩道)が約20〜30度くらい斜めの角度になっていることです。「斜め」が何をもたらすかは後で説明します。

 ただでさえ細長い空間なのに、その幅の半分以上を従業員スペース(図の左側)と注文カウンターが占めていて、主なカフェスペースは右の壁に沿う、鰻の寝床のような細長い空間だけです。私が訪れたのは年末も押し迫った平日の午前だったので、お客さんがいませんでした。図の右下の★の席に、外の方向を見るように(図の矢印)腰かけました。目の前には壁に沿って長椅子があり(テーブルはない席)、一番窓際には二つだけ小さなテーブルがあります。

長椅子が僕の前から窓際までまっすぐに伸びる。この長椅子の強い方向性が、僕の視線と意識をそのまま外に向かわせる。長椅子の横に縦に2列小さな席が窓際にあることで、長椅子の強い方向性が窓際で若干弱められて、見るべきポイントや意識を彷徨わせる場所が多様であることが暗示される(2017/12/27の記述より抜粋)

 カフェで頻繁に経験するのは、モノの配置によって視線が誘導されることです。すぐ目の前から奥行き方向に(このカフェでは、外を見やる方向に)長椅子が延びていると、長椅子の細長い形が有する「強い方向性」に影響されて、カフェの外を見やる方向に視線が誘導(注9)されるのです。

 もし、長椅子による視線誘導だけが優位な空間であったとしたら、私の居心地は単調なものになったかもしれません。しかしこのカフェでは、窓際の二つの小さなテーブルが長椅子による強い方向性を若干弱める効果を持ち、そのおかげで「多様な場所に意識を彷徨わせる」ことが促されました。次の抜粋部分をみてください。

時には長椅子の方向性に意識をゆだねてみたり、細々と食器や豆やショーケースが置いてあるカウンターの諸々に意識を一つ一つ置いてみたり、開いた空間に彷徨わせてみたりできる。時には、窓の外の斜めの世界の動きを楽しんでみたり、自転車と車の関係をあれこれ考えてみたりできる。(2017/12/27の記述より抜粋)

 図2の写真には、左端の注文カウンターの上に、珈琲豆の瓶やデザート類を入れたショーケースが写っています。この事例の論点は、「意識を様々なモノ、共存する他者、外界の出来事に彷徨わせ、何かに一旦意識を置き、再び別の出来事に向けて彷徨わせるという多様性を楽しむ」という居心地があり得るということなのです。

歩道と車道はファサードに対して斜めに傾いているのが良い。車の流れが斜めであることによって、遠くから近づいてくるのが見え、動きの変化が見えるのが面白い。斜めだからこそ鑑賞対象になる。‥(中略)‥いま、おばちゃんの自転車が歩道を右から左に上っていった。やけに速いところを見ると電動アシスト自転車だろう。動きは一瞬だけれど、意識の置き所としてのアクセントを与えてくれる。車道は日が照っていて、歩道は陰である。その明暗のメリハリも、外の世界が一様ではなく、様々な人がそれぞれ生きていることを示唆する。(2017/12/27の記述より抜粋)

 写真の奥行き方向には広い歩道と車道が見え(スケッチには、上部に、広い歩道だけ描かれています)、激しい車の往来が目の端で動きます。ファサードに対して表通りが斜めであることによって、車道や歩道での動きを、少し長い距離、垣間見ることになります。車道は日が照っていて歩道が陰であるというメリハリが、外界も一様ではないことを示唆します。カフェで佇む私にとっては、それらの各々(例えば、車の動き、自転車の動き、歩道を歩く人)が、「意識の置き所」になるのです。

今、一人新しい客が現れ、2つ目の席の隣の長椅子に(僕とは90度視線がずれる)座った。‥(中略)‥ 逆光で顔が明確に見えず、黒いシルエットだけ。長椅子の強い方向性を時々緩和してくれる新たな存在の出現。そしてそれは、僕が意識を置く対象が一つ増えた、多様性が増したことを意味する。(2017/12/27の記述より抜粋)

 意識を彷徨わせることに楽しみを覚えると、他者がこの空間にやってきても、私が形成していた居心地が大きく崩れることはありません。逆光で顔が見えないこと、僕とは視線方向がずれていることが大いに寄与してはいますが、彼の存在でさえも、「意識を置く」対象として利用し始めるのです。

「意識を置く」ことで、二人称的(共感的)に関わる

 様々なものごとを「意識の置き所」にするのは、なぜ楽しいのでしょうか? 距離をとって人知れず観察して楽しむという、三人称的な立ち位置にいるわけではありません。むしろ、「意識を置くこと」を選んだモノや出来事の位置に私自身が立ち、そこから現状の世界を眺め直すことを想像するという、いわば二人称的(共感的)な関わり(注10)であると思うのです。

