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坐禅とは何か――『正法眼蔵』「坐禅箴」を身読する 藤田一照・宮川敬之

坐禅の目的は平穏な境地ではない

【宮川敬之】身読コラボ⑤

〈「なんで電話をしながらウロウロするの?」〉

 先日、ふとテレビを点けてみたら、ある番組がやっていました。それは某国営放送で放送されている蘊蓄番組で、五才の女の子が考えてしまうような素朴な質問を、大人にぶつけてみるという形をとっているものです。答えられない大人を司会役の女の子(のコンピューター・グラフィック)が大げさに罵倒する言葉が、なぜか人気を博しているのですが、どうも私としてはあの言いようが好きではなく、ちょっと距離をとるような気持ちで、漫然とみていたのです。すると女の子から、「なんで電話しながらウロウロするの?」という質問が出ました。なるほど、確かにケータイで電話する際、ウロウロしてしまう人は多く、私もしてしまうときがあります。回答者の大人たちは質問に答えられず、定石通りに、女の子の罵倒の言葉が叫ばれたわけですが、種明かしの回答がたいへん面白かったのです。ケータイで電話する際にウロウロする理由とは、「いつでも逃げられるようにするため」だというのです。面と向かって対話する時と違って、電話中は情報量がきわめて少ないために脳が緊張状態に陥り、じっとしていられなくなってウロウロするというのです。脳が緊張状態に陥ると体に動けと命令するというのは、識者の解説では、太古の昔、人類が狩猟生活をしていた頃の名残だといいます。その頃、人類はつねに緊張状態を強いられていて、なにかあればすぐ動くようになっていた、というのです。そこで、情報量の少ない電話で話をするときには、ストレスのため脳が緊張していて、体が動いてしまうということでした。

 たいへん面白い、と思ったと同時に、私は考えこんでしまいました。脳が緊張して動いてしまうことが人類の太古の自然状態だとすれば、坐禅をして動かないというのは、どういうことなのか、と考えたのです。識者の説明を敷衍するならば、坐禅は人類の自然状態の延長上にあることがらではないということになります。むしろ坐禅は、自然状態を切断することを意味する、ということになるのでしょうか。それならば、きわめて意識的な切断であり、自然状態からの一種の転換(ターン)であると言ってよいわけです。このような切断が人類のなかでなぜ起こったのか、坐禅という自然状態からの転換を人類はどのように見いだしたのかというのは、たいへん興味深い問題といえます。しかし、今われわれに重要なのは、そうした歴史的な経緯ではありません。いま重要なのは、坐禅が人類の自然状態への回帰ではなく、意識的な転換であるという視点です。今回、この視点でもって「坐禅箴」巻の身読をおこなってみたいと思います。当該箇所を挙げ、拙訳をあげます。

 

しかあるに、近年おろかな杜撰いはく、「工夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也」。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。

 

そうであるのに、近年の愚かな、粗雑な修行しかしていない者たちは、「工夫坐禅して胸を落ち着かせることができるならば、平穏な境地となる(工夫坐禅は、胸襟の無事なることを得了らば、便ち是れ平穏地なり)」という。こうした見解は、小乗仏教の論者たちにも及ばず、仏の境地どころか、人間や天界の境地よりも劣っている。そのような見解を持つ者が、どうして仏法を学ぶものといえようか。現在の大宋国には、こうした安易な坐禅修行者が多くいるのだ。仏祖の道が荒れ果ててしまったことをかなしむばかりである。

 

 道元禅師は、坐禅している状態を「平穏な境地」とすることを否定しています。とはいえ、道元禅師が坐禅の作法を印した『普勧坐禅儀』では、「坐禅は修禅にはあらず、大安楽の法門なり」ともいわれているのです。「平穏な境地」と「大安楽」とは、ともに「楽になる、落ち着く」という意味であって、程度のちがいはあれど、同じような状態ではないかと、私などはそう思ってしまいます。しかし道元禅師にとってはこの二つの境地は絶対に異なったものであるわけです。この二つがどのように違うのかということの考究が、今回の箇所の身読の焦点です。

 

