第7回 仏は全知全能ではない―仏の三不能について―
前章では、仏は過去・現在・未来を通じて不変である因果の理を悟り、それによって一切智者性を獲得した。仏はもし欲するなら、無限の過去から未来まで、すべてを知ることができるという大乗仏教の設定について紹介した。
このように言うと、仏はユダヤ教やキリスト教、イスラム教の神のように、全知全能であると誤解する読者が出てくるのではないかと思うが、仏教の設定では、仏は一切智者ではあるが、全能ではない。仏にも、できないことがある。これを「仏の三不能」という。ただしこの三不能については、異なった複数の説があり、一定していない。
そこで本書では、夢窓疎石と足利直義の問答をまとめた『夢中問答』上の説を紹介すると、①無縁の衆生を度すこと能わず、②衆生界を盡くすこと能わず、③定業を転ずること能わずの三つである。
まず①の無縁の衆生であるが、仏が悟りを開いた時、すでに死んでいた者。仏に会って教えを受けることができなかった者。仏が世にある時に生を享けても、仏教を信じず、仏の教えを実践しなかった者は救うことができないと言われる。
また仏は一切智者であるから、前回で紹介したように無縁の大悲をもっている。ところがそれにも拘わらず、ブッダが世に現れても救済されない人が出るのは、どうしてなのだろうか? それを説明するのが①無縁の衆生を度すこと能わずであると考えられる。
これはよく、医者が患者の許に駆けつけたが、すでに事切れていたとか、医者が患者の為に良い薬を処方し養生法を指南しても、患者が医者の薬を飲まず、言うことを聞かなかった場合、患者の命を救えないことに例えられる。
いっぽう②衆生界を盡くすこと能わずとは。仏教の理論では、衆生が仏道を修行して煩悩を断ち切ると、二度と輪廻転生の世界に戻らなくなる。小乗の聖者である阿羅漢は、仏のような一切智者にはならないが死後、輪廻転生の世界に戻らず、涅槃に入るというのが通説である。そうすると仏が教えを説いて衆生を輪廻の世界から解き放つと、宇宙に存在する衆生の数は一人減り、二人減り、最終的には無数の衆生が涅槃に入ることになるが、仏がいくら多くの衆生を救済しても、衆生の世界を消滅させることはできない。これが衆生界を盡すこと能わずである。
これについても色々な解釈があるが、大乗仏典の一つ『不増不減経』は、この問題を専門に扱った経典である。それによれば、仏がいかに多くの衆生を輪廻の世界から解き放っても、衆生の総数は変わらない。これはちょうど無限から1を引き、2を引き、1万、10万、1億、100億、1兆を引いても、無限は無限のママであるのと同じ理屈である。
また別の解釈によれば、衆生が仏になるためには、自ら仏道を修行するとともに、他の衆生を救済して福徳を積まなければならない。ところが衆生の数が有限だと、仏が数多くの衆生を救済して涅槃に導くと、最後の一人は、他の衆生を救済して福徳を積むことができず、永久に成仏できなくなるから不都合だというのである。
これは救済論的要請に基づく、仏の不能の解釈である。そこで後世の発展した大乗の教学では、不増不減の衆生界こそブッダを生み出す根源、如来蔵であるとされるようになった。これは西洋哲学や物理学における、真無限に近い概念であるといえよう。
さらに最後の③定業を転ずること能わずは、もっとも議論を呼んだトピックであり、種々の解釈が存在する。
前述の『夢中問答』にも出てくるが、ブッダの晩年、シャカ族の本拠であるカピラヴァストゥがコーサラ国のヴィルーダカ(毘瑠璃)王に滅ぼされ、多くのシャカ族が虐殺されるという惨事が起きた。これがブッダの存命中であったか、滅後であったのかについては議論があるが、存命中だったとすれば、どうしてブッダは、ヴィルーダカ王のカピラヴァストゥ攻撃を止めることができなかったのかという問題が起きる。
そこで持ち出されるのが、仏であっても③定業を転ずること能わずという論点である。ヴィルーダカの父で、ブッダの後援者でもあったプラセーナジット(波斯匿)王は、シャカ族に妃となる女性を所望したが、コーサラの人質になることを恐れたシャカ族は、故意に王族(クシャトリヤ)ではなく身分の低い女性をコーサラ国に送った。そしてこの女性が産んだ子供がヴィルーダカ王となったのである。ヴィルーダカは自分の母の出自を知って怒り、シャカ族を滅ぼしたのだといわれている。
この場合、シャカ族の滅亡は、過去にプラセーナジットを欺いたという悪業の果報であるから、仏といえども過去の悪業の果報として決定していることは転じられないと言われるようになった。
密教の儀軌や成就法などでも、病気平癒や延命長寿などの効験が「疑いなし」と高らかに宣伝されているものの、そこに「寿命が尽きた場合を除く」とか「定業として定められたものを除く」という但し書きが付されていることが多い。
どのような高僧が儀軌通りに正しく執行しても、修法に効験がないことがある。仏でさえ③定業を転ずること能わずなのだから、定業で定められていることには修法をしても効果がない。このように③定業を転ずること能わずは、しばしばこのような場合の予防線としての役割を果たしていたのである。
