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カントの誤診――『純粋理性批判』を掘り崩す

第2回

第二章 カテゴリーの分類と構築

 

  一 カント的な「カテゴリー」の特質

 

1 『純粋理性批判』は、大きく分けると感性論と分析論と弁証論とからなる。第一章では感性論の範囲の問題を扱ったが、これからは分析論の範囲の問題を扱う。分析論は、大きく分けると概念論と原則論とに分かれるが、その概念論はカテゴリー論と演繹論とに、その原則論は図式論と狭義の原則論とに分かれるので、結局のところ、カテゴリー論、演繹論、図式論、原則論の四つに分かれる、といえる。以下、この第二章ではカテゴリー論について、第三章では第一版(いわゆるA版)の演繹論について、第四章では第二版(いわゆるB版)の演繹論について、第5章では図式論について、第6章では原則論について、それぞれ多少とも批判的に論じていくことになるが、この第二章は批判的というよりはむしろ、カント的な「カテゴリー」という発想を基礎としながらも、それを私自身の考えに沿って発展させ、前章と同様に比較的自由に論じていくことにする。

2 色とか音とか触った感じとか……、ともあれ五感に与えられるものを、秩序づけて整理する仕方には、前章で論じた空間的な上下左右や時間的な前後関係のほかに、われわれの使う言語の構造と密接に結びついたものがある。きわめて大雑把にいえば、それがカテゴリーである。ここで言語というのは文の組み立て方のことである、といえる。ふたたびきわめて大雑把な言い方をするなら、前章で感じることと考えることを区別したが、感じたことは語で表現されるが、考えたことは文で表現される、といえる。文とは要するに複数の語を(ある規則に従って)繋げたものであり、その繋げ方の規則がすなわち文法なのであるから、先ほど、五感に与えられるものを秩序づけて整理する仕方には言語の構造と結びついたものもある、と言われた際のその言語とは、すなわち文法のことであった、ということになる。五感に与えられるものを秩序づけて整理する仕方には文法と結びついたものもあるのだ。

3 文法について考えていく前に、以上のことを前提として、カント的な(カントに特有の)カテゴリーの特徴はどこにあるのか、についてまずは端的に指摘しておこう。ひとことで言えばそれは「それに従って秩序づけられなければわれわれの経験そのものが成り立たず同時に、、、またわれわれの世界そのものが成り立たないようなもの」である。すなわちカント的なカテゴリーは、感覚に与えられるものを秩序づけてある纏まりをもった経験を――ということはすなわち纏まりのある一人の人間主体を――作り上げるとともに、そのような経験の作り上げ方において同時に、、、客観的世界そのものをも作り上げる、そういうものなのである。重要なのはこの「同時に、、、」なのだが、それは時間的な同時性というよりは、それらがじつは一つのことである、、、、、、、、、、、ということを表現している、と考えていただきたい。すなわち、どちらにとっても、一方は他方なしには不可能であるということを表現しているのである。

4 統一性のある纏まった経験を作り上げることは必ず客観的世界を作り出し(なぜならそうしないと統一性のある纏まった経験は作れないから)、また逆に客観的世界が成立するということはそれを経験しうる主体をそのことのうちで作り出さざるをえない(なぜならそうしないと客観的世界が成立しないから)、ということになる。しかし、それはわれわれの理解しうる客観的世界のことだけを考えているからではないのか、と言われるかもしれないが、それに対する答えは、然り、何故なら客観的世界とはわれわれの理解しうる客観的世界のことだから、というものになるであろう*。この根源的な相補性こそがカントの洞察であり、これがすなわち超越論的な関係である。ここで最も重要なことは、これを人間に起こる何らかの心理的事実のように理解しないこと、である。いかなる事実も、したがって心理的事実も、このような超越論的関係の上に乗ってしか成立しえないのだ。これこそがカントの根源的洞察である。

*本章のこの後の議論で、カテゴリーをわれわれに与えられた世界の側がもともとなぜか持っていたそれとわれわれの悟性が世界に持ち込んだそれとに区別するが、これらはすべてここでいうところの客観的世界の作られ方にかんする議論であり、主体の側の自己同一性にかんする議論は(最後に人称のカテゴリーが追加されるまで)まったく触れられない。カントに即したカテゴリーの議論としてはこの順番にならざるをえないのだが、じつのところは人称カテゴリーにおける第一人称「私」の成立と客観的世界の成立が相補的となる。そこで初めてここでなぜ「われわれの」と言えるのかも明らかにされる。

 

二 一応はカントの分類に従ったカテゴリーの(勝手な)解説

 

5 という前提に立って、話を戻して文法について考えていくことにしよう。文法の例としては中学校で英語を教わり始めた際に教えられたことを例にとって説明していくことにする。単語は単語で覚えなければならないが、それとは別に単語の繋げ方の規則を次々と教えられたはずである。たとえば、This is a stone.のように。この場合、stoneは感覚に与えられたものそのものではないが、感覚に与えられたものから(文の構成に先立って)作られるそのパターンではある。感覚に与えられるもののある種の類型をstoneとして分類していることになる。すると、This is a stone.という文は、視覚に与えられるある類型に名を与えているか、すでに与えられたその名を使ってその類型を分類しているか、であることになるだろう。たいていの場合、話し相手にもそれが同じように見えていることを前提にして、それらはなされるだろう。

6 この段落は前章の段落6で述べたことに続く話になる。土とか石とか鳥とか雨とか風とか……そういう一般的な種類というものがあって、あらゆるものはその一例でなければならず、さらにそれらに丸いとか冷たいとか白いとか……一般的な属性があり、さらに動くとか縮まるとかぶつかるとか……一般的なことをし、あらゆることはその一例でなければならない。なぜすべてのものごとが一般的なものごとの一例でなければならないのか、それには究極的な根拠はなく、この世界のもつたまたまの事実にすぎない。したがって、土も石も鳥も……土や石や鳥や……であることとは独立に、、、、、丸かったり冷たかったり白かったり……することができることにも、すなわち世界がそのような二層構造*をしていることにも、究極的な根拠はなく、それもまたこの世界のもつたまたまの事実にすぎないといえる。しかし、世界がそのような構造をしているからこそ、This stone is white.といった文が構成可能になる。すなわち、主語概念によって指される実体と述語によって指される属性とを繋げる「判断」というものが成立可能になるのだ。これはカントのカテゴリー表でいえば、三の1の「実体性と偶有性」に対応する。This stone が実体で whiteがそれが偶有的に(すなわちたまたま)持つ性質である。偶有的であるというのは、かりにその性質を持たなくても(したがって色が変わっても)その同じ石でありうるからである。