〈「平穏な境地」などありえない〉

 「胸を落ち着かせて平穏な境地を得る」坐禅が、なぜ否定されるべきなのかを考察しましょう。まず、これまでの論旨をたどれば、道元禅師は釈尊から伝えられた坐禅を、薬山惟儼と僧との問答における「思量・不思量・非思量」の三側面と、それらが一体となった「兀兀地」という言い方によって示しました。くりかえせば、つぎのようです。

 薬山惟儼が坐禅をしていると、ある僧が問うてきました。「そんなに山のように微動だにせず坐禅して、一体なにを考えていらっしゃるのですか(兀兀地什麼をか思量せん)」。薬山は回答します。「この、考えがおよばない箇所を考えているのだ(箇の不思量底を思量す)」。僧が問います。「考えが及ばない箇所を、どのように考えられるのでしょう(不思量底、如何が思量せん)」。薬山「考えとは別のやりかたで考えるのだ(非思量)」。

 先回まで確認したのは、これらの三側面によって構成される一種の透明な三角錐こそが、坐禅のモデルであった、ということでした。このモデルで私は、「考えが及ばない箇所を、どのように考えられるのか」「考えとは別のやりかたで考えるのだ」という問答の緊張を失わないように解釈を続けています。この点に比較するときに、坐禅は「平穏な境地を得る」ものだという坐禅解釈が、そうした問答の緊張に全くかかわっていないということがわかります。つまり「平穏な境地を得る」のが坐禅であるというのは、考えが及ぶ箇所だけで考えるというやりようであって、「不思量底を思量」しようとしていないわけです。道元禅師は「不思量底を思量するには必ず非思量をもちゐるなり」と言われますから、考えが及ぶ箇所だけで考えるというようなものは、道元禅師のねらう坐禅ではないことになります。

 さらに、前節で得た視点では、そもそも「平穏な境地」ということ自体が、自然状態ではありえない、ということも示しています。どういうことでしょうか。人類はつねに緊張状態を強いられていて、なにかあればすぐ動くようになっていたといいます。そうであれば、通常の反射においていくら「平穏な境地」を実現していると考えたところで、実は緊張に対するスタンバイが常になされている状態なのであり、決して「平穏な境地」は実現しているわけではないということです。もし真に「平常な境地」を求める場合には、そこには通常の反射の意識的な切断や転換がなければならないということでしょう。しかし、この切断や転換は、おそらくは、われわれの意図をはずし、私という意識、通常の思考からズレることによってはじめてなされるのです。では、そのズレをどこに見いだすべきなのか、ということがつぎの問題になります。

 

〈宗・説・行〉

 たとえば『永平広録』巻八につぎのような道元禅師のことばが記されています。

 

諸宗の坐禅は、悟りを待つを則となす。譬えば船筏を仮りて大海を度るがごとし。将謂えらく、海を度りて船を抛つべしと。吾が仏祖の坐禅は然らず、これ乃ち仏行なり。いわゆる仏家の為体は、宗説行一等なり、一如なり。宗は証なり、説は教なり、行は修なり。向来共に学習を存するなり。応に知るべし、行は宗説を行じ、説は宗行を説き、宗は説行を証するなり。行もし説を行ぜず証を行ぜずんば、何ぞ仏法を行ずと云わん。説もし行を説かず証を説かずんば、仏法を説くと称しがたし。証もし行を証せず説を証せずんば、争でか仏法を証すと名づけん。当に知るべし、仏法は初中後一なり、初中後善なり、初中後無なり、初中後空なり。這の一段の事、未だこれ人の強為にあらず、本自り法の云為なり(原漢『道元禅師全集』第四巻一六四~一六五頁 春秋社一九八八)。

 

 これは道元禅師が目指す仏祖正伝の坐禅のありようを述べたものですが、他の教えの坐禅が悟りのためのものであるのと違って、仏行(仏としての修行)そのものとしての坐禅であると示されています。特にここで注目したいのはこの坐禅と、坐禅を典型とする仏教者としてのありように、宗・説・行の三側面があり、それが一体のものとなっていると示されている点です。この三側面とはなにかといえば、まず「宗は証なり」とありますので、宗とは仏のありさま、「不思量」のありさまを示しているでしょう。また「説は教なり」とありますので、説は言葉によって思考し、説明するありさま、「思量」のありさまを示しているでしょう。そして「行は修なり」とありますので、行は実践し修行するありさま、「非思量」のありさまを示していると、それぞれを対応させることができます。

 ここで説、すなわち言葉によって思考し、説明するありさま、「思量」のありさまを取り出してみれば、「説もし行を説かず証を説かずんば、仏法を説くと称しがたし」とあります。言葉でもって、言葉ではとらえきれない修行実践や、悟りのありようを語ろうと挑戦してみないような言葉の扱いで、仏法を説いたなどとは到底いえない、と言われるのです。「平穏な境地」であると、通常の言語の範疇でおさめきれるような言語の扱いじたいが、坐禅を語ろうとする挑戦に値しないと批判されているのです。

 もちろんここでは宗説行は一体のものとされていますから、一照さんが先回指摘されたようにあくまで「この三つをそれぞれ独立に見て、三側面とする」私の解説には一照さんが「どうも違和感を持ってしまう」ということも、よく理解できるのです。一照さんに「思量として現実に生じている思量のなかに、潜勢力としての不思量底を見るのが「思量箇不思量底」であり、不思量底と言われる潜勢力は常に如何という不定形のあり方をしている思量の中で働き続けていることを捉えたのが「不思量底如何思量」という表現なのです。その現勢と潜性のダイナミズムの総体をより端的に「非思量」と呼んでいると理解すればどうでしょうか」と説明されると、なるほどそうだと理解もできるのです。

 しかし、私はひねくれているというべきなのか、このような不思量という「潜勢力」を、思量の「現勢」の底に、なんの否定もなく垂直に想定してしまうという楽観的な立場を、どうしてもとれないのです。それをすれば、思量と不思量とがひとつながりのものとされ、「仏のおんいのちを生きる」といった標語めいた言い方につながってしまいそうで、それこそ違和感があります。それはまさしく、坐禅とは「平穏な境地」であると、通常の言語の範疇でおさめきってしまった宋の禅者たちの立場に陥ってしまうのではないか、と危惧してしまうからです。ですから私はあくまで、思量では決して不思量底に到達できないという一種の絶望こそに、固執して解釈していきたいと思います。それは言い方を変えれば、坐禅こそ、人類の自然状態を切断する、きわめて意識的な自然状態からの転換(ターン)であるということを、重視するということです。

 

【藤田一照】身読コラボ⑤

 先日、ある大手企業が主催する一泊二日の有識者会議に講師として参加する機会がありました。その集まりのテーマは「Life」でした。英語のlifeという単語は、「生活」、「人生」、「いのち」というお互いに関連してはいるものの、微妙にレイヤー(層 重ね合わせ)の違う複数の意味を担っています。私は、そのことを自分の話のネタとして使って、どのレイヤーに重点をおくかで生きていることの風景がだいぶ違ってくるのではないかという問いかけから話を始めました。それは、内山興正老師が「豊かな生活、貧しい人生」ではなく「貧しい生活、豊かな人生」をめざすのが坐禅修行者の志だというような言い方をしばしばされていたことが念頭にあったからです。多くの人々が関心を寄せている「生活」の貧しさ、豊かさとは違う、「人生」の貧しさ、豊かさという基準があるというのが内山老師の言いたいことでした。

 確かに、昭和一桁世代と呼ばれる私の両親の世代の人たちの最大関心事は生活の豊かさの追求だったかもしれません。しかし、子供として彼らに育てられた私はといえば、生活の豊かさとか暮らし向きの良さということよりも、人生というレイヤーの方により強い関心がありました。私が私として生きていることの不思議さとか、この限られた終わりのある人生をどのように生きて行くべきなのかというような、彼らからすれば「ひどく浮世離れした」問題の方に目が向いていたのです。なぜ私がそれまで積み上げて来たことを捨てて、大学院を中退してまで僧侶にならなければならなかったのかということは、おそらく両親には最後まで理解できなかったに違いありません。

 それはともかくとして、私は、世間でエリートと目されている人たちに向かって、生活と人生よりもさらに基礎的なlifeのレイヤーがあるのではないかということを説こうとしたのです。それは、「いのち」というレイヤーです。内山老師が「生命の実物」と呼び(たとえば、「自己の生命の実物とは,小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら,現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。」)、道元が「御いのち」と表現したもの(たとえば、「この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。」)です。