 その証として、「意識の置き所」になったモノや人(例えば、カウンター上のデザートや珈琲豆、車、自転車、他の客のシルエット)についての詳しい描写が、驚くべきことに、ほとんどないことが挙げられます。どんな色のどんな形の車だったか、どんな自転車でどんなおばちゃんだったか、何のデザートか、どんなお客さんだったか。ほとんど記憶に残っていないし、記述さえありません。「意識を置いた」モノや人の詳細を観察していたのではなく、そのそれぞれの視点を借りて、そこから世界を感じていたのだと考えられます。

 同じ空間にある様々なモノや人との間に二人称的(共感的な)関わりを築くということは、その対象が私と性質を異にするものだとしても、決して邪魔者として見るのではなく、「共にある」ことに折り合いをつけたということを意味します。ある対象に折り合いをつけたのもつかの間、対象物が次から次へと変わる。これは、一つの空間を多様な視点から感じ、眺め、楽しむという技であるのかもしれません。

「よく知る世界」に想いを馳せ、自身をポジショニングする

 1年以上の歳月をかけて、降りたことのない駅に降り立ち、街を歩き、カフェを味わう経験を続けてきました。予め詳しい情報をあまり仕入れることなく、初めてのカフェに素の状態で佇み、多様なる居心地の感じ方を編み出し、その度に、建築空間での間合いの取り方が変容することを楽しんできました。居心地をとうとうと記述できると、初めてのカフェであっても、そこは自分なりの意味を帯び始めます。その空間の全てを受け入れているわけではないけれど、次第に自分の身体がそこに馴染んでいく様子は、二人称的(共感的)関わりの醸成だと言えるでしょう。転校生が新しい学校に来て、元からその学校にいたクラスメイトの視点や立場を理解できるようになるかのように。

 建築空間との間合いの形成の様子を語るとき、ここまでは、その空間そのものと私の関係のみを論じてきましたが、実は、その空間を、より大きなスケールの中にポジショニングするということの重要さを、最後に論じたいと思います。今はもうお気に入りカフェの一つになっている、東府中のカフェでの記述を見てください。

電車のゴトンゴトンいう音が時折くぐもった音で届く。‥(中略)‥ このカフェの裏は東京競馬場につながる一駅だけの単線。‥(中略)‥ 非常にゆっくり、のんびりとした、ゴットン、ドッスン。馴染みの東京競馬場に一駅でつながっていること、‥(中略)‥ 線路の音を聞いているだけで競馬場の広々とした自由な開放感や、のんびりする感覚への想いを掻き立てる(注11) [原文ママ]。(2017/10/5の記述から抜粋)

 私は若い頃から競馬の大ファンです。東京競馬場にはよく足を運んできましたが、すぐ隣の東府中に降り立ったことは一度もなかったのです。単線ゆえの、ゆっくり、のんびりとした電車音だけが私をほっこりさせたのではありません。東府中は、そしてこのカフェは初めての場所だけれど、自分が「よく知る世界」(東京競馬場がそれ)にちょっとしたつながりを感じられると、どこか安心して、新しい間合いの形成に挑戦してみようと思えたという事例なのだと思います。転校生だからこの土地は初めてなのだけれど、実は、敬愛するおじいさんも昔この学校でいっとき学んだことがあると聞くだけで、その土地が新たな意味を持ち始めるように。

 東横線の自由が丘のカフェでも同じ経験をしました。自由が丘駅はランドスケープ的には谷地にあります。そのカフェは、駅からのゆるやかな坂を上る中腹にありました。爽やかな内装と大きな窓から降り注ぐ光が心地よい空間をつくっています。

 しばらく佇んだ後に、「ああ、この坂道は、駒沢オリンピック公園に至るランドスケープの一部だな」と気づいたのです。私は、昔、東横線沿線に住んでいて、ランニングやテニスの壁打ちのために通った経験から、駒沢公園は「よく知る世界」なのです。駒沢公園とのつながりに想いを馳せるだけで、初めて訪れたこのエリアが、何かしらほっこりとした意味を持ち始めたのでした。

まとめ

 私は、特に冬に、空を見上げている自分にふと気づくことがあります。ただ空を見るのが好きなのではなく、葉が落ちた大きな木の梢越しに空を見ることに、居心地の良さを感じるようです。

 梢は、複雑な形の枝が自由奔放に延び、多様に重なり、様々な「間」を形成しています。その一つ一つの「間」が、私にとって格好の「意識の置き所」なのかもしれません。ある枝の先に意識を置いたかと思えば、次の瞬間には、別の「間」や枝へと意識を彷徨わせます。

 風が吹けば、梢は複雑に動き、空の雲も動き、様々なエネルギーがぶつかり、折り合いをつけ、全体として大きなうねりを感じます。梢越しに空を見ている私にもその臨場感が伝わります。

 空は、奥行きが無限で、どこまでも想いを飛翔させることを許す冒険の場です。しかし、空にばかり目を向けていると、その奥行きのわからなさ、その広大さゆえに、自分はどこにいるのか、自分が何者かさえ見失い、眩暈を覚えます。梢からこっちは自分が「よく知る世界」。そことのつながりを意識に残したまま、意識を飛翔させるために、私は梢越しに空を見るのでしょう。

