二篇の「坐禅箴」
*「本文に入る前に、もう一点、触れておきたいことがあります」――
宮川先生からのお話を受けて、今回は、そのことについて語っていただきます。
お二人の身読に入るのは次回からとなりますことをご了承ください。(編集部)
〈二篇の「坐禅箴」〉
道元禅師が書かれた『正法眼蔵』「坐禅箴」巻の講読第2回です。先回、この「坐禅箴」に至る歴史的あらましを述べました。くりかえせば、坐禅のマニュアルは、中国ではおよそ六世紀ごろから書かれるようになったのですが、それらには身体的マニュアルと思想的マニュアルとがあり、思想的マニュアルは多く漢詩(詩偈)の形をとって、暗唱するのに適したありようで著されたのでした。宋代の宏智正覚が書いた「坐禅箴」(以下「宏智坐禅箴」という)もこのようなマニュアルの伝統を受けて書かれたものでしたが、これを道元禅師は「いまだいまのごとくの坐禅箴あらず」と嘆賞しつつも、それを書き換えて自らの「坐禅箴」(以下「永平坐禅箴」という)を作り、さらにその参究のための公案も追加して、「坐禅箴」巻を書きました。道元禅師四十二歳の時の示衆(説法)とされています。「坐禅箴」巻では末尾に記されているこの二つの坐禅箴ですが、「坐禅箴」巻本文の読解に入る前にまずはこの二篇をとりあげ、どのような書き換えがなされているのかを具体的に見てみましょう。春秋社七巻本道元全集第一巻より挙げ、原文のあと書き下し文をつけます。なおカッコ内の内容についてはあとで解説します。
宏智坐禅箴
仏仏要機(○五微) 祖祖機要(●十八嘯)/不触事而知(○四支) 不対縁而照(●十八嘯)/不触事而知(○四支) 其知自微(○五微)/不対縁而照(●十八嘯) 其照自妙(●十八嘯)/其知自微(○五微) 曾無分別之思(○四支)/其照自妙(●十八嘯) 曾無毫忽之兆(●十七篠)/曾無分別之思(○四支) 其知無偶而奇(○四支)/曾無毫忽之兆(●十七篠) 其照無取而了(●十七篠)/水清徹底(●八薺)兮 魚行遅遅(○四支)/空闊莫涯(○九佳)兮/鳥飛杳杳(●十七篠)
仏仏の要機、祖祖の機要。事に触れずして知り、縁に対せずして照す。事に触れずして知る、その知自ずから微なり。縁に対せずして照す、その照自ずから妙なり。その知自ずから微なるは、曾て分別の思い無し。其の照、自ら妙なるは、曾て毫忽の兆無ければなり。曾て分別の思い無く、其の知、偶すること無うして奇なり。曾て毫忽の兆無く、其の照取ること無うして了なり。水清うして底に徹り、魚行いて遅遅たり。空闊うして涯りなく、鳥飛んで杳杳たり。
永平坐禅箴
仏仏要機(○五微) 祖祖機要(●十八嘯)/不思量而現(●十七霰) 不回互而成(○八庚)/不思量而現(●十七霰) 其現自親(○十一真「したしい」〔●十七霰「親家の意」〕)/不回互而成(○八庚) 其成自証(●二十五径「あきらか」〔○八庚「いさめる」〕)/其現自親(○十一真) 曾無染汚(●七遇「すすぐ」〔○七虞「よごす」〕)/其成自証(●二十五径) 曾無正偏(○一先)/曾無染汚之親(○十一真) 其親無委而脱落(●十薬)/曾無正偏之証(●二十五径) 其証無図而功夫(○七虞)/水清徹地(●四寘)兮 魚行似魚(○六魚)/空闊透天(○一先)兮 鳥飛如鳥(●十七篠)
仏仏の要機、祖祖の機要。不思量にして現じ、不回互にして成ず。不思量にして現ず、其の現自ずから親しし。不回互にして成ず、その成、自ずから証なり。其の現、自ずから親しし、曾て染汚無し。其の成自ずから証なり、曾て正偏無し。曾て染汚無きの親、其の親、委すること無うして脱落す。曾て正偏無きの証、其の証、図ること無うして功夫す。水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり。空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し。
原文でもまた書き下し文でも、両者を比較しても同じような言い回しのなかに少し言葉をかえているとしか判別できず、それがどのような改変なのかはよくわかりません。しかし中国の詩についての知識が少しあれば、道元禅師の改変のありようの「ふしぎさ」を見ることができます。おそらく二篇のちがいの中心は、この「ふしぎさ」にあるのです。原文のカッコ内に施した符号は、この探索に必要なものです。このことを解説します。
〈書き換えの作法〉