 生活や人生のレイヤーでは、私は確かにsomebody(誰か)として振舞っているのですが、このいのちのレイヤーでは、そういうアイデンティティを失って、nobody(名もない人)になります。この会議には、産、官、学の世界で活躍している五十代の男女が四十人余り招かれていましたが、そういうsomebody(ひとかどの人物、大物、重要人物)として活躍していることがまったく問題にされない、「いのち」というレイヤーがあることに思いを致さなければならないのではないかと語ったのです。そして、名前や地位や業績といった属性をすべてはずしたnobody(ただの人)であることを堂々と純粋に実践している営みとして坐禅のことを紹介しました。それが彼らにどのように伝わったのか、あるいは伝わらなかったのか、私としては興味あるところです。

 坐禅のユニークさを伝えるのに、lifeのこれら三つのレイヤーの区別を持ち出すのはなかなかいいアイデアではないかと思うのですが、どうでしょう。生活や人生というレイヤーで主体になっているのはあくまでもsomebodyとしての私ですが、いのちのレイヤーではそうではありません。坐禅は、生活水準の向上を図るとか人生の生きがいを見つけるといった何らかの個人的達成を目指してsomebodyが一生懸命にやっている「仕事」ではないのです。では、何が何をしているといったらいいのでしょうか?

 道元の言葉を継ぎ合わせて言うなら、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆく」ことによって、自己が「わすれられて(somebodyがnobodyとなって)」「万法に証せられている」ことだと言えるでしょう。万法(あらゆる存在)によって生かされて生きているいのちのあり方をそのまま、丸ごと表現しているのが、坐禅の当体なのです。

 ですから、坐禅においては、生活や人生のレイヤーで初めて意味を持つ、自分の得た素晴らしい心境だの特別な体験だのというパーソナルなことが問題になる余地などないはずなのです。ところが、そこを理解できないで、坐禅をパーソナルな営みに切り詰めたり、歪めてしまう人たちがけっこういるので、その過ちを正すために「坐禅(の病を治療するための)箴」が必要になるわけです。

 今回味わう『正法眼蔵 坐禅箴』の次の一節は、まさにそのような心得違いの人たちのことを念頭においたものです。

 

しかあるに、近年おろかな杜撰いはく、「工夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也」。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。

 

 まず、この一節を私が現代語に意訳したものを紹介しておきましょう。

 

それにもかかわらず、このごろ「いい加減なことを言いふらす愚か者」たちがこんなことを主張している。「坐禅の修行というのは胸のうちから雑念妄想がなくなってスカーッとした平穏な境地を得ることが目的である」と。個人的な技量や個人もちの一時的な特殊的心理状態を坐禅の到達点として設定するような、中途半端であざとい考えは、小乗仏教の立場に立つ修行者にもおよばない、まことに浅はかな理解であると言わざるを得ない。さらには「人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗」という五乗の階梯の下位の二つよりもずっと劣っている。こういう連中は断じて「仏法を学んでいる人」とよぶことはできない。残念なことだが現在、中国にはこういう考え方で修行している人たちが多いのだ。仏祖がたが綿々と伝えてこられた正しい坐禅の道がこれほど荒れ果て廃れてしまったことを悲しまないではいられないではないか。

 

 さまざまな条件次第でどのようにも変わりうる、はかないことこの上ないわれわれの心を一連の手続きによって操作し(特定の瞑想技法のこと 道元はそういう営みを「習禅」と総称する)、ある一定の状態に到達しようとする人間的努力を、仏行(仏としての行)であるべき坐禅と取り違えているのですから、「祖道の荒蕪かなしむべし」という嘆きの言葉は、道元の偽らざる思いだったでしょう。そういう有所得心からの努力は、「自身のために仏法を修めん」とすることであり、「果報を得んがために仏法を修め」ることに他ならず、『学道用心集』のなかで、いずれも「不可(〜するべからず)」であるとはっきり戒められていることなのです。

