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ジュウシマツ 『鳥を読む』追章 細川博昭

神話や伝承、文学や芸術に描かれてきた鳥たち。ハト、スズメ、カラス、インコ…鳥をめぐる歴史や文化が明らかにする人間との深い絆。
ここでは細川博昭著『鳥を読む 文化鳥類学のススメ』から断腸の思いで割愛した、"幻の章"を公開します。 

 


追章 ジュウシマツ

 

1 野生には存在しない鳥

 

◆つくられた飼い鳥

 

 日本人によく知られた鳥、ジュウシマツ。
 昭和生まれ、昭和育ちの人間にとっては、とりわけポピュラーな飼い鳥といえる。
 だが、「ジュウシマツ」という鳥は野生には存在しない。野鳥の図鑑を眺めても、その姿を見つけることはできない。なぜならジュウシマツは、人の手で作出された品種だからだ。

  ジュウシマツの原種は、中国南部から東南アジアにかけて分布するカエデチョウ科コシジロキンパラの亜種。庶民層をふくめた大きな「飼い鳥ブーム」が存在した江戸時代、ブンチョウなどとともに日本へと運ばれ、品種改良が行われた鳥の一種である。

 海外産・国内産にかかわらず、野の鳥の多くはなかなか人に懐かず、繁殖が困難なものも多い。だが、ジュウシマツの原種は例外だった。あまり人を恐れず、小さな籠にもすぐになじんだ。(つがい)でも親子でもない複数の鳥がひとつの巣壺で休むことが可能なコシジロキンパラは、温和で柔軟な鳥であり、人間に対する警戒心も長くは続かなかった。
 渡来早々、それが判明した。

 

 ジュウシマツ(写真提供:ぶんたのもぎたて生穂)

 

◆原種の名称は、白腰文鳥

 

  コシジロキンパラの中国名は白腰文鳥。中国に生息する動物を解説する図鑑『中国動物志』には、「禾谷、十姐妹、白腰算命鳥、白背文鳥、尖尾文鳥」など、多くの異名が紹介されている。また、その生態については、以下のように綴られていた。(訳は、筆者による)

 

  白腰文鳥は、ふだんは集団をつくり、十羽ほどの群れで生活しているが、ときに数百羽を超える大きな群れになることもある。また、しばしば、シマキンパラ(アミハラ)、スズメ、ニュウナイスズメ、ホオジロ科の鳥と混合群をつくる。通常はそうした群れの生活を行っているが、繁殖期は番での子育てが見られる。冬季はひとつの(ねぐら)に十羽ほどの鳥が同居することがあり、そこから『十姐妹(十姉妹)』と呼ばれる。(中略)人を恐れない性質で、よく馴れる。

 

 この解説ほかから、「性格が穏やかで、ひとつの巣の中に雌雄が混在したまま十羽ほどが集まっても仲良くできる鳥のことを、中国では以前から『十姐妹(十姉妹)』と呼んでいた」と読み取ることができる。
 だとすると、もともと中国語でいう「十姉妹」は、ある特定の鳥の名称ではなく、冬場などに喧嘩することなく集団で過ごすことができる鳥の総称であったとも理解できる。

  コシジロキンパラが日本に渡来した際、その名称として「十姉妹」の名が「ダンドク」という鳥名とともに輸入記録や図譜などに記されることが多かった。
 「十姉妹」は、おもに白腰文鳥に対して使われた名称だったのかもしれないが、本来は穏やかに群れる鳥の総称だとしたら、直接的に白腰文鳥を意味したわけではない可能性もある。

  後の研究から、江戸時代の文献に見られる十姉妹が、今の「ジュウシマツ」とつながりをもつことは事実である。しかし十姉妹が、現在のジュウシマツと完全におなじというわけではない。
 江戸時代の文献にある「十姉妹」は、品種改良前のある鳥の名称として記されたものであり、現在の「ジュウシマツ」という名は、改良が行われたのちの「品種名」であるからだ。この点は、意識の中で注意して分けておく必要がある。
 また、江戸時代の文献で「十姉妹」と並び記されていた「ダンドク」という鳥も、ジュウシマツの祖先と考えられていることは重要である。現在のジュウシマツとの関係は、十姉妹と記された鳥よりも後者、ダンドクのほうが濃いという指摘もある。

 

◆温和で柔軟で、仮親の役目も果たした

 

  ほかの鳥種に比べてえり好みが少ないコシジロキンパラは、番にするのも難しくはなかった。おなじ籠にオスとメスを入れ、巣となる壷巣を内に設置するだけで容易に雛を孵した。
 それどころか、抱卵放棄された異種の鳥の卵も自身の卵と区別することなく抱き、雛を孵す例が見られた。さらに、自身の子と同じように子育てもした。つまり、おなじカエデチョウ科のブンチョウやキンカチョウなどの「仮親」という役割が果たせることも、早々にわかったのである。
 こうした性質により、昭和の時代にはジュウシマツを仮親として抱卵させることが盛んに行われた。ある意味において、便利に利用された鳥だったともいえる。

 ジュウシマツの原種は人間との暮らしに馴染むのも早く、一般の家庭でも容易に飼育、繁殖ができた。子孫のジュウシマツにも、その性質が受け継がれたことはいうまでもない。
 1970年代を中心に起こった「昭和の飼い鳥ブーム」でも、ジュウシマツは主役の一角を担った。飼育の容易さが喧伝されたこともあって、鳥にあまり関心をもたない層をふくめて、多くの家庭で飼われていた事実がある。
 ほどなく、昭和の飼い鳥ブームは終焉を迎えたが、20世紀の末にはジュウシマツのさえずりに「文法」があることが発見され、あらためて大きなニュースとなった。

 

◆コシジロキンパラの馴化

 

 江戸時代の鳥の飼育者によって現在のジュウシマツが誕生したことは事実である。だが、今のジュウシマツのような鳥になることを目指して改良が行われたわけではない。
 とくにさえずりについては、結果として、現在のようになった部分が大きかった。

 今も昔も、野生のコシジロキンパラのさえずりはみな単調で、とくに優れた声をもつ個体は存在しなかった。つまり、声の優れたウグイスのような「手本」は、彼らの集団の中には存在しなかった。そうしたこともあって、人を怖がることなく、日本の家でも自然に暮らせる鳥にすることが、江戸時代におけるジュウシマツ原種の馴化の目的となっていた。

 ジュウシマツは現在、原種に比べて複雑な声でさえずっているが、その事実が研究者に強く認識されたのも比較的最近のこと。原種と並べてみたら、歌が変っていたことをあらためて認識させられた、というのが真実である。歌が変化した理由が科学的に説明されたのも最近である。

 安全安心な環境でメスに対して歌い続けたこと、同様に不自由のない安心な環境でメスはじっくりオスの声を聞いて複雑な歌がうたえるオスを選び続けたことが、結果としてジュウシマツのさえずりを向上させたというのが、ジュウシマツの歌の変化の真相だったようだ。
 ジュウシマツの歌が複雑になったのは、この二百年間、日本人と過ごした結果であって、さえずりの向上を目指した改良が行われたためではなかったのである。

  一方、変わった色や柄の個体が意図的に増やされたのは事実である。
 こうした改良は江戸時代の初期以降、盛んに行われてきた。特徴的な色柄の鳥は、「並」と呼ばれた平均的な姿の個体よりも高く売ることができたためである。シロブンチョウのように全身が白いジュウシマツの作出も、意図的に行われたものである。

 ジュウシマツ(写真提供:ぶんたのもぎたて生穂)

 

2 ジュウシマツの原種

 

◆ジュウシマツの祖先はコシジロキンパラのみ

 

 江戸時代の文献には、「ダンドク」と呼ばれた鳥からジュウシマツがつくられたと書かれていた。文献に記されたダンドクが、スズメ目カエデチョウ科のコシジロキンパラのひとつの亜種であることは事実である。

