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宇宙時代と大乗仏教 田中公明

第13回 凡常の慢とは何か――曼荼羅の世界観の意味

 前回では、仏教における諸法無我しょほうむがや、主観・客観の二元対立は存在しないという議論は、世間一般の常識と著しく乖離かいりしているという点で、量子力学における量子の波と粒子の二面性や不確定性といった問題に通じるという事実を指摘した。
 そこで本章では、第8回で紹介したインド後期密教の「うんかいしょ」説のモデルを使って、この問題を考えてみたい。
 チベット仏教では現在でも、曼荼羅まんだらの生成的な観想と、そこに描かれる諸尊と一体化するメディテーション(生起次第しょうきしだい)が実修されているが、それがどのような効果をもつかについては、チベット仏教の主流派であるゲルク派を開いたツォンカパ(1357~1419)の『密宗道次第広論みしゅうどうしだいこうろん』(ガクリム・チェンモ)の生起次第の章で論じられている。ツォンカパは、まず何のために「生起次第」を修するか?という問いを設定し、それは「凡常ぼんじょうまん」(タメルペー・ガギェル)を退治するためであるという。
 この「凡常の慢」という術語は、近代中国にチベット仏教をはじめて紹介した法尊(1902~1980)が用いた訳語であるが、それだけでは、何を意味しているのかが分かりにくい。ところが最近、ツォンカパが参照したいくつかの密教文献の原典がネパールで発見され、その原語はプラークリタ・アハンカーラであることが判明した。
 このうちプラークリタは、「ありふれた」とか「日常的な」という意味である。これに対して「アハンカーラ」は、「自惚うぬぼれ」とか「自尊心」という意味である。そこで法尊は「凡常の慢」と訳したのであるが、これでは意味が通じにくい。
 語源的に見ると、アハンカーラは、アハンつまり「我」とカーラ「作者・作用」の合成語である。つまりアハンカーラを通常の「自惚れ」とか「自尊心」の意味ではなく、「自我の設定」という意味に解すれば、プラークリタ・アハンカーラは「日常的な自我の設定」となり、意味が通じるようになる。
 そこで第8回で提示した図を再度、見て頂きたい。我々は、5つあるいは6つの感覚器官を通じて外界を感受し、種々の行為器官によって外界に働きかけて日常生活を送っている。このうち感覚器官を通じた感受は、主として五蘊のじゅ、外界に働きかける意志は五蘊のぎょうの働きであるが、我々は漠然と、無感覚(サンスクリット語ではジャダという)な物質世界と、それから独立した自由意思をもった個我が存在すると考えている。


 これこそインドの密教者が、プラークリタ・アハンカーラ(日常的な自我の設定)と呼んだものと思われる。そしてそれを退治するとは、我々が日常的に感じている主観と客観の二元対立は実は虚偽であり、それを打ち破ることによって真実に目覚めるという意味があると思われる。
 そこでツォンカパが引用している『秘密集会ひみつしゅうえ』「聖者流しょうじゃりゅう」のテキスト、『行合集灯』(チャリヤーメーラーパカ・プラディーパ)を見ると、
 「またこのように、無始爾来むしにらいの凡常の慢(プラークリタ・アハンカーラ)によって存在している蘊界処等が、いま一切如来の微塵みじんの集積を本性とするものとして示された」と説かれている。
 仏教は宇宙の始原を認めない。我々は無限の過去から悟りを開いて涅槃ねはんに入るまで、輪廻りんねの世界を彷徨さまよっている。そこで無限の過去から現在までに染み着いた慣習的な習性を習気じっけといい、これが無始爾来の意味である。そして「蘊・界・処」による世界観は、このような無限の過去から現在まで染み着いた、習慣的な自我の設定によって存在している。第9回で見た、最後有さいごうの菩薩は「所取しょしゅ能取のうしゅの二元対立という習気から完全に脱却しているので」悟りを開くことができるとされたのは、このためである。そのような習慣的な自我設定を打ち破り、世界を仏・菩薩の顕現と悟るのが、曼荼羅の生成的な観想である生起次第の意味とされている。
 つぎにそれが「一切如来の微塵の集積」とされるのは、何故だろうか?
 大乗仏教では『華厳経けごんきょう』以来、宇宙の塵の一つ一つにも仏が宿ると説く。この場合の仏とは歴史的ブッダである釈迦牟尼しゃかむにのことではなく、理法としてのブッダ、法身ほっしんであるが、それは宇宙に遍満しているので、微細な塵の一つ一つにも仏が宿ると考える。「蘊・界・処」に配当される経験世界も、その微塵の集積と考えられる。
 この後『行合集灯』では、「蘊・界・処」にどの尊格が配当されるのかが説かれ、さらに曼荼羅の中央と東西南北に配される五仏が、お互いにお互いを包摂しあう(互相渉入ごそうしょうにゅう)することで森羅万象が構成されると説いている。これを「最上百族の定寂身じょうじゃくしん」というが、詳しくは『秘密集会』の概説書を見られたい。
なお密教では、曼荼羅の五仏は、時空に遍満する一切の仏を代表する存在なので「一切如来」と呼ばれる。これが「蘊・界・処」が一切如来の微塵の集積とされる理由である。
 これはちょうど古典物理学や相対性理論が適用される十分に粗大な物質世界が、世間一般の常識と著しく乖離する量子力学が適用される量子の集積からなっていることに似ている。
 そこでもう一度、第8回で提示した図を考えてみよう。我々が行為器官を使って外界に働きかけると、その結果は外界に反映され、感覚器官を通じて認識される。我々の日常生活は、このようにして自己と外界の間でフィードバック系を形成しており、前述の「シュレディンガーの猫」や「量子もつれ」のような問題に直面しない限り、自己完結している。つまりそれより低次元の下部構造について、考察する必要を感じないのである。
 第11回で見たように、「ラプラスの悪魔」は現在の科学レベルでは実現不可能である。しかし人間の思考を司るニューロンは十分に粗大であるから、思考実験の上で存在するとすれば、それは自己と外界の間で成立する認識と行為のフィードバック系を破壊してしまう。つまり「ラプラスの悪魔」が成立するためには、ある特定の時間における宇宙の全ての粒子の運動状態を知らなければならないが、その中にはラプラスの悪魔の意志を決定する脳内のニューロンを構成する粒子も含まれているからである。
 つまりラプラスの悪魔のパラドックスは、主観と客観の二元論からなる「日常的な自我設定」が、虚偽であることを示唆している。
 このように自己も外界も、物質という下部構造のレベルでは物理的因果律に支配されているのであり、それから独立して自由意志をもつ自我や、それに基づく主観・客観の二元対立は架構されたもので、実在しないということになる。
 私はパソコンのヘビー・ユーザーで、本書を含めて70冊ほどの著訳書の文書データや索引、CGによる曼荼羅のイメージ・データベース、大学講義用のプレゼンテーションや、講義のダイジェスト版のビデオ・コンテンツ、自作の交響管弦楽曲の楽譜データ、それを音源モジュールやソフト・シンセで合成した音楽データなど、総計1TB程度のコンテンツを保有しており、その一部は自身のYoutubeチャンネルで公開している。
 そこである時、ドス窓(現在はコマンド・プロンプト)を開けて作業していたら、長男に「コンピュータでプログラミングでもやっているのか」と言われて驚いた。長男は現在、MOSの基本情報技術者の資格を取っているが、それでもMS-DOSを扱ったことがなかったのである。
 私たちが学生の頃は、MS-DOSを知らなければパソコンが扱えなかった。したがってパソコンに詳しいというのは、ベーシックやC言語で簡単なプログラムが組めるレベルのユーザーを意味していた。ところが基本OSを知らなくても、アイコンだけで操作できるMACが開発され、マイクロソフトもそれに対抗してWindowsをリリースした。そして現在ではパソコン操作がWindowsだけで完結してしまうので、若い一般のユーザーは基本OSの存在を知ることも、使うこともない。
 今のユーザーが、それより低いレベルのOSのお世話になるのは、パソコンがコンピュータ・ウィルスに感染した時か、将来の故障やHDDの買い換えに備えて、パソコンのシステムを含めてバックアップを取らなくてはならない時などに限られている。
 このような状況は、我々が「日常的な自我の設定」に慣れており、それが仏の顕現である微細な粒子からなることに気づかないという「凡常の慢」説に通じるものがある。
 それではこのような「凡常の慢」が退治されたら、どうなるのであろうか?
 これについてはツォンカパが『密宗道次第広論』で、『行合集灯』とともに引用している『ヴァジュラパンジャラ・タントラ』に、以下のように説かれている。

「凡常の現れを滅するために、正しい修習しゅじゅうが推奨されるが、
凡常なる状態が滅することはない。修習しないことが修習である」

 なお『ヴァジュラパンジャラ・タントラ』の原典は、チベット自治区に残存していることが確認されたが、まだ写真やテキストは公開されていない。私は1988年から翌年にかけてのネパール留学で同タントラの註釈の写本を発見したが、残念ながら上掲の偈を註釈しているところは、写本の破れと汚損があって全文を復元できない。
 ただしチベット訳で「凡常の現れ」(タメルペー・ナンワ)と訳されている箇所の原語は、プラークリタトヴァつまり「日常性」であることが分かった。
 つまり「日常性を否定するためには、正しい修行をしなければならないが、修行をしたからといって日常性が消えてなくなる訳ではない。(その意味では)修行をしないことも修行である」といった意味になると思われる。
 このように『ヴァジュラパンジャラ』の「凡常の慢」解釈は、現実の世界を否定あるいは無化するものではなく、それについての我々の見方を改めさせるものと思われる。
 第9回で紹介した「ブッダは、『般若経はんにゃきょう』で一切法のくう・無自性を説いた時、舎利弗しゃりほつ尊者の顔が見えていなかったのか?」という逸話のように、仏教の空や無我という思想は、日常的な世界観に慣れている人々には、なかなか理解されない。
 しかしながらインド後期密教の「蘊・界・処」説は、我々の経験しつつある世界を整理するとともに、それが主観・客観の対立からなることを明らかにした。さらに主客の二元対立が究極的には迷妄であることを主張した点で、仏教が初期から主張してきた諸法無我説、大乗仏教になってから重視された主観・客観の二元対立は存在しないという主張を、新たな視点から表明したものとして重要である。
 しかし「凡常なる状態が滅することはない。修習しないことが修習である」といった場合、修行をするメリットはどこにあるのかという疑問が湧いてくる。
 次回では、このような二元論を超克した人は、どのような行動様式をとるのかという問題を考えてみたい。

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著者略歴

  1. 田中公明

    1955年、福岡県生まれ。1979年、東京大学文学部卒。同大学大学院、文学部助手(文化交流)を経て、(財)東方研究会専任研究員。2014年、公益財団化にともない(公財)中村元東方研究所専任研究員となる。2008年、文学博士(東京大学)。ネパール(1988-1989)、英国オックスフォード大学留学(1993)各1回。現在、東方学院講師、富山県南砺市利賀村「瞑想の郷」主任学芸員、東京国立博物館客員研究員、チベット文化研究会会長。密教や曼荼羅、インド・チベット・ネパール仏教に関する著書・訳書(共著を含む)は70冊以上。論文は約140編。くわしくは個人ウェブサイト(http://kimiakitanak.starfree.jp/)を参照。

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