中国語はいうまでもなく漢字で書かれています。漢字は一文字一音節の言葉であり、子音と母音とに分かれます。母音に着目すると、平板なものと上下抑揚を持つものとに分けることができます。前者を平声(ひょうしょう)、後者を仄声(そくしょう)といいます。それぞれはさらに細かく分類され、平声は三十種類、仄声は上声二十九種類、去声三十種類、入声十七種類に分類され、平仄あわせて計百六種類に分類されます。この種類一つ一つを同じひびきと言う意味で韻と呼びます。おどろくべきことに、何万もある漢字の全てが(ただし日本でできた漢字である国字は除きます)平仄の二声に、さらに百六韻のどれかに分類されるのです(一つの漢字が平仄の両方の声を持つ両韻の字もあります)。この百六の韻の分類は、中国の元の時代に整備された平水百六韻とよばれるもので、それ以前、たとえば唐代や宋代には、『広韻』という本に記された二百六韻もの細かい分類がなされていました。前節で挙げた「宏智坐禅箴」「永平坐禅箴」のカッコ内に記した符号はこうした分類を表していて、○は平声を、●は仄声を、そしてその横の数字と漢字とはどの韻かを示すものです(たとえば機は「○五微」と書かれていますが、これは平声のうちの上平十五種類の韻の第五番目の韻を指します。「微」はこの韻を代表するもので韻目といいます。なお宋代の漢詩を分析する場合には広韻に依らなければならないのですが、煩雑になるので、便宜的によりシンプルな平水韻に依っています)。
一般的に、詩は同数(四字・五字・七字等)の字数で一句を作り、それを何句か並べて構成しますが、偶数番目の句末の語を同一種類の平声の韻で合わせることを必須条件としていました。これを「韻を踏む」「押韻」といいます。中国文学者前野直彬氏は「詩は、どのような形式のものでも、必ず韻をふむ。(中略)逆に言えば、韻をふまないものは、詩ではない」(『精講 漢文』)とまでいいます。これほどまで韻を踏むことは、古代から詩の必須条件であったのです。
こうしたことを基本に、詩を書き換える際の作法も生じました。ある詩に対して敬意や愛着を示す場合に、同じ詩形(字数と行数)を使って、同じ韻を使って詩を作るのです。これを「和韻」といいます。ある詩に和韻して詩を書き換えることは、今風に言えば、元の詩へのリスペクトを表したトリビュート作品を作るということです。和韻には依(え)韻(いん)・用(よう)韻(いん)・次(じ)韻(いん)という段階があります。たとえば七言絶句(七文字で一句を作り、四句で構成する詩)では、一句(起句)末、二句(承句)末、四句(結句)末で韻をふみます。ある七言絶句の詩が、かりに起句末「梅」、承句末「開」、結句末「来」で、上平声十灰の韻で押韻している場合、梅・開・来の文字には関係なく十灰の韻の文字をひろく使って別の詩に書き換えると、これは依韻といわれます。すこし制限して、順番は関係なく梅・開・来の文字を使って書き換えればそれは用韻です。梅・開・来の順番を保ったままこの文字を使って別の詩に書き換える場合、それを次韻とよび、もっとも条件が厳しく作りにくい反面、もとの詩に対する強い尊敬の意を表す作法となるのです。
このように平仄と韻から「宏智坐禅箴」と「永平坐禅箴」を見るとつぎのようなことがわかります。まず「宏智坐禅箴」では、平韻と仄韻とが、かわるがわる交替しており、これを進退(しんたい)韻(いん)(あるいは進退格(きゃく))といいます。平仄が交替するさまが前進後退をくりかえしているように感じられるからです。平声の韻に着目すれば、それは四支と五微とで統一され、仄声の韻もまた、十七篠と十八嘯でほぼ統一されています。四支と五微、十七篠と十八嘯とは同一種の韻とみなしてもよいとされます。これを通押といいます。このように見ると、「宏智坐禅箴」は四支・五微、十七篠と十八嘯で韻をふんでいる詩であるといえるわけです。もし道元禅師が「宏智坐禅箴」に敬意を表すならば、これらの韻に和韻を行って詩を作るというのが一般的な書き換えの作法なのです。実際、道元禅師は、師匠の如浄禅師の「風鈴の偈」に対しては最高度の敬意を表するために、次韻して自分の偈を作っていました。同じように「永平坐禅箴」も、「宏智坐禅箴」に和韻して作られているのだろうと予想をするのですが、しかしこの予想は大きく覆されることになります。
〈四六駢儷文〉
「永平坐禅箴」では、「宏智坐禅箴」に和韻をするどころか、平仄両方を持つ文字を使っているために韻自体も確定しづらく、押韻そのものもよくわからないのです。かわりに整えられているのは平仄です(とはいえ、やや両義的な部分もあります)。ともあれ、橋本恵光老師と鎌谷仙龍老師の読解(鎌谷仙龍述『正法眼蔵坐禅儀 承陽大師坐禅箴参究』瑞応寺専門僧堂銀杏編集室)にしたがえば、句末の平仄につぎのような規則性を見ることが出来ます。取り出してみるとつぎのようになります。
○●/●○/●○/○●/○●/●○/○●/●○/●○/○●
これはつぎのような規則性にまとめられます。
○●●○/●○○●/○●●○/○●●○/●○○●
この形式は詩ではなく、四六駢儷文と呼ばれる文体の特徴を表しています。そうであれば「永平坐禅箴」は、「宏智坐禅箴」が詩であることそのものを解体してしまっているといえるということです。書き換えの作法そのものまでも破って、なぜ四六駢儷文への改変がなされなければならなかったか。書き換えの「ふしぎさ」の中心はここにあります。
四六駢儷文(以下四六文)は、主に六朝期から盛んになった文体で、四字と六字の句によって対句を作り、全体を構成することを基本とします。駢儷文の駢とは馬が二頭並ぶこと、儷とは人が二人ならぶこと(すなわち夫婦の意)とされ、対句を基に全体が構成された文という意味があります。詩ではないので韻は踏みませんが、句末平仄を対称的に整える(○●●○あるいは●○○●)ことを特徴にします(このことから「永平坐禅箴」を四六文と判断できるわけです)。さて対句とは、対偶と呼ばれる文章法の一つで、『論語』憲問の例「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす〔古之学者為己、今之学者為人〕訳 むかしの学問をする者は自分の修養のために学び、ちかごろの学問をする者は人の評判を得るために学ぶ」(『論語』憲問)といった、「対称的な表現をもつ二句(または二句以上の偶数句)の組み合わせ」(佐藤保『詳講 漢詩入門』ちくま学芸文庫二〇一九)のことです。このような対偶表現は中国語において非常に好まれました。対偶表現が好まれた理由を、中国文学者佐藤保氏はつぎのように解説します。
ところで、なぜこのように対偶表現が好まれたかといえば、まず第一に同じ数の文字(言葉)で構成されている二句は音節のリズムが等しく、耳で聞いても目で読んでも均一のバランスがとれていて、一組としての安定感があること、第二に二句のリズムが等しいために、口にしやすく覚えやすいこと、第三にリズムだけでなく、対比的な内容が読者につよい印象を与えて、より記憶を容易にしていることなどの理由によるのである。(佐藤前掲書)
「永平坐禅箴」が四六文である理由は、明らかにこの対偶表現に関わっています。しかし、対偶という点では、四六文ではない「宏智坐禅箴」も、平仄の交替を含んだ対偶表現をとっています。いやむしろ、対偶表現の安定、強さという意味では「宏智坐禅箴」のほうが強い表現になっているともいえます。平仄の固定化は、固定的に対立する二つのものが唱われているという印象を強めるからです。この固定的に対立する二つのものとはなんでしょうか。
たとえば禅の伝統では「教外別伝」「不立文字」といわれ、言葉と言葉を超えた悟りという二分法を強調します。それは知覚と知覚を超えた悟り、判断と判断を超えた悟り、表層と深部、通常と超越といった二分法にも展開します。「宏智坐禅箴」においては、「事に触れずして知る、その知自ずから微なり。縁に対せずして照す、その照自ずから妙なり」として、通常の知覚とそれを超えた(あるいはそれより深部にある)原-知覚、判断とそれを超えた(それより深部の)原-判断との対応が唱われています。その二分法が、偈において平声部の押韻と仄声部の押韻が固定されて交錯することと呼応し、あたかも二部合唱を聞くような役割分担の安定感の印象をわたしたちは受けることになります。「永平坐禅箴」と比べるなら、読む(詠む)側の安定感は「宏智坐禅箴」の方が圧倒的に強いのです。
平仄そのものが移動し、転移してしまう「永平坐禅箴」の場合は、おちついた安定性のかわりに、おちつかなさを、あるいは、往復するなにかの「運動」の感覚を、読む(詠む)者に与えることになります。道元禅師が四六文に改変したその効果は無かったのでしょうか。いやそうではなく、この不安定性こそ、この「運動」こそが、道元禅師の狙いであったとわれわれは読むべきだと思います。なぜでしょうか。
奇妙に聞こえるかもしれませんが、対偶表現は対偶したものを表現することだけを目的としたものではありません。対偶表現のもうひとつの目的とは、対偶する二つのことがらを問題にしながら、同時に、対偶をこえたなにかを表現しようとするところにあります。前掲の佐藤保氏は、前掲の引用に続けてつぎのようにいいました。
以上がいわばシンメトリー(対称)の美学であるが、さらに第四として次のような理由が存在する。上掲のいずれの例でも、対偶表現をとることによって、対偶を構成するそれぞれ個別の事象が一つに包括され、統一的な観念ないしは原理を表現することである。『論語』憲問の例で言えば、「古」の学問をする正しい態度を「今」の学問をする者の誤った傾向と対比させて、時間を超越した「学問する態度の正しいあり方」を抽象化、観念化しているといえるのである。(中略)中国語の抽象概念の表し方は、相反する意味の言葉を並列して熟語を作り、具体的な対比から抽象的意味を生み出す場合が少なくない(同)。
前述のとおり、禅の伝統での、言葉と言葉を超えた悟り、知覚と知覚を超えた悟り、判断と判断を超えた悟り、表層と深部、通常と超越といった二分法があるわけですが、しかしそこには原理上のつまづきがいつも埋設されています。それはなんでしょうか。たとえば、「禅とは言語を超えた悟りである」と言われる場合、それは言語を使って言われているわけです。つまり、言語のうちであらかじめ仕立て上げられた言語と言語以外という二分法でもって囲い込まれたなかで、安全に発言しているということです。これは知覚と知覚外、判断と判断以外、といった二分法にもいえることで、そうした考察は、あらかじめ作られた二分法のなかで安全になされているにすぎないということです。そのような安全ななかでどれだけ考察しようと、そうした発言・知覚・判断をのりこえる現実の坐禅の出来(しゅったい)はありえない。道元禅師はそう考えたのではないでしょうか。「宏智坐禅箴」に見える進退格は、平声と仄声との安定した交替であり、それは二分法を説明するその説明自体は見事であっても、いやそうだからこそ、そこに現実の坐禅は出来しないのです。道元禅師が行った改変は、この二分法を動揺させ、「運動」をもちこむことだったのではないでしょうか。そして、二分法そのものを相対化する場、すなわち坐禅の場を、出来させることこそがその目的であったのではないでしょうか。
実際、道元禅師は『典座教訓』(嘉禎三〔一二三七〕年)において、言葉についての興味ぶかい述懐をしています。これは阿育王寺の典座老師に「いかなるか文字」と問い、「一二三四五」という回答をもらった有名な逸話に続く箇所です。
然あれば則ち従来看る所の文字は、これ一二三四五なり。今日看る所の文字も、また六七八九十なり。後来の兄弟、這頭より那頭を看了し、那頭より這頭を看了し、恁のごとき功夫を作さば、便ち文字上一味禅を了得し去らん(全集第六巻)。
この箇所の意味を正確に読解することは非常に難しいのですが、少なくともはっきりしているのは、道元禅師が禅を語る場合には、「こちら側(這頭)」と「あちら側(那頭)」とのあいだで、相互に移動しあう一種の「運動」が必要だと考えていたということです。這頭から那頭へ、那頭から這頭へ、この相互の「運動」と、「運動」が生み出す這頭でも那頭でもないもう一つの場を、想定していると考えられます。これらの全体を、坐禅の場(「文字上一味禅」)であると道元禅師は考えていたのではないでしょうか。ですから「宏智坐禅箴」が二分法、二元構造であり、二次元的であるのに対して、いわば「永平坐禅箴」とは三肢構造であり、三次元的なのです。もちろんこの三元目は、「運動」すなわち行によってのみ現れるなにかということなのですが。
このように「永平坐禅箴」を三肢構造と見ることは、「坐禅箴」巻講読において重要な視点を与えてくれます。本文冒頭の箇所「薬山不思量底」は、まさしくこの三肢構造を示しているものと思われるからです。それはいうまでもなく、「思量」「不思量」「非思量」の三肢構造であり、それらを側面とする三角錐(四面体)の全体こそを兀兀地とよび、坐禅を示すのだ、として読もうというのが、私の読みようです。実は今回、本文に入るべきところだったのですが、私のフライングで二篇の「坐禅箴」そのものの比較をしました。連載2回目ではやくも足並みを乱してしまい、一照さん、ごめんなさい。
付記)今回の原稿は専修大学文学部教授の廣瀬玲子さんに校閲・ご教示をいただきました。誠にありがとうございました。とはいえもちろん文章の責任は宮川にあります。ご意見ご教示賜れば幸いです。