 1970年代にも、ジュウシマツがどうやって誕生したのかについての議論があった。
 その作出はダンドク単独ではなく、スイギンチョウ(ギンバシ)やシマキンパラ(アミハラ)などの近縁の種を掛け合わせて生み出されたとする説も存在した。
 しかし、この時代にはまだ、鳥どうしの遺伝子を比較して種の近さを確認できる技術は存在しなかったため、議論はされても結論が出ることはなかった。そうしているあいだに昭和の飼い鳥ブームは鎮静化して、ジュウシマツという鳥の存在も人々の意識から徐々に薄れていった。

  関係についての議論に終止符が打たれたのは、21世紀初頭のことである。
 DNAによる系統解析の結果、コシジロキンパラとジュウシマツのあいだには遺伝子的なちがいはほとんど見られないという報告が日本鳥学会において行われたのである。
 ジュウシマツは、コシジロキンパラとその近縁種を掛け合わせてつくられたのではなく、コシジロキンパラのみがその祖先があることが証明され、DNAレベルにおいて、「ジュウシマツはコシジロキンパラそのもの」であることが示された(「ジュウシマツのルーツをRAPD法、マイクロサテライト法から探る」、岡ノ谷一夫ほか)

 

◆ダンドクと十姉妹の関係

 

  昭和から平成の時代に書かれた鳥の飼育書や、ジュウシマツのことを解説した本でも、江戸時代の史料を倣うように、ダンドク(檀特)はジュウシマツの祖先そのもの、もしくは祖先の一部であると紹介されていた。
 たとえば、1960年に刊行された『小鳥の飼い方』(大淵眞龍)にも、「原種は檀特と銀嘴(ギンバシ)の交配による固定種か、それともその何れかを改良したものとされております」とある。 

 ところが江戸時代の文献をめくると、ダンドクのページには、「ダンドク(檀特)」と「十姉妹」という、よく似た二種の鳥の名が並んでいることに気づく。
 この時代の書物にあった「十姉妹」という名称が、のちの鳥の飼育書に大きな混乱をもたらしたことはいうまでもない。それは、「十姉妹」と明記されているのだから、十姉妹は今のジュウシマツとおなじ鳥であるという、ある意味、短絡的な思考だった。 

 だが、当時の鳥の飼育書・解説書では、ダンドクと十姉妹は別の鳥として、明確に区別されていた。
 左馬介(さまのすけ)の『諸禽万益集』(享保二年/1717年)城西山人(じょうさいさんじん)の『唐鳥秘伝百千鳥』(安永二年/1773年)、薩摩藩の御鳥方だった比野勘六(ひのかんろく)の『飼鳥必要(鳥賞案子)』(享和二年/1802年)佐藤成裕(さとうしげひろ)の総合解説書『飼籠鳥』(文化五年/1808年)、いずれにおいても「十姉妹」と「ダンドク」は別種として解説されていた。
 江戸城の御鷹の餌となった鳥を中心にまとめられた『餌鳥會所記録』においても、ダンドクと十姉妹はそれぞれの名前で記録が残されている。 

 ダンドクと十姉妹を別種としたうえで、両者を交配させるとどんな雛が生まれるか解説した書籍も存在した。たとえば、『飼鳥必要』の十姉妹の解説には次のような文章がある。

「檀どくと十姉妹の掛合にて出来たるは、檀どくの方へ近くといへども、胸の白黒能クわからず、大目にだんどくとは見得候得共、(くわ)しく見れば掛合の府合相わかり申候」

 訳すと、「檀特と十姉妹を掛け合わせてできた子は、檀特に近い色合いになるといわれているが、胸の色の濃淡がどちらに近いのかよく分からない。檀特のように見えるのは確かだが、じっくり観察してみたなら、子は両方の色合いを併せ持っていることがわかる」となる。
 またここから、檀特と十姉妹の交配が難しくなかったことがわかる。

  ジュウシマツとブンチョウを交配させることは以前より行われており、生まれた雛はジュウブンチョウ(十文鳥)と呼ばれた。もちろんこうした試みは江戸時代も行われており、生まれた雛は「ムラサキ雀」と呼ばれたと飼育書『鳥賞案子』の巻末にもメモ的に記されていた。
 体格が近い檀特と十姉妹の交配はジュウシマツとブンチョウを交配されることに比べるとずっと容易だったのだろうと想像できる。 

 なお、壇特と十姉妹、それぞれの特徴を文字ではなく絵図にして比較した図譜もつくられた。伊勢長島藩主にして本草学者の増山正賢(ましやままさかた)(雪斎)の『百鳥図』の第八軸などである。

 『百鳥図』の第八軸には約六〇種類の鳥が描かれており、その中に「ジヤガタラ雀、ダンドク、十四満津」と三種類の鳥が描かれている部分がある。「ジヤガタラ雀」は胸から腹にかけて特徴のある網目模様が見えることからシマキンパラ(アミハラ)であることがわかる。すぐ横に描かれた「十四満津」と名が記された鳥も、檀特とはちがっていたものの、たしかにコシジロキンパラの特徴を示していた。

 『百鳥図』に描かれたコシジロキンパラの二亜種。別種の鳥として、ダンドク、十四満津の名が記されている。(国立国会図書館収蔵)

 

  「ダンドク」は「十四満津」という名で描かれている鳥と比べて、翼および背中の羽毛の色が黒褐色寄りであることがわかる。また、喉から胸にかけての羽毛も黒っぽい。
 描かれている「十四満津」と「ダンドク」は、たしかにちがう鳥に見える。
 胸が黒く腹が白い鳥は、水谷豊文(みずたにほうぶん)の『水谷禽譜』や毛利梅園(もうりばいえん)の『梅園禽譜』にも描かれ、それぞれ「檀特鳥」、「ダンドク」と名前が記されている。これらは明らかに、『百鳥図』のダンドクとおなじ特徴を示している。

 『水谷禽譜』と『梅園禽譜』の中の檀特鳥とダンドク。(国立国会図書館収蔵)

 

3 日本に渡来したコシジロキンパラは二亜種

 

◆渡来した亜種は二種

 

  ダンドク(檀特)がコシジロキンパラの亜種のひとつであり、現在のジュウシマツの祖先であることは事実である。だとしたら、『百鳥図』の「十四満津」とは何者で、「ダンドク」とはどういう関係にあったのだろうか。

  その答えは、冒頭でも紹介した『中国動物志』にある。『中国動物志』の鳥類第十四巻「雀形目:文鳥科 雀科」の白腰文鳥(コシジロキンパラ)のページには、二つの亜種の存在が分布図とともに掲載されていた。二つの亜種名および学名は次のとおり。

 A)華南亜種  Lonchura striata swinhoei
 B)雲南亜種  Lonchura striata subsquamicollis

  「華南亜種」は、中国中部から南部、台湾に分布している。沖縄で見られるのも、この亜種である。「雲南亜種」は中国では最南部の限られた場所にのみ棲息する亜種だ。このうち、雲南亜種の特徴について『中国動物志』の該当部分を日本語訳すると、以下のようになる。

 

 本亜種は上体の羽色が華南亜種に比べて深く濃い。額、頭頂、腮、喉、胸は濃黒褐色で、胸の中央部は純黒色である。頭部側面および耳覆い羽は黒褐色で淡い鳶色の小斑点がある。下背および腰の前段は灰白色で、上尾筒は黒褐色。体の下側(腹側)、胸より下は灰色がかった白で、わずかに黄色味を帯びる。総排泄孔の周辺、下尾筒、脚の付け根の羽は黒褐色である。(筆者訳) 
※ 腮は「さい」と読む。鳥の下嘴の裏側にあたる部分を指す

 

 ここだけを読むと、「雲南亜種」のほうが檀特の名で描かれた鳥の特徴に近いようにも思える。だが、檀特の名で日本に渡来した鳥は、中国のより広いエリアに生息し、台湾や沖縄にも暮らす華南亜種の方である。
 そしてインターネットで「雲南亜種」について、「Lonchura striata subsquamicollis」の学名で画像検索をかけると、この説明どおりの鳥が並んだ。『百鳥図』に描かれた「十四満津」の腹は「ダンドク」ほどは白くない。それも「雲南亜種」の特徴となっているが、その様子を検索結果として表示された多数の写真において確認することができた。

