第15回 大乗仏教は宇宙時代を生き残れるか?――まとめ
本シリーズでは、最近の天文学の急速な発展から説き起こし、現代が宇宙時代に入ったことを紹介した。さらにそこから仏教の大きな特徴として、時間・空間を問わず普遍的に適用される因果律を承認することを挙げた。
大乗仏教を特徴づける他土仏信仰は、この世界(娑婆)以外にも知的生命体の存在を認め、仏教の説く因果律が時空間を超えて普遍的であるという前提から成立した。そして初期大乗仏典を代表する『般若経』や『華厳経』には、仏教を媒介とする異なった世界間の交流が説かれている。実際に系外惑星に住む知的生命体の捜索や、それとの交信が企てられたのは、我々の世代に入ってからのことである。
しかし科学とは異なり、仏教が説く因果律には①物理的因果律の他に、②道徳的因果律つまり道徳律と③救済論的因果律が含まれ、この三者が渾然と融合することで、仏教独自の因果観が形成されることを指摘した。
ただし仏教が成立した古代では、①物理的因果律の存在は今日ほど自明なことではなかった。そこで第5回では、インドで最後に成立した密教聖典『時輪タントラ』を紹介した。『時輪タントラ』の天文暦学は、現代天文学とは似ても似つかない須弥山世界説に基づく天動説であった。しかし須弥山の周りにプトレマイオス的な惑星の周転円軌道を設定し、惑星の軌道が楕円であることから生じる中心差を補正する方法を知っていたので、天体の運行を正確に分析するだけでなく、かなりの確度で予測することもできた。
つまりインド仏教は、その最後の段階において、①物理的因果律に基づいて外界の現象を数理的に解析するツールを手に入れたのである。
『時輪タントラ』の註釈書『ヴィマラプラバー』の第5章では、如来の智慧は、感覚器官を超えた自覚(スヴァサンヴェードヤ)智であることを論じる。天体の運行の数学的分析や、それに基づく暦学では、最高の智慧は得られないが、それに到達する方便としては認められると説いている。これはカントが、現象界の事物は物理法則に支配されるが、物自体(ディング・アン・ジッヒ)は叡智界に属するため、感覚器官では認識できないと説いたのに似ている。
いっぽう第6回では、因果の理を遍知、つまり完全に悟った仏には、何が起きるかという問題を取り上げた。ゾンサル・キェンツェの講演によれば、仏は一切智者性と引き換えに、一切の世俗的な楽しみを断じたのであった。さらに第7回では、仏は一切智者ではあるが、できないことがあるという仏の三不能を取り上げ、仏は因果律を遍知して衆生を救済するが、因果律に反する行動は取れないし、取ることもないと解釈した。
いっぽう第8回では、インド後期密教を代表する『秘密集会タントラ』の曼荼羅理論を取り上げ、インド仏教が我々の経験しつつある世界を、主観方面(能取)と客観方面(所取)に整理し、どのように解釈してきたのかを紹介した。そして第9回では、インド大乗仏教が主張する主観・客観の二元対立は虚妄であり、存在しないという思想を紹介した。このような主観・客観の二元対立を虚妄と見る主張は、仏教の諸法無我説から導き出されたものではあったが、世間一般の常識とは乖離していたため、無我説を改良してより整合的な教理を構築しようとする動きがあった。第10回では、その例として、犢子部のプドガラ説と和辻倫理学を紹介した。
いっぽう第11回では、因果律を遍知する一切智者が存在すると仮定した場合、どのような問題が起きるのかを、ラプラスの悪魔のパラドックスなどの観点から考察した。
現代の量子力学は、それまでの物理学が物理法則を絶対視し、未来は確定していると考えていたのに対し、不確定性原理を導入した。このような量子力学に猛然と反対したのがアインシュタインである。第12回では、アインシュタインが量子力学に挑んだ最後のチャレンジともいうべき「量子もつれ」の問題を取り上げた。
そして第13回では、再び『秘密集会タントラ』の曼荼羅理論に立ち返り、曼荼羅の修習が、主観・客観の二元対立を前提とした、日常的な自我設定を克服することを目的としていることを明らかにした。
そして本シリーズの最後を飾る第14回では、越後出身の禅僧、良寛の書状をきっかけにして、禅者が追求した「父母未生以前の本来の面目」とか「己事究明」といった課題が、因果律に支配されている物質世界の中で、自我がその適用を免れる特異点のように見えるのは何故かという問題を考えた。
つまり部派仏教の時代から存在した「諸法無我」という問題の発展形態として、大乗仏教は「主観・客観の二元対立は存在しない」というテーゼを持ち出し、それがインド後期密教に入ると、「凡常の慢」つまり「蘊・界・処」に整理された主観・客観の二元対立を前提とした自我設定を克服することが、曼荼羅修習の目的とされるようになった。
このように自我が存在しないとか、主観・客観の二元対立が存在しないという問題は、世間の一般常識からは著しく乖離しているが、無限の過去から染み着いたこのような習性を打破して、二元対立を克服したところに悟りが開かれるというのが、大乗仏教から密教に至るまでに通底する思想であり、それは臨済禅でいうところの「見性」の問題にも通じるものと考えられる。
本シリーズで述べたように、仏教の無我説や主観・客観の二元対立が存在しないという思想は、インド哲学の正統であるヴェーダーンタ派に対抗するために強調されるようになったといわれる。しかしヴェーダーンタ派のような思想は、ある意味でヘーゲルの絶対理性に基づく弁証法哲学にも通じる面があり、西洋にも存在するといえる。
しかし無我説や主観・客観の二元対立を否定する哲学は、西洋には見当たらないし、あっても正統的なものとは見なされてこなかった。仏教に好意的だった西洋哲学者といえばショーペンハウアーが挙げられるが、彼の思想も、むしろ原始仏教やテーラヴァーダ仏教に近いと考えられる。つまり大乗仏教は、西洋の宗教哲学には見当たらない、独自の思想構造をもっているのである。
現在はまだ、多くの人々は所属するエスニックグループにしたがって宗教を選択している。米国でもアイルランド系やイタリア系、ヒスパニック系にはカトリックが多い。大乗仏教も華僑や日系人、韓国系、ベトナム系などが信徒の中核をなしている。
しかし米国など、移民を大量に受け入れてきた国家ではエスニックグループ間の混血が進み、人々は自分たちの信条に合致した思想宗教を選択するようになってきた。
私が研究してきたチベット仏教は、当初は欧米に逃れたチベット難民によって伝えられたが、現在は多くの欧米人、とくに白人系の入信者が多い。
1959年のチベット動乱以後、欧米に逃れたチベット難民は、華僑や日系人に比して、その数が圧倒的に少なかった。彼らの力だけで現地で仏教教団を維持していくことはできなかっただろう。しかしチベット人は、モンゴル帝国以後、異民族にチベット仏教を布教し、内陸アジアに広大なチベット仏教圏を築き上げた経験があった。
そこで亡命先のインド・ネパールで英語を習得した宗教指導者は、そこを足がかりに、欧米に布教して現地人を信徒に加え、勢力を拡大することに成功した。彼らの努力がなかったら、ダライラマ14世のノーベル平和賞受賞もありえなかったであろう。
いっぽう近年における科学技術の著しい発展は、災害予知や医療の分野で、大きな進歩をもたらしている。かつて人々が宗教に求めたものは、災害予防や病気平癒といった現世利益であった。しかし現代、これらの多くは科学技術によって代替できるようになっている。さらに現在、人間が行っている多くの業務も、近い将来、AIによって代置されると予測されている。
しかし空海が「生生生生暗生始(うまれうまれうまれうまれてしょうのはじめにくらく)、死死死死冥死終(しにしにしにしんでしのおわりにくらし)」(『秘蔵宝鑰』)と詠んだ人間にとって本質的な個我の問題は、いまだ解決されていない。そこにこそ、これからの大乗仏教が存続する道があると思われる。
前回で取り上げた良寛と逸話が多いことで双璧をなす一休(1394~1481)は、佗茶の開祖とされる村田珠光(1423~1502)に大きな影響を与えたといわれる。このように日本では、一流の禅者は、優れた芸術家に大きな影響を与えてきた。
現代でも、前衛音楽家のジョン・ケージは鈴木大拙に2年間参禅し、禅から多くのインスピレーションを受けた。オーケストラ指揮者のセルジュ・チェリビダッケも臨済禅に傾倒し、仏教に改宗したという事例がある。いっぽうアップルの創業者の一人であるスティーブ・ジョブスは、曹洞宗の乙川弘文に師事していた。
現代の欧米には、中国・日本仏教の他の教派も伝播しているが、禅以外の宗派が、華僑や日系人というエスニックグループを基盤としているのに対し、禅はそれとは全く異なるZenとして受容されている。
なお禅のピンイン表記はChanであるが、Chan BuddhismよりもZen Buddhismの方が普及しているのは、欧米における禅は、最初に鈴木大拙などの日本の仏教者によって紹介されたからである。また日本の禅は、中国禅が最高潮に達した宋代の禅を継承するのに対し、現代の中国禅は禅浄一致(禅と浄土教の融合)など、その先鋭性を鈍化させているからと思われる。それは中国仏教を取り巻く社会的要請のためであるが、社会環境が全く異なる欧米においては、禅のもつ特色が遺憾なく発揮されている日本の臨済、曹洞禅の方が、より取り付きやすかったからと思われる。
一般に欧米では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの一神教が流布しており、東洋の宗教でも、ヒンドゥー教のシヴァ派、ヴィシュヌ派などは有神論的である。またデカルトのコギトのように自我の存在は前提とされており、西洋近代の思想は、いかにして確乎とした自我を確立するかが大きな課題だったといってもよい。
そのような中で、仏教は神が存在するかどうかを問題にしない宗教である。とくに禅にはその傾向が強い。また主客の対立を超えた新面目、前回で紹介した仏性と呼ばれるものを発見するという実践形態を取る。
それは仏教のもつ夾雑物を捨象して、全知全能の唯一神を認めず、因果律を絶対視する立場や、それに基づいて主観・客観の二元対立を虚偽であると考える、最も先鋭的な大乗仏教の思考が、全く歴史・文化の伝統が異なる欧米人にとっては、よりラジカルで新鮮であったからではないだろうか。
つまり宇宙時代の欧米人が、従来のエスニックグループを超えて自らの思想信条に従って宗教を選択する場合、大乗仏教は選択肢の一つとなり得る。しかも無我説や主観・客観の二元対立を否定する哲学は、西洋には存在しないだけでなく、東洋の他の思想宗教にもほとんど見当たらない。また本シリーズで論じてきたように、主観と客観の二元対立が存在しないというテーゼは、最新の科学的知見によって裏づけられたとまでは言えないが、少なくともそれらと矛盾しない。
とくに現在の欧米は、移民の流入による民族間の軋轢や、分断の時代に入っている。その状況は、大乗仏教が発展した2世紀から5世紀にかけて、農業生産力が高かった北インドや華北に、異民族が殺到した時代に似ている。万物に例外なく適用される普遍的な理法に基づく大乗仏教の思想が、軋轢や分断の修復に果たす役割は大きいと思われる。
そして大乗仏教が、その初期からもっていた宇宙的性格が、これからの宇宙時代にマッチしていると考えるのは、私だけであろうか?
なお進化論には、適応放散という考え方がある。欧米人の中にも、従来のキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教になじめないものを感じている人々が少なからず存在する。ところが、これまでの欧米では、それらの人々の受け皿となったのは、無神論や共産主義などのイデオロギーしかなかった。つまり将来の世界において、大乗仏教は、それが普及していなかった地域において、新しい思想宗教として適応放散し、各地に根付く可能性がある。
私に、その可能性を知らしめたのは、他ならぬチベット仏教の海外伝播であった。チベット仏教には、本シリーズで紹介した後期密教の曼荼羅理論、さらに大乗仏教の教理を整合的に説明する「般若学」などの他、カギュー派のマハームドラーやニンマ派のゾクチェンのような心の奥底を見つめる禅に近いヨーガまで、種々の法門がある。
20世紀に入ってから西洋に蒔かれた大乗仏教の種が、今後どのような展開を見せるか、おそらく私が存命の間に結論が出ることはないだろうが、楽しみなことである。


