第8回 密教の「蘊・界・処」説―曼荼羅はどのように世界を表現したか?―
私は長年、曼荼羅の歴史的発展を研究してきた。インド大乗仏教発展の最終段階にある後期密教では、『秘密集会タントラ』に説かれた曼荼羅の解釈学が発展し、「蘊・界・処」説という、曼荼羅を用いた世界の解釈法が成立した。
「蘊・界・処」(スカンダ・ダートゥ・アーヤタナ)は、アビダルマ以来の仏教術語としては五蘊・十八界・十二処を表す。五蘊とは、自我の構成要素とされる色・受・想・行・識の五つである。
色(ルーパ)は、自我を構成する身体という物質的要素を示す。後には物質世界の万物も色と解釈されるようになったが、五蘊が、自我という恒久不変の実体が存在しないことを説明するために導入された経緯からいえば、自我を構成する身体と解釈するのが正しい。
いっぽう受(ヴェーダナー)は、我々が感覚器官を通じて外界の存在を感受することを意味する。最近になって、意識を失って植物状態になってしまった人が、奇跡的に回復した後、植物状態の時に、親族などから掛けられた声を覚えていたという例が報告されている。これは受が、識から独立して存在しうる証左であると思われる。
つぎの想(サンジュニャー)は、感覚器官を通じて得られた外界の事物のイメージが生じることである。
これに対して行(サンスカーラ)については、従来から議論が多い。つまり「諸行無常」の行もサンスカーラであるが、これは生滅を繰り返す一切の存在のことで、「五蘊のうち色受想識以外のすべてが行」という定義もある。しかし五蘊が、自我という恒久不変の実体が存在しないことを説明するために導入された経緯からいえば、意志と訳すのが適当と思われる。これもショーペンハウアーの盲目的意志のように、生物が本能的にもっている意志と解釈するとよいであろう。
最後の識は、五感を通して得られた情報を識別し、判断する心の働きとされる。大乗仏教には唯識説のように、潜在意識である阿頼耶識が万物を形成するという絶対的観念論の体系もあるが、一般的には識は一瞬一瞬で生成と消滅を繰り返す刹那滅の存在とされる。
この刹那滅論も、評判の悪い学説である。つまりアナログ的な連続量である時間を、刹那つまり瞬間に切り分けることはできないという批判があった。ところが最近になって時間にも、プランク時間という、これ以上切り分けられない最小単位があることが分かった。
刹那滅のものが連続しているように感じられる例として、昔は映画のフィルムの一齣一齣が、映写すれば連続しているように錯覚されることが喩えとして用いられた。しかし現在では、1フレームが1/30秒のビデオ映像が完全に連続しているように見えることの方が分かりやすいだろう。しかし1/30秒でもプランク時間に比べれば、10の44乗ほど長いのである。
その刹那ごとに生滅する識が連続していると感じられるのは、一瞬間前の意識が一瞬間後の意識を原因として生じるからである。この関係を仏教では「等無間縁」といい、これによる意識の連続体は「心相続」と呼ばれる。
そこでインドの後期大乗仏教と密教の混淆形態を現代に継承するチベット仏教では、衆生の心識の連続性を「心相続」(ギュー)という術語で表現する。
この刻々と変化する心相続を、恒久不変の自我と誤認するところに迷いの原因がある。我々が執着している自我というものは不変の実体ではなく、五蘊の集合体に過ぎない。したがって諸法無我、自我という実体は存在しないというのが、仏教の教理的前提である。なおこの問題については、次回以降で詳しく論じることにする。
いっぽう十二処は六つの感覚器官、眼(視覚)耳(聴覚)鼻(嗅覚)舌(味覚)身(触覚)意(第六感)と六つの感覚対象、色(視覚)声(聴覚)香(嗅覚)味(味覚)触(触覚)法(第六感)の六つである。
さらにこれに、六根が六境を認識する時に働く眼識(視覚)耳識(聴覚)鼻識(嗅覚)舌識(味覚)身識(触覚)意識(第六感)を加えると、全体で十八となる。これを十八界という。『般若心経』に「無眼界乃至無意識界」(眼界から意識界に至るまでも無い)とあるのは、眼界から意識界までの十八界のすべてが空性においては存在しないという意味である。
ところが『秘密集会』の解釈学派である聖者流の『行合集灯』(チャリヤー・メーラーパカ・プラディーパ)(北京No.2668)や後期密教の母タントラを代表するサンヴァラ系では、「蘊・界・処」を五蘊と地水火風の四界と十二処と解釈するようになった。
後期密教で、従来は十八界を指していた「界」が地水火風の四大に変更されたのは、十八界と十二処は12の要素が共通しており、眼識界から意識界までを加えた十八界を別立することにあまり意味がなかったことが考えられる。また後期密教では一般に、唯識派の絶対的観念論ではなく、一切法が空であるとする中観派を了義、つまり仏の真意を忠実に反映した思想と考えるため、外界の物質世界を象徴する要素を導入する必要があったからと思われる。