*whiteという形容詞に、他の諸々の色や色以外の形容詞をも限定できるような副詞が作用できる(たとえばThis stone is brightly white.のように)とすれば三層、その構造が原理的には無限であるとすれば多層である、といえる

 

 

カテゴリー表

 

一 量

1,単一性 2,数多性、3,全体性

二 質

1,実在性 2,否定性 3,制限性

三 関係

1,実体性と偶有性 2,原因性と依存性 3,相互性

四 様相

1,可能性‐不可能性 2,現実性‐非存在 3,必然性‐偶然性

 

 

7 中学で英語を習い始めた時に教えられたことに戻って、このカテゴリー表との対応を考えてみよう。一の「量」のカテゴリーにかんしては、まずは複数形である。わりあい初期のころに、These stones are white.といった文の作り方を習ったはずである。とはいえこれは、後には文法の問題にもなるとはいえ、もともとは文法の問題というよりは世界のあり方の側の問題であったはずである。複数という捉え方は、数という概念の起源なのであるから、極めて重要な捉え方であるとはいえるが、それでもやはり、これはわれわれが世界に押しつけたわれわれの側の「捉え方」であるというよりは、むしろ世界の側が事実としてそうなっていることからわれわれがそれを受け入れて物事を捉える基本的な型とした、という意味での「受け入れ方」であると言ったほうが適切であると思われる。世界にはなぜか一般的な種類というものがあって、したがって同じ種類に属する複数のものが必ずある。だからこそ、その数という捉え方が生じうるし、生じざるをえないとさえいえるわけである。ということは、逆にいえば、そうなってはいない場合も――すなわち個数という捉え方がそもそも成り立たないような世界も――十分に考えられはするわけである*

*物に種類なんぞなくても、ともあれ個的物体がありさえすれば、個数は可能だとも考えられはする。目の前に石が一個と木が一本あり、そこに一羽の鳥が飛んで来たなら、全部で三個である、と捉えることができるというように。とはいえ、その世界に石や木や鳥といった種類はないのだから、それらは最初からたんに物(という種類)だったわけであり、それだからこそそれらの個数を数えることもまた可能であったわけである(でなければそれらを「三個(三つ)」と数えるのはかなり無理がある)。種類と個数とが相補的な概念であることは明らかだろう。物(個的物体)さえも存在しない世界(例えば流体世界)ももちろん可能であり、その場合には個数というものもなく、それゆえに数という概念も発生しにくいであろう。

 

8 ここで、前章の段落7で指摘した事実との関連において、「いくつあるか」が他の「どのようにあるか」と截然と区別されるべき理由を確認しておくべきだろう。そこで私はこう言っていた。「ここで働いている、同じ種類のものの個数という考え方コンセプトそれ自体が、空間と時間という感性的なものをそれ以外の(種類というものを作り出している)諸概念から区別することによってはじめて可能になっているということを、ここから理解していただきたい」と。ある観点から見ると、これはライプニッツの「不可識別者同一の原理」に対する批判であるといえる。不可識別者同一の原理とは、大雑把に言うなら「識別できない(=すべての属性が同じである)二つのものは同じ一つのものである」という原理である。しかしカントは、その諸属性から空間時間的な位置だけは分離すべきだと考えたわけである。「たとえ概念にかんしてはそれらの物が完全に同一であるとしても、同じ時間におけるそれらの現象の場所の違いは、(感官の)対象そのものの数的差異を成立させるのに十分な根拠となる。二滴の水滴がある場合、それぞれの水滴の間の内的差異(質と量)はまったく度外視するとしても、もしそれらが同時に異なる場所において直観されるならば、それらは数的に異なるとみなすに十分である」(A263-4,B319)。このような考え方から質的同一性と数的同一性の区別が生じ、個数(時間の場合は回数)というものの独自の意義が根拠づけられることとなる。そもそも数とは、起源的には、個数と回数のことであったに違いない。

9 「量」のカテゴリーにかんしては、次に重要なのは全称判断等々の判断類型の成立であろう。これはしかし、要するにはやはり、この世界にはなぜか、物の種類とそれがもつ性質の種類に分かれて、多層的に種類というものが存在している、という事実からの帰結だといえる。前章の段落6で述べたように、世界にはなぜか土や鳥や石や……があって、土も石も鳥も……、土や石や鳥や……であることとは独立に、丸かったり冷たかったり白かったり……できる。それだからこそ、この石は丸いとか、すべての石は冷たいとか、ある石は白いとか、主語で指される実体と述語で指される属性とを繋げる「判断」というものをくだすことができるわけである*

*たとえば「すべての石は~」という形の全称判断の場合、「~」に入る語がそもそもの始めに石を石として識別する際に使われていた基準のたんなる反復であれば、それは分析的判断であるということになり、当然のことながら必然的に正しい。それは意味上の真理であるからだ。これに対して、そもそもの始めに石を石として識別する際には使われていなかった真理を、経験的な探究の結果として、新たに発見したのであれば、それは総合的判断であることになり、当然のことながら、さらなる探究の結果、じつは正しくなかったことが判明することがありうる。まったくあたりまえのことではあるが、カントとの関係で付言しておくなら、経験的探究は必ず「感性」を使ってなされる。

 カントとはとくに関係はないがさらに付言しておくなら、分析的真理と総合的真理とは入れ替わることも可能ではある。たとえば鳥を鳥として識別する基準のうちに、当初は「空を飛ぶ」のようなものが含まれており、「すべての鳥は空を飛ぶ」は分析的判断であった(この場合「飛ばない鳥」が発見されることはありえない)が、後に鳥を鳥として識別するための別の基準が(たとえば他の生物を識別するためにも使える体系性があるといった理由で)新たに採用され、「飛ばない鳥」が存在可能になる、といったことが起こりうるのだ。鳥のごとき経験的概念にかんするかぎり、このようなことはつねに可能であると考えなければならない。われわれは通常、意味の側を固定させたうえでそれに基づいて事実について探究するしかないのだが、ときに発見された事実を意味の側に組み込ませることもまた可能ではあるのだ。

10 二の「質」のカテゴリーにかんしては、否定の存在という問題に尽きる。英文法を学ぶ際にも否定文の作り方は初期の最重要の課題だったではあろうが、文の作り方の問題以前に、そもそも世界のあり方を「……でない」という仕方で捉えることができるということ自体が画期的なことだといえるだろう。私の素朴な実感を語るなら、否定というものが登場したとたんに、世界把握の覇権が世界そのものの側から知性を持つ主体の側に移る。なぜなら、物やその属性の種類の複合も、同種のものの複数性も、もともとからわれわれのこの世界にたまたま存在していた事柄だといえるが、その世界そのものには否定など存在していなかったはずだからである*。それは、文字どおりこちらから持ち込まれた「世界把握の仕方、、」であり、おそらくはこれこそが言語的世界把握の核であるといえるだろう**

*かりにもしそれが世界の側にあるのだとしても、それはたまたま、、、、あるのではなく必然的にあることになるだろう。すなわち、この世界以外のいかなる世界が与えられていたとしても、その世界は必ず「そうでない場合」がありうる世界でなければならない、というように。(しかし、そうでない場合が「ありうる」とはつまり他の可能性の存在という様相の問題であるから、否定の存在とは様相の存在のことだともいえるはずである。)

**これをウィトゲンシュタインの絵(像)の理論を使って語るならこうなる。複数の石が白い色をしているといったことは絵でも描けるが、それらが赤くないことは絵には描けず、言葉でそう言うほかはない、と。そこから翻って考えると、These stones are white.というポジティヴな言語表現の内にもすでに、それらの石がredやblackや……ではないという否定性がすでに含まれていたことがわかる。そういう否定性の必然的な内在こそが言語的世界把握の一つの特徴であるといえるだろう。

11 否定と偽の関係はどうだろうか。This stone is not white.という文が可能であることとThis stone is white.という文が偽でありうることは同じことだろうか。世界の側には肯定性しか存在しないとすると、This stone is not white.という文はThis stone is white.という文が偽でありうる(例えば見間違いで)ということを先取りして表現した文であると見ることができる。これがカテゴリーとしての「否定」の意味であろう。しかし、別の考え方をすることもできる。これを色体系の存在を前提して(その内部で「白ではない」と否定性を働かせて指示を限定したうえでの)肯定的な表現と見ることもできるからである。その場合、この文は「…白以外の色である」という肯定的な事実を表現していると見ることもできることになる*。この場合には、前段落注**で指摘されたような否定性が暗に働いていることになる。これが、カテゴリー表において「制限」とされているものであろう。

*ウィトゲンシュタインの着想とされる「真理表」では、否定が真偽を使っても定義されている。「¬とは、Pが真のとき¬Pは偽で、¬Pが真のときPは偽、となるような真理関数である」のように。しかし、素朴に考えて、否定の意味を知らない人が真偽の意味を理解できるとは思えないので、これはじつは循環定義ではないか、と疑われて当然であろう。真偽概念よりも否定概念のほうがより基礎的でなければならないはずではないか、と。

 とはいえ、真偽概念は否定性とは独立の特殊な起源をもち、文に適用された否定はその真偽概念に依拠した特殊なものなのだ、と見なすこともできるだろう。本文後半で紹介した「制限」の考え方に拠れば、否定性は本来必ずしも文にかんするものではなく、「……以外」という仕方で語の体系においてはたらくものであった。むしろこちらが否定性の本来の意味であるとみなしうる(それは真偽というよりはたんなる差異に基づくものである)。

 ところでしかし、語られた文には必然的に偽の場合というものがありうるわけだが、それはその関係の場合にだけ存在するきわめて特殊な関係であり、そこでは語体系の場合のように互いに他を否定するという相対的な関係が成り立っているわけではない。あくまでも真が基準で(残念ながら!)そうではなかった場合が偽となる、という一方的な関係が、一回だけ存在するにすぎない。すなわち、真理の側が「突出」しており、そうでなければ(つまりそれの否定は)偽であって、それで終わり、それだけ、なのだ。否定性(否定というはたらき)という抽象的で相対的な反復的構造は成立していない。

 その反復的構造はどこから持ち込まれたのか、と問われるならば、否定(というはたらき)を真理関数によって定義するために、可能性としての真偽という見地を導入し、真偽概念を相対化することによって、である(実際には否定というすでに相対的である関係を使って真偽を相対化したのではあるが)。

 重要な点は、そうするとここには累進構造がはたらくことになる、という点である。真偽概念の相対化にもかかわらず、特権的な真理の存在はどこまで行っても否定しがたく残存し続けるからである。「その石は白い」が真ならば、、、「その石は白くない」は偽であり、「その石は白くない」が真ならば、、、「その石は白い」は偽である、のではあるが、そのような相対的な関係とは別に、その石は現実に白いか白くないかどちらかであり、そしてなんと、現実には白い!といった真理が存在せざるをえないからである。否定性の根源にこの意味での端的な現実性が(端的でない、、現実性とともに!)持ち込まれたことの意義は大きい。真偽(A系列にあたる)と否定(B系列にあたる)とが結合することによって、そこに累進構造が生じるからである。

12 三の「関係」のカテゴリーにかんしては、1の「実体性と偶有性」についてはすでに論じたので、2の「原因性と依存性」について、要するに因果性について、簡単にその意義を解説しておくことにしよう。森羅万象、世界に起こることすべてには、何らかの原因があるのだろうか。原因なくただいきなり起こる、無原因の出来事というものはありえないのだろうか。もしありえないとしても、そうであることがなぜわれわれ人間にわかるのだろうか。また、原因と結果の関係には必ず法則性があるのだろうか。法則性なき因果性*や因果性なき法則性**はありえないのだろうか。もしありえないとしても、そうであることをなぜわれわれ人間が知りうるのであろうか。

*その時にはたしかにAという原因がBという結果を引き起こしたのだが、しかしAタイプの出来事がBタイプの出来事をつねに引き起こすという法則性があるわけではない、ということ。

**Aタイプの出来事の後にはいつもBタイプの出来事が引き続いて起こる(そういう法則性がたしかにある)のだが、Aという原因がBという結果を引き起こしているわけではない(ただ引き続いて起こるだけである)ということ。

13 D・ヒュームはこう考えた。「AがBを引き起こす」という判断が下される場合、実のところを言えば、Aという出来事、Bという出来事、そしてそれらが引き続いて起こるということは観察可能で、確かに観察されてもいるわけだが、AがBを引き起こしているという「引き起こし」の事実はそもそも観察不可能であって、だからもちろん観察されてはいない。Aタイプの出来事にBタイプの出来事がつねに引き続いて起こることを、彼は「恒常的連接」と呼び、われわれが「因果関係」と呼んでいることの実態はこれであり、じつはこれだけなのだ、と主張した。つまり、因果関係といわれていることの実態は、あるタイプの出来事の後には別のあるタイプの出来事がいつも引き続いて起こるという関係を、われわれが繰り返し観察しているうちに、心の習慣によって、観察者の心の中に「因果」の観念が成立するということなのであって、実のところは、前の出来事が後の出来事を必然的に引き起こすといった関係は実在しないのだ、というわけである。したがって、これまでのところいつも、Aタイプの事象の後にはBタイプの事象の生起が観察されていたとしても、そこに必然的な関係があるわけではないので、次回のAタイプの事象の生起の後にはBタイプの事象の生起は観察されないかもしれない、ということになる。一般に自然法則といわれるものはすべて、これまではこういう継起関係があった、というものであるから、これから先もその通りになるかどうかは決してわからないということになる*。われわれがそうは考えないのは、たんに心の習慣がそうは考えさせないからにすぎない。つまり、因果関係はわれわれの心の習慣にすぎない、というわけだ。

*この点にかんしてくわしくは、成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか』(青土社)を参照されたい。

14 これは私にはきわめてもっともな議論だと思われる。この議論の型を因果性以外の類型一般に広げ、ヒュームが主として時間的に考えた問題を空間的にも考えてみることができるだろう。これまでわれわれが地球上で出会ってきた物事はすべて、何らかの類型に属していたが、宇宙旅行をしてみたら、どこからか先は類型化を拒む独自成類的なものごとで成り立っていることがわかった、ということもありえないことではない、というように。あるいはもっと簡単に、AがBを引き起こすという型が客観的には実在していないとも考えられるのであれば、そもそもAという型、Bという型についても同じことが言えるのではないか、と。AがBを引き起こさないこともありうるように、そもそもAという型自体も成り立たなくなることもまたありうるのではないか、と*

*これは、Aという型の成立自体にもじつは因果関係が内在しているのではないか、という問いに変形されてもよい。

15 しかし、カントによれば、このようなことはどれも、決してありえない。そもそも類型的に捉えることこそが、われわれが世界を捉える捉え方であり、われわれに世界が与えられる与えられ方であり、われわれが世界と出会う出会い方であるからだ。それゆえに、、、、、世界というものはそのように出来ているのである。因果の例でいえば、われわれは因果的な連関を捉えるとき、すなわち世界が因果的な形で与えられるとき、すなわちわれわれが世界と因果連関を介して出会うとき、われわれは世界と出会うことができる。それ以外の出会い方は存在しないので、それこそが(われわれにとっての)世界の真の姿なのである。(世界がそれ自体として、、、、、、、(an sich)どのような姿をしているのか、われわれは決して知ることができない。)それゆえに、つまりその意味において、世界が因果的でない(なくなる)可能性はない、、のだ。かくして、知りうる事象と在りうる事象と(カントは言っていないがあえて付け加えるなら、さらに語りうる事象と)が、アプリオリに一致することになる。カント風の用語を使って表現するなら、経験一般の可能性の条件と自然一般の可能性の条件と(カントは言っていないがあえて付け加えるなら、さらに言語一般の可能性の条件と)が、かくしてアプリオリに一致するのである。この洞察こそがカント超越論哲学の「いかなる風雪にも耐えうる」最高の達成なのである*

*超越論哲学の示す認識を、人間という動物に起こる心理的事実のようにしか理解できない人は多い(意外なことに専門家の中にさえ)。そう理解されると、これはヒュームの経験論哲学と本質的には変わらないものとなる。このことの内には非常に興味深い(パラドクシカルな)問題がふくまれているのだが、そこまで踏み込む余裕は今はないので、ここでは、その二つはまったく違うものなのだと断言して、その説明を試みたい。たとえば、人間という動物の「深層心理」には因果性という枠組みが備わっており、だから人間は森羅万象をその枠組みで捉えるようにできているのだ、というようなことを、カントの超越論哲学は主張しているのではない。超越論哲学は人間という動物に備わる事実問題から出発することはできない。人間という動物はすでにして一つの類型であり、それがある属性を持つことはすでにしてカテゴリーの適用だからである。当然にまた、深層心理なるものを探求するにもすでにして、、、、、因果性その他のカテゴリーを使わざるをえない。すなわちこれはもはや背後遡行不可能な、、、、、、、、事態なのである。超越論的な探究は、やめたいところでやめられないのではなく、どんなにやめたくなくてもやめざるをえない、いやむしろ、じつのところはもうやめていざるをえない、そういう地点がつねにすでに存在してしまっている、という種類のことがらなのである。

 それゆえ、たとえばフロイトやラカンの精神分析的理論のようなものは少しも超越論的ではなく、ごくふつうに経験的な理論であり、哲学者でも、ヒュームやベルクソンの議論なども経験的である。それらは多くの場合、いわば人間という一動物のあり方についての、事実問題にかんする主張だからだ。それらは、この世界の内部で起こる(起きた、起きている、……)事実についての理論なのである。カントの超越論哲学は、事実問題についての理論ではなく、およそ事実の認識というものが、それゆえにおよそ事実というものそのものが、そもそも可能となるその仕組みにかんする理論であり、通常の事実問題についての諸学説とは、対象とする階層そのものがまったく異なっているわけである。

16 ところで、同じ「関係」というカテゴリーの内に位置づけられているとはいえ、1の「実体性と偶有性」と2の「原因性と依存性」ではずいぶん違う種類の「関係」ではないか、と思われるかもしれない。それはしごくもっともな疑問である。「実体性と偶有性」は一つの文(で表現されるような事態)をはじめて作り出す、きわめて基礎的な「関係」であるのに対して、「原因性と依存性」は二つの文(で表現されるような事態)を外から関係づける、それに比べれば二次的な「関係」であり、その二つの「関係」の意味はずいぶん違っているように思えるからである。それはまったくその通りなのだが、しかし、似ている面があることも否定できない。それは、どちらもわれわれの捉え方の側の特性というよりは与えられたこの世界の側の特性に由来しているように見える点である。もちろんこの世界がそれ自体として(an sich)どのようなあり方をしているかは知りようもないとはいえ、何らからの意味でそれ自体としてのこの世界(のもつ特殊事情)が根拠となってわれわれに現に与えられている世界のこのあり方が、どういうわけか、、、、、、、そのような形をとっている、とはいえるからである。なぜならば、「実体性と偶有性」の関係も「原因性と依存性」の関係も、それらが現に与えられているのとは異なる、別のあり方をしている場合も、また考えられはするからである。たとえば、実体とそれが偶有的にもつ性質のどちらにも類型(種類)というものがなく(その意味では実体も性質もなく)、したがって「主‐述」的な捉え方もできないようになっている、そういう世界のあり方も考えられることはすでに指摘したが、類型化可能な因果的な(あるいはそもそも継起的な)繋がりもまたない世界も十分に考えられるであろう*。類型的な物があればその個数というものもまた必ずあり、類型的に因果的(継起的)繋がりがあればその回数というものも必ずあるだろう。それらが無ければ個数や回数もまたないことは言うまでもない。

*それは、われわれが何かを認識する・理解するということが不可能な世界になるではあろう。理解して認識するとは要するには類型化することだからだ。しかし、現存の世界から現存の類型化を排除していく思考実験によってそういう世界の可能性を色々と考えてみることは十分にできる、、、だろう(ここでの論点はそれさえもできない場合との対比にある)。

17 これに対して、すでに論じた否定や、次に論じる様相は、それが存在しない世界はそもそも考えられない。なぜなら、それらはわれわれに与えられたこの世界の側がたまたま持っていた性質ではなく、それを捉える知性の側がそこに持ち込んだ(持ち込まなければそもそも捉えるというはたらき自体が成立しえない)枠組みだからである。「この石」という類型化的把握はすでにしてそれが石でない(物空間の内部で他の物である)可能性との対比によってなされており、「この石は白い」という偶有的性質の付与は白くはない(色空間の内部で他の色である)可能性との対比でなされている。否定と他である可能性の存在はものごとの理解の必然的な前提である。因果法則的連関の認識にかんしても同じことがいえる。それゆえ、その否定と様相そのものにかんしては、それがない可能性や他のあり方をしている可能性はそもそも考えられない。その問題をさらに論じるためにも、まずは第四のカテゴリーである「様相」について、多少の解説を加えておこう。

18 英語学習の場合でいえば、これは助動詞(canとmust)および仮定法の学習と関係している。まず、必然的とは、いかなる場合もそうである(だからもちろん現実的にもそうである)ということであり、可能的とは、そうであることがありうる(現実的にそうであってもなくても)ということであり、現実的とは、実際にそうである(だからもちろん可能的でもあるが必然的であるとは限らない)ということである*。ついでに言えば、不可能的とは(現実的にそうでないことはもちろん)そもそもそうであることはありえない、ということであり、偶然的とは(必然的ではないが)たまたま現実にそうである、ということである**

*カントはこれらにかんしても彼の認識論的な枠組みから規定したり(直観形式や概念のような経験の形式的条件とだけ合致することが可能的で、感覚のような経験の実質的条件と合致することが現実的、……のような)、時間との関連で規定したり(すべての時間的においてそうであれば必然的、ある時間点においてそうであれば可能的、……のように)することになるのだが、これらはいずれも様相概念そのものの説明としてはよけいな要素が付け加わっていて(否定を内包量の問題と繋げる議論と同様)不適切である。

**余計な話ではあるが、現代の様相論理学では最後の偶然的をむしろ「(必然的ではないが)可能的ではある」のように捉えるのが普通である。それでも直観的に意味が通るのはそこに現実性にかんする累進構造がはたらくからにほかならない、と私は考える。各可能世界がそれぞれその世界にとっては「現実世界」であるという「現実」理解が一方では不可欠だからである。この点について興味のある方は、この章のこの後の議論を参照のうえ、もういちど返って考えてみていただきたい。

19 様相は否定と同様、われわれに現象している世界の側が持つ性質ではなく、それを捉える際にこちら側がそこに持ち込む*性質なので、それがない世界(世界がそれを持たない場合)やそれが違っている世界は考えられず、それゆえそういう世界は存在しえない。世界が現実にどのようなあり方をしていようと、そのようではなく他のようである可能性というものは必ず存在し、逆にいえば、そのように別様である可能性の側がない世界はありえない。それゆえに、段落11の注*で真偽をもつ文に適用された否定は累進構造を内蔵させることになると指摘したが、様相もまた累進構造を内蔵させていることにならざるをえないことになる。なぜなら、現実世界の現実的な事態から出発する別の可能性だけでなく、可能世界の可能的な事態をかりに、、、現実と見なした場合の、(そこから見ての)別の可能性というものもまた考えられざるをえないことになるからである。この累進には終わりがない。その別の可能性もまたかりにそこを現実と見なした場合の(そこから見ての)別の可能性がまた考えられることになるからである。しかし、そちらの方向へは終わりがないとはいえ、起点そのものは厳然と存在するのでなければならない。可能世界の可能的な事態をかりに現実と見なした場合(のそこから見ての可能性)とは区別された、現実の現実世界(のそこから見ての可能性)というものは、厳然と存在せざるをえないからである**。これがすなわち無内包の現実性である***。それが無内包であるのは、厳然と存在するこの最終的な現実性を他の想定上の諸現実性から概念的に区別する方法がついにはないからである****

*こちら側が持ち込むとは、別の捉え方をするなら、言語という仕組みが本質的にそれを必要とする、という意味である。だから、それは仕組みの必要上の存在にすぎない、ともいえる。とはいえ、それで捉え、それで考える以外の方法はないのだから、それが最も根源的である、ともいえる。

**時間におけるA系列に相当するといえる。

***したがって、もちろん、それはまた「風間くんの質問=批判」の提起した問題でもある。

****だからそれは、その点にかんしては「語りえぬもの」となる。その点にかんしては、というのは、他の点にかんしては、つまりその事象内容にかんしては、いくらでも語りうるからである。

20 否定文は作れるが否定絵は描けない。「この石は白い」という文「この石は白くない」によって否定ができるが、白い石の絵に×を描き加えてみても、×が絵の一部であるなら×型の何かがそこにあるといったことを意味してしまうし、もしそれで否定ができるなら×は絵ではなく(一つの言語的意味をもつ)記号であることになるが、その場合にも何を否定しているのかは一義的には決まらない*。否定は、世界になぜか現にある諸類型とは違って世界の側がもつ実在的リアルな性質ではなく、それを把握する側が持ち込む把握の形式にすぎないので、それ自体を絵の側に描き込むことはできないのだ。否定絵が描けないのであるから、当然、それと対比される意味での肯定絵も描けない**。様相についても同じことがいえる。可能絵も必然絵も描けない。様相もまた、世界の側がもつ実在的リアルな性質ではなく、それを把握する側が持ち込んだ形式にすぎないので、それ自体を絵の側に描き込むことはできないのである。可能絵も必然絵も描けないのだから、当然、それらと対比される意味での現実絵も描けない***。肯定絵も否定絵も、表象内容それ自体は同一なので、同じ絵であらざるをえないのと同様、可能絵も必然絵も現実絵も(もちろん不可能絵も偶然絵も)、みな表象内容自体は同一であるから、同じ絵にならざるをえない。それらの違いを描き出すことができるのは、ただ言語のみである。同じ絵(表象内容)をもとにして、このように異なった捉え方を表現できることが言語の本質であり、表立ってその枠組みがはたらいているように見えない場合にも、それは必ずはたらいている。その仕組みによって描き出される世界のあり方が言語的世界像である。

*この三番目の点についていえば、もともと文は、ある空間設定を前提としたうえで、その空間の内部にすでにある他の諸可能性を否定することによって何かを肯定するというはたらきをするものなのだが、絵はそのような明確な空間設定を前提としない世界描写だからである。

**対比されない意味での肯定絵が描かれてしまうともいえる(これはフレーゲの「判断線」についてウィトゲンシュタインが言ったことでもある)。

***対比されない意味での現実絵が描かれてしまうともいえる(これは直前の注で肯定絵について言ったことと本質的に同じことである)。

21 しかし、否定の場合にも様相の場合にも、その言語のはたらきをもってしても描き出すことができない、言語的な対比では描出しえない、究極的な現実性が存在しており、繰り返すなら、それが無内包の現実性である。言語的な対比構造では描出しえないから無内包なのである。多重否定や多重様相の可能性に巻き込まれる以前の裸の肯定性・現実性が存在しているのでなければ、そもそもそのような重層化の運動が始まることもできない。重層化の運動は最初に在った裸の対比(肯定‐否定、真‐偽、現実‐可能)の形式的な反復だからである*。だから、無内包の現実性の存在こそが、それと対立する言語的世界像を可能ならしめたのである。世界把握の仕方として根源的に対立するこの二つのあり方は、同じく根源的であるという意味においてではなく根源が同じであるという意味において、等根源的であるといえる。

*『純粋理性批判』の「神の現存在についての存在論的証明の不可能性について」における「存在は実在的な述語ではない」(A598/B626)という有名な言葉も、この意味での「存在」と解することもできる。これはもっと素朴に(むしろ前段落の意味で)「~がない」ことの絵が描けないのであるから「~がある」ことの絵も描けない、という意味に解することもできるが。その場合、存在は絵に描きうるような実在的レアールな性質ではないという意味になる。しかし、存在論的証明は言語で語られており、それが何を言っているのかは十分に理解できると考えれば、この存在論的証明批判はむしろ、そういう証明によって到達される「存在」は、結局のところ、無内包の現実性としての存在そのものには到達できない、と言っていると解することもでき、後者のほうが、神の存在の存在論的証明に対する批判としては本質的であろう。それは、神なるものの存在の仕方そのものに肉薄しているであろうからだ。

 

三 超越論的哲学のために不可欠なカテゴリーの追加

 

22 英語を学ぶ際の話にもどるなら、初期に習得が不可欠なのは人称(私、あなた、彼・彼女)と時制(過去、現在、未来)の仕組みであろう。ところで、同じ絵にならざるをえないという点については、過去絵と現在絵と未来絵、私絵とあなた絵と彼(女)絵にかんしても、それはいえるだろう。ある事態が、現在起こっていようと、過去に起こったのであろうと、未来に起ころうと、事象内容そのものは同じであるから、その事態を描いた絵は同じ絵であらざるをえない。その意味で、過去絵や未来絵もまた描くことができない。それが過去の事態なのか未来の事態なのかの違いは、世界の実在的リアルな事実を写像する絵によってではなく、それ以外のことを付け加える言語的な記号によって描かれるほかはないからである*。自分が体験したことと他人が体験したことの違いも、事象内容の違いではないので、その違いは絵には描けず、それらはやはり同じ絵にならざるをえない。これは、あるいは奇妙なことのようにも思えるかもしれない。なぜなら、自他のあいだには記憶や予期のような繋がりさえもなく、他人の体験は間接的にさえも体験できないからである。それゆえ、それらは同じ絵にも描くことはできず、始めから言語的にしか表現されえないように思えるのである。これはじつはその通りであって、自他における「同じ絵」は言語的世界把握による同一化が為された後で、もともとあった事実として措定されるしかないのだ。この自他の架橋は、感覚による裏打ちさえも完全に欠いているので**、実のところは完全なカテゴリー的構成にすぎない。だから、これは言ってみれば形而上学にすぎないのである。が、われわれのこの共通世界は、この形而上学を基礎的な前提として成り立っているといえる。時制にかんしても、過去にかんしては記憶という不思議なものが存在するので話は複雑にならざるをえないが、未来にかんしてはほぼ同じことがいえる***

*それと対比された意味での現在絵もまた描けないともいえるが、逆に、現在絵にだけ特権性があって、現在絵は描ける(むしろどうしても描けてしまう)とみなすこともできる。というのは、過去も現在もその時における現在であり、想起や予期も知覚の想起や知覚の予期だからであり、すべては現在の変様である、とも見なせるからである。これは肯定絵・現実絵の場合と同様である。

**他人の感覚は自分にとっては感覚ではなく感覚という概念にすぎないからである。カントはこの意味での自他の断絶の問題をまったく無視し、それを架橋するために不可欠な人称カテゴリーがはたらき終わった場所から超越論哲学を開始しているので、その哲学は厳密な意味で超越論的な哲学の要件を満たしているとは言い難い(どころか、最も重要な要件を欠いているとさえいえると思う)。これは、第1章の二で論じた「置き移し」とはそもそも何であるのかという問題に関連している。

 なおここで、他人の感覚はたしかに感じられないとはいえ、未来に対する予期が可能であるのと同様な意味で、ごくふつうに想像したり(それに基づいてあると信じたり)はできるではないか、と思う人がいるかもしれないが、そうではない。他人の頭痛は想像してみることもできない。想像しようとすると、それは他人の頭に自分の痛みが起こっていることの想像にならざるをえないからである。すでに述べたように、他人の感覚は感覚ではなく概念であり、次の段落で提示される人称カテゴリーを経由することではじめて可能になる、高度に抽象的な構成物なのである。その存在を「信じる」のもそれを経由してであり、その結果としてならば「信じる」だけでなく「知る」ことも問題なく可能となる。そのような構成物の存在を自明の前提として、そこから出発するのが、すなわち言語的世界像である。

***出来事というものがあってそれが予期されたり体験されたり思い出されたりするという、すなわち予期されても体験されても思い出されてもそれ自体は同じであるものが存在するという、ある意味ではとても不可思議な、しかしわれわれにとってはあたりまえともいえる世界像がそこから作られる。これは時間にかんする言語的世界像の根幹をなしており、年表もカレンダーもこの世界像をもとに作られている。

23 だとするとやはり、時制も人称も、端的にいえば現在の存在も私の存在も、否定や様相と同様に、言語ロゴスの側から、すなわち世界を捉える仕組みの側から、世界の内に持ち込まれたものなのであろうか。もちろん、そうではないだろう。ここには、第三の種類のものが存在すると考えざるをえない。それはたしかに、事物の種類やそのもつ性質の類型やそれらのあいだの影響関係の型のような仕方で、与えられた世界にたまたまもともと平板に存在していたわけではないとはいえ、それらを捉えるための形式として外から持ち込まれたわけでもない。否定や可能性にかんしては、それらが持ち込まれる以前には、ただのっぺりした無媒介的な肯定性・現実性だけがあって、それらは外から持ち込まれたのだ、と考えることができたが、時制(《現在》という特殊な時点の存在を含むいわゆるA系列としての時間)や人称(世界がそこから開ける原点である《私》とそうではない人間たちとの対比を含む人間的主体の把握方式)にかんしては、そのように考えることはできない。一様な(のっぺりした)世界を捉えるために、わざわざそんな仕組みを持ち込む必要などないからだ。それらはたしかに、事物の種類やそのもつ属性の類型や…のような仕方で、世界内にのっぺりと内在していたとは考えられないとはいえ、にもかかわらず、ある仕方で、与えられた世界とともにあった、と考えざるをえない。ある仕方で、とは、世界がそこから、、、、開かれてあるという仕方で、ということである*。それ自体としての世界がどうあるかは知りようもないとはいえ、少なくとも突如として現に与えられてしまった世界は、現にそのような形をしていたのである。そして、なんと、そのことを言語表現するために、否定と様相においてまったく形式的に使用されていた言語の仕組みが、今度は実質内容をともなって、使えるのである**

*なぜか世界はそこから、、、、開かれていた、というこの驚くべき事実から出発せざるをえないのでなければ、哲学を超越論的に、、、、、開始しなければならない理由はないだろう。観点を変えて言いかえれば、そこから出発しない(そこはすでに解決ずみと見なした)哲学は、哲学としては、第二義的な価値しかないであろう。

**すなわち、現実性を(無内包の究極的なそれから出発しつつもそのこと自体を形式化して)累進的に使用できる、という累進構造を活用して、「今」や「私」もまた、まさにそのように累進的に使用できたからである。

24 私とは何か? という問いに対する最も端的な答えは、世界が現にそこから開けている唯一の原点である、といったものだろう。しかし、①その原点は世界の中に存在する(他の人間たちと同じ種類の)一人の人間である、②そのことは誰についていえる、という二つの事実が後から判明することになる。今とは何か? という問いについても、ほぼ同じ構造を見てとることができる。これは非常に不可思議なあり方であるといわざるをえないのだが、しかし、なぜか、与えられた世界はそのように出来ているのだ。様相における現実性の場合は、そんなふうになってはいない。端的に与えられた現実世界が、①それは他の諸世界と並び立つ一つの世界でもあった、②そのことはどの世界についてもいえる、という二つの事実が後から判明したりはしない。しかし、そのように考えることもまた可能な枠組みを、それは用意してはいるのだ。その枠組みが、私と今にかんしてもそのままあてはまるのである*。そのことをさらに最初の「否定」の問題まで遡って捉えるなら、真偽という絶対的な関係を可能的な否定性の関係として相対化して捉える仕組みが整ったとき、そのようにして究極的な現実性を相対化して捉えうる仕組みが成立したとき、その仕組みが、なぜか与えられている私と今の不可思議なあり方の把握においても有効にはたらくことになった、のである**

*この採用の成功にかんしては、『哲学探究3』で詳しく論じた、「私」の主体としての用法と対象としての用法との違いと、それの現実的な(日常的・実践的な)連続性に負うところが大きい。すなわち、主体としての用法で語られた「私」は、通常必ず、対象としてのその「私」(そう発語する口の付いた人物)でもある、という実践的な連動の事実に、である。この連動によって、一般的な意味での本人の特権性(いわゆる「一人称特権」正確には「主観性特権」)が認められることになる。それでも、それらのうち一つだけは現実に他とまったく違うあり方をしている、というどこまでも付き纏う究極的な無内包の現実性の存在を起点にすることであっても、この仕組みを前提とした「私」の「現実の使用」によって、例外なくその概念的な内容は伝達可能となる(なってしまう)。各私における「同じ絵」が、言語的世界像の側から割り当てられ、それが必ず使える(使えてしまう)からである。

**もちろん、実際には逆に、私と今においてはその仕組みがたらくからこそ、それを抽象化して現実性全般にかんしてそのような把握が可能になったのであろう。(段落18の注**で触れた様相論理学における偶然性の規定の直観的理解についても、このことが効いているように思われる。すなわち、各可能世界には必ず〈私〉が存在可能なのである。)

25 この結果、人称と時制にかんして、さらには様相にかんしてさえ、二種類の新しい絵が描けるようになる*。第一の種類は、私がしばしば描いている、世界を表象する大きな四角い枠の中に人間あるいは意識的存在者を表象する●▲◆□▼……が存在していて、白抜きが〈私〉であることを表象する、というような図である。年表も、もしそこに現在点(すなわち〈今〉)を書き込めば(それを動かしても動かさなくても)、同じ趣旨の絵となる。可能世界にかんしてさえ、真ん中に現実世界を置いて、まわりに諸可能世界を配置し、近い世界ほど現実世界に似ている、などという絵が描けてしまう**。もう一つの絵は、各登場人物が、「私」を主体としての用法で使って、「吹き出し」の中で自分の思いを語る、漫画のような絵である。吹き出しの中は、実際には発言されない心の中の思いであるほうがなおよい。〇△◇□▽…という絵でも、本質的に同じことを表現できる。年表の場合は、現在点を外すとC系列のように見えてしまうので、それをB系列にするためには、現在点の動きをどこにも端的な現在はなしに平板に動くというように表象させなければならないが、これは本質的に不可能である。文字盤と針をもった時計についても同様である。B系列はありふれたものだが、実は抽象度の高い概念なので、描くのは難しい***。世界の場合は、たくさんの世界(を表象するもの)を対等に描いて、それぞれに吹き出しを付け「現実は厳しい!」とでも言わせるのがよい。

*ただし、この二種類の把握の仕方は相互に矛盾している。

**ただし、これらは厳密には、それぞれ人称、時制、様相の図式であって絵ではない。それらは端的に与えられたものであるにもかかわらず、絵には描けないのである。また図式もやはり図式にすぎず、本質的には成功していないという点については、『哲学探究3』の第8章の段落20(168頁)における図式化の不可避的な失敗の議論をぜひ参照されたい。

***とはいえ、楽譜は明らかにA系列でもC系列でもなくそのままでB系列であろうから、年表もそのままでB系列であるともいえる。

 

四 超越論哲学はどこから始まるべきか

 

26 ここで話を振り出しに戻すことになるが、たとえば段落15において因果性のカテゴリーを説明する際に、私は「因果の例でいえば、われわれは因果的な連関を捉えるとき、……われわれは世界と出会うことができる」と言っていた。「それ以外の出会い方は存在しないので、それこそが(われわれにとっての)世界の真の姿なのである」と。さらに、このことから「経験一般の可能性の条件と自然一般の可能性の条件と……が、かくしてアプリオリに一致する」とも。ところでしかし、この「われわれ」とはいったい誰であろうか。それはなぜ「因果的な連関を捉える」などいうことができ、またなぜいきなり「われわれ」と複数形でありうるか。段落24の①と②がその答えなのだが、なぜそれが答でありうるのかといえば、細部を省いて本質的な点だけ語るなら、少々驚くべきことといわざるをえないとはいえ、否定や様相のカテゴリーを立てた際に導入されざるをえなかった〈現実性〉とその累進構造がここでも同じように適用できるからだ、といわざるをえないのである*

*「われわれ」というとき、すでにしてこの累進構造が使われており、カント哲学の「いかなる風雪にも耐える」超越論的認識構造も、この累進が前提されるからこそのものである。そして、その累進構造それ自体が明らかにカテゴリー的な構成態なのだ。この累進構造を自明の実在として前提しないかぎり、世界にはマクタガートが剔抉したような「矛盾」が内在し続けるといわざるをえない。「今」「私」という語がつねに有意味に使えるのは、累進構造がその矛盾を補填し続けるからなのだ。

27 カントはもちろんそんなことは言っていないし、それどころかこの問題について何も言っていない(おそらくは問題が存在すると思ってさえいない)のだが、原初に与えられたままの世界のあり方から、それとはまったく異なる統一的な客観的世界像を構築していくには、そういう文字どおりに超越論的な作業を、文字どおりに根源からおこなうには、この経路を通るしかないように思われるのだ。そうでなければ、諸主観が同型であるにもかかわらずなぜか「置き移し」が可能である(いやむしろ必要でさえある)理由さえも決してわからないであろう。そこから出発しない(その作業が終わったところから出発する)超越論的哲学には、基礎に手抜き工事があるといわざるをえない。最も埋めにくい〈自‐他〉の根源的断絶が埋められていないため、〈主‐客〉の断絶を埋める主要な議論が、土台を欠いたまま宙に浮いていることになるからである。

28 もしそこをあえて補うなら、少なくともこうはいえるはずである。〈主‐客〉の主体の側も、統一的で客観的な世界の構築に合わせて(すなわち相補的に)作られる、、、、ほかはないはずだ。一主体の持続性においても諸主体の同型性においても。与えられた世界の側が「われわれ」の認識の形式に合わせて作られた現象であるなら、「われわれ」の側も作られる世界のあり方に合わせて作られた現象である。そうなっているのでなければ世界はわれわれに知られえないから世界は現にそうなっている、のであれば、そうなっているのでなければわれわれに客観的世界は構築できないからわれわれは現にそうなっている、のでもなければならない。しかし、問題はそこにいたる経路にあるのだ。

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著者略歴

  1. 永井均

    哲学者。1951年東京生まれ。慶応義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。信州大学教授、千葉大学教授を経て、現在、日本大学文理学部教授。専攻は、哲学・倫理学。幅広いファンをもつ。著書多数。

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