 「平穏地」などと呼ばれる特定の固定的な心境、境地を到達点と見なすような考え方は心というものの本性がわかっていないと言わなければなりません。たとえ、一時的にそういう平穏な心理状態になれたとしても、早晩、内外の状況が変わればどうせまた乱れるに決まっています。瞑想技法というような人為的な努力ででっち上げた心理的状態は、その努力をやめた途端に失われる運命にあります。本来依りかかることができないものに依りかかろうとするのですから、始めからうまくいく道理がありません。

 私は『坐禅箴』のこの一節を読むと、釈尊がお城を出た後に、ラージャグリハという大都市に行き、アーラーラ・カーラーマという瞑想指導者が教えていた無所有処定という境地、さらにウッダカラーマ・プッタという瞑想指導者が教えていた非想非非想処定というより高度な禅定の境地に到達できたにもかかわらず、いずれも真の悟りを得る道ではないと知って、師の元を去ったというエピソードを思い起こします。無所有処定にしても非想非非想処定にしても、この『坐禅箴』の一節にある「工夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也」と同類のものと言えます。釈尊自身が修定主義的な瞑想に満足することができず、それを批判的に乗り越えて樹下に打坐した(それが坐禅の起源)のですから、もし平穏地に到達することを目指して坐禅するなら、それは仏教誕生(樹下の打坐)以前に後退することになってしまいます。だから、道元に「なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん」ときつい言葉で批判されても弁解の余地はありません。

 こういう仏教以前への後退という出来事は、仏教史の中で何度も起きたようです。仏教がインドから中国に渡ってからも、そういう後退がありました。禅はそれに対するプロテストとして興起した運動だったと言ってもいいかもしれません。私の法友の一人である臨済宗僧侶佐々木奘堂さんは、「心を凝らして禅定に入る」とか「三昧を得る」ことが禅の修行だと思い込む誤りを懇切丁寧に指摘し、その縛りを解いてくれるような禅の言葉を集めて『禅の言葉』(2015年 本心庵 刊)という書物にしています。彼のこの本の中にはたとえば、「世間には、物がよく見えていない禅坊主がいて、たらふく飯を食べた後で、坐禅観行をしたりする。雑念を抑えこんで起こらぬようにし、心の中の喧騒を嫌い、心の静けさを求めている。これは仏教や禅とは何の関係もない外道の教えだ」(佐々木奘堂訳)という、今回身読している道元の「近年おろかな杜撰いはく・・・云々」と呼応するような、臨済による厳しい批判の言葉が収められています。

 また、道元は禅の伝統の一番初めに位置する初祖菩提達磨の行じた面壁坐禅が正しく理解されず、それが習禅だと誤解され混同されたために、『続高僧伝』のなかで菩提達磨が習禅篇に組み入れられていることに対して非常に憤慨して、「至愚なり、かなしむべし」と嘆いています。『続高僧伝』を編集したのは仏教についての造詣が深いはずの南山道宣律師(唐代 南山律宗の開祖)でしたが、彼ほどの人物でも坐禅を人間技、瞑想テクニックとしてしか捉えられなかったようです。

 それは言いかえれば、somebodyが主人公になって展開している生活や人生の次元で坐禅をとらえていて、より根元的ないのちの次元でとらえていないということです。パーソナル(個的)なレベルでの坐禅理解にとどまっている者のことを、道元は「おろかな杜撰」の徒とこき下ろしています。そうではなく、いやしくも「学仏法の漢」と呼ばれるためには、トランスパーソナル(超個的)とでもいうべき、さらに深い存在のレイヤーを踏まえた坐禅の理解に立たなければならないのです。これからさらに『坐禅箴』の身読を続けていくにあたっても、そういう学仏法の漢として取り組んでいく必要があります。

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著者略歴

  1. 宮川敬之

    1971年鳥取県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士過程単位取得。大本山永平寺に安居修行。現在、鳥取県天徳寺住職。主な論文に「中国近代佛学の起源」「異物感覚と歴史」など。著書に『和辻哲郎――人格から間柄へ――』(講談社学術文庫)。

  2. 藤田一照

    禅僧。1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。1987年、米国マサチューセッツ州西部にある禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行う。2005年に帰国。曹洞宗国際センター前所長。Facebook上に松籟学舎一照塾を開設中。

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