スキゾ未遂、もしくは〈わたくし〉未遂
ドゥルーズのことを書きたいとおもった。おりにふれてドゥルーズ(の書いたもの)を読んできて、ドゥルーズについて書かれたものも読んできて、ドゥルーズのことを書いておきたいとおもった。ドゥルーズについて書くわけではない。「について」書くには、まだじゅうぶんに読んだとはいえないからだ。それはべつに俗っぽいストイシズムとか、アカデミズムやジャーナリズムのなわばり争いとかいったことでもなくて、ごくシンプルに、まだ読みたりないな、と感じているにすぎない。
ドゥルーズのことを書くというので、なにを書きたいのかというと、死のことを書きたい。死のことを書くというやくそくではじめたエッセイなので、というのもあるが、死のことよりだいじなことなんてこの世にほかにあるのだろうか、と、わりあいいつも考えている性分だから、というのもある。三十年前に、七十歳のドゥルーズは、呼吸器の重い病いで疲れたからだを、パリのアパルトマンの窓から投げだした。それで死んだ。浅田彰がよくひきあいに出すドゥルーズのことばで、雨がふる(il pleut)ようにひとが死ぬ(il meurt)、というのがあった。語義の詮索はあとまわしにして、そしてたぶんそのまま忘れてしまって書かずにおわる気がするが、くたびれて、からだをポンと投げ、重力のままに自然落下していのちを落とした、というのは、数かぎりない雨粒が、かぞえようという気もおこさせないくらいつぎつぎに落ちてはじけていくのと、やはり似ているな、などと、凡庸なかんがえがうかぶ。そういえば、くたびれる、と、くたばる、というのは、おなじところからきたことばらしい。死ぬときまでやたらと元気であることもすくなくはないが、くたくたにくたびれてくたばるというのは、ひとたびともった火がやがて酸素を使い尽くして消えてしまうことをおもわせて、いかにも自然現象、というかんじがある。人間の自由意志と、決定論的な自然とが、くたくたにくたびれてついにくたばっていく老人のからだとこころにおいて、矛盾したまま共存している。
ドゥルーズがそのように死んで三十年が経った(そしてそのような死をむかえるまでの人生のすべての時間をあわせると百年が経った)ということに、ありふれた関心をそそられて、ドゥルーズの書いたものを読みかえした。死ぬまえに公になった文章のなかで最後のものとして、いろんな人たちが話題にのぼせる«L'immanence : UNE VIE…»という、ごくみじかい哲学論文、またはその予備的なスケッチのようなものを、まずフランス語で読んで、それからたまたまいま住んでいるまちの、とくに奥まった山あいの地域の公民館になぜか一冊、ドゥルーズのこの文章の日本語訳「内在――ひとつの生……」がおさめられた『狂人の二つの体制』の下巻だけがあることがわかり、市民としての権利を行使して、もよりの公民館までとりよせてもらい、かりだして、よんだ。読むだけではもったいなかったので、スマートフォンのメモアプリに、ふとくて不器用な指のフリック入力で、のろのろと全文をかきうつした。むかしの文学青年が、志賀直哉だとか梶井基次郎だとか、文章家だといわれている人びとの書いたものを、もう一度じぶんの手で原稿用紙に書きうつしてみる。そんな「修行」のことをまねるつもりはさらさらなかったのだが、コンビニエンス・ストアのコピー機をつかうよりは、じぶんの眼と指を酷使したほうが金銭的負担はすくないぞ、などと、たぶんどこかしら狂った損得勘定(たいてい損得勘定をこころみるとそれはなにかしらの狂いをはらんでしまう)をして、書きうつした。
書きうつしたあとで、さらに何冊かの本を読み、これだと思ったところは、おなじ市内や県内の図書館から公民館にとりよせてもらった本なら、やはりおなじようにスマートフォンに書きうつしたり、抜き書きをしたりした。じぶんで買ったりもらったりしてもっていた本は、ページのすみを折ってドッグイヤーでしるしをつけたり、鉛筆やボールペンで線をひいたり、鉤型のしるしで囲んだりして、どこに書かれたことをじぶんの書こうとしている文章に取り入れたいのかを見分けやすいようにした。
そうして準備したことを書くのだが、そのまえにまずひととおり、そもそもどのようにしてドゥルーズを知ったのか、ドゥルーズという名前があり、それがフランスで二十世紀後半にいろいろなものを書いたりしゃべったりした哲学者のことをさすのだと知り、その書きものを読み、しゃべっているさまを録画録音したものを視たり聴いたりし、またそうするためにいくばくかの負担をはらって大学や大学院でフランス語などの勉強をした、そうした流れのことを、はなしの前提として書いておいたほうがよいのではないか、いや、ぜひ書いておくべきだ、とおもった。おもった、というと、一人称の主語が「おもう」、すなわちデカルト(の俗な理解)ふうにいえば「コギト」になってしまうのだが、ここで「おもった」と書くのは、一人称の主語とか代名詞がでてくるまえの、いまこれをスマートフォンにむかってフリック入力している肥満した日本語話者の肉体をつうじて、ほかのどこかにあった思念や想念、もっと端的にいえばさまざまなことば、またはことばへと生成しつつあるなにものか、そういったモノたちが流れこみ、また流れだした、というほうが、実感にあっている。だから、一人称でかたるべき話を、これから、一人称から遁れながら、書いていく。それはもしかしたら「私小説」として書かれるべきことなのかも知れないが、どうしても〈わたくし〉ほかの一人称代名詞でかたることはむずかしいので、なるべく遁れながら書いていく。けれども、のがれているうちに、きっとどこかでのがれきれないところが出てくるだろう。ドゥルーズのこと、とりわけその文章にでてくる「死」のことは、その次になってから、書く。だから今回のこの文章には、「死」のことは、たぶんあまりでてこない。おゆるしいただきたい。ゆるされなくても、書く。書くほかない。
福島でうまれた。福島県は北海道、岩手についで三番めにおおきな県だ。なので、県のちょうどまんなかあたりにあって交通のかなめになる、郡山という町がいちばん栄えている。つぎに栄えているのが、港町のいわき。むかしは炭鉱町でもあった。旧制中学も、一中が郡山にあるいまの安積高校、二中がいわきにあるいまの磐城高校で、県庁がある福島市に旧制中学ができたのは三番目だった。三番目にできたのと、安積と磐城の校章が桜なのとで、「桜より先に咲く」という理由から校章を梅にした。そんな福島高校という学校を受験して、進学して、三年間通って、卒業した。
うまれそだったのは福島市ではない。となりの保原町(ほばらまち)というところでうまれ、中学まではそこの公立校に通った。福島高校に通ってくる生徒のほとんどは福島市内のどこかしらからきているので、阿武隈急行線という第三セクターのローカル線で通っているのは、だいぶアウェイだという感があった。福島市も県庁やそのほかいろいろの公的機関があつまっているだけで、郡山やいわき、あるいは歴史があって観光地になっている、会津若松や相馬のような町でもない。
保原というのはさらにその隣、いちおうベッドタウンなのだが、山あいの農村とでも呼ぶほかない町である。果物をそだてるのがさかんで、十万円ほどふるさと納税すると、季節ごとにさくらんぼ、桃、シャインマスカット、あんぽ柿、いちごがたんまり送られてくるらしい。あとはこのあたり一帯にいえることなのだが、養蚕業がさかんだったので、そのながれをくんでニット製品の生産でも知られているようだ。絹製品の輸出のために、東北ではじめて日銀の支店ができたのも福島市だったらしい。前衛俳句の金子兜太は東大から日銀にはいったエリート銀行員だったが、組合活動に力をいれすぎて福島などにとばされた、という。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
ことし、鈴木結生というひとが芥川賞をとって、福島出身だというのでこちらでもいくらか話題になった。福島駅の本屋にも色紙がかざってあったが、小学校の途中まで郡山にくらしていたとのことだった。福島でいちばん栄えているのが郡山なので、福島の芥川賞作家は郡山の安積高校がずば抜けておおく輩出している。芥川賞はとっていないが、古川日出男も安積高校をでたひとだ。福島の高校をでた芥川賞作家のうち、安積高校いがいなのは、磐城女子高校の松村栄子(『至高聖所』)と会津高校の室井光広(『おどるでく』)ぐらいではなかったか。福島高校の卒業生で文学のほうでひろく世に名が知られるようになった人は、長田弘や和合亮一といった詩人、あとはデリダ研究や靖国問題にものもうしたりなどして有名になった高橋哲哉がいる。長田弘は、こちらが高校三年のときに講演会にきたことがある。iPodのiはなぜ小文字なのか考えてみてください、と問いかけていた。高橋哲哉は、高校の三年間ずっと現代文をならった先生がかれと同期のOBだった。高橋はとんでもない秀才で、試験の模範解答をくばってほしいと生徒がたのんだら、そのころの教師は高橋哲哉の答案をコピーしたものを各教室に貼ったものだ……という伝説をきいたことがある。
ほかにゆかりがある文学者ということになると、父方のルーツが相馬のちかくの小高(おだか)という町にあるのだが、ここは埴谷雄高や島尾敏雄の父祖の地でもあるのだという。小高にはいちどしか行ったことがないのであまりイメージがわかないのだが、ふたりともこの地にそれなりに思い入れがあったらしく、文学館まで建っている。いまは合併して南相馬市という名前になっており、移住してきた柳美里がフルハウスという書店を開いてもいる。
ともあれ、しらべてみると多少は文学者とのつながりがなくもない地域や学校ではあるのだが、あまり文学的な香りのする土地ではなかった。高橋哲哉と同期だったという現代文の先生はやや右がかった思想のひとで、しかし小泉純一郎や安倍晋三ではなくて、福田康夫や石破茂のことをよくしゃべっておられた。宮沢賢治の文語詩で修士論文を書いたのだとおっしゃっていた。じじつ、しらべるとこの先生がかいた賢治についての投稿論文がいくつかみつかる。高校三年の文化祭で古本市があり、この先生が出していた本のなかから、すすめられるままに吉本隆明の講演集と、中山元の『「ぼく」と世界をつなぐ哲学』という新書を買った。吉本隆明はシモーヌ・ヴェイユのことを熱っぽくかたっており、先生はヴェイユと宮沢賢治の生きざまをかさねた話をしてくださったが、こちらの関心のむかう範囲とはかならずしもかさならなかった。新書のほうは、いろんな哲学や思想のダイジェストのような紹介をぎゅうぎゅう詰めにした本だった。ここではじめてヘーゲル『精神現象学』にでてくる主人と奴隷の弁証法から、ラカンの鏡像段階論と「パパン姉妹事件」論(日本語タイトルは『二人であることの病い』)、さらにおなじ事件がきっかけで書かれたといわれるジュネの戯曲『女中たち』といった本たちを知って、ばくぜんとフランス現代思想といわれる分野についてもっと知りたいという気持ちをもつようになった。
そのころ、まだスマホは広まっていなかったので、ネットにアクセスするのはもっぱらガラケーだった。ガラケーでWikipediaやアンサイクロペディア、青空文庫などをみられるように変換してくれる「暇つぶしWikipedia」「暇つぶし青空文庫」などのサイトがあり、フランス現代思想に興味をもったとき、まずしらべたのがこの手のサイトだった。青空文庫をきっかけに京都学派(そのころ読めたのは西田幾多郎のほか、三木清、波多野精一、九鬼周造、和辻哲郎など)にはまったりもしつつ、いなかの新刊書店にもかろうじて並んでいた東浩紀の新書や斎藤環の文庫本からつながるかたちで、「暇つぶしWikipedia」を読みすすめ、かつてニューアカと呼ばれた知の潮流のことをはじめて知った。
二〇〇八年の二月、東京に出た。指定校推薦で大学にはいったので、一般入試のひとたちよりはやく上京した。推薦をえらんだ理由には家のなかのさまざまな事情などがフクザツに絡みあっているのだが、もともとはいちおう国立大学にゆこうとおもっていた。二次試験で数学をつかわなくてよい人文系を偏差値のたかい順番に志望校としてならべて、第一志望は大阪大学文学部、第二志望は北海道大学文学部、第三志望はセンター試験の数学も1Aと2Bのうち点数のよいほうだけで受けられる筑波大学比較文化学類にしていたのだが、直前になって早稲田の文化構想学部、それも推薦という道をえらんだ。そこはできたばかりの学部で、オープンキャンパスにいったとき、はじめは文芸創作系のコースをのぞいたのだが、みんな中上健次なんかの話をしていてついていけず、ふらふら迷いこんだべつの専攻の説明会でフランス現代思想や精神分析のはなしを聞き、こっちのほうがおもしろそうだと軽いきもちで志望をきめた。となりのクラスに、成績もおなじくらい、部活など課外活動でのこした実績もおなじくらいで、そして性格にかんして絶望的にそりの合わないやつがいて、かれが東大の文科三類をねらうと公言していたのを、一転して早稲田の文学部を推薦でうけることに変えたらしいというので、競合したくなくて文化構想という、まだできて一年しか経っていない学部のほうを選んだ。慶應は文学部の推薦枠がなかったから、というきわめて消極的な理由で、早稲田という大学をえらんだことになる。
田舎からでてきて早稲田に通うとなると、だいたい不動産屋は西武新宿線沿線でアパートをさがすようにすすめる。西武新宿線は終点・始発になる西武新宿駅がJR新宿駅とつながっていない(なんと歌舞伎町の目の前にある)ので、実質的なターミナル駅としてつかわれているのが高田馬場駅で、すこし南をほぼ並行して走っている中央線や、北のほうを走っている西武池袋線などとくらべると、どうしても人気があまりない。しかし高田馬場駅から早稲田までは歩いてもたいした距離ではないし、バスや地下鉄(東京メトロ東西線で一駅ぶん)もとおっているので、とりあえず通学の便はよい。かつて、
雨降れば傘 ひとはみな騙されて西武新宿沿線に住む
という短歌を詠んだことがあるが、わかい人で西武新宿沿線に住むのは、人気のある中央線沿線では家賃があまりに高いからというので、バスや徒歩でわりあいらくに中央線沿線の街にも出られるという位置関係から、妥協していったはてに住んでいるのだと、これは冗談はんぶんにいわれている。マツコ・デラックスはかつてどん底のようなくらしをしていたころに都立家政という駅のそばに住んでいたので、テレビで「都立家政とか野方とかいってもひとに通じないから、中野とか高円寺とか近くにある中央線の駅名をいう」と、愛をこめて西武新宿線をけなしてみせたことがあった。そういえばEXITの兼近も、かつて都立家政のとなりの鷺ノ宮に住んでいたことがあり、この町のいちばんのよいところは「阿佐ヶ谷に近い」ことだと言い切っていたはずだ。
こちらとしては受験で日和り、住居でもまた日和ったかたちになるわけだが、じぶんでえらんだ人生なので仕方がない。はじめに住んだのは東伏見という、ぎりぎりのところで東京二十三区からはずれた駅のそばだった。すこし歩けば練馬区関町になるのに、そこは西東京市(旧保谷市)にくくられる。ふた駅先の田無ほどおおきな街というわけでもなく、野球部のグラウンドをはじめ、早稲田の体育会系の学生たちが使う練習場ばかりが集まっているふしぎな町だった。駅前にはスケートリンクがあり、アイスホッケーの試合などで使われるほか、年に一度、おおきなフィギュアスケートのもよおしがあって、その日だけは異様なぐらいに客があつまって混雑する。駅前に生協とコンビニエンス・ストアとドラッグストアが何軒かあるほかはあまり店がなくて、外食しようとおもっても選択肢はマクドナルドか松屋のどちらかしかなかった。あとは郵便局があるほうにむかってすこし歩くと、かろうじてモスバーガーがある。駅名も地名も東伏見といっているが、そのすぐ西に伏見という町があるわけではなくて、はるか西の京都に伏見稲荷大社があり、そこからのれん分けした神社があるから東伏見というようになったのだそうだ。それ以前は駅のなまえも「上保谷」だったという。
東京に出てきてびっくりしたのは定期券のねだんがほんとうにこれでいいのかとおもうぐらい安いことで、高校のとき使っていた阿武隈急行線は、半年ぶんの通学定期を買うと八万円ぐらいかかってしまうのだが、東伏見から高田馬場の通学定期を買おうとしてびくびくしながら窓口できいてみたら、なんと半年定期でも二万円でじゅうぶんお釣りがきた。そして高田馬場駅にはビッグボックスという黒川紀章がつくった駅ビルがくっついており、改札をでると目のまえがその催事場スペースになっている。そこではいつも北海道物産展とか、靴のセールとか、カバンのセールとか、タオルとハンカチのセールとか、何かしらが売られているのだが、二〇一二年ごろまではここで毎月のように古本市がひらかれていた。
福島ではブックオフのほかに古本屋を見たことがなかったので、通学の途中にいやでも古本市を見ることになるのは刺激的だった。さらに高田馬場駅から早稲田までは電車賃をけちって徒歩でかよっていたので、そのころはまだ生きのこっていた早稲田の古書店街にも目うつりする。おそらく大学四年間の遅刻のほとんどは、こうした古本市や古書店街が原因だったはずだ。文庫化されていることも知らずに柄谷行人の白いハードカバーを買いあつめてみたり、三木清のことを書いているという理由で買った林達夫の中公文庫をそれをきっかけにさがして揃えてみたり、それまでまったくきいたことのない名前だったが、やはり戦前の京大の話をしているからと買ったのが岩波文庫の『花田清輝評論集』だったりした。遅刻の数だけ本の思い出がある。
坪内祐三のひそみに倣うわけではないが、どういうわけか文庫本というものが好きでたまらず、古本市でも文庫のワゴンは毎回じっくりうっとり見てしまう。そこから林達夫や花田清輝を知ったわけだが、またこのワゴンからは中村光夫『戦争まで』(中公文庫)や矢内原伊作『抵抗詩人アラゴン』(アテネ文庫)、加藤剛『こんな美しい夜明け』(岩波現代文庫)といったサイン本を格安で手にいれる思いがけない機会があったり、紙質がよくないうえ紙が足りないためにページが少なくてうすいのが「戦後」を感じさせるアテネ文庫のほか、戦前の改造文庫や創元文庫、新潮文庫といった本が手にはいったりするのもうれしかった。改造文庫でクーノー・フィッシャーの哲学史からヘーゲルの箇所だけぬきだして訳した二巻本、創元文庫でヤスパースのニーチェ研究の、やはり一部だけをぬきだして訳したシリーズもの、みどり色をした戦前の新潮文庫にはいっている阿部次郎のツァラトゥストラ評釈といった、わけのわからない哲学関係の本をひろってくるのがたのしみだった。アテネ文庫はうすいからすぐ読めるのがすきで、和辻哲郎の『ケーベル博士』とか、唐木順三の『自殺について』とか、あとは早稲田のタレント教授だった宗教学者・仁戸田六三郎の『論理学入門』などを買ってもっていた。のちにこのたのしみの延長線上で、博士課程にすすんだばかりのころ、戸山図書館(早稲田大学の人文系は戸山キャンパスにまとまっており、そこに中央図書館とはべつな専用の図書館がある)が大規模な蔵書整理をしたことがあり、そのときグループ学習用の部屋にならべられていた哲学関係の除籍本をかたっぱしから持ち帰るところまでいった。野田又夫著作集、波多野精一全集、三木清全集、西田幾多郎全集、田邊元全集、森有正全集といった日本の哲学者たちの全集や著作集を、完全な揃いはむずかしくても、ほとんどの巻をタダで手に入れられたのだから、そのよろこびは言いようもないものだった。除籍本ではそのほかにも、研究社から出ている赤いハードカバーに金文字の、たぶん大学英文科や教養課程の教科書としてつくられたものだと思うのだが、ちいさな活字で註釈が付いた英文学のシリーズもずいぶんもらってきたおぼえがある。
こうして、とにかく古ぼけた小難しそうな本がたくさんあるときげんが良い、安価ないし無料で手に入るとなおきげんが良いという人間ができあがってしまったのだが、その第一歩となったのが、西武新宿線高田馬場駅ビッグボックス一階催事場での古本市だった。ここではじめて買った本、ということはつまり上京してはじめて買った本のことは今でもよくおぼえていて、それは浅田彰の『構造と力』だった。白い表紙のうえに厚手のビニールのカバーがついていて、長いことそれを外さずにとっておいたのも思い出す。日に灼けて表紙は黄ばんでいたのだが、なにしろ初対面がこの古本でのことだったから、ながいこと『構造と力』というのはクリームいろの表紙をした本なのだとおもいこんでいた。そのあと何年かして大学生協の書店(会員証をみせると一割引で売ってくれるのだが、新刊書はもとのねだんが高いのであまり通えなかった)でみかけた『構造と力』の白さにびっくりしたのも、いまとなってはとてもなつかしい。
ここであらためて言い直しておくと、『構造と力』を買ったとき、ということはつまり東京に出てきて大学でフランス語をアーべーセーから習いはじめたとき、すでに二〇〇八年だった。『構造と力』の初版が一九八三年だから、こちらは実に二十五年、四半世紀も遅れてやってきた読者ということになる。さいしょの歌集を出したとき、短歌の鑑賞をネットで書きつづけておられる京大の東郷雄二先生から、「遅れてきた文学青年」というようなことをいわれたのだが、平成元年うまれというのはもう、なにをするにも遅れて生まれてきたというかんじがする。たんなるひがみなのだろうが。
そのころよく聴いていた音楽は相対性理論だった。まだセカンドアルバムの『ハイファイ新書』が出るか出ないかというぐらいの時期だとおもう。高校までに聴いていた音楽は昭和特撮や声優にかんするものと、ネットのひろまりで聴きやすくなった懐メロやコミックソングをのぞけば、中学時代に「王様のブランチ」かなにかで再発アルバムの告知をみて衝撃を受けたYMOと、そこからさかのぼって細野晴臣のいたはっぴいえんど、高橋幸宏のいたサディスティック・ミカ・バンド、坂本龍一のソロアルバム、それにクラフトワークやDEVOやトーキング・ヘッズ(このへんはライナーノーツにのっていたインタビューを参考にさがした)といったテクノ/ニューウェーヴ/ポスト・パンクあたりがせいぜいで、あとは先に挙げた現代文の先生にすすめられたキング・クリムゾンやアフロディテス・チャイルド『666』などのプログレぐらいだったので、大学でであった人たちにおしえられた相対性理論は、はやりの音楽をリアルタイムで聴くというはじめての経験だった。時代はゼロ年代終盤。団塊世代の定年にともなう売り手市場が予想された就活情勢はリーマン・ショックのために一変し、自民党から民主党に政権が交代し、毎年のように首相が変わるも、まだぎりぎり東日本大震災は起きていない、そんな小春日和のようなプチ氷河期に大学生活をおくっていたことになる。相対性理論/やくしまるえつこの歌詞は、一九八〇年代から九〇年代半ばにうまれた世代にノスタルジーを感じさせるような固有名詞をふんだんにちりばめて、語呂のよさや韻をふむ快楽を追いもとめたつくりになっていて、ぬるま湯につかったみたいに気持ちのいい音を浴びる日々がしばらくつづいていた。
さいきん増補版が文庫になった佐々木敦『ニッポンの思想』(新書版は二〇〇九年)は、八〇年代の主要なプレイヤーを蓮實重彦・柄谷行人・浅田彰・中沢新一の四人、九〇年代は福田和也・大塚英志・宮台真司の三人とそれぞれ挙げていたのに対して、つづくゼロ年代は「東浩紀ひとり勝ち」の時代なのだというふうにまとめていた。ニューアカの夢よもう一度、というふぜいではじまった「ゼロアカ道場」の話題はキャンパスのあちこちできかれ、文学フリマはいまのような詩歌や日記、エッセイのZINEがあつまるお祭りではなくて、現代文芸とサブカルチャーをめぐる批評が主流であったようにおもう。大学にあった文芸系のサークルでも、小説や批評をやっている人たちとくらべると、短歌会なんていうちいさな集まりにちぢこまっている身としてはどうしても肩身がせまく、じぶんで書いたものにしても短歌よりまず、エロゲーの『さよならを教えて』をラカンふうの道具立てで論じた若書きのかたくるしい文章が、学内のミニコミ誌のような媒体に載ったことでさきに注目された。所属していた表象・メディア論系というところは、そのころできたばかりの専攻だったこともあり、教員も学生もさぐりさぐりやっていたため自由なテーマで発表してよい演習がおおく、かならずだれかしらは『動物化するポストモダン』を援用して「大きな物語の終焉」や「データベース消費」のはなしばかりしていた。『さよならを教えて』論もそういう時代の空気を露骨にあびて、またじぶんからふんぷんと発散している。
そのころひろく使われていたネットスラングは、リア充/非リア、コミュ力/コミュ障、自己責任(論)、ぼっち、便所飯、ランチタイム症候群、内々定/無い内定、「※ただしイケメンに限る」、メンヘラ、アスペ、といったあたりだった。そのあとにやってくるウェイ、陽キャ/陰キャ、チー牛、OD、地雷系、ぴえん、トー横キッズ、警固界隈、「ガイジ」……などのミームたちの時代ほど過酷ではないのだろうが、とつぜん再来した就職氷河期に、まだiPhoneがでてきて数年しかたっておらず、スマートフォンやSNSが普及しきっていない、というか「意識高い」――このスラングも同じころに使われだした――層しか使っていないなか、匿名掲示板で連帯することもできないままうずまいていた負の感情がひしひしと伝わってくるようだ。いやな時代だった。いやでない時代をさがすほうが、そもそもよっぽどむずかしいのだろうけれど。
学部でおなじゼミになったひとたちと話すのは、ひどく苦手だった。毎年春になると人でごったがえすキャンパスをさまよいながら、「はやく連休があけて、サボることをおぼえた要領のいいやつらが大学にこなくなりますように」と祈ってばかりいた。このあたりは「今どきのシティボーイはスパイスカレーか短歌をつくっている」などと言われるいまの学生生活とはいくらかギャップのあるところかも知れない。早稲田短歌会では毎週一回か二回は歌会をやっていたが、あるときゲストにきてもらった穂村弘さんに「せっかく大学生なんだからさ、テニサーとか入らなくていいの?」と言われ、みんなにがわらいするしかなかった。そういえば早稲田大学から出てきたそのころの有名歌人でも、俵万智はアナウンス研究会、加藤治郎は邦文速記研究会の出身だった。ゼミの合宿で、マスコミ研究会や広告研究会、フリーペーパー編集サークルや軽音サークルのひとたちにまぎれて「短歌会です」と自己紹介するのはめちゃくちゃにはずかしいことだった。だいたい詩吟や手品などのちいさなサークルにいるひとたちとおなじくくりにされた。詩吟サークルの内紛のはなしなどを聞かされて、どういう顔をしていればよいのか決めかねながら、熱海の旅館で恩師が無限につくりつづけるキールをなん杯も飲みほしていった。
よその大学にいってもそう変わらないのだろうが、早稲田大学はサークルが非公認もふくめるとばかみたいにたくさんあるので、入学式のあとの新歓はなんというか、魑魅魍魎、百鬼夜行、地獄絵図といったかんじになる。いまとなっては信じがたいことだけれど、二年生で短歌会の幹部になってからは、春の新歓シーズンには本部キャンパスのブースに連日立って、着なれないスーツに身を包んでぎくしゃくあるいてきた新入生たちにかたっぱしからビラを押し付け、「五七五では足りないあなた! まだ七七があります!」「俳句ではありません! 季語はいりません!」などと絶叫していたのだ。ブースによってくれる新入生でも、よく「短歌ってよく知らなくて、種田山頭火がすきです」という人もいた。山頭火は自由律とはいえ、いちおう俳句のくくりに入るひとなのだけれど。そのころの短歌シーンには木下龍也も岡野大嗣も、上坂あゆ美も岡本真帆も、初谷むいも青松輝も、まだあらわれていなかった。高田馬場の芳林堂書店ではまだ『短歌ヴァーサス』のバックナンバーが新刊で買えた時代のことだ。
岡崎京子の漫画『東京ガールズブラボー』下巻のおしまいには浅田彰との電話対談がのっていて、九〇年代は七〇年代の再来だというようなはなしがなされていた(と、記憶している)。崩壊へとつきすすむバブルのまっただなか、電話という、いまからすれば時代おくれにもほどがあるメディアを介して交わされたその「未来予測」の当否はともかくとして、九〇年代につづくゼロ年代は、八〇年代の再来のような顔をしてやってきた。歴史の悲劇は二度目から茶番になるわけだが、三度目は茶番からなにになるのだろうか。
二〇〇八年のスキゾ・キッズとなってまもなく、革マル派にオルグされた。七〇年代ぐらいから、中核派と陰惨な「内ゲバ」をくりひろげ、ほかならぬ早稲田のキャンパスで死者をだしたりした政治セクトである。新歓イベントとして大学生協がひらいた講演会のとき(ちなみに呼ばれていたのは人気がかげりつつあったフジテレビの軽部アナウンサーだった)、「現代思想研究会」というサークルに警戒心ゼロでキャリアメールのアドレスをおしえたら(まだLINEなどなかったのだ)、かれらは現代思想といっていてもなかみは新左翼すなわち旧人類だったわけだ。顔をおぼえられてしまい、べつな新歓イベントのときに腕をつかんでむりやり連れていかれそうになったのを警備員にたすけられて事なきをえたのだが、あやうくあたら青春を棒にふるところだった。Zのヘルメットをかぶって、前進社でガサ入れにたちあう青春はおくりたくない。さらにこの恐怖体験にくわえ、ニコニコ動画(のちに医者になる高校のともだちはそこそこ知られた動画投稿者だったが、大学医学部でみるみるうちに右傾していった)やニュー速系まとめブログの影響もあって、それからしばらくはじぶんも反動でネトウヨになってしまったし、まわりにもかるくネトウヨがかったジョークを言いあえる層がすくなからずいた。しかし同時に、さきに書いたように古本市で柄谷行人のハードカバーを買いあつめていたので、『マルクスその可能性の中心』などにもしっかり読み耽っていた。ちょうどハタチのころだ。映画『涼宮ハルヒの消失』を、どういうわけかふだんの生活圏からはかなりとおい豊洲のららぽーとまで観にいったのだが、その往きかえりの電車でもずっと柄谷行人を読んでいたおぼえがある。当時つきあっていた一個下の学習院の女の子がすこしミーハーなかんじのオタクで、喫茶店でハーブティー一杯でねばり、えんえんとハルヒや長門有希のはなしをしていたこともあった。
古本市で手にいれた浅田彰『構造と力』は七〇〇円で、それが鉛筆で書きこまれたカバーの見返しのところに、やはりそのころ知りあったばかりの恋人の連絡さきを、こちらは青インクのボールペンで書きとめていた。この恋人というのは学習院のひととはべつの女性で、のちに新人賞をもらうことになる「忘却のための試論」という短歌連作のモデルになったひとだ。この連作をタイトルにした歌集『忘却のための試論』を二〇一五年の冬にだしてもらって、翌年の夏に『ユリイカ』が現代短歌特集をくんだのをきっかけに、この本を読んでくれたという浅田さん自身から、読後感をつづったメールをいただいて、あれは短歌をやっていていちばんうれしかった思い出かも知れない。
浅田・柄谷ははやくから読んでいたのに、蓮實重彥を読むようになるのはかなりあとになってからだった。震災後にでていたフランス語講読の授業で、そのとしのテクストがジャン=マリー・シェフェールのフィクション論(だいぶあとになってから『なぜフィクションか?』として翻訳がでた)になっており、参考文献として『「赤」の誘惑』をしめされたのが最初のはずだ。そのあと仏文科の修士に進んですぐ、仏文学会の春季大会が東大でひらかれ、ここで数年後の『「ボヴァリー夫人」論』にもくみこまれることになる「フィクションのテクスト的現実」についての講演があって、はじめてナマの蓮實重彥をみた。そのあともう一度だけ、こんどは偶然にナマの蓮實重彥をみた(とおもう)のだけれど、このはなしは、いま並行して書きすすめている、現代短歌についての本のまえがきに書いているので、ここではやめておく。
震災の前後をとおして、ドゥルーズのなかでも『ニーチェと哲学』の、国文社からでていた足立和浩訳を愛読していた。青いクロース装の本であったとおもう。それを一冊かかえて、まだ東北新幹線が復旧していなかった四月のはじめ、ふるさとへむかう満員の高速バスに乗りこんだのだった。もう江川隆男訳の河出文庫がでていたはずだが、旧訳のハードカヴァーを古本屋で六〇〇円くらいで買った。そこでドゥルーズはニーチェを自由自在にふりまわしながら、「反動」からのがれて「無責任」になることを肯定していた(ようにおもわれた)。この「無責任」への憧れは、じぶんのなかではクレージーキャッツへの愛好とふかく関係しているのだと、そのころすでに自覚していた。まだおむつも取れないころ、バブルの余波でリバイバルしていたスーダラ節を、ひどく好んでよろこぶ赤んぼうであったと、親はつたえている。小林信彦が『日本の喜劇人』で、植木等が『無責任一代男』をはじめてシャボン玉ホリデーで披露したときのことを書いて、いちばん偉いヒトだったはずの天皇が戦争責任をとらなかった国の風景、というようなことをいっていたのが、いま、天皇制と淫靡にむすびついた「短歌」という文芸にかかわるとき、いつも思い起こされる。そして震災と原発事故のあとはじめて福島の実家にかえった。春休みで震災の二日前まで帰省していたので、たかだか一ヶ月だけあいだをおいてまた帰ってきたわけなのだが、しかしそのあいだにいちど世界はおわり、かつて古代の杞のくにの人がおそれたように、天は崩れて人びとのうえに降りそそいだ。そうしてかえった実家のこども部屋で、ひそかにドゥルーズのニーチェ論と植木等/青島幸男の懐メロをかさねることで現実のどうしようもなさをどうにかやりすごそうとしていたころ、歌壇では、
天皇が原発をやめよといい給う日を思いおり思いて恥じぬ 吉川宏志
という短歌が議論をよび、かつて左派の「政治的前衛」であったはずが平成改元の前後に歌会始の選者となる「転向」をして批判された長老格のひとり岡井隆は、過去に東電のまねきで原子力関連施設をめぐった『ウランと白鳥』などの歌集のうえにひらきなおるようにして「原発はむしろ被害者、ではないか」と老獪な手つきでうたい、あまつさえ右派の論壇誌にまで寄稿するという、なにもかもしっちゃかめっちゃかの時代であった。東日本大震災がおきるだいぶ以前に、それこそ『ウランと白鳥』などで東電や皇室のお墨付きのもと、原子力と親しげにたわむれている岡井の短歌を、そのことをじゅうぶんに承知したうえでしかしなお、塚本邦雄をひきあいにじぶんは岡井ファンなのだ、その男のにおいにしびれるのだと褒めちぎる、「岡井隆頌」の副題をもった散文「男歌の快楽(けらく)」を発表していたのは、そういえば上野千鶴子であった。河野裕子が死んだことで、その永田和宏との夫婦関係ににわかにスポットライトがあたり、「夫婦ともに皇室歌会始選者」の「うたの家」とジャーナリズムの売り文句をつけられて、風間杜夫とりりィでドラマにまでなる小さなバブルが起き、そうした現象をひきおこさずにはおれない短歌という日本の病弊を、深沢七郎特集のムック本によせる、『風流夢譚』についての念には念を入れ凝りに凝った文章で、ちくりちくりと厭味に毒を吐いてみせたのは金井美恵子で、このように迂路また迂路をたどった書きかたをしてみせないと、この国で天皇制と日本語文学との関係を撃つことはできないのだろうかと、なおのこと暗澹たるきもちにさせられたのであった。
このような「悪場所」である日本にうまれそだ(ってしま)った日本語話者として〈フランス現代思想〉を学ぼうとするのに、前提知識として「フランス文学史」「西洋哲学史」「日本近現代批評」をおさえる必要があるとかんがえ、大学の図書館と大学そばの古本屋街をつかいたおすことで、その種の本を読みあさった。そのあたりがさきに書いた古本屋めぐりなどの、大学学部時代のおもだった思い出になっている。教職課程の単位のためにうけていた源氏物語の授業で一緒になった、短歌会とはべつの文学サークルの幹事長をしていた先輩は、そのころあの新潮社の信じられないぐらいぶあつい単行本で『言葉と物』を熱心にずっと読みつづけていたのだが、この先輩からある日の帰りみち、蓮實をきどるわけじゃないけれど、フーコー・ドゥルーズ・デリダの三人ではだれがいちばん好き? ときかれて、ドゥルーズです、とあまり考えずすぐこたえてしまって、意外だという顔をされ、そんなものなのか、とおもった。こちらはたまたま卒業論文をバタイユで書き、そのまま修士論文も博士論文もなしくずし的にバタイユをとりあげることになったわけだが、そのころはまだバタイユをやろうという気持ちはもっていなかった。しかしそれからバタイユを読むうえでもずっと、有名なバタイユ論のあるフーコー(「侵犯行為への序言」)やデリダ(「限定経済学から一般経済学へ」)ではなく、バタイユにたいして点がからいドゥルーズのほうへむけて、バタイユの思想を読みかえていくことこそが、じぶんのやろうとしている研究のいわば裏テーマとでもいうべきものになっていて、その二人を媒介する重要な名前として、クロソフスキーというひとに目をむけはじめ、それがうまくいかないでいるうちに博士課程を満期退学になった。『ニーチェと悪循環』『かくも不吉な欲望』『ルサンブランス』の三冊は文句なしにおもしろく、そこに『わが隣人サド』や『ディアーナの水浴』、そして恩師の手になる邦訳をもつ『古代ローマの女たち』も加わるのだが、これだけ「寝取られ」がはやりになってもなお、おさないころに読んだ『人間失格』のそのどんな人心のくらい恥部をあばきたてた箇所よりも、ごく即物的に、葉蔵がなかば内妻のようにしてともにくらしていた清潔なおんなが、漫画をとりにくる卑しいおとこのもとで「二匹の動物」になるくだりでぐあいが悪くなったような幼稚な心根がかわらないままでいるので、ロベルト三部作のおもしろさというのがまったくわからないし、むろんピエール・ズッカらによる映画としてのロベルトの「再演」にも知的好奇心こそそそられながらも、いまひとつ前むきなきもちを向けられずにいる。もっともバタイユに興味を持ったきっかけは、寺山修司の評論をあつめた『月蝕機関説』の短文で『眼球譚』の一節がひかれていたのを読んだからだった。