第14回 良寛の書状――災難に遭ふ時節には災難に遭ふがよく候
前回では、インド後期密教の曼荼羅理論の上で、主観・客観の二元対立の問題が、どのように扱われたのかを考察した。そして今回では、このような二元論を超克した人は、どのような行動をとるのかという問題を考えてみたい。
江戸時代の越後に生きた禅僧良寛(1758~1831)は詩歌をよくし、とくにその書は多くの人に愛された。その評判は江戸にも聞こえ、「鵬斎(亀田鵬斎。江戸後期の書家、儒学者)は越後帰りで字がくねり」という川柳ができるほどであった。

また本シリーズでも取り上げた夏目漱石は、とくに良寛を熱愛し、「良寛は世間にても珍重致し候が小生のはただ書家ならという意味にてはなく寧ろ良寛ならではという執心故」と書いている。釈宗演に参ずるなど、自我の問題に悩み続けた漱石にとって、大愚と号した良寛の書は単なる美術品ではなく、その人格に触れる唯一の手段であったと思われる。
その良寛の晩年の文政11(1828)年11月12日、越後の三条を震源とする推定マグニチュード6.9の直下型地震が発生し、多数の犠牲者が出た。震災後の惨状を見た良寛は、「永らへむ ことや思ひし かくばかり 変り果てぬる 世とは知らずて」「かにかくに、止まらぬものは 涙なり 人の見る目も 忍ぶばかりに」と詠んだ。
地震から半月後の12月8日は臘八(釈尊成道の日)であるが、その日に知人の山田杜皐に宛てた見舞い状には、つぎのような言葉が記されていた。
「しかし災難に遭ふ時節には、災難に遭ふがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候。これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」
この逸話は、詩歌や書を中心とした良寛伝にはあまり出てこない。ところが私たち仏教学者や仏教者にはよく知られており、良寛を語る上で欠くことのできない言葉となっている。
第7回で見たように、大乗仏教では仏を一切智者とするが、できないことが3つあるとされている。その中でも「定業を転ずる能わず」は、その範囲を巡って議論が多いトピックであるが、本シリーズでは「仏は因果律を悟って衆生を救済するのであって、因果律に反する行動は取れないし、取ることもない」と解釈した。
良寛の「災難に遭ふ時節には、災難に遭ふがよく候。死ぬる時節には、死ぬがよく候」は、転じることができない定業は甘受するしかないの意とも考えられる。
ただし山川草木等の器世間は、衆生の共同の業によって形成された共業所感であるため、器世間を原因とする地震の被災者がとくに責任を負うべきものではない。その点において、シャカ族の過去の悪業の結果としてカピラヴァストゥが滅亡したというような不共業による定業とは異なる。
したがって震災の犠牲者は「非業の最期」、つまり個人的な悪業の果報として死を迎えたのではないことになる。つまり①物理的因果律によって災害が起こったが、この場合、②道徳的因果律は適用されないことになる。
そして最後にくる「これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」は、論理的に矛盾する言明である。
なお良寛が天災に直面したのは、これが最初ではない。「寛政甲子夏」と題する漢詩では、大雨で堤防が決壊し、農民がありとあらゆる神社に幣帛を捧げて祈ったけれども効験はなく、「造物聊可疑」つまり神が果たして実在するのか疑わしいとまで述べている。
なお寛政甲子という年はなく、寛政4(壬)子(1792)年の誤りと思われるが、30代半ばの壮年時代には民衆の難儀に同情を寄せ、神の存在を疑いたくなると記した良寛が、死期が逼る71歳の三条地震では、当初は震災の惨状に呆然自失したものの、「これはこれ、災難を逃るる妙法にて候」と述べたのは、晩年に至って一段と悟境が進んだことを示している。
仏教では輪廻転生説を採るため、死はすべての終わりではない。「死ぬる時節には、死ぬがよく候」といっても、そこですべてが終わる訳ではない。次の一生でさらに悟境を深めることができれば、それは災難ではなく、悟りに至るプロセスの一環であったということになるのではないか。
良寛と言うと、我々が真っ先に思い浮かべるのは、彼が村の子供たちと時の経つのを忘れて手毬に興じる姿である。
また良寛は、手毬を題材にした長歌も遺している。
「里子ども 今を春べと たまぼこの 道のちまたに 手毬つく 我も交りて その中に 一二三四五六七 汝がつけば 吾はうたひ 吾がうたへば 汝はつく つきて歌ひて 霞立つ 永き春日を 暮らしつるかも」
また漢詩では、
「一箇の繍毬打ちまた打ち、自ら誇る好手倫匹無しと、この中の意旨もし相問わわば、一二三四五六七」と詠じている。
手毬では、一二三四と数えて、本来ならば十まで数えて、また一に戻るのであるが、ここで長歌、漢詩ともに一二三四五六七で終わっているのは、字数の問題もあるだろうが、『碧巌録』の公案「雲門六不収」を意識したものだという説がある。
これについては解説が必要であるので、以下にその概要を述べることにする。
唐末から五代にかけての禅僧、雲門文偃(864~949)に僧が質問した。「如何なるか是れ法身」(法身というのはどのようなものですか?)雲門は云った。「六不収」(六には収まらない)
この「六不収」の意味であるが、一般には眼耳鼻舌身意の「六根」、色声香味触法の「六境」(六塵ともいう)、眼識から意識までの「六識」には収まらない。つまり仏の理法としての身体=法身は、前回で見た十二処、十八界、つまり六つの感覚器官と感覚対象では捉えきれないという意味と考えられる。その「頌」には、「一二三四五六。周して復始る」とあることから、一から十まで数えると、また一に戻る手毬とのアナロジーと考えられたのである。
ところが良寛の歌や漢詩では、「一二三四五六」ではなく「一二三四五六七」になっている。つまり「六不収」だから、七まで加えたと解することも可能である。近年復刻された『法華讃』を見ると、良寛は宗典である『正法眼蔵』だけでなく、禅籍にも精通していたことが分かるが、こればかりは良寛本人に聞いてみないと分からない。
いっぽう栗田勇は、その著書『良寛』(春秋社)のなかで、良寛にとって手毬は単なる遊戯ではなかったとして、以下のように述べている。
「無念無想でひたすら、手毬のはじける世界に没入すれば、手はおのずから毬にしたがい、毬は手にしたがい、意識と無意識の融合した、道元の言葉をかりれば、『正法眼蔵』の坐禅の極意を説いた言葉につながってくる」(中略)「私には、手毬つきが良寛にとって、坐禅そのものだったと思われる」
つまり手を動かしているのは良寛つまり主観、打たれる毬は客観であるが、手毬に没入すれば主観・客観の対立は解消し、主客融合した境地が開けると見たのである。
第7回で見たように、仏や高位の菩薩が廻向によって衆生を救済できるのは、施者と受者という二心がないからだとされていた。また第11回で見たように、大乗仏教では、仏や高位の菩薩の衆生救済は無功用(アナーボーガ)、つまり無作為であるとされる。『華厳経』「十地品」によれば、菩薩は修行を積み重ねて第八不動地に到達すると、無功用を成就するという。このように仏・菩薩の実践が無作為なのは、仏が主観・客観の二元対立を超越していることと関係している。
本シリーズの冒頭で示したように、仏教は因果律が時間・空間を超えて普遍的に適用されることを主張している。そして仏教の因果律には、①物理的因果律、②道徳的因果律、③救済論的因果律の3つが渾然と融合していると述べた。
ところが①物理的因果律が外界の物質世界に例外なく適用されるのに、そこから独立して自由意志をもった自我の存在を認めれば、物質世界に普遍的に適用されるはずの物理的因果律が適用されない特異点になってしまう。このような自我が存在しないことを悟った衆生は、無作為に行動することができる。これが無効用を成就することだと思われる。
自我の問題に悩み続けた漱石が、良寛の人格と書に傾倒したのも、まさに良寛の人格と書に、そのような無作為性を感じたからではないだろうか。漱石は晩年、「則天去私」を人生の標語とするようになるが、これにも良寛の影響があると言われている。
第10回で見たように、禅では「父母未生以前の本来の面目」とか「己事究明」というように自己の本質を見極めることを重視する。とくに臨済系では、人間に本来そなわる根源的な本性、仏性を徹見することを「見性」と称して重視した。これに対して曹洞系では「只管打坐」を唱えて、見性を言わない。またその手段として公案を用いるのが臨済禅であるが、曹洞宗は黙唱禅といい公案を重視しない。なお前述の良寛は曹洞宗に属していたが、 玉島の円通寺で印可を受けた師の大忍国仙(1723~1791)は臨済や黄檗の長所も取り入れる禅風であったため、良寛に曹洞よりも臨済で重視される『碧巌録』を教えたとされている。
いっぽう密教では、真言密教の根本聖典『大日経』が、「如実知自心」、つまり自らの心をありのままに遍知することが悟りであると説いている。そしてこの思想が、『金剛頂経』の五相成身観を経て、後期密教の成仏論に発展したことは、拙著『性と死の密教』(春秋社)で見たところである。
それでは仏性を見るというのは、何なのだろうか? インドの唯識思想では、衆生の迷いの根源は阿頼耶識であるが、衆生が悟りを開くとこれが①大円鏡智に転化し、阿頼耶識を自我であると誤認していた末那識が②平等性智、日常生活で活動していた意識が③妙観察智、視覚・聴覚・嗅覚、味覚、触覚を司っていた前五識が④成所作智の四智に転化するとされる。これを唯識では転識得智という。
これに対して、唯識系の術語を意識的に避けるチベットの般若学では、個我と誤認されるのは心相続であるが、第9回で見たように、悟りを開く瞬間に心相続は一切の無漏法を現証することができる。そしてその無漏法こそ仏の智を構成するもので、チベットの般若学では「二十一種の無漏智」(サクメーイェシェー・デツェン・ニェルチクポ)と呼ばれる。そしてこれらこそ仏の法身、つまり雲門文偃が「六不収」と呼んだものとされている。
つまり唯識派と般若学では設定が異なるが、衆生が悟りを開くと、これまでの個我は仏の智に転換するという点は同じである。般若学によれば「二十一種の無漏智」には主観・客観の二元対立がないから、悟りの瞬間に個我は法身に混融して消滅する。そのため三世十方の諸仏は、それぞれ国土の優劣、寿命の長短はあるが、法身を共有し、その悟りは全く同一であるとされるのである。
つまり阿頼耶識や心相続は輪廻転生の原因であるから、煩悩にまみれた有漏法である。しかし悟りを開けば仏の智慧に転化するから、仏になる可能性、つまり仏性と見なすこともできる。そこで唯識でも、仏性とは阿頼耶識の浄分、つまり清浄な要素とする見解が現れた。
インドの唯識思想は、日本では法相宗で研究される学問となってしまったが、本来は瑜伽行派と呼ばれ、大乗仏教のヨーガを実修する人々から生まれた思想である。インドと中国で、ともに個我の奥底を極める瞑想を行っていた人々の間から、主観・客観の二元対立は虚偽であり、それが分かると悟りが開けるという発想が現れたことは偶然の一致とは思われない。それが栗田勇によれば、良寛の手毬つきとも関係していたとすれば、驚きの発見といえるであろう。
そこで次の最終回では、これまでの14回で指摘してきたトピックをまとめ、科学技術がさらに発展した将来の宇宙時代において、大乗仏教が生き残ることは可能かという問題を考えてみたい。