 こうした事実から、江戸期に日本に運ばれた「檀特」と「十姉妹」は、ともにコシジロキンパラの亜種だったと考えられる。「ダンドク」とはコシジロキンパラの亜種のひとつ「華南亜種」であり、一方の「十姉妹」が「雲南亜種」だったと、ひとまず考えることができそうである。
 「檀特」と「十姉妹」が亜種の関係にある同種の鳥であり、ともに中国南部に生息域を持っているのなら、この二種が同じ船で同時に日本に運ばれてきても別段おかしなことはない。

 

◆ダンドク、十姉妹の初渡来

 

  では、檀特や十姉妹といったコシジロキンパラ(白腰文鳥)は、いつ日本に渡来したのだろうか。『飼籠鳥』には「享保の比より海舶載來る」という記述があり、そうした史料をもとに、一般的には両者が日本に運ばれたのは、享保年間(1716~1736年)ということになっている。

  だが、享保二年(1717年)に左馬介によって書かれた『諸禽万益集』には、すでに外国産の鳥として「十四ま津」(十姉妹)、「たんどく」(檀特)の名がある。
 その事実は、享保年間よりも前、たとえば宝永年間(1704~1711年)から正徳年間(1711~1716年)に日本に来ていた可能性が高いことを示している。 
 ただし、徳川綱吉の「生類憐みの令」が1709年まで施行されていたため、それ以前の鳥獣の輸入には幕府によって制限がかけられていた実態もある。
 水戸藩の徳川光圀など、力のある大名が「生類憐みの令」の時代にも海外の鳥獣を個人輸入していた事実はあるが、十姉妹や檀特のこの時期の輸入記録は見つけられなかった。そのため、十姉妹および檀特の初めての持ち込みは1710年以降と考えた方がよさそうである。

  ブンチョウやベニスズメ、キンパラの渡来はそれよりもずっと古く、1600年代には日本に運ばれている。元禄十年(1697年)に刊行された人見必大(ひとみひつだい)の本草書『本朝食鑑』には、この三種についての解説が掲載されていたからである。

 

 ジュウシマツ(写真提供:Narumi@サザナミ部屋)

 

4 「壇特」の名の由来を考える

 

◆檀特と天竺の結びつき

 

  江戸時代に日本に運ばれたコシジロキンパラの亜種は二種。
 原種の性質からきていた「十姉妹」の名は、江戸時代半ば以降、そのうちの一種の鳥の名称として定着していき、最終的に、現在のジュウシマツに名を譲ったかたちとなった。
 残る問題は、「ダンドク(檀特)」という名前の由来である。

  『飼籠鳥』のダンドクの項には、「この鳥は十姉妹とともに船に乗せられて来る」とある。また、著者の佐藤成裕は十姉妹についてかなり詳しい解説を行ったのち、ダンドクの名称について、「その名前の由来は調べてみたがいまだにわからず、もしかしたらこれは俗名か、またはどこかの地域だけで使われる名(ローカルネーム)であるのかもしれない」と述べている。

 ダンドクと呼ばれた鳥は仮名で「ダンドク」と記された一方、「檀特」という漢字表記もされた。だが、鳥を解説する中国の書籍でも、中国国内のインターネットサイトでも、檀特という名の鳥は見つからない。出てくるのは、コシジロキンパラを指す「白腰文鳥」だけである。

 もともと「檀特」は、現在のパキスタン北西部に存在した古代王国に由来するガンダーラ地方の山の名称で、仏教の聖地にあたる。一説によると、釈迦が修行した山だという。それにあやかるように檀特山と名づけられた山は日本の各地にもあり、かつては僧の修行の場とされた。
 「檀特」という名前が、仏教あるいは天竺(インド)と強く結びついているのは明らかで、たとえば中国国内のサイトを『檀特』で検索してみると、仏教関係のページや檀特山に関連したページを目にすることになる。 

 檀特と呼ばれた鳥の名の由来に迫るため、まずは、コシジロキンパラの二つの亜種の分布と、両亜種の分布地に赴いた日本人がもっていた天竺や檀特という言葉のイメージから接点を探ることから始めるしかない。そう思えた。

 華南亜種が中国南部に広く分布するのに対して、雲南亜種はそれより南の半島、島嶼(とうしょ)部に分布している。具体的には、インドシナ半島、マレー半島、スマトラ島に及ぶ。コシジロキンパラはほかにインドにも生息しているが、これはまた異なる亜種である。
 檀特と呼ばれた鳥は中国本土を主とする華南亜種の方ではあるが、生物の名称については、しばしば入れ替わる例も見られるため、調査の際は、両方の亜種を頭の中に残しておく必要があると思われた。

  そのうえで、江戸時代に生きた日本人が、天竺や仏教の聖地について持っていた知識や意識を加味して調べていくと、意外な接点も見えてきた。

 

 ジュウシマツ(写真提供:ぶんたのもぎたて生穂) 

 

◆アンコール・ワットを訪れた日本人が見た鳥?

 

  鎖国前、かなりの日本人が東南アジアへ出かけていた。戦のなくなった日本を捨て、海外の地に戦いの場と生き甲斐を求めて旅立った野武士のほかに、商いのために東南アジアに船を出した商人もいた。加えて、「仏教の聖地」に巡礼をするために出かけた信仰篤い人たちがいた。

 秀吉が南方に渡る船に朱印状を発行してから幕府が鎖国を決めた1639年までの約五十年間、毎年三百隻以上の船が数十人から多いときで三百人以上の日本人を乗せて南海へと旅立っていった。
 ざっと計算してみたなら、この期間に、のべ一五〇万人もの日本人が東南アジアを訪れていたことになる。実に膨大な人数である。

  仏教の公伝からすでに千年以上。江戸時代にはすでに日本になじみ、日本の宗教になってはいたが、仏教の発祥はインドであり、外国から日本に入ってきた宗教であることは人々から理解されていた。
 そうしたこともあり、お伊勢参りをするように、仏教の本来の「聖地」を訪れてみたいと考える人々がいたことは事実であり、そういった意識をもつことも、当時としては自然でもあった。そしてこの時代は、仏教の聖地とされる土地を訪れることが可能な絶好な時期でもあった。

  そんな人々が目指したのが、元々はヒンドゥー教の寺院として建てられたアンコール・ワットだった。
 当時の日本では、インド(天竺)という土地は、中国の西(あるいは南西)だけでなく南方にも広がっていると信じられており、カンボジアもまた天竺の一部であり、アンコール・ワットこそが祇園精舎なのだと信じた人々が、この地に足を運んでいたのである。

  当時の日本人がもっていた意識のひとつの証拠となるのが、水戸の彰考館(現在の彰考館文庫/徳川ミュージアム)にある「祇園精舎図」と題されたアンコール・ワットの平面図だ。なおこれは、アンコール・ワットを描いた絵図としては世界最古とされる。
 三代将軍家光の命を受けた島野兼了という人物が、祇園精舎と信じるアンコール・ワットにみずから赴き、調査して描きあげた絵であることが、その絵の裏に記されている。 

 鎖国直前にやはりアンコール・ワットを訪れていた貿易商の天竺徳兵衛が書き記した『天竺渡海物語』からも、同様の天竺観と、当時の日本人がもっていた意識を追証することができる。
 アンコール・ワットに足を踏み入れた天竺徳兵衛は、

「祇園精舎の堂は右の釈迦堂より遙におとり候大きさに候へども、日本の京都大佛堂四つ合わせたる大きさ。又、國の都より四十二里川上に堂これ有り。是を靈鷲山(りょうじゅせん)と言う。山の高さ壹里程、(以下略)

と書き記している。なお、ここに記された釈迦堂は、アンコール・トムである。

 広辞苑には「祇園精舎」について、「須達(しゅだつ)長者が中インドのコーサラ国舎衛城の南、祇園に釈尊およびその弟子のために建てた僧坊」とある。奈良時代以降、日本人の僧および熱心な仏教徒にとって、祇園精舎はずっと憧れの地であり続けた。祇園精舎がいかに日本人の心に刷り込まれていたかは、『平家物語』の冒頭からも伝わってくる。

  日本から来た巡礼者や、日本人町を作ってインドシナ半島の各地に住みはじめた者が、祇園精舎と信じ込んで手を合わせた聖なる寺院の周りで見かけた鳥、すなわちコシジロキンパラの亜種に「檀特鳥」という名前をつけたとしてもおかしくはないように思われる。ただし、この亜種は十姉妹と記された「雲南亜種」で、檀特という名の「華南亜種」ではない。

 その後、カンボジアがインドの一部であるという誤解がきちんと解消されないまま鎖国が始まり、それから百年、二百年が経った後、オランダ船や中国船が運んできた胸の黒い鳥が、かつて祇園精舎と日本人の目に映った寺院の周りで見られた鳥と同じだと気づいた誰かが、あらためて「ダンドク」とこの鳥を命名したとしても不思議ではない。

 なお、これは思考の飛躍であり、実際にどうだったか定かではない、可能性の指摘である。それでも、想定される状況の中でのありえそうな接点のひとつとして、あげておきたいと思う。

 

5 ジュウシマツのその後

 

◆飼育の中心はヨーロッパに移動

 

 昭和の鳥ブームが終焉を迎えたのち、日本でのジュウシマツの飼育は急速に衰えていく。かわってヨーロッパの愛好家の手で、近縁種の血を入れるかたちで新しい品種がつくられた。
 純粋なコシジロキンパラの子孫ではない鳥たちは、日本のジュウシマツと分けて、ヨーロッパジュウシマツと呼ばれることになった。ヨーロッパジュウシマツは日本のジュウシマツにくらべてひとまわり大きな体格であることも、その特徴となっている。
 近年、日本に逆輸入される個体も増えているが、セキセイインコやブンチョウと比べると飼育数はけっして多くはない。

 

  



 

◇ジュウシマツ以外の鳥は、好評発売中の『鳥を読む  文化鳥類学のススメ』細川博昭著でお楽しみいただけます。
◇本ウェブマガジンにて公開中の試し読み「はじめに」もあわせてどうぞ!


 

◇『鳥を読む』目次
はじめに(公開中)
第1章 ハト(鳩)とイエバト(鴿)
補 章 ハトとドードー
第2章 スズメとイエスズメ
第3章 アオサギとハイイロペリカン
第4章 インコとオウム
第5章 ウグイスとヨナキウグイス
第6章 ムクドリとホシムクドリ
第7章 カナリア
第8章 カッコウとキツツキ
第9章 ミソサザイとコマドリ
第10章 ウズラ
第11章 ヒバリ
第12章 トビとミサゴ
第13章 ハクチョウ
第14章 カラス
第15章 ウ
あとがきにかえて
参考文献
索引(鳥・その他の事項)

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著者略歴

  1. 細川博昭

    作家。サイエンス・ライター。鳥を中心に、歴史と科学の両面から人間と動物の関係をルポルタージュするほか、先端の科学・技術を紹介する記事も執筆。おもな著作に、『鳥を識る』『鳥と人、交わりの文化誌』『鳥を読む』(春秋社)、『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)、『知っているようで知らない鳥の話』『鳥の脳力を探る』『江戸時代に描かれた鳥たち』(SBクリエイティブ)、『オカメインコとともに』(グラフィック社)、『身近な鳥のすごい事典』『インコのひみつ』(イースト・プレス)、『江戸の鳥類図譜』『江戸の植物図譜』(秀和システム)、『うちの鳥の老いじたく』『長生きする鳥の育てかた』(誠文堂新光社)などがある。
    日本鳥学会、ヒトと動物の関係学会、生き物文化誌学会ほか所属。

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