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社会を癒す「私」になる――マインドフルネスとポリヴェーガル理論が拓くケアのまなざし 井上ウィマラ × 花丘ちぐさ

「私」と再びつながるために――手放すこと、完了させること【対談:井上ウィマラ×花丘ちぐさ】

◆凍りつき状態の神経系

 

ウィマラ:花丘先生のポリヴェーガル理論の話を伺っていて、「ああ、なるほど」と思うところがいくつかあったので、最初にシェアさせてください。

 「3階建て」の神経系のお話(第1回参照)で、最初に出てきたのは無顎むがく魚類で、これが「凍りつき」――僕は「死んだふりをして生き残る」と表現していますが――に関わる神経系ということでした。凍りつきを起こしたシカの映像は衝撃的でしたね。シカが凍りついているとき、あれはまさに硬直している状態ということですね?

花丘:そうです。凍りついて動けなくなっていましたね。

ウィマラ:硬直してしまって、そこから抜け出すときにプルプルッと震えて、動き出したわけです。そこでふと思ったのですが、死後硬直というのも何か関係があるのでしょうか?

花丘:なるほど。あまり考えたことはなかったですね。

ウィマラ:看取りをしていると、死後硬直が始まるまでの間に亡くなった方の顔が変化するのです。母親や父親だった人が亡くなったとき、長年の役割から解放されて、幼いころの顔に戻るような印象を受けることがあります。ちなみに、亡くなったあとの顔がどういうふうに変化するかを見ながら家族みんなで話し合うと、それがグリーフケアの第一歩にもなります。そして、しばらくすると死後硬直が始まりますが、シカが硬直している様子を見て、死後硬直にはどんな意味があるのかなと思いました。

 瞑想体験からいうと、瞑想をしていると呼吸がだんだん微細になっていき、呼吸が止まって死んだような状態になることがあります。ある種の瞑想者、ヨギの中には呼吸がほとんど止まったような状態で何日間も瞑想を続けられることを誇る人もいますが、要するにそれは意識的に「凍りつき」状態に入ることができるということだと思います。その中でも、伝統仏教では「滅尽定めつじんじょう」と呼ばれていますが、一週間ぐらい死んだような状態、無呼吸に近い状態で過ごせる人もいるようですが、それも背側迷走神経系を賦活ふかつしている状態かと思いました。

 瞑想病とも関係しますが、瞑想して集中力が高まると自然にそういうことが起こりうるのです。どんどん呼吸がなくなっていきます。そういう状態を理想化して、「自分のほうがすごい」という瞑想競争に発展してしまうこともあります。神経系の状態で考えると「戦うか逃げるか」の状態になっていて、なんでもできるような、超人になったかのように錯覚してしまう場合もあります。瞑想をするとさまざまな階層の神経系が活性化され、さまざまな状態になることもできますが、それらと「解脱」や「解放」とは別の次元にあるものです。この「3階建ての神経系」の考え方は、瞑想病を説明する際にも役立つ視点だと感じました。

花丘:たしかに、競争意識は「闘争/逃走」の状態ですので、腹側迷走神経系の社会交流とは違いますね。瞑想病というのも、神経系の状態で考えるとそうなりますね。

 

◆子育てにおける安心・安全の意味

 

ウィマラ:僕はマインドフルネスを教えていますが、日本に帰ってきて最初に頼まれた瞑想会は、子育て中のお父さんお母さんたち向けのものでした。そのときは、子育てしている人たちになぜ瞑想を教えるのか不思議でしたが、いろいろとお話を聴いてゆくうちに納得しました。先ほど、世代間伝達の話をされましたが、そういう領域に関心を向けていくと、マインドフルネスを実践するときの心の向け方は、子育てをするときの心の向け方にそのまま当てはまることに気づきました。

 先ほどの進化の図表では「共同保育」としましたが(第3回参照)、人類が群れで子育てをするようになったことがひとつの大きな意味を持っていて、それが安心感の育成につながっていくというのは非常に共感してしまいました。

花丘:やはりお互いに安心・安全の合図を出し合い、受け取って、仲良くするとともに自分の神経も落ち着くということが、人間の生き残りの方法だったのだなということがわかりますね。

ウィマラ:「赤ちゃん部屋のおばけ(Ghosts in the Nursery)」という、赤ちゃんを虐待してしまう母親へのセラピーに関する論文に出てくる話ですが、赤ちゃんが抱っこしてほしくてお母さんに手を伸ばした際、お母さんは自身の過去の辛い体験を思い出して、「また引っ搔かれるかもしれない」と警戒して身を引いてしまう。でも、お母さん自身が持っていたトラウマが癒されてくると、「引っ搔こうとしていたんじゃなくて、私に触れたかったのかな」と、うまく見られるようになる。そうやって赤ちゃんを抱っこできるようになると、「赤ちゃんってあったかいんだ」と感じられるようになって、赤ちゃんを抱きながらストンと寝てしまうことがあるのだそうです。そうすると、そのトラウマ・セラピストは「ああ、よかった」とホッとする。赤ちゃんを抱っこして眠れるほどにお母さんの安心感が回復してくると、赤ちゃんも幸せになれる、といったことが書かれていました。

 現場でもそういったことをよく目にしますし、「抱っこするのは、気持ちいいことなんだ」と気づけることはとても大切ですね。

花丘:そうですね。今のお話では、「安心・安全の合図」を取り違えてしまうということが起きているんですね。トラウマを抱えていると、たとえば相手が「こんにちは」と手をあげただけで、「あっ、ぶたれる!」というふうに取り違えてしまいます。ある方は、身体的な虐待を受けて育ったのですが、私が自分の頭を触ろうとちょっと手を上に動かしただけで、咄嗟に体が反応して、よけようとしてしまう。相手が手を動かしたことを危険の合図と取り違えてしまうのです。こうした取り違いは、ひいては人類の存続にも関わります。赤ちゃんの世話ができないと次の世代を育てることができず、人類が生き残れなくなってしまうわけです。ですから、ウィマラ先生がおっしゃるように「これは安全の合図なのだ」という書き換えが起きれば、状況は大きく変わりますね。

 

◆セラピストの役割

 

ウィマラ:たとえば、赤ちゃんを虐待してしまう母親をセラピストがサポートするとして、赤ちゃんが手を動かした瞬間にお母さんが咄嗟にのけぞってしまったりすると、その場にいるセラピストもドキッとしますよね。そのとき、「お母さん、それは違いますよ」とその場ですぐに伝えるのか、ひと息置いて「お母さん、今どんな感じでしたか?」と問いかけるのか。セラピストがどのように対応するかという選択肢を広げるためには、セラピスト自身が緊張した瞬間にいかにリラックスできるかどうかが大切で、そこにマインドフルネスが役に立つポイントがあるのではないかと思っています。そういった、緊張が一瞬にして高まるような場面で、セラピストはどうやって自身を落ち着かせるのでしょうか。ソマティック・エクスペリエンシング(SE)では、セラピストを育成する際、どのようにトレーニングされるのでしょうか。

花丘:ピーター・ラヴィーン博士が編み出した方法では、まずセラピスト自身がトラウマを解放するところから始めます。それを3年間かけて行います。

ウィマラ:ああ、やっぱりそうなんですか。

花丘:はい。「週末2、3日の集中講義でできるのでは?」とも思われがちですが、それでは不十分です。メカニズムについては集中して学べば1週間程度で頭に入るかもしれませんが、自分がどのように感じるかを体験学習として練習を重ねていくのです。

ウィマラ:なるほど。

花丘:それをこなさなければSEプラクティショナー(SEP)の資格は取れません。授業での訓練だけではなく、個人でもSEPのもとに通い、自身のトラウマを解放し、規定の時間数をこなす必要があります。3年間かけて、自身の神経系が落ち着いた状態になってから、やっとセラピーの実践ができるのです。

ウィマラ:3年間を自分自身のトラウマ解放にあてる。心理療法でいう教育分析に当たるようなものでしょうか。

花丘:位置付けとしてはそうですね。心理に興味のある方は過去につらい体験をされている方が多いです。本当に幸せな人生を送ってきた方は少数で、「大変な時期もあったけれど克服した」という方が多いので、やはりそういった内的なワークがとても大事です。

 

「わかっちゃいるけどやめられない」

 

ウィマラ:今のお話を聞いて思い出したことがあります。僕は、マインドフルネスを教える中で、こんなふうに話すことがあります。「わかっちゃいるけどやめられない」状態に陥ることがありますよね。それは非常につらい状態ではありますが、その「わかっちゃいるけどやめられない」状態をしばらく繰り返しながら、それをマインドフルに深く体験していくと、「『もう十分わかったから、やりたいとは思えなくなる』状態に少しずつ移行していくよ」、と。悟りや解脱があるとすれば、それは「わかっちゃいるけどやめられない」状態を、十分に、マインドフルに体験し尽くして、「十分にわかったから、もういい」と思える状態になる、あるいは必要に応じて自由にやれる状態に至るということです。「わかっちゃいるけどやめられない状態」から、「わかったからもういいと思える状態」と表現していますが、こういう状態についてSEで何か共通するところはありますか?

花丘:「わかっちゃいるけどやめられない」というのを、ピーターは脳の皮質下領域の反応だと考えています。スキーやスケートをしたり、自転車に乗るといった、体で覚える神経系に、「わかっちゃいるけどやめられない」が記憶されているんです。自転車の乗り方を忘れようとしても、忘れられないですよね。それと同じです。一度記憶されてしまうと、ゆっくりと配線を変えていくプロセスが必要になるのだと思います。

ウィマラ:なるほど。僕は子どもを持つのが遅かったんですが、小学5年生の娘が学校でスキー教室に行くことになり、「スキー教室までに上手になりたい」と言うので、3回ぐらい練習に連れていきました。最初は転ぶ練習から始めて、ハの字で「右、左、右、左……」と繰り返し曲がる練習をして、パラレルターンができるようになるまで教えましたが、その過程でわかったのは、右や左に体重をかけるときの足の裏の感覚って、緊張していると感じられないということです。雪の斜面の状態が感じられない。だから、足の裏をリラックスさせて、右に体重をかける、左に体重をかける、というのをひとつずつゆっくり確かめていくのが大切だと。「人に教えると、こういったことに気づけるのがありがたい」と思いながらやっていました。そのときに思ったのですが、「右、左、右、左…」という動きは、身体の両側性に通じますよね。

花丘:そうですね。スキーに魅せられる人が多いのも、両側刺激やリズム感に惹かれるからかもしれません。先ほどの脳幹の話にも通じますが、リズムとか呼吸にも同じようなところがあります。ピーターはこれを「ペンデュレーション」と呼んでいます。行ったり来たりのリズムが神経系を調整して、それがトラウマの解放にもつながっていくのです。さらに進んでいくと、解脱とか、そういった方向にも進むかもしれませんね。

ウィマラ:解脱に至るには、「『私』をなくす悲しみ」を通過することが必要になります。「『私』というのは幻想だったんだ」と気づいて、それを手放すことで自由に「私」を使いこなせるようになるのです。最近では、それをグリーフ理論に絡めて、「『私』を失う予期悲嘆を意識的に体験すること」だと言っています。一度「『私』を失う」ことを体験することは、死を受容する準備にもなります。解脱するということは、一度古い「私」が死んで、新しい柔軟な「私」を生きられるように、生まれ変わるようなものだと思います。トラウマからの解放にも、そういう「生まれ変わり、あるいは生き直し」に近いところがあるのではないでしょうか。

花丘:たしかにそうですね。トラウマを受けると、残念ながら元のまっさらな状態には戻らないですから。でも、傷は残ったとしても機能できる、という新しい境地に達するのです。

ウィマラ:それがPTG(心的外傷後成長)でも言われるような、豊かさや厚みの部分になるんですね。

花丘:そうですね。トラウマなんてないほうがいいけれど、そこから次の段階に進むと、それがとても大きな恵みになることもあるとピーターも言っています。

 

◆喪失とトラウマ――言葉のトラウマ性

 

ウィマラ:トラウマなんてないほうがいいと思いますけど、僕も瞑想を通してしみじみと思ったことがいくつかあります。学問的には、言語による文節化作用といいますが、言葉を覚えて、意味がわかると、スッキリする部分もあるけれど、その反面、言葉の意味によって切り落されてしまう部分もあります。言葉によって「わかったつもり」になってしまうけれど、実は命の全体性としてはもっといろいろなものを感じていたはずなのに、感じていたことの80%ぐらいが切り落されて、残りの20%ぐらいが意味として置き換えられてしまっているように感じます。おそらく人類は、言葉を獲得した時点で、命の全体性から切り離されるというトラウマを負ったのではないか。言葉のもつ「トラウマ性」というものがあるような気がします。

花丘:なるほど。そして、それがさらに狭まったのが科学の世界で、科学で証明できないものは存在しないかのように捉えられてしまっている。言葉で狭められ、科学でも狭められるという、そういった喪失を私たちは体験しているのかもしれませんね。

ウィマラ:その喪失した部分、切り落とした部分に再び出会い直すのが、死が近づいた終末期の場面、そして、出産・子育ての場面だと思うのです。出産や子育ては、それ自体が死と隣り合わせの経験でもあります。人類は、そうやってそこを乗り越えて進化してきた。そもそも進化というのは、いつも死と隣り合わせであったわけですけども、それをもう一度思い出させたり体験させたりしてくれるのが、死や看取り、そして出産や子育てではないかという気がしてなりません。

花丘:表面的に生きていくこともできるけれど、やはりどこかで向き合うことが必要であり、向き合わされるのかもしれないですね。

ウィマラ:出産経験のあるお母さんたちの話では、陣痛は大変だけれど、ある瞬間に痛みの波に乗ることができるようになるとか、痛みが痛みでなくなると話されていた人もいました。痛みがスピリチュアルなもの、神や霊的なもの、全体性とつながるような体験になるといったことを話してくださった方々もいました。ジェンダーの問題もありますが、これはやはり女性にしか体験できないものかもしれないですね。

 

◆天からのメッセージを受け取る

 

花丘:私も一人ですが、出産を経験しました。赤ちゃんを産んだとき、不思議な体験をしました。出産を終えて静かに横になっていると、次から次へと、「ああ、そういうことだったのか」という深い気づきが押し寄せてきました。変な話ですが、その瞬間に突然悟りのようなものが降りてきたように感じました。そして、いろいろなことが明らかになった後に、最後に、強烈なイメージが出てきました。「悪いことをしようと思って生まれてくる人は一人もいない」と感じたのです。

ウィマラ:それはすごいですね。

花丘:すごく涙が出て、「これは忘れてはいけないことだな」と感じました。この体験は私の中で根幹をなすものになっていると思います。たとえば、犯罪に手を染めてしまった方は、人類の負の遺産の中で、そういう方向に入ってしまったのだろうなと理解しています。私自身は犯罪などに関わらずにすんだので、とてもラッキーでしたが、そうではない方々もいます。なので、このことは自分の土台にもなっていますし、とても感謝している体験でもあります。

ウィマラ:それは言葉が聞こえるような体験だったんですか? 出産直後ですか?

花丘:出産直後です。説明が難しいですが、いろいろなことが波のように一気に押し寄せてきて、「ああ、そういうことだったのか、わかった」と理解していく過程で、「悪いことをしようと思って生まれてくる人なんていない」と感じたのです。声が聞こえたというより、内側から湧いてきたような感覚ですね。「ああ、そうか」と腑に落ちた感じでした。

ウィマラ:それは、「テレサ」になられたあとの体験ですか?

花丘:はい、テレサになったあとのことです。私のアメリカンネームはTheresaで、親しい方からはテレサと呼ばれているのですが、実は、テレサの名前を使い始めた理由の1つにこの体験が関わっています。私自身、すさまじい逆境体験を受けて育ちまして、精神的な虐待もひどいものでしたが、23歳頃に子宮筋腫になってしまったのです。これは、それまでの成育歴の中のトラウマ的なストレスによって引き起こされたと思っています。まだ結婚もしておらず、まだ若くてこれからというときに子宮を摘出しなければならないと診断され、とてもショックを受けました。でも、そのときすでにクリスチャンとしての土壌があったので、「もし、子どもを持つことができなくても、人の役に立つことはできる。マザー・テレサのように生きていこう、そういうふうに導かれているのかもしれない」と思いました。そこで、アメリカンネームとしてテレサの名前を使い始めました。そして奇跡的に、4時間をこえる大手術で筋腫を摘出することができ、子宮が残ったおかげで、のちに出産することができました。そうした自分の生と死や、子どもを持てるかどうかといった命の瀬戸際に立たされた体験も、天啓を得たことに影響したのかもしれません。余談ですが、マザー・テレサは、リジュ―の聖テレーズという聖女を守護の聖人と仰いでいます。私も、後に洗礼を受けたときに同じ聖テレーズを守護の聖人として仰ぎ、「テレサ」という洗礼名を受けました。

 この手術の後、さらに感動した体験があります。私の手術を担当された医師からは、請求書が送られてきませんでした。アメリカの医療費は高額なのですが、医師は請求してこなかったんですね。もしかしたら、日本から来た若い女性が、異国で大病を患って手術までして、かわいそうにと思ってくれたのかもしれません。私はその医師が誰かはいまだにわからないのです。私の主治医のスーパーバイザーだということしか聞いていません。何十年もたって、人生がひと段落して、あらためて当時のことを思い、あとからお礼をしたくても、誰だかわからないのです。ですから、この方にお礼をすることができないので、社会に貢献することで感謝の思いを示していこうと思っています。病気になったことは絶望でしたが、このような人のあたたかさに触れることができたことで、私の人生観も、若い時に大きな影響を受けたと思います。

ウィマラ:とても貴重なお話を、ありがとうございました。僕もカナダにいたとき、友人になったカトリックの神父さんに案内していただいて、モントリオールのオカというところにあるシトー会のトラピスト修道院で瞑想をさせてもらったときに、マリアからメッセージのようなものを受け取ったことがあります。

 こうして説明しようとすると「言葉で来た」感じですが、花丘先生がおっしゃったのと似ていて、内側から湧いてきたような不思議な体験でした。そういうことってあるものですね。

 「悪いことをするために生まれてきた人はいない」というメッセージを自分に当てはめて考えてみると、私たちはどうしても自分や他人を責めてしまいがちです。そういった、自他を責めて苦しむことからの解放を示唆するメッセージでもあったのでしょうか。

花丘:今考えてみるとそうですね。というより私の現在の活動も、そのメッセージに導かれているとも言えますが、要するに生まれながらにして悪人がいるわけではなく、ミアズマではないですが、人類の負の遺産の中に私たちは生まれてきて、それに抗えずによくない方向に行ってしまうという背景があるのではと思います。甘やかしすぎるのもよくないですが、自分の弱さを理解することが大事だということなのかもしれません。

ウィマラ:僕がそのときに受け取ったメッセージは「人は神の光に照らされたいと願うが、光に照らされると自分の影を見て恐れおののき、お互いの影を指差して争い始める」というものでした。そして「あなたには新しい世代の子どもを育ててほしい」と言われて、当時は独身のお坊さんだったので「まさか」と思いましたが、メッセージが来たからには仕方ないと(笑)。「新しい世代の子どもたちは、神の光に照らされたときに自分の影を見て、それを自分を理解するために使いこなす。相手の影も相手を理解するために使いこなす。お互いの影を見て、それを指さして争い合うようなことはない。そういう新しい世代を育てるために、私はあなたにこの子を授けます」といったメッセージでした。

 結局僧侶を辞め、今は子どもを二人育てていますが、お互い自分の影を見たり、子どもから自分の影を指されるとカーッと頭に血がのぼったりしてしまいます。社会交流システムを働かせてお互いに笑顔で楽しく過ごせればとは願いますが、「喧嘩しても大丈夫」というメッセージも必要なのではと思います。そこについてどう思われますか?

花丘:本当にそうですね。絆にほころびができても、それをきちんと修復できることが大事ですね。私たちの人間関係の絆は、常に変化しています。海の潮の満ち干のように、あるいは、私たちの呼吸のように、深まったり、弱まったり、時には、一時分断してしまったように感じるときもあるでしょう。たとえば、私は幼稚園の頃からの友人がいますが、中学を卒業するまでは毎日のように顔を合わせていましたし、それがあたりまえでした。高校で別々の道に進むと、それ以降、大学進学、就職、結婚と、お互いにそれぞれのタイミングで忙しく、思い出すこともまれなほどで、年賀状だけのつながりでした。そして、還暦を過ぎて仕事や家庭が一段落したので、また連絡を取り合い、先日恩師の墓参に行ってきました。再会しても何も変わっておらず、お互いに昨日まで一緒にいたかのように感じました。このように、絆というのは不思議なもので、何かずっと目に見えないものでつながっているように感じます。さらには、「喧嘩をしても大丈夫」と思えたら、ある意味、本物の家族になるような気がします。「ごめんね」が通じる間柄というのは、本当に安心できますね。

 

◆親密性、継続性、互恵性

 

ウィマラ:僕は大学でスピリチュアルケアの理論構築をしてきましたが、未開の領域で、ほとんど理論がなかった中で、ボウルビィの愛着理論が役に立ちました。ボウルビィは、愛着が育つためには「親密性」「継続性」「互恵性」が必要だと言っています。親密性というのは、ただ「好き」というだけではなく、喧嘩しても仲直りできるから大丈夫というのが本当の親密性(インティマシー)だということです。継続性とは、泣いた状態が笑顔になるまで世話や交流を続けること。互恵性とは、喧嘩したり仲直りしたりを繰り返しながら、相手のためにすることは自分のためにもなるからお互い様だと認識することです。親密性、継続性、互恵性の中で、喧嘩しても仲直りできるから大丈夫だということを強調してもしすぎることはないと思います。さもないと、喧嘩してはいけない症候群に陥ってしまいますからね。

花丘:今、特に若い人たちの間では、お互いの顔色を見ながら過ごすような、ある意味で非常に恐ろしい関係性があるとよく聞きます。「喧嘩するほど仲がいい」とはなかなかいかないようですね。

ウィマラ:喧嘩の仕方も大切だし、仲直りの仕方も大切です。そういう意味で、スクリーン世代やネット世代の人たちに、親密性(インティマシー)を理解してもらう難しさはあるのかもしれませんね。

花丘:何かの本で読んだのですが、哺乳類には基本的に死ぬまでは戦わないというルールがあるそうです。どちらかがお腹を見せて負けを認めれば相手はそれ以上攻撃しない、と。死ぬまでやり合ってしまうのは人間だけという指摘に、なるほどと思いました。どうして人間だけがそうなってしまったのかは不思議ですが、そこが良い方向に向かっていくようにしたいなとは思いますね。

ウィマラ:殺すまで戦うということでは、宿主を滅ぼすまで増殖してしまう「がん」と同じような部分を人間が持っているということかもしれませんね。子どもを育てていく中で思うのは、地球環境の変化や災害を含めて、僕たち人間が地球上で「がん」になりつつあるわけですから、これをどうやって乗り越えていくか、僕たちの知恵が試される時代ですね。

花丘:先日渡米した際にピーター・ラヴィーン博士と話す機会がありましたが、アメリカでは、アメリカンドリームとかサクセスドリームと言って、「物がたくさんあればいい」「お金がたくさんあればいい」という考え方が根強いのですが、その根幹には「死の否定」がある、とラヴィーン博士は話されていました。そして、死を否定するために宿主まで滅ぼさんばかりのことをやっているので、やはりここで私たちがどのような原点に立ち返るべきかが問われていますね。

ウィマラ:ラヴィーン先生がおっしゃったこととほぼ同じことを、僕はキューブラー・ロスから学んだ気がします。『死ぬ瞬間』という本の冒頭で、アメリカ社会の発展についてそのように書かれていました。終末期の患者さんの横に落ち着いて座るためには、自分自身の「死」への不安をしっかりと自覚しておくことがとても大切だ。だからこそ、神の愛、絶対的な愛に出会うために、自分自身の怒りや感情に向き合う必要があると。それで枕をたたいたり、電話帳を破ったりというちょっと極端なワークショップもしていたようですが、そこまでやらなくてもいいのですが、怒りとはどういうものなのかを身体で感じる体験は大切です。

 

◆タイトレーションと気づきの作法

 

ウィマラ:ただ、怒りも含めて身体感覚としていろいろなものを感じるのは、ある意味トラウマに近い体験にもなってしまう可能性があります。最近のマインドフルネス研究で、マインドフルネスの「有害事象」が報告されています。その多くは、イメージではなく実感としての身体感覚に触れてしまうと、それまで蓋をしていたトラウマ記憶がバッと噴き出してしまうため、強い不安につながってしまい、それが有害事象・副作用として語られることがあるのです。でも、それを乗り越えなければ、トラウマ治療は進められません。SEPのトレーニングでも3年を費やすとおっしゃってましたけども、マインドフルネスでもその3年間に相当する、「わかっちゃいるけどやめられない状態」を克服するための、乗り越えていくための時間が必要だと感じます。

花丘:そうですね、不用意に刺激して一気に噴き出してしまうと危険です。SEでは、働きかけ方のハンドリングもしっかり学んでいきます。1滴ずつ、少しずつという意味の「タイトレーション」という言葉がありますが、扱える範囲で、ひと口サイズで対応していく形をとります。

ウィマラ:「タイトレーション」、少しずつ、ひと口サイズということですね。そのことを僕は「気づきの作法」という形で話しています。瞑想中に呼吸を見つめようとしても、雑念が出てきますよね。瞑想中だけではなく、料理をしていても洗濯物をたたんでいても何をしていても、「あれ、野球、どっちが勝ったかな?」などの雑念が出てくる。その雑念にいかに関わるか。雑念を無視したり抑えつけるのではなく、「あ、こんな心配していたんだ」とか「ウキウキしていたんだ」と、何かをしているときに出てくる雑念に一つひとつ丁寧に向き合っていく。それがマインドフルネスの中で、小さな暴露療法や小さなEMDR(両側性を活かした記憶の再統合)を繰り返していくことになるのです。それは「タイトレーション」といえるかもしれない。呼吸観察を中心にしてやっているときに、メインオブジェクト以外のところに心がそれたら、どういうふうにそれにアテンドするか(注意を向けるか・仕えるか)ということと対応しているのではないかなと思いました。

花丘:なるほど。ポリヴェーガルでは人間の神経系を扱っているので異なるアプローチから来ているとはいえ、扱っていることは同じで、共通していることが多いと感じました。

 

◆手放すこと、完了させること

 

ウィマラ:花丘先生のほうから何か僕の話についてほかに気になることや質問などありますか?

花丘:今日は学ばせていただこうと思ってまいりましたので、質問ではありませんが、人間のお腹の中で進化を繰り返しているという解剖学の三木先生のお話(第4回参照)はとても神秘的でした。生まれるということ、そしてウィマラ先生が扱っていらっしゃる「自分の死はつねにあるものとして受け入れていく」というあり方には非常に感銘を受けました。

ウィマラ:マインドフルネスの研究を進めていく中で、経典の読み方について考えたこと、学んだことがあります。その中で、たとえば、「再生しない手放し方」という教えがあります。『念処経(Satipaṭṭhāna-sutta)』という経典の中に、怒りをどう見つめるかに関するブッダの教えが示されていて、「どのようにすれば手放された怒りが蘇ることがないのかをありのままに知る」と書かれています。どのようにして手放せば、蘇らないのか。逆にいえば、私たちは「そうではない(無視したり抑圧したりする)やり方で怒りを手放そうとしていると、繰り返し再生して戻ってきてしまう」というふうに読まなければいけないと気づきました。

花丘:なるほど。それは、私たちがSEでやっている「未完了の自己防衛反応を完了させる」というプロセスにも近いものがあるのかなと思いました。つまり、完了していれば良いわけですよね。

ウィマラ:そうです。思い出として整理されて、どこかにその思い出の居場所ができる。いわば「お墓」ができるということです。でもそのお墓がないと、ずっと「ここにいるよ」と幽霊のようになってサインを送り続けてくるのかなと思います。

花丘:生物学的にも、本能的なレベルでも、「満足」と感じることができれば、それがひとつの終わりになるのかもしれません。

ウィマラ:だから「完了」というのがとても大切ですね。たとえばゲシュタルト心理学でも、「体験のサイクル」というものがあります。仏教瞑想でも、呼吸の「最初、真ん中、終わり」の3つの部分に分けて、呼吸を一つひとつ観察して、「なぜ吸い始めるのか?」という問いから、どこまで吸い、どこまで吐くのか、というふうに始まりと終わりを見ていきます。体験をどう受け入れるか。おそらくパールズ(1893-1970、ゲシュタルト療法の創始者)は、頭で理解しようとして身体で感じることを拒否すると別の形でそれが戻ってくることに気づき、ゲシュタルトの「体験のサイクル」という概念を考えたのではないかと思いますが、ラヴィーン先生はそういうところからも影響を受けているのでしょうか。

花丘:受けていると思います。ゲシュタルト心理学はピーターも大いに学んでいるので。

ウィマラ:やっぱりそうですか。

花丘:ええ、そうなんです。完了について、ピーターは「脅威の反応サイクル」とも言っています。何か大きな音がしたり、脅威的なことが起きたとき、生物学的にいうと「防衛定位反応」が起きます。音のしたほうや何かが起こった方向に目を向けて「戦うか逃げるか」を決め、戦うかあるいは逃げおおせるかしてその状況を乗り越えることができれば、サイクルは完了し、満足感が得られます。もしこのとき、戦えなかったり逃げおおせられなかったりして凍りついてしまうと、サイクルは完了しません。通常ならば、戦うか逃げるかしたあとで社会交流に戻って、「大丈夫だった、良かったね」となることで、びっくりしたり脅威を感じた体験が完了しますが、社会交流まで行くことができないと未完了のものを抱えることになってしまい、それが怒りとして出てくることもあります。ですから、反応サイクルを完了させ、社会交流の中で「自分は大丈夫だ、過去のことは過去のことになったのだ」と感じられるようになることが大切です。そうすれば、赤ちゃんを抱いているときに憎らしく思ってしまうような反応もなくなっていくということです。

ウィマラ:社会交流というのは、必ず言葉で語ることが求められるんですか?

花丘:言葉だけではなく非言語による交流も大切です。ピーターもセッションのなかで、タッチをすることがあります。心理療法では、クライアントへの身体接触を厳しく禁止している場合があります。いっぽう、ピーターは、ソマティックなアプローチの中で、「許可を得た安全なタッチ」を用いて、神経系に働きかけます。クライアントが、辛いことを思い出したり、不安を感じたりしているように見えたときは、クライアントの足の隣に、自分の足をそっと添えたり、クライアントの足の上にそっと自分の足を載せたりして、「ここにいるよ」「一人ではないよ」ということを非言語的に伝えることがあります。あるいは、クライアントの肩に手を載せたり、背中にそっとタッチしたり、様々なタッチをします。こうすることで、神経系が安心安全を感じることをサポートします。あるいは「プレゼンス」、つまり存在だけでも交流になることもあると思います。

ウィマラ:「プレゼンス」という言葉は、キリスト教の文脈で「神の臨在」という意味で使われることもありますが、神の存在、大いなる者の存在といったニュアンスも含まれているのですか?

花丘:ピーターはそういったものに対しても畏敬の念を強く持っておられると思います。さらにファースト・ネーションなのでネイティブアメリカンの儀式にも深い興味を持っていますね。私たちがかつて持っていて失ってしまった感性、そういうものをとても大切にされています。彼自身はユダヤ人でユダヤ教徒ですが、彼のアプローチは西洋社会の宗教コンセプトに根ざしているというよりは、ネイティブアメリカンのスウェットロッジのような儀式に影響を受けているかと思います。

ウィマラ:なるほど、そうでしたか。

 

◆感情状態に共通する興奮と刺激のエネルギー

 

ウィマラ:ふと思ったのが、恐怖に関するところで、恐怖の中にある興奮性とか刺激性という話がありました。安心感のエネルギーをもたらす喜び、歓喜――瞑想していると、喜びがワーッと湧き出すような体験がありますが――この喜びの中にも興奮性と刺激性があって、その興奮性と刺激性が落ちていくと、リラックス状態、安らぎに入ります。このリラックスは非常に静かで安らかで温かい状態なので、これを「悟り」と勘違いしてしまう人も多いのですが、とにかく興奮と刺激が収まることが非常に大切です。僕は、喜びから興奮と刺激が落ちることをしっかり学んでいくと、恐怖にも対峙しやすくなるのではないかと思うのです。恐怖の中にあるアジテーション、興奮性と刺激性は、喜びのエネルギーと似た性質のものなので、それらがスーッと自然に引くまで、呼吸を意識的しながら見守っていられるようになると、興奮したエネルギーを落ち着けることができるようになる。喜びに強くなるということは、恐怖に強くなることの支えになるのではないかと思いましたが。

花丘:おっしゃる通りだと思います。神経系には、興奮したり落ち着いたりといった状態に耐えられる範囲を示す耐性領域があり、その範囲が狭いと、ほんの些細なことでオーバーフローしてしまうのです。トラウマを受けた方は、楽しいときにも失神してしまうことがあります。たとえばカラオケを歌っているときに倒れてしまったり、「楽しいはずなのにどうして凍りついてしまうんだろう」と戸惑うような体験です。つまり、興奮に耐えられないのです。運動している最中にジムで倒れてしまう人もいます。ドキドキしていたり、大きな声を出していたり、汗が出たりしている状態というのは、トラウマ時の反応と同じなので、体が合図を受け間違えてしまい、危険だと判断してしまうんです。そうすると、喜びにも耐えられなくなってしまう。ですから先生がおっしゃるように、喜びを「わーっ」と感じて、その後にふっと落ち着いていくという過程に耐えられる神経系を作るのはとても大事なことです。そういう形で神経系を堅牢にしていくことができるのはとても望ましいですね。

ウィマラ:被災地で手作りのおもちゃで遊ぶときに、ストローでフーッと息を吐いてピンポン玉を浮かせる遊びがありますよね。あと、「ワーッ」と大きな声を出すこともそうですが、この「吹く」「息を吐く」という行為を遊びに取り入れることで、トラウマを負った子どもたちに良い効果があるという話を聞いたことがありますが、そういう要素も関係があるのでしょうか。

花丘:そうだと思います。ピーターが「ヴーサウンド(voo sound)」と呼んでいる、「ヴーーーー」とお経のように長く息を吐くことで、神経系が調整されると考えています。吐く息を長くするとそれが心拍とも連動し、気持ちも落ち着いていくのです。息を吐く動作は、腹側迷走神経を刺激し、トラウマ解放にも非常に有効だと思います。

ウィマラ:ちょうど避難所の話も出たので、次回は、マインドフルネスやポリヴェーガル理論、そしてSE(ソマティック・エクスペリエンシング)を災害支援にどう結びつけていくかという話をさせていただきたいと思います。その後、花丘先生にもお話しいただければと思います。

 

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著者略歴

  1. 井上ウィマラ

    1959年山梨県生まれ。京都大学文学部哲学科宗教哲学専攻中退。日本の曹洞宗で只管打坐と正法眼蔵を学び、ビルマの上座部仏教でヴィパッサナー瞑想、経典とその解釈学ならびにアビダンマ仏教心理学を学ぶ。カナダ・イギリス・アメリカで瞑想指導のかたわら心理療法を学ぶ。バリー仏教研究所客員研究員を終えて還俗。マサチューセッツ大学医学部のマインドフルネスセンターでMBSRのインターンシップを研修後に帰国。高野山大学でスピリチュアルケアの基礎理論と援助法の構築に取り組む。現在はマインドフルライフ研究所オフィス・らくだ主宰。著書に『子育てから看取りまでの臨床スピリチュアルケア』(興山舎)、『楽しく生きる、豊かに終える』(春秋社)、『呼吸による気づきの教え』(佼成出版社)、共著に『トラウマとマインドフルネス』(北大路書房)、『私たちはまだマインドフルネスに出会っていない』(日本評論社)、『瞑想脳を拓く』(佼成出版社)、『スピリチュアルケアへのガイド』(青海社)などがある。

  2. 花丘ちぐさ

    ポリヴェーガル・インスティテュート・インターナショナル・パートナー
    ソマティック・エクスペリエンシングⓇ・ファカルティ
    IFS 内的家族システム認定セラピスト
    桜美林大学非常勤講師
    早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、米国ミシガン州立大学大学院人類学専攻修士課程修了、桜美林大学大学院国際人文社会科学専攻博士課程修了。博士(学術)。公認心理師。社団法人日本健康心理学会公認指導健康心理士。A 級英語同時通訳者。
    著書に『その生きづらさ、発達性トラウマ?』、訳書にS・W・ポージェス『ポリヴェーガル理論入門』、P・A・ラヴィーン『ソマティック・エクスペリエンシング入門』(以上、春秋社)、他多数。
    国際メンタルフィットネス研究所 代表 http://i-mental-ftness.co.jp/
    ポリヴェーガル・インスティテュート・ジャパン 代表 https://polyvagalinstitutejapan.jimdofree.com/

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