それではどこまでが定業として定められており、どこからは転じることができる業であると考えられていたのであろうか。その切り分けは非常に困難と言わざるを得ない。
そこで私が考えるのは、仏は過去・現在・未来を通じて不変な因果の理を悟って成仏したということである。本連載で再三述べてきたように、因果律には①物理的因果律と②道徳的因果律と③救済論的因果律があるが、仏は①と②によって現状を認識し、③救済論的因果律を説いて衆生を救済する。つまり仏は因果律を悟って衆生を救済するのであって、因果律自体を変更することはできない。それが③定業を転ずること能わずの真意であると思われる。
それならば仏は万物が必然的に生起することを知っているから、運命的に定まったものに関しては何もできないという論難が生じる。この問題について考えると、大乗仏教では、仏や高位の菩薩は、自己が過去から蓄積してきた善根の果報を、苦しんでいる衆生のために振り向ける(廻向)ことができるとされる。
観音や地蔵などの大菩薩が、地獄にまで足を運び、地獄に墜ちた衆生を救済することができるのは、このような廻向思想が前提となっている。つまり地獄の衆生は、過去の悪業の果報として苦悩を受けるのであり、このままなら果報が尽きるまで地獄に留まることになるのだが、観音や地蔵などの大菩薩が自己が蓄積した善行の果報を振り向けることにより、刑期を短縮して蘇生することができるとするのである。また『華厳経』「十廻向品」では、高位の菩薩は苦しんでいる衆生の苦痛を代わりに受けること(代受苦)もできるとされている。日本各地に残る「縛られ地蔵」や「身代わり地蔵」の説話は、このような菩薩の代受苦思想を大衆化したものである。
このように仏や高位の菩薩が、自らの善根を廻向することができるのは、廻向する時、誰が廻向する者(施者)で、誰に廻向をするか(受者)という二心を生じないからだとされる。つまり仏・菩薩は、諸法無我の理を知っているから善根の廻向が可能なのであり、逆に悪人が自らの悪業を他人に振り向けられないのは、諸法無我の理を知らないからである。
また阿弥陀仏が、どのような悪人でも極楽浄土に迎え取り、救済することができるとされるのも、同じ理論に基づいている。浄土門では、衆生が過去の悪業の因縁を断ち切り、阿弥陀如来の本願によって救済される関係を増上縁と名づける。これは仏教の伝統的なアビダルマにはない用語法であるが、阿弥陀如来が過去に蓄積した無量の善根によって、通常の②道徳的因果律を超えた関係が成り立つことを示している。
インドではクシャン帝国治下の2世紀から3世紀にかけて、日本仏教の源流ともなる大乗仏教が興起し、しだいに従来の部派仏教を圧して優勢になる。そのため現在では、かつてインドに存在した20ほどの部派の中で、現存するのはスリランカから東南アジアに普及した上座部(テーラヴァーダ)仏教だけになっている。
第4回で見たように、仏教の根本的立場は因果律絶対主義である。②道徳的因果律が絶対不変であるなら、どのような人間も、過去の悪業の果報は必ず受けなければならない。そうでないと因果の理を破壊することになるからである。
かつてカンボジアでポルポト政権が猛威を振るった後、親族を虐殺された国民の多くは、ポルポト派の暴政に憤りの声を上げるということもなく、自分たちの過去の悪業がこのような災禍をもたらしたと、諦めと無気力の感情に支配されていたという。これを見た一部の社会学者は、テーラヴァーダ仏教の因果応報説がこのような悲劇をもたらしたと指摘したが、外界のすべての事象が決定しているという認識は、キリスト教のプロテスタントとも共通している。社会学者が金科玉条の如く尊重するマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に反すると指摘した日本のジャーナリストがいた。
これに対して大乗仏教では廻向思想により、ブッダや高位の菩薩による他力本願の救済を認める立場を取った。インドでは、紀元前後からバラモン教の大衆版ともいうべきヒンドゥー教が盛んになり、シヴァやヴィシュヌという最高神への信仰が普及した。これらの最高神は、信徒の信心に応えて、世俗的な願だけでなく、解脱のような宗教的救済をも与えることができるとされた。
ところがこれは、仏教の②道徳的因果律と③救済論的因果律の主張に反していた。そこで大乗仏教では、救済する側に蓄積された過去の善行が、救済される側の過去の悪業を相殺するという廻向思想を導入したのである。これだと②道徳的因果律の原則を破壊することなく、仏菩薩による救済を、ヒンドゥー教による最高神の恩寵と同じように、多くの信徒に及ぼすことができる。ヒンドゥー教の台頭と時を同じくして、大乗仏教が盛んになったのは、このようなインドの宗教事情を反映するものとも考えられる。
しかしこのような大乗の廻向思想による②道徳的因果律と③救済論的因果律の修正は、仏教の根本思想である因果の理を破壊するとの批判を受けることになりかねない。仏や高位の菩薩による衆生救済については、第11回で改めて論じることにしたい。