しかしそのみじかい引用を、ペドフィリックな物語の一部だとあさはかな考えちがいをして、文字どおりの意味でしかない「窓」ということばを、勝手に外性器のイマージュにかさねて読み、そこからまばゆい陽光が射すことにいいしれぬ神秘を感じるなどしていたのだから、あまり筋のよい読みかたをしていたわけではなさそうだ。そうして高校三年のとき読んだのはそのころでたばかりの中条省平訳『マダム・エドワルダ/目玉の話』(光文社古典新訳文庫)で、それは早稲田の古本屋なら百円均一のワゴンにいくらもころがっていたおなじ小説の生田耕作訳(角川文庫)が福島のいなかではどこにも置いていなくて、仕方なく選ばれたにすぎないのであったが、たまたまその解説で紹介されていたロラン・バルトのバタイユ論「眼の隠喩」の鮮やかな読解に、梗概だけとはいえ接することで、まだ見ぬ〈フランス現代思想〉へのあこがれをつのらせたのでもあった。バタイユの『眼球譚』とデカルトの『屈折光学』――ゆうめいな『方法序説』は序説とわさわざ訳されるぐらいなのでちゃんと本論があり、それは気象学、幾何学と屈折光学の三篇からなるのだった――とをくらべてみたらおもしろいのではないか、という、恩師のなにげない講義中の雑談をずっとこころに留めていて、卒業論文のテーマにします、と宣言したとき、『眼球譚』をメタファーとメトニミーのふたつの系列からかろやかに分析してみせることで、それは「深さのない(sans profondeur)」小説なのだと威勢のいい啖呵を切ってみせたバルトのこの論考のことが、いうまでもなく念頭にあった。
フランス語の原書をよんでみたくても、どこで買えるのかわからない。ところが江原書店という店だけは、早稲田では例外的になぜか英仏独西の洋書を扱っており、かなり状態のわるいボロボロのペイパーバックを買ってきては、よくわからないままろくに辞書も引かずに眺めていた。バタイユの本のうちけっこうな数をここであつめ、むろんそれらは普及版の簡素なものではあったため、図書館にある全集であらためて該当箇所をいちいち確認しなくてはならないのであったが、ともあれそのようにして『エロスの涙』『文学と悪』『呪われた部分・消費の概念』『わが母』『死者』『空の青』などを読み、またたまたま手にいれた10/18叢書のバタイユ論集――スリジー・ラ・サルでおこなわれた、テル・ケル派などによるバタイユとアルトーをめぐるコロックのうち、バタイユにかんするものだけをまとめた本だった――をぱらぱらとめくり、よくわからんがこれはすごいぞと傍線をひきまくったのが、『コンコルド広場占拠』というバタイユ研究の古典中の古典をものしたドゥニ・オリエの文章だった。日本語にうつすなら体言止めになるのだろうか、名詞構文をときにたたみかけるようにしてくりだしてくるオリエの熱っぽい書きぶりは、ほかの著書や論文もふくめ、バタイユといういまやすでに聖典化しつつあるひとの書きものを読むことを、あらためて「いかがわしさ」の領域にひきもどしてくれるようなところがあった。しかし江原書店にはクロソウスキーはおろか、フーコー・ドゥルーズ・デリダといったひとたちの原書はまず出てこないので、ドゥルーズのフランス語を読みたいとおもってもどうにかトゥルニエ『フライデーまたは太平洋の冥府』の付録に載っていた文章(『意味の論理学』におさめられるあれだ)を何べんも、わざとひと目につくようなところで読みかえしたり、戸山図書館の地下書庫にあった『スピノザ 実践の哲学』のもとになる教科書版の『スピノザ』を、どういうわけか卒業生かだれかが渡仏したときに買ってそのまま寄贈したらしい本で読んでいた。白地にうすい黄いろのインクで、スピノザのあの室内犬のようなふしぎな肖像がえがかれた簡素な本で、ドゥルーズの肩書きはまだ地方大学の講師かなにかのはずだった。
江原書店にはなしをもどすと、ここにはフランス語の本だとバタイユのほかにはサルトルやカミュ、あとはロラン・バルトが比較的よくでていたようだ。それから、クリステヴァもよく見かけた。なので、目についたものはおよそすべてそこで買うようにしていた。状態のよいものはなかったが、そのぶん神保町などでさがすよりよほど廉く売られていた。『嘔吐』も『異邦人』も『サド、フーリエ、ロヨラ』も『セメイオチケ』も、みんなここで日にさらされて黄ばんだり虫にくわれたりしたぼろぼろのポケット・ブックを数百円でひろってきて読んだのだ。あるとき、ブラッドベリの短篇を読みたいのに図書館には古ぼけた『世界SF全集』の『火星年代記』の巻しかないことがわかった。だがその足でよろよろと高田馬場の駅があるほうへ向かうと、まさにそのブラッドベリの短篇集ばかり、ペイパーバックがまとまって売っているではないか。太陽の黄金の林檎、刺青の男、メランコリーの妙薬……。いずれもサルトルやカミュにおとらずぼろぼろの古本であったそれらを二束三文で買ってきて、ちょうどそのころ、たしか地球の反対がわでやっていたはずのサッカーのワールドカップをテレビでながしながら、例の「カレイドスコープ」や「ザ・フォッグ・ホーン」などを夢中になって読んだ。子どものころに夢中になって、そのあともずっと好きでありつづけた、サイボーグ009の終わりかたであったり、ゴジラというかなしい怪獣が海のむこうから呼びかけるという幻想であったり、それらの拠ってきたるところをあらためて、辞書をひくのも惜しんで、しかし粗末な英語のちからであるから一語一語を教室であてられた中学生のように音読しながら眺めなおしたのであった。あとはこの古本屋では、釣りのがした魚はえてして大きくおもわれるもので、堀江敏幸の卒論(『書かれる手』のもとになったもの)で参照されたという『マルテ・ラウリッツ・ブリッゲの手記』の、パトリック・モディアノの序文がついたモーリス・ベッツによる仏訳をたしかにみつけたのに、どうしたわけか(どうしたもこうしたもない、財布にほんの数百円のもちあわせすらなかったのだろう)買いのがしたことも、わすれられそうにない。この仏訳は、たしか、さかのぼっていけば堀辰雄もまた読んでいたのでなかったか。
そのようにフランス現代思想にあこがれながら、デリダの弟子である藤本一勇先生のゼミにははいらず、ここまで折にふれて「恩師」となんども呼んできた千葉文夫先生のゼミをえらんだのは、先生には「ここだけ面接がなかったから」とこたえたおぼえがあるのだが、それよりも「表象・メディアという新設の専攻にどことなくすわりの悪さを感じていて、だからおなじコースの修士課程ではなく、千葉先生が所属しておられる仏文コースに行ってみたかった」からというのが、そのころのじぶんの胸のうちという意味では、たぶんいちばん実情にちかい。師は『GS たのしい知識』に翻訳をよせたこともあるようなかたであるので、結果的にそのゼミに席をもらって、そのまま博士課程のなかば、学振DCに採用されるまでのあいだ、ニューアカののこり香を嗅ぐような経験ができたことは、福島の片田舎の高等学校に通いながらひとり四半世紀むかしの知的潮流に想いをよせていた少年がそののちに送りうる青年期のありかたという点では、かなり幸福だったといえるのかも知れない。師は読売文学賞をうけられた『ミシェル・レリスの肖像』をまとめられるまで、ながらく商業誌や紀要、論集などによせたとりどりの文章を単行本としておおやけにするということを、それと気取らせないようにしつつもおそらくは避けておられたのではなかったか。そのようななか、前世紀のおわりごろになって一冊だけ単行本のかたちにまとめられていた『ファントマ幻想』という、大衆小説の翻案ラジオドラマをみちびきの糸に、ロベール・デスノス、アントナン・アルトー、クルト・ワイル、そしてアレホ・カルペンティエールという四つのいささか意外の感をおこさせる名前がふいに交錯するひとときをとらえた、いかようにも形容しがたい書物のことは、「ああいう本を一冊だけだすというのは、『いき』なのかもしれないね」と、あるピアノ・リサイタルの開演まえのしずかなざわめきのなかで、浅田彰さんの声を聞いたという思い出とならんで、脳髄のどこかにつながって、沈殿したり浮上したりをくりかえしている。師のゼミナールでたまたま課された『陰翳礼讃』との比較対象として『「いき」の構造』をあらためて読んだのをきっかけとして、あるいはバタイユのかわりに九鬼周造の、たとえばその日本文化論や文芸論、はたまたベルクソンやハイデガーの手ぎわよい紹介などに先んじて海彼の地で公刊されたPropos sur le tempsなどを卒業論文のテーマにえらぶということも、じゅうぶんに有力な選択肢としてこころのうちにうかんでいたことを、世の人びとがえらばれなかったおおくの選択肢についてそうするように、しばしばねむりを求めてなお得られない夜のふかい底にあって、くりかえし舌のうえでよみがえらせることが、ままある。さいごの卒論指導がおわったあと、一冊一冊がむかしの電話帳のように黄いろく、またぶあついガリマール版のバタイユ全集を、そろそろ退職後の蔵書のゆくすえをかんがえなくてはならないから、と言い添えながら、「卒業祝いにして進学祝い」として揃いでいただくことになり、雪のちらつくなか、それらを容れられるかばんを持っていなかったために先生がくださったいくつもの紙袋を、漫画のなかのショッピング風景のように両腕でかかえてキャンパスをあるいていて、ふいに校門のところからあらわれた、演劇を専攻する後輩の女の子に「紙のように白い顔をしていた」とからかわれたこともまた、この列島から雪のふる気候がうしなわれないかぎり、くりかえしこころのスクリーンにおもいえがかれるのだろう。
と、ここまで、〈わたくし〉およびそれに類する一人称の代名詞をなるたけ注意して避けるようにしながら、しかし〈わたくし〉のそれと呼ぶほかないたぐいの散文として、だらだらと、牛がよだれをたらすように、指先と脳髄とを連動させながら入力してきた。ほんとうはもっと、ドゥルーズを読むにあたってまず、浅田彰という名前がかがやかしい過去のまぼろしとして未成年のこころに宿ってしまっていたころのことについて、きちんと浅田さんじしんの著書、『構造と力』や『逃走論』や『ヘルメスの音楽』、あるいは『天使が通る』などからことばをひいてきて語りたいというおもいがあったのだが、そのようにしていく余裕はもはやないとおもわれるほど、〈わたくし〉をめぐる記述はうねりながら粘液質につづきすぎてしまった。二〇二四年の夏、なにもかもがもうどうしようもなくなって、ねまきにサンダルばきで新幹線にのってふるさとに帰り、そのまま一ヶ月とすこし、大学病院の閉鎖病棟で日々をすごすことになったのだが、スマートフォンなどの通信機器をもちこむことのゆるされないその病棟でくりかえしひもといたなん冊かの文庫本のなかに、そのまえの年に、四〇周年を記念してついに文庫になったばかりの『構造と力』があったことなども、このうえ書きだしてはきりがなくなってしまうから、またどこかで思いだすことがあれば、そのときに書くことにして、いまはやめておこう。その病棟には、むろんさまざまな疾患をうちにかかえ、疾患を生きるほかなく生きてしまっている人びとがおり、しかしそれぞれが生きることに精一杯であるからこそ、とりたてて交流のようなものがうまれることもなく、ただ夏のしらじらとしたひかりがくる日もくる日もさしこんで、それにてらされるシーツも壁面も、どうしようもなく白いのであった。そうした環境で、パラノイアとか、スキゾフレニアとか、ドゥルーズがガタリという、精神科医なのかなんなのかいまひとつよくわからない、しかしフランスのある精神科の病院やそこにかかわるさまざまの人びとのありかたをめぐって、ことばや行動を介してはたらきかけてきた人物とともに、あくまで複数として書きつけたであろう術語たちのことを、まわりにあたりまえの表情をしてあたりまえのくらしをおくっている、やはりパラノイアとかスキゾフレニアとか呼ばれることになるのかも知れない共同生活者たちの存在をどうしてもあたまの片すみにおかずにはいられないというありさまで、四十年ほどむかしのスキゾ・キッズの疾走を、どのようにおもいえがくべきか月並みになやみながら、しかしその散文がおもしろいのもまたたしかに真であるので、目がつかれにくいようおおきめのものがえらばれた活字を、ベッドにだらしなく腰かけて、追ったり追わなかったりしていた。
まさにその四〇年前という時間軸で、スキゾとパラノということばは、そののちにこっけいなほど耳目をあつめる年中行事へとかわってゆくことになる流行語大賞にランクインするまでにひろまりながら、わかりやすさを念頭において、いわばひとつの二分法として/において、使われた。いまやすっかりアカデミズムの枠のなかにおさまってしまったようにしかみえないとはおもうが、ドゥルーズの思想というやつはどうあがいても「いかがわしさ」を孕んだものとしてこの世にうまれてきた、または、この世に「いかがわしさ」を孕んだなにものかを産み落とした、という側面がある。ラカンにしてもそうだし、クロソフスキーなんかはもっといかがわしい。ボードリヤールはクロソフスキーからドゥルーズにながれたシミュラークルということばを、いかにも山師らしい手ぎわのよさでさばいてみせたが、それは山師的であるぶんだけ、むしろ「いかがわしさ」からは遠かったともいえる。スキゾとパラノをくっきり二つに分かれたもののように説明するのは、ドゥルーズとガタリの共著を前にして、それらの本を「ただしく」読み解いて理解するというよりは、「いかがわしく」読みとばして転用する、という身ぶりでもあって、そういう意味では、不誠実ともおもえ、あるいはまた無用の誤解を生じさせかねないそうした二分法は、むしろドゥルーズを「反復」することなのかも知れない。
浅田彰は『構造と力』でソシュールの言語学を説明するのに、シニフィアンとシニフィエという例のあれを、かぎりなくうすい二枚の寒天がかさなりあっていて、そこに上から金網を押し当てて切りわける、という比喩をつかってみせる。そして周到なことにこの比喩はあくまで便宜上こしらえた比喩であって、より正確なところをいえばシニフィアンとシニフィエの関係というのは一枚の紙のうらおもてのように、もとは別々だった二つのものが重なりあったというよりは、はじめから一つのものがもつ二つのべつべつの側面だというほうがよいのだろうということも言い添えられている。
その比喩にかさなる比喩をさらにこちらで勝手にひきとり、「転用」ないし「反復」して話をすすめると、スキゾとパラノというのも、二枚のべつべつの寒天であるよりはむしろ、おなじ一枚の紙のうらおもてのことにすぎなくて、そよ風のひとつも吹いてきて紙がひっくりかえれば、スキゾはパラノに、パラノはスキゾに容易にいれかわるのではなかろうか、などとおもう。あるいはこれは、いうまでもないあたりまえの前提かも知れない。そしてこちらはほんとうにいうまでもなく、おなじ一枚の紙というのも勝手なこちらの比喩にすぎないのだから、スキゾとパラノを説明するのにある一面では当たっていても、べつな一面では当てはまらないのであって、紙のうらおもてともまたちがう、それこそ『構造と力』の表紙にどっしりと鎮座するクラインの壺や、その前提になるメビウスの輪がそうであるように、裏かと思ったら表になるし、表のはずがいつのまにか裏になっている、あるいはまた内側が外側でありながら、同時に外側が内側でもある、そんな関係をおもいえがかなくてはならない。よし、じぶんはスキゾ人間でいくぞ、なんておもってしまったらそれはもうパラノのはじまりにちがいないし、逆にこちらはほとんど可能性がない、もしほんとうにありうるとしたらそれこそ奇跡のようなことになるだろうが、パラノに陥ってどこまでも底なし沼にしずんでいくうちに、どういうわけか地殻もマグマもマントルもコアもなにもかも突き抜けて、地球の反対がわ、さらにはそれをとおりこして宇宙空間にまで出ていって、そのときにはすっかりスキゾになっておりました、なんてことも、かんがえてみたくなる。
パラノがスキゾに転換するかどうかは正直なところわからないし、知ったこっちゃねえやというはなしなのだろうが、すくなくともその反対の、スキゾのつもりでいると自覚がないままにパラノになって手がつけられなくなる、ということはままある、というか、だれしもそれからはのがれられないのではないか、なんて、ペシミストじみたことをおもってしまう。ドゥルーズのことを書く、というと大げさになるが、ドゥルーズを好きに読んだり読まなかったりしてきて、さらにはそこにこちらの勝手な感傷などもねじこんであれこれ散文をつづることをおもうとき、おそらくはこれとおなじような心づもりで、ある意味ではドゥルーズをドゥルーズ的に「いかがわしく」「反復する」ことでじぶんの散文を成り立たせようとする/した書き手(たち)がまえにも(何人も)おり、そうしてそれらの人たちのなかにはスキゾのつもりでパラノになってしまったものがあるのを、どうしても見すごすことができない。どうもあまり筋がよいとは到底おもえない「問題」につかまってしまって、これまたドゥルーズが素朴なまでの軽やかさをもって――デリダがベルクソンを評したことばを思い出して、「天才的というほかない」と形容したくなる手つきで――引いてみせたいくつもの逃走線とはまるで逆の、幾何のやさしい問題をとくのに、どういうわけか見当ちがいの補助線をむやみに何本もひっぱっては消し、消してはひっぱりをくりかえし、ついには鉛筆の黒い粉で指はよごれきってしまい、答案用紙は質のよくないわら半紙だったりするから、ときにびりびりとやぶれ、ときに元の図形すら判別不可能になったのを、なぜか誇らしげに「これこそがリゾームだ!」とみせびらかす。残念ながらそういう書き手がしばしばおり、そのような人びとの手によって不当に傷をおわされ、いのちを脅かされてさえいる人たちがいることをおもうとき、ドゥルーズについてさまざまな肩書をもつ人びとが文章を寄せている書物のページをめくるきもちを、どうしようもなく重苦しいものがよぎる。
このよみにくい文章、あるいはそれをテクストとごく無造作に、しかしいささかの気取りをもって呼んでみたい気もするが、とにかくこれをいま書いている、といって文机にむかって万年筆を走らせているわけでもなければ、デスクで十指をおどらせてオリヴェッティのタイプライターを叩いているわけでもない、だいぶ型おくれの古びた小ぶりなスマートフォンにむかって、その動作や反応のおそさにいらだちながら、フリック入力という奇怪な指づかいに異様なほど習熟したスピードでひらがなの多い日本語文を垂れながしている、このひとりの日本語話者のシスヘテロ男性は、しばしばその関心をきわめて俗悪なポルノグラフィにさえよせつつも、しかしおのれのいま現在の性自認や性的指向――指向、嗜好、志向が声にだせばおなじ発音になるのはややこしく、しかしこれを日本語の豊穣さととりちがえて話を横すべりさせる道はえらびたくない――が、そのほかの人びと、とりわけ性にまつわるさまざまの事がらのために抑圧され、差別され、みえるかたち、みえないかたち、とりどりの制度的暴力および制度の網の目をくぐりぬけて降りそそぐ暴力に雨ざらしにされた人びとにたいして、さらに打擲を加えるものではないかということを、つねに、ひどくおそれている。だから、あえて、〈わたくし〉ということばを使おう。
わたくしは、おそれる。二〇二五年に、いわば「返り咲き」というかたちで就任した、アメリカ合衆国の大統領が、かれの得意げにふりまわす魔女狩りのやいばをまず真っ先に向けた人びと、また、かれの寵臣のような立場に一時的にせよおかれて、政府を効率化するという名のもとにあまりにも多くのでたらめをくりひろげた、現在のこの世界でもっとも資産を有しているとされる「実業家」――このことばによって指し示される人びとの仕事は、「実」という字面がよびおこすイメージからはもっともとおいところに位置しているようにおもえる――が、かれの子のひとりとされる人間にたいして、その性のありかた、それをめぐるさまざまのことがらをもって、じぶんにはそんな娘などいないのだと、もっとも根源的なはずの存在をすら否定した、そのような弾圧が、有形無形の差別が、かれらよりずっとよわい立場におかれた人びとのうえにおよぶことを、おそれる。おそれるだけではなくて、反対する。抗議する。そのようなことをなしてはならぬ、そのようなことをあらしめてはならぬ、そのような……という否定と禁止のことばを、いくたび拒まれようとも、突きつけつづける。
事態はさらにわるい。さきに〈わたくし〉なる主語のもとに語った、そのような属性によって乱暴にくくられた人びとにたいする、抑圧、差別、暴力、弾圧、存在の抹消……そういったすべてのものを拒絶しようとして〈わたくし〉が突きつけようとする non! のことばは、またべつの抑圧、差別、暴力、弾圧、存在の抹消……を正当化するために、ひじょうにしばしば利用され、搾取される。どういうわけか液状の水をおおく湛えたこの惑星の、陸地として顔をだしているいくつかの大陸のなかの、ある土地に住みつき、くらしを営み、そう呼ばれることをのぞむのならば文化と呼ぶのにまったく遜色ないような在り方を築きあげてきた人びとを、なんらかの神話、なんらかの宗教、なんらかの信仰、なんらかの思想信条――それもまたそう呼ばれることをのぞむのならば、やはり「文化」と呼ばざるをえないであろうさまざまなこころやからだの在り方たち――のために、土地をうばい、あるいは「うばいかえし」、たえずべつなものへとうつりかわりつつあるいくつもの〈個〉でしかありえないはずの人たちを、殺し、移住させ、子をなすことを阻み、飢えと病いにあえぐほかないところまで追いつめる。そうした一連のうごきを、かりに「国」と呼べというのなら暴力にさらされ、恥辱と汚辱とにまみれながらもついに拒みきれずに「国」と呼ぶことになるだろう集団、ないしは組織、あるいはまた「装置」がおしすすめ、その二重の意味での「浄化」のために、性にまつわるさまざまの事がらのために差別され、抑圧され、弾圧されてきた人びとのことを、われわれの「文化」は尊重していますよ、しかしこの土地に住みついている別な〈わたくし〉たちの「文化」と呼ぶなら呼びうるであろうそれは、差別し、抑圧し、弾圧していく側のものなのですよ、と、〈わたくし〉の耳もとで、ピンクいろのペンキをぬりたくった声でささやく。ピンク・ウォッシュ。そしてさきに固有名をさけつつも、ただひとりの、シスヘテロの、みにくく老いて肥え、かつきわめて愚劣な頭脳と欲望をもちあわせた「白人男性」をさししめすことを意図したうろんな日本語文によって〈わたくし〉が拒絶の意志を、ひどくまわりくどいうねうねとした言いまわしで向けてみせた、その「かれ」、およびかれが領導するアメリカ合衆国の政府や軍隊、資本家たちなどは、そのピンク色の思想のことなどはもちろんまるで信じておらず、そのうえで虐殺や絶滅政策に手を貸し、〈かれら〉――むろんそれは無数の〈わたくし〉たちであるはずだ――からうばいとった土地を、たんなる不動産取引のひとつのプロセスとして、よりおおくの利益をうみだすことになるリゾート地へとつくりかえることばかりおもいえがき、そのