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坐禅とは何か――『正法眼蔵』「坐禅箴」を身読する 藤田一照・宮川敬之

一生ものの初心、一生ものの坐禅

【宮川敬之】身読コラボ⑥

 

〈達磨宗〉

 先回の連載から3ヶ月ほどご無沙汰してしまいました。この3ヶ月のあいだ、私は必要があって日本で初めて発生した禅である「達磨宗」の関連文献をずっと読んでいました。そこで考えたことは、ちょうどこの連載でも密接に関係することがらでもあります。そこで今回は、達磨宗と道元禅師との関連をまず解説して、当該箇所の読解へすすめてみたいと思います。

 さて達磨宗とは、鎌倉時代、大日能忍(生没年不詳)という僧が始めた禅の一派だと言われています。この能忍一門については、つぎのような見方が一般的なものといえます。

 

  能忍一門は従来、『興禅護国論』の一節や『元亨釈書』の記述から、修行不要論を説く異端的存在で、鎌倉初期の栄西と同じ一時期に活動し、その後は消滅した一過的な存在とみられることが多かった。曹洞宗内でもそのような見方が今なお主流といって良い。そのような見方の背景には、能忍一門の以下のような動きがある。すなわち、能忍の弟子覚晏は、京都東山から多武峰に移り、その弟子の懐鑑が越前波着寺に移り、その後道元門下に流入している。その弟子の義介は、道元にも認められたが、宗門内の問題で永平寺から出て、加賀国に大乗寺を開いた。彼は、道元からの嗣書とともに、能忍―覚晏-懐鑑と継承された嗣書も受けており、「洞済両宗」の法脈を受けているとされた。この法脈は、能登国に総持寺を開創し、のちに曹洞宗中興の祖とされた瑩山紹瑾が「洞済両宗」から、道元門流に一本化した営為と捉える。つまり、能忍一門は、道元門流に吸収され、消滅してしまったという見方である(和田有希子「禅宗の展開と『禅家説』」143頁『中世禅への新視角』所収 臨川書店2019)。

 

 このように道元禅師の教えに吸収されてしまったと考えられていた達磨宗は、研究がすすむうちに、「能忍が拠点としていた摂津三宝寺が、密教と関わりながら応仁の乱の頃まで存続しており、能忍の一門がその頃まで命脈を繋いでいたことが明らかにされた」(同)のでした。

 なお達磨宗の名称については、かつて鷲尾順敬氏が命名された「日本達磨宗」という言い方がよく知られていましたが、当時にはそのような呼び方はなく、達磨宗とだけ呼ばれており、またその名称も、能忍一派の一宗の名称というよりも、より多義的で、広く「禅宗(禅の教え、菩提達磨の教え)」という意味として捉えるべきことが指摘されています(古瀬珠水「再考―大日房能忍と「達磨宗」―」『鶴見大学仏教文化研究所紀要』18 2013)。そこで私も達磨宗と呼び、多義性には注意しながらも、とりあえずここでは能忍一門の教えとして使っていくことにします。

 さて能忍は、自身は宋に赴かず、弟子二人を遣わせて拙庵徳光(仏照禅師1120~1203)から臨済禅の認可を得たのですが、驚くべきことに、この時に徳光から与えられた、達磨から六祖慧能まで六代の祖師の舎利、能忍の認可の偈が書かれた達磨頂相、徳光の師であり宋代の代表的禅者といわれる大慧宗杲(1089~1163)のお袈裟が、三宝寺の宝物を継承した浄土宗正法寺において、すべて現存している・・・・・・・・・のが発見されます。一方、神奈川県の金沢文庫では、『見性成仏儀』と『正等成覚論』の存在が達磨宗関係の文献としてすでに発見されていました。こうして達磨宗の実体が徐々に見えてきました。

 ここで、最近になって2006年に名古屋市真福寺から能忍の名が附された断簡が発見され、その断簡を含んだ一冊の本を復元することに成功します。この本は、表題がないために『禅家説』と仮に名付けられたのですが、その内容は禅文献のアンソロジーでした。「坐禅儀」「初学坐禅法」「大義祖師坐禅銘」『伝心法要』など、十五種類にわたる禅文献が書写されていたのです。この『禅家説』が、達磨宗関連の貴重文献とともに翻刻されて『達磨宗』(『中世禅籍叢刊』第三巻 臨川書店2015)として刊行されました。私が読んでいたのはこの本です。『禅家説』の発見によって達磨宗はつぎのようなすがたを現しました。和田有希子氏はつぎのようにまとめています。

 

 これまで挙げてきた事実から、能忍らが拙庵徳光から法を嗣いだ一門として、日本で中国禅籍を精力的に出版し、舎利を重視し、拙庵徳光の師である看話禅の大成者である大慧宗杲の袈裟を珍重し、拙庵徳光から授かった『伝心法要』の『伝心偈』を自らの儀礼に取り込み、達磨を重視する独自の一門を形成しようとしていたことが新たに見えてくる。これらのことから、能忍一門は、これまでいわれたように、時代に反する異端的で孤立した存在ではなく、むしろ、禅の草創期を主導していた一門だったと見た方が適切であるように思われる(同147頁)。

 

 私が『禅家説』を読んで驚いたのは、達磨宗あるいは能忍の一門が、坐禅のやりかたについての複数の基本文献を、すでに取り入れていたという事実についてでした。たとえば『禅家説』の冒頭に収められているのは、長蘆宗賾(生没年不詳)『禅苑清規』(1103)の「坐禅儀」であり、これは道元禅師の『普勧坐禅儀』(1227)の基になったテキストです。さらにその次の「初学坐禅法」は金沢文庫にも収められ、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213~1278)との関連がうかがわれるテキストです。また、日本で初めて禅籍を出版したのは達磨宗だと知られているのですが、初めて出版されたその禅籍とは潙山霊祐(771-853)の語録『潙山警策』でした(中尾良信「達磨宗の展開と禅籍開版」『古代中世日本の内なる「禅」』所収 勉誠出版2011)。『潙山警策』は全編が修行を勧める文献ですから、こうした文献に触れる限り、栄西(1141~1215)が『興禅護国論』で批判したような「無戒無行」の集団ではないといえます。それどころか、坐禅のしかたを含め、禅を文献的に参究する能力をもった集団であったことがわかるのです。和田氏の解題にも言われていますが、能忍一門は、達磨宗=禅宗としてのきわめてスタンダードな基本要件(坐禅・文献・教説)を備えた集団であったと考えざるを得ない、ということです。

 

〈道元禅師との関連〉

 こうした達磨宗の一門が集団で流れ込んだ先が、道元禅師の下でした。前節の和田氏の解説にあったように、「能忍の弟子覚晏は、京都東山から多武峰に移り、その弟子の懐鑑が越前波着寺に移り、その後道元門下に流入し」たのです。覚晏(生没年不詳)一派は能忍が拠点とした三宝寺系統の支流であり、覚晏が能忍と同じ思想傾向を持っていたかどうかは確定できないところです。しかしこれもまた最近、金沢文庫の収められていた唯識系統の文献と考えられていた『心根決疑章』が覚晏の撰述であるということが舘隆志氏によって発見され、翻刻されました(舘隆志「称名寺所蔵(金沢文庫管理)『心根決疑章』翻刻」東アジア仏教研究17 2019)。『心根決疑章』は難解であり、その全容は、現在はまだよくつかめていませんが、少なくとも覚晏一門が、専門的な用語と複雑な論理の使用に耐える知的訓練を受けている集団であったことは確実だといえます。

 道元禅師門下への集団帰投を行ったのは、覚晏の弟子懐鑑(?~1251?)のさらに弟子たち、すなわち義介・義尹・義演・義準などで、仁治二(1241)年のことです。この帰投には先例がありました。懐鑑の兄弟弟子である懐奘(1198~1280)が文暦元(1234)年にすでに道元禅師下に帰投し、翌年には「嗣法」という正式な伝承の式をうけて、その継承者となっていたからです。よく知られるように、道元禅師より二歳年長でありながら、帰投以降侍者として長くつかえ、道元禅師の主著『正法眼蔵』や『永平広録』などの書写・編集に力をつくし、のちに永平寺二祖となったのが懐奘です。懐奘は、道元禅師の下に参じる以前には、覚晏の弟子で、その認可を受けていました。『正法眼蔵』「坐禅箴」巻の示衆は、寛元元(1243)年ですから、道元禅師は、この懐奘を筆頭に達磨宗の教えに親炙している者たちの前で自分の教説を展開していたのです。従来は見逃されがちであったこの点を、もっと強く捉える必要があると思います。それはどういうことか。

 これまで曹洞宗内では、「無戒無行の異端的な一流派」である達磨宗について、継承者懐鑑一派が道元禅師の「正法」に触れることで、その「異端性」を「改めた」と考えてきました。しかし今回発見の『禅家説』などを読むと、禅の教説としてきわめてスタンダードな考えを、この一門=一派が奉持していることがわかります。道元禅師の独特な考察こそ、むしろ、この達磨宗が奉持するスタンダードな教説を土台にして、それを分解・再構成するなかで創られたのではないかと、私は考えるようになったのです。

 たとえば、『禅家説』に全編が収められたものに、黄檗希運(生没年不詳)の語録である『伝心法要』があります。この『伝心法要』の写本の奥書に、能忍が出版した禅籍の写本であることが記されていて大きな発見となりました。出版されたことからも『伝心法要』が達磨宗にとってきわめて重要なテキストだということがわかるわけですが、『伝心法要』は、自心こそ仏であるという主張を全面的に展開するテキストです。たとえばつぎのように言います。

 

唯だ此の一心、即ち是れ仏にして、仏と衆生とは更に別異なし。但(あ)是(ら)ゆる衆生は相に著(じゃく)述して外に求め、之れを求むるに転(うた)た失す。仏を使って仏を覓(もと)め、心を将(も)って心を捉う。劫(こう)を窮め形を尽すも、終(つい)に得ること能わず。念(ねん)を息(や)め慮(りょ)を忘ずれば、仏自(おのず)から現前することを知らず。(中略)若(も)し決定(けつじょう)して此れは是れ仏なりと信ぜずして、相に著して修行し、以て功用(くよう)を求めんと欲せば、皆な是れ妄想(もうぞう)にして、道と相乖(そむ)く。此の心即ち是れ仏にして、更に別の心なく、亦た別の心なし(原漢)。

 

ほかでもないこの心こそが実は仏にほかならぬ。仏と人間とは、だからなんら異なるところはないのだ。ところが、すべて人間というものは、姿かたちにとらわれて、おのれの外に仏を求めようとする。求めれば求めるほど、それは見失われるばかりだ。こんなふうに、自分の設定した仏のイメージでもって仏を求め、おのが妄執の心でもって本源の心をとらえようとしては、永劫の果てまで、おのが身を粉にして空に帰するまで努力しても、結局それをつかむことはできぬ。ところが、一切の思慮をやめ、思念をなくしてしまえば、仏はちゃんと目の前に現われてくるものなのだ。(中略)もしこれこそが仏だと決定的に信じきることができず、仏の相に執われて修行し、それによって果報を得ようと求めるならば、これらはすべて心得ちがいであり、本筋から踏みはずした考えである。この心こそが仏にほかならず、そのほかの仏などありようはなく、また、そのほかの心のありようもないのだ(入矢義高訳「伝心法要」『世界古典文学全集 禅家語録Ⅰ』261~262頁 筑摩書房1972)。

 

 『伝心法要』では、一心こそ仏であり、衆生と仏とはなんら異なるところなどないと主張されています。黄檗のことばによれば、修行者は自分のうちなるこの一心を把捉することだけが必要で、外に向かって仏を求めようとしても的外れである、というのです。そのため参禅学道などは、機根(才能)の低い者が行うことがらにすぎないといいます。つぎのようです。

 

問う、「如何なるか是れ道、如何が修行せん。」師云く、「道は是れ何者にしてか汝修行せんと欲するや。」問う、「諸法の宗師相承して参禅学道せるは如何(いかん)。」師云く、「鈍(どん)根人(こんにん)を引接する語は、未だ依憑(いひょう)すべからず。」云く、「此れ既に是れ鈍根人を引接する語ならば、未審(いぶかし)、上根人(じょうこんにん)を接するには復(は)た何の法を説くや。」師云く、「若し是れ上根人ならば、何処(いずく)にか更に人に就いて他(た)を覓(もと)めん。自己すら尚お不可得なり。何ぞ況んや更に別に法あって情に当らんや。見ずや、教中に云く、『法法何の状ぞ』と。」云く、「若し此(かく)の如くんば、即ち都(すべ)て求覓(ぐべき)を要せざるや。」師云く、「若し与麼(よも)ならば則ち心力を省く。」

 

問い、「道とはどのようなもので、またどのように修行すればよいのでしょうか。」師の答え、「君はいったい道をどんなものだと考えて修行したいなどと言うのだ。」問い、「諸処のお師匠さまがたはみな、禅に参じ道を学べと説いておられると伺っています。」答え、「気根の鈍なやからを導き入れるための文句だ、そんなのは頼りにしてはならぬ。」問い、「それは鈍根の人を誘導するための文句にすぎぬとなりますと、では上根の人を導くには、いったいどんな法をお説きになりますか。」答え、「上根の人なら、いまさらそれを求めるため人を頼りに行こうなどとするものか。この自己さえも捉えようのないものである以上、ましてこのおのれの認識の対象たりうる法などというものがあろうか。経典にも言ってあるではないか、「法という法はいったい何の形をしているか」と。」問い、「そういうことでしたら、追い求める必要は一切ないというわけですね。」答え、「そうだ。そのようであれば、苦労ははぶけるというものだ。」(同277~278頁)

 

 『伝心法要』で示されたこの二点、すなわち「一心への回収」と「参禅学道は下根人へのものである」という点は、達磨宗も継承しています。『伝心法要』を代表とする『禅家説』に収められている禅籍は、一心への回収を主張するものが多く、さらに「(『禅家説』の)全体が、初心者、あるいは末法の人間が禅を学ぶ際の手ほどきのような性質を持っている」(末木文美士・和田有希子「『禅家説』解題」604頁 前掲『達磨宗』所収)からです。もちろん『伝心法要』をよく読めば、一概に修行を下根人への方便としていたわけでもないことはわかりますし、それを継いでいる『禅家説』も、「坐禅ハ万人ニ相応シタル行也」と述べる「仮名法語」を収めていて、参禅学道そのものを否定することはありません。しかし、一心への回収の主張と、参禅学道を下根人の方便とする主張は連動していて、前者を主張すれば後者も主張せざるをえないものです。さらにまた、こうした主張は、禅籍にとっては、きわめてスタンダードなものでもあるのです。ともあれ、われわれが講読している「坐禅箴」巻は、このような、一心への回収をすすめる主張と、参禅学道を初心晩学・下根人の方便とする主張とに慣れていた人々に対して述べられていたことを、もう一度深く捉えておくことが必要だということです。

 

〈目的論からの転換(ターン)〉

 長い迂回から戻って、「坐禅箴」巻の講読にうつります。先回は、坐禅が「平穏な境地」だとする主張を否定した箇所を読みました。くりかえせば、「工夫坐禅して胸を落ち着かせることができるならば、平穏な境地となる(工夫坐禅は、胸襟の無事なることを得了らば、便ち是れ平穏地なり)」という坐禅の解釈への批判がなされたのでした。達磨宗の主張傾向をここにかぶせるならば、この「平穏な境地」の底には、「一心」が措定され、すべてを一心に回収してしまう展開が予想されますので、道元禅師が対抗するのは、結局は、そうした「一心による回収」という点であったと思われます。そこで、この点と連動する点、「参禅学道を初心晩学・下根人の方便とする主張」に対する批判も行われます。今回の箇所がそれです。本文と拙訳を挙げます。

 

本文

又一類の漢あり、「坐禅辦道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行(あん)履(り)にあらず。行(ぎょう)亦(また)禅(ぜん)、坐(ざ)亦(また)禅(ぜん)、語黙(ごもく)動静体(どうじょうたい)安然(あんねん)なり。たゞいまの功夫(くふう)のみにかゝはることなかれ」。臨済の余流(よりゅう)と称ずるともがら、おほくこの見解(けんげ)なり。仏法の正(しょう)命(みょう)つたはれることおろそかなるによりて恁麼(いんも)道(どう)するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。

 

拙訳

またつぎのような考えの連中もいる。「坐禅辦道は、仏教初心者や遅れて勉強しているものにとって行うべき事で、かならずしも仏祖が行う修行というわけではない。『証道歌』に「行も禅、坐も禅で、日常のすべてが安然とする」とあるように、いまここで坐禅をしていることにこだわりをもってはならない」というのである。臨済宗の流れに属すると称する連中は、こうした見解の者が多い。真実の仏法の教えがちゃんと伝えられていないからこのような物言いとなるのである。なんで初心者だけが坐禅するのか、そもそも「初心」とはどういうことか、だれが初心を持たなくてよい者があるか、初心を修行のどこに据えて毎日を送っているのか。

 

 ある「一類の漢」が引用するのは、『証道歌』の一節です。『証道歌』は永嘉玄覚(675-713)の作とされる禅の境地を述べた歌ですが、冒頭に「君見ずや、絶学無為の閑道人、妄想を除かず真を求めず(中略)、法身覚了すれば無一物、本源自性、天真仏」(「永嘉証道歌」『世界古典文学全集 禅家語録Ⅱ』113頁 筑摩書房1974)とあるように、本源自性に戻ることが絶学無為の人である、という考えが展開されている歌です。ですから『証道歌』は、『伝心法要』の「一心による回収」へ展開されるのに素地となる思想であったといえます(実際に『伝心法要』には『証道歌』が引用されています)。そうした『証道歌』―『伝心法要』―達磨宗というつながりから出された、「坐禅辦道は初心晩学の修行方法であって、仏祖の修行ではない」という主張に対して、道元禅師は反論しているわけです。この反論は、先回も挙げた『永平広録』巻八の坐禅を説明する一節とも重なります。こういう一節でした。

 

諸宗の坐禅は、悟りを待つを則(のり)となす。譬(たと)えば船(ふね)筏(いかだ)を仮りて大海を度(わた)るがごとし。将謂(おも)えらく、海を度りて船を抛(なげう)つべしと。吾が仏祖の坐禅は然(しか)らず、これ乃ち仏行なり(原漢『道元禅師全集』第四巻164~165頁)。

 

他宗の坐禅は、悟りを得るのを目的とする坐禅である。それはたとえれば、船や筏を使って迷いの大海を渡り、悟りの彼岸へ渡りきったら船や筏が必要でなくなるようなものだ。しかし仏祖の坐禅はそうではない。坐禅が仏の行いそのものだからだ。

 

 このようにして、悟りの手段、初心晩学の手段としての坐禅を否定しているのが今回の箇所です。この「仏行としての坐禅」が、ほかならぬ旧達磨宗徒懐奘の前で語られた際の記録である、『正法眼蔵随聞記』(以下『随聞記』)の一節も、見ておきましょう。

 

  因(ちなみ)に問て云く、学人若(も)し自己これ仏法なり、外に向って求むべからずとききて、深く此の言を信じて、向来(こうらい)の修行参学を放下(ほうげ)して、本性(ほんしょう)に任せて善悪(ぜんなく)の業(ごう)をなして一期(いちご)を過ごさん、此の見解(けんげ)いかん。

  示して云く、此の見解、言(ごん)と理と相違せり。外に向(むかっ)て求むべからずと云て、行を捨て学を放下せば、此の放下の行を以て所(しょ)求(ぐ)ありときこへたり。これ覓(もと)めざるにはあらず。只(ただ)行学(ぎょうがく)もとより仏法なりと証(しょう)して、無所(むしょ)求(ぐ)にして、世事(せじ)悪業(あくごう)等は我が心になしたくともなさず、学道修行の懶(ものう)うきをもいとひかへりみず、此行を以て打(だ)成(じょう)一片(いっぺん)に修して、道(どう)成(じょう)ずるも果を得るも我が心より求ることなふして行ずるをこそ、外に向て覓ることなかれと云道理にはかなふべけれ。南嶽(なんがく)の磚(せん)を磨(ま)して鏡となせしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐はすなはち仏行なり、坐はすなはち不為(ふい)なり。是れ便ち自己の正体なり。此の外別に仏法の求むべき無きなり(『正法眼蔵随聞記』ワイド版岩波文庫1991)。

 

翻訳を省きます。『随聞記』では、まず「自己これ仏法なり、外に向って求むべからず」と聞いた学人が修行をなげ捨てて自分の判断によって善悪の行いをして一生をすごすのはどうか、という質問がなされています。これは、『伝心法要』――達磨宗の考えであったことは、前節で見たとおりです。この質問に対する道元禅師の回答は驚くべきものでした。道元禅師は、そうした学人の考えは、「外に向かって求むべからず」という教えに矛盾しているというのです。学人のやりようは、いまだ、修行をなげ捨てることを「方法」として悟りを得ようとしているのにすぎないからです。そうではなく、「外に向かって求むべからず」とは、目的論からの転換(ターン)を意味すると道元禅師は解釈するのです。悟りや一心という目的へ回収されてしまう坐禅修行を反転させること、坐禅修行を目的への手段ではなく、当為(Sollen)としてオープンエンドのものにしてしまうこと。それこそが「自己これ仏法なり、外に向って求むべからず」の意味であり、「仏行としての坐禅」ということである、と道元禅師は懐奘に教えるのです。ここには明らかに、『伝心法要』――達磨宗の教えを土台にして、その意味を解体・再構成をすることで、自らの坐禅観が出されているのを見ることができます。

 道元禅師の坐禅・修行・辦道は、このようにして、一心や悟りの目的論的な回収から転換するところによって、無所得無所悟の仏行として主張しています。だからこそ、それはゴールではなくスタートであり、つまり初心・発心であるのです。「初心」については、一照さんは、故鈴木俊隆老師のことばに必ず触れられるでしょうから、そこは一照さんにまかせて、とりあえず、私はこのように、達磨宗との交渉の中で出された「仏行としての坐禅」という解説でとどめておきましょう。

 

【藤田一照】身読コラボ⑥

 道元禅師は「薬山非思量の話」についての拈堤(ねんてい 古則公案を提起して修行者に示すこと。またそれを工夫参究すること)のなかで、当時の坐禅をする者たちが陥っていた二つの病=誤った坐禅観について論じています。まず取り上げられているのは、「功夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也」、すなわち「坐禅は心がスッキリし、穏やかになればいいのだ。そうなるための努力が坐禅なのだ。」という考えです。これについては前回論じました。そしてもう一つが今回論じる「坐禅は初心者のための修行であって、修行というのは坐禅のみではなく、日常のすべてが坐禅の時にそうであるように、静かで安らかであるように工夫することである」という考えです。

 これら二つの考えは、われわれの多くが坐禅というものに関して抱いている漠然としたイメージに近いのではないでしょうか。少なくとも坐禅を始める前の私に関してはそうでした。ということは、坐禅についての通俗的な理解のほとんどすべては道元の『正法眼蔵 坐禅箴』の観点からすれば、正しい坐禅という鍼によって治療され癒されなければならないということになります。現代のわれわれが坐禅に取り組むに当たって、ぜひとも800年ほど前に書かれたこの書に目を通しておくべき所以もそこにあります。

 道元禅師にとって坐禅の正邪を分かつ根本的基準はいったいどこにあるのでしょうか? 「いわゆる坐禅は習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。」(『普勧坐禅儀』、『正法眼蔵 坐禅儀』)と「坐禅は三界の法にあらず。仏祖の法なり」(『正法眼蔵 道心』)という二つの文章がズバリその基準になっているのではないかと私は考えています。習禅あるいは三界の法であるか、それとも安楽の法門あるいは仏祖の法であるかということが決定的に重要なポイントで、『正法眼蔵 坐禅箴』は前者のような考え方や実践を仏法の観点から「坐禅の病気」と診断して治療し、後者の本来の健全な坐禅の理解と実修へと回復せしめるために書かれている文章だと思うのです。

 英語の表現で「A is not B but C」というのは「強調構文」と呼ばれるということを学校の英文法の時間に習いました。それはこの構文が目的としているのが、まずBを比較対象として取り上げておいてまずAはBではないとそれをはっきり否定してから、AはCであると主張したい内容を特に強調するところにあるからです。「いわゆる坐禅は習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。」と「坐禅は三界の法にあらず。仏祖の法なり。」を英語に翻訳するなら、「坐禅is not習禅 but 安楽の法門」、「坐禅is not 三界の法 but 仏祖の法」となって、どちらもまさにこの強調構文と同じような構成になっていることがわかります。つまり、坐禅は、決して習禅や三界の法ではなく明確に安楽の法門であり仏祖の法であることを大いに強調し、断言するための強い表現になっているということです。そこには当時の坐禅を取り巻く状況が、道元禅師の目には、それを断固強調しなければならないような状態にあったことが反映されているに違いありません。つまり、坐禅の名において、実際には習禅や三界の法が実践されており、安楽の法門、あるいは仏祖の法としての坐禅がほとんど見失われるか、ないがしろにされているのが実態だったということです。

 そのような現状に向けて書かれているのがこの『正法眼蔵 坐禅箴』だということを念頭において読む必要があります。宗教的言説というのは、ブッダや道元禅師のような開祖、宗祖と目されているような人物に関しては特にそうなのですが、どのような時代状況、あるいは聴衆、読み手に向けてなされたものかという、経典や著作自体には明示的に書かれていない条件を考慮して理解しなければなりません。特定の状況と無関係な普遍性を持つ科学的言説のような、真実について客観的に語っている言葉ではなく、具体的な状況や相手に対して何らかの課題を投げかけ、それに対する応答的行為を通して変容を迫っているのが宗教的言説の特質だからです。この『正法眼蔵 坐禅箴』はまさにそのような言説として読まれるべきものです。

 さて、前回論じた「得胸襟無事了」という考えは、あらかじめ設定された、自分にとって都合のよい、自分好みの心境に到達しようという凡夫的欲望に基づいた、自我中心的で有所得有所悟の営みでしたから、「どうして仏法を学ぶ人だと言えようか!」と道元禅師から手厳しく批判されたのは当然でした。こういう考えに基づく実践は、一定の心境、境地、体験を獲得するために考え出された瞑想技術に習熟し、それが上手にできる自分になろうとする習禅的努力に他なりませんし、得た、得ないで一喜一憂する三界の法(流転輪廻する世界)と言わなければなりませんから、道元禅師はとうてい坐禅として肯うことはできないのです。

 今回さらなる批判の対象になっているのは、坐禅が初心者用の修行であり、したがって、坐禅の功徳によって何か一定の体験をしてしまえば(たとえば見性と呼ばれるような体験)、もう坐禅をする必要もなくなるというような坐禅の考え方です。この考えによれば、修行が進むと坐禅がいずれ必要ではなくなる時が来るのであり、それが修行の進歩だということになります。そして、当然のことながらできるだけ早くそうなることが望ましいのは言うまでもありません。道元禅師の頃にはそういう考えを持った人たちが相当いたようです。そういう考え方をしている人は今もけっこういるはずです。

ではまず、本文をあげ、そのあとに私なりの現代語訳をつけてみます。

 

本文

又一類の漢あり、「坐禅辦道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行(あん)履(り)にあらず。行(ぎょう)亦(また)禅(ぜん)、坐(ざ)亦(また)禅(ぜん)、語黙(ごもく)動静体(どうじょうたい)安然(あんねん)なり。たゞいまの功夫(くふう)のみにかゝはることなかれ」。臨済の余流(よりゅう)と称ずるともがら、おほくこの見解(けんげ)なり。仏法の正(しょう)命(みょう)つたはれることおろそかなるによりて恁麼(いんも)道(どう)するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。

 

現代語私訳

またこういうことを言いふらしている連中もいる。「坐禅の修行は初心者や年をとってから仏法を学びだした人にとっては大事な働きをする道具である。しかしそれは必ずしも仏や祖師の行うことではない。悟りを開いたらもうそんなことはしなくてもいいのだ。そういう高いレベルの者にとっては歩くことも禅だし、坐ることも禅だ。語ろうが黙ろうが動こうがじっとしていようが身心が落ち着き安らかである。だからなにも坐禅の修行だけにかかわることはないのだ」と。臨済禅の系統に属すると自称する者たちはその多くがこういう考えを持っている。仏の正しい教えが彼らには伝わっていないので、まことにお粗末な仏法の理解に留まっている。だからそのような誤解もはなはだしい言説を恥ずかしげもなく吐けるのだ。初心、初心といかにもわかったように彼らは言うが、ではどういうことを初心というのだろうか? 習いたての人のことなのか? 初心ということを言うなら誰でもが初心ではないのか?初心でない人がいるのだろうか? 彼らには本当の意味での初心ということがわかっていないのだ。どこからどこまでを初心と言うべきなのか?彼らは「初心の弁道がすなわち本証の全体である」という仏道の基本中の基本を知らないからそんなことを言うのだ。

 

 この引用の後には「しるべし、学道のさだまれる参究には、坐禅辦道するなり」という一文があります。「次のことはよくよく心に命じておくべきだ。仏道を学ぶ上でどうしてもはずしてはならないこととして定まっている参究のありようがある。それは初心者であろうがベテランであろうがいやしくも修行者である限りは坐禅に力を尽くすということなのだ。」という意味です。道元禅師にとって、坐禅は一生涯真摯にやり続けていかなければならないものとしてあるのですから、仏道修行のベテランは坐禅をする必要がないなどという考えは到底許容できないのです。しかし、当時の、多くの「臨済の余流と称ずるともがら」はそういう見解に立っていたようですから、「仏の正しい教えが彼らには伝わっていない」と慨嘆せざるを得なかったのでしょう。

 『普勧坐禅儀』には「いわんや彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。少林の心印を伝ふる、面壁九歳の声名、尚ほ聞こゆ。」という文章があります。生まれながらに生を明らめ、死を明らめた聖者ブッダ、また、正しい禅の仏法を中国に伝えられた第一の祖師達磨の実例を挙げて、悟ったとされる人たちがそれで坐禅をやめることなく、止むことなく坐り続けたことが強調されていることを思い出します。禅の伝統において最重要なこの二人の生涯を振り返れば、悟るまで坐禅したのではなく、正しい修行への目が開けてから、いよいよ坐禅を坐禅として正しく坐れるようになり、一生涯にわたってそれを続けられたということがわかるだろうと主張されているのです。「かならずしも仏祖の行(あん)履(り)にあらず」に対する強力な反証になっていることがわかります。この文章のすぐ後には「古聖すでに然り、今人なんぞ弁ぜざる(古えの聖者でさえ、そのように修行せられたのであるから、法を継ぐべき今人が参禅弁道しないということが、どうしてあってよかろうか)」と坐禅を行じる者を強く鼓舞する一文が記されています。

 今回の引用箇所の最後の一文では「初心」という言葉が何度も使われています。普通には初心といえば「学問や技芸などを習いはじめて間がないこと」という意味に使われ、一生懸命に稽古や修行を積んで、初心者からだんだん中級者、上級者へと上達していくことが暗に期待される文脈でこの言葉が使われます。つまりそういう文脈では、初心者=未熟者ですから、いつまでも初心者のままでいるのは良くないことで、一刻も早く、初心者の域を脱するように大いに奨励されるのです。そうしなければ怠け者とみなされることになります。

 ここでは学習や経験の積み上げということが暗黙の前提になっています。「経験を積む」とか「修業を積む」、「トレーニングを積む」という言葉が使われるように、学校や社会でわれわれはそういう積み上げることはいいことだという考え方を叩き込まれますから、坐禅修行もまた頑張って何かをどんどん積み上げていくものだと考えてしまいがちです。たとえば、坐禅をトータルで何時間坐ったか、坐禅で霊妙な体験をどれだけ得たかということを問題にして、それが量的に多ければ多いほど素晴らしく、価値があるというふうにみなすのです。喩えていえば、ハシゴを上に向かって一段一段登っていくようなイメージで、高いところにいる者ほど優秀で、低いところにいる人はレベルが低い未熟な者とされるようなものです。ゴールである頂上にまで登ってしまえば、もう梯子を登る必要もないし、ハシゴ自身も要らなくなります。坐禅をこのようなハシゴのようなイメージで考えることがここでは批判されています。そういうハシゴ的な理解はまさに習禅的理解であり、積み上げることをよしとするのはまさに所有havingの次元にある三界の法の特徴です。道元禅師は坐禅とはそのようなものではないと言うのです。

 仏教には「四禅八定」という瞑想の深まりの段階を説明する言葉があります。詳しい説明は仏教辞典で調べていただくことにして、ここで言いたいことは、こういう教説もやはり低次の禅定の段階から、徐々に訓練を積んでいってより高次な段階の禅定に向かうというハシゴ的なイメージを彷彿とさせる段階論的な構成になっています。このような段階の設定は習禅の特徴とはいえ、道元禅師の坐禅にはなじまないものだと思います。道元禅師が坐禅について語るときにはそういう段階論的な表現はまったく見られません。

 「坐禅しておるとクックックと寒暖計が上がるように−『もう少し』『あっ、来た、サトッタ』というようなものではない。坐禅はいつまでたってもナントモナイものである」という澤木興道老師の言葉がありますが、このナントモなさが坐禅と習禅の大きな違いと言えます。四禅の最初は「初禅」と呼ばれていますが、それはブッダが苦行を捨てて菩提樹の木の下に坐る機縁となったと言われている、幼い頃に喧騒を離れて木の下に坐った時、自ずと訪れた「諸欲・諸不善を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態」のことです。ブッダはそのことを思い出し「これこそが悟りに至る道であるに違いない」という確信の元に、菩提樹下に坐したと言います。しかし、のちに体系化された仏教教理の中では、この状態はいまだ、色界における禅定の最初の階位でしかなく、初禅からさらに第二禅、第三禅、第四禅へと階位を上がっていかなければなりません。しかし、ブッダ自身が「これこそが悟りに至る道に違いない」と思ったあり方が、最も低次の禅定扱いされているというのは、私にはどうも解せないのです。

 これはあくまでも私個人の見解で、おそらく誰も賛成してくれないかもしれませんが、「これこそが悟りに至る道に違いない」とブッダが思ったポイントは、その時に訪れた禅定という心理的状態ではなく、技術や成果といったことにまったく無頓着に、文字通り初心(うぶ)な心で行なったその時の態度だったのではないかと思うのです。それまで懸命に行ってきた瞑想や苦行にはなかったエレメント(成分)こそ、初心だったのではないか。樹下に打坐する前のブッダは瞑想や苦行のエキスパート(専門家・熟練者)になろうと努力し、その結果自他共に許すエキスパートになったにも関わらず、自分の抱えていた人生のジレンマは解決しませんでした。エキスパートになる努力では解決できず、それとは逆の方向の素手素足の素人、つまり初心にならなければ入れない世界(「空手還郷」とはそのことを言う?)があることを、幼いときに無端に坐ったエピソードを思い出すことが契機となって、悟ったのではないか、というのが私の憶測です。

 樹下に打坐したときのブッダには四禅八定などというもってまわった教義は無縁だったはずです。初禅からさらに高次の禅定に向かって体験を積み上げていこうとするような意図はなく、ただ幼い時の打坐のように初心をもって自己と世界をフレッシュに味わっていただけでしょう。それは人間が身心の操作のために編み出した瞑想技術ではなく、そういったもののすべてを放ちわすれた純粋な打坐、只管打坐だった。それは常に初心で坐る坐禅、初心に帰り続ける坐禅ですから、慣れるということがあってはいけないものなのです。毎日が初めての前例のまったくないユニークな一日であるように坐禅は毎回、初めての新鮮な唯一無二の坐禅でなければなりません。

 参考のためにここでもまた、澤木老師の言葉を引いておきます。「私はこの歳になっても坐禅はいつでも初心である。坐禅に慣れてしまったらそれはウソの坐禅になってしまう。慣れた坐禅はクソの役にも立たん。いつでも真新しの坐禅をしなければならぬ。だから初発心の時が一番よい。慣れっこになったのを熟練したと思ってはならぬ。」道元禅師がここで繰り返している「初心」は普通の意味の初心ではなく、こういう深い宗教的な意味をたたえた積極的な初心なのだと思います。

 最後に、この積極的な意味での「初心」をbeginner’s mindと訳して、禅修行の最も大事なポイントとしてアメリカの人々に説いた鈴木俊隆老師(1905 – 1971 神奈川県出身の曹洞宗僧侶 サンフランシスコ禅センター創設者)のことに簡単に触れておきます。どの分野においてもエキスパートになることが過剰なほどに求められているアメリカ社会において「初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家と言われる人の心には、それはほとんどありません。」とそれとは真逆の価値観を鈴木老師はストレートに語りました。禅の心とはこの初心であるというのが、彼の講話集であるZen Mind Beginner’s Mindの題名が意味するところです。このラディカルな初心の大切さを身をもって挙揚したことが当時のカウンター・カルチャー(対抗文化)の担い手たちに広く受け入れられ、大きな影響を与えました。この講話集はいまだに版を重ねるベストセラーとして英語の禅の古典になっています。日本語訳(『禅マインド ビギナーズ・マインド』サンガ刊)を読んでいただければ、鈴木老師のいう初心が道元禅師の教えからきていることがよく分かるはずです。だとすれば、「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。」という800年も前の道元禅師の言葉が、鈴木老師の活動を通して、海を越えて西洋文化に伝わったということになります。しかし、私はその初心の大切さを説く教えは道元禅師からさらに、樹下に打坐したブッダにまでさかのぼれるはずだと考えています。世阿弥の有名な「初心、忘るべからず」もその流れにつながっているでしょう。ちなみに、私が過去5年にわたって続けてきた実験的仏教塾の今年度のテーマは「初心の技術〜智慧を求める智慧を探究する時間」です(http://fujitaissho.info/shosin)。この流れを現代においてどう受けとめ、日常の中に編み込んでいくかを探って行きたいと思っています。

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著者略歴

  1. 宮川敬之

    1971年鳥取県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士過程単位取得。大本山永平寺に安居修行。現在、鳥取県天徳寺住職。主な論文に「中国近代佛学の起源」「異物感覚と歴史」など。著書に『和辻哲郎――人格から間柄へ――』(講談社学術文庫)。

  2. 藤田一照

    禅僧。1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。1987年、米国マサチューセッツ州西部にある禅堂に住持として渡米、近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行う。2005年に帰国。曹洞宗国際センター前所長。Facebook上に松籟学舎一照塾を開設中。

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