インドでは、外界の物質世界は地水火風の四大から成ると考えられていた。現代的に解釈すれば、地は固体一般、水は液体一般、風は気体一般、火はエネルギー一般といえるだろう。そして『秘密集会』では、この四大を仏眼をはじめとする四仏母、つまり四尊の女性の仏で象徴させた。
このように『秘密集会タントラ』の曼荼羅では、阿閦を主尊とする五仏が五蘊、四仏母が地水火風の四大(界)、色金剛女をはじめとする金剛女(女性の菩薩)が色声香味触法の六処を象徴すると考えられるようになった。
また『秘密集会タントラ』本文には明確に説かれないが、聖者流、ジュニャーナパーダ流という解釈学派では、眼耳鼻舌身意の六根を象徴する八大菩薩や六大菩薩を説く。このように『秘密集会』は、我々の経験する世界を、自我を構成する要素=五蘊、外界を構成する四つの元素=四大(界)、感覚器官=五根あるいは六根と感覚対象=五境あるいは六境(処)に分析し、これに男女の尊格を配当した。
さらにタントラ本文には明確に説かれないが、曼荼羅の周囲を護る忿怒尊と、それと男女合体の父母仏を形成する忿怒妃は、手足等の行為器官(カルメーンドリヤ)と、その働き(カルメーンドリヤ・クリヤー)を象徴するとされた。
仏教では恒久不変の自我の存在を認めないが、自我を構成する要素としての五蘊の存在は認める。大乗仏教においては五蘊も空であるとするが、世俗的レベルにおいてはその存在は認められている。
我々は目や耳といった感覚器官で地水火風からなる外界の対象を認識し、手足等の行為器官で外界に働きかけることで、日常生活を送っている。『秘密集会タントラ』は、このようにして曼荼羅の限られた尊数で、我々の経験する世界のすべてを象徴する曼荼羅理論を構築したのである。この曼荼羅理論は、限られた尊数で我々が経験する世界の総てを表現するのに適していたので、やがて他の後期密教聖典も、『秘密集会』の曼荼羅理論を取り入れるようになった。
後期密教では100種類以上の曼荼羅が作られ、それぞれパターンや塗り分け、配置される尊格の名前が異なっているが、一々の曼荼羅において、中央と東西南北に描かれる尊格は五仏(五蘊)、東南・西南・西北・東北の四維に描かれる尊格は四仏母(四大)というように、それぞれの曼荼羅と『秘密集会』の曼荼羅理論のコンコーダンスが図られたのである。
また仏教では、自我をはじめとする主観は「能取」(グラーハカ)、外界の物質世界はその主観によってとらえられる世界なので「所取」(グラーヒヤ)と呼ばれる。そして『秘密集会』曼荼羅では、五蘊・六根・行為器官などの主観方面は男性尊、四大や六境・行為器官の働きなどの客観方面は女性尊に割り当てられている。このような後期密教の曼荼羅理論を図示したのが、次の図である。

そして図の左側に配された五蘊を象徴する五仏、感覚器官を象徴する菩薩、行為器官を象徴する忿怒尊は、何れも男性である。これに対して図の右側に配された四大を象徴する四仏母、感覚対象を象徴する金剛女、行為器官の働きを象徴する忿怒妃は、何れも女性である。つまり図の左側の主観方面つまり能取は男性、右側の客観方面つまり所取は女性に割り当てられていることが分かる。
そしてこれらの男性・女性尊が男女合体の父母仏を形成することで、悟りの世界には主観・客観の二元対立が存在しないことが象徴されるのである。
なお『秘密集会タントラ』の曼荼羅でも、ジュニャーナパーダ流の文殊金剛曼荼羅では、五仏と四仏母、六大菩薩と六金剛女、四忿怒と四忿怒妃は、みな男女合体の父母仏を構成するが、聖者流の阿閦金剛曼荼羅では、男女合体の父母仏となるのは主尊の阿閦金剛と触金剛女、十忿怒と十忿怒妃だけで、阿閦以外の四仏や四仏母、男性の菩薩と触金剛女以外の金剛女は単独尊として描かれている。
しかし『秘密集会』以外の後期密教の曼荼羅でも、このような主観・客観の二元対立を男女性の尊格に割り当て、男女合体尊によって二元対立の解消を表現するという構図は、概ね維持されている。
我々の経験しつつある世界を様々なカテゴリーに分析し解釈するという方法は、洋の東西を問わず、様々な宗教・哲学に見られる。しかし主観・客観の二元対立自体を虚妄であるとする思想は、仏教の無我思想を発展させた大乗仏教に特異なものであり、後期密教の曼荼羅はそれを図形的に表現したものと見ることができる。
次回以降では、このような大乗仏教の世界観が、今日の科学的な宇宙論や物理理論とどのように関係するのかを見ることにしたい。