 梢越しに空を見るという日常行為に、カフェで体験してきた様々な居心地のパターンが凝縮されているような気がしています。単なるこじつけだと言うにはあまりに勿体無い発見ではないかなと思っています。

 

(注1) 「デザイン」という言葉は大げさに聞こえるかもしれませんが、職業的デザイナーではなくても、私たちは皆、生活の仕方をあれこれ工夫している限り、れっきとしたデザイナーなのです。

(注2) これまでの回で論じた言い方では、モノから受けるエネルギー的なものの総体と、私の行動の関係で、居心地は決まります。

(注3)脳科学的には、視線方向と脳の活性部位には関係があるという説もあります。私が右利きであることも何か関係するかもしれません。

(注4)私が身体の右前方向に意識を向けることは変わっていませんが、身体自体が左に回転しているので、彼女たちのエネルギーとぶつかることは軽減されたということです。

(注5)「なかなか言葉になりづらい身体知を論じる」ことが自己矛盾だと思われる方も多数いるでしょう。なかなか言葉になりづらいということを、専門的には「暗黙性が高い」と言います。暗黙性が高いからといって、全く言葉で表現できないわけではありません。例えば、カフェの居心地を言葉で表現しようという習慣が身につくと、次第に、言葉で表現できることの種類が増えてきます。さらに、からだメタ認知の最も重要な論点は、暗黙性の高いものごとであっても言葉で表現しようと意識することが、新しい知覚や動作への発見を促し、言葉が言葉を生み、ひいては学びを進化させる原動力になるという点です。詳しくは、拙著『「こつ」と「スランプ」の研究』をご参照ください。

(注6) 誤記だが、原文のまま抜粋しています。

(注7)この記事は論文ではないので、分析手法を詳細に論じることは避けますが、簡単に述べておきます。(1)まずは、すべてのカフェでの三種類の記述から、重要なものごとを表現しているフレーズを、マニアックな表現を残して抽出します。(2)次に、それらのすべてを基礎データとしてKJ法を行います。

 KJ法(川喜田1967)は川喜田二郎氏が編み出した定性的データ分析の手法です。基礎データの中で類似していると直感できるものを集め、それらを的確に表現出来る、少し抽象化されたフレーズをタイトルにします。それが一段階の抽象化です。

 一段階目で生まれたタイトルと(タイトルの下にグループ化できなかった)基礎データから二段階目の抽象化を行います。何段階か繰り返した後に生成できたタイトル群の間の関係性を図に表現することによって、元々の基礎データが有していた構造を見出すのがKJ法の狙いです。

 私の場合、基礎データの数はおよそ数百個であり、二段階の抽象化を経て、五五個のタイトル群が得られました。(3)その関係性を図示した結果、居心地を感じる幾つかのパターンが見出せたというわけです。

(注8) 「ファサード」は建築の専門用語で、建物の正面(通りに面している面)を意味します。

(注9)別のカフェでは、大きな長方形の中央テーブルの上に、天井からぶら下がる大きなライトが三~四個直線を成すように並ぶデザインが施されていて、その直線方向に視線が誘導されるということもありました。

(注10)通常、「二人称的(共感的)関わり」を結ぶ相手は人であり、共感は双方向です(相手もこちらに対して共感的な感情を抱く)。しかし、建築空間を対象として「間合い」をつくりあげるという心の働きにおいては、モノを相手に「二人称的(共感的)関わり」が生起していると考えられます。もちろん双方向ではなく、こちらからモノへの一方向です(「そのモノの視点から世界を眺める」という共感)。

(注11)「想いが掻き立てられる」の意味。

 

 

 参考文献

[諏訪2016] 諏訪正樹. 『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』. 講談社. (2016)

[佐伯2017] 佐伯胖(編著). 『「子どもがケアする世界」をケアする』. ミネルヴァ書房. (2017)

[諏訪、藤井2015] 諏訪正樹、藤井晴行. 『知のデザイン――自分ごととして考えよう』. 近代科学社. (2015)

[川喜田1967] 川喜田二郎. 『発想法』. 中央公論社. (1967)

 

 

 

 

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 諏訪正樹

    慶應義塾大学環境情報学部教授。工学博士。生活における様々な学びを「身体知」と捉え、その獲得プロセスを探究する。自ら野球選手としてスキル獲得を行う実践から、学びの手法「からだメタ認知」と、研究方法論「一人称研究」を提唱してきた。単著に『「こつ」と「スランプ」の研究――身体知の認知科学』(講談社)、『身体が生み出すクリエイティブ』(筑摩書房)、共著に『知のデザイン――自分ごととして考えよう』、『一人称研究のすすめ――知能研究の新しい潮流』(ともに近代科学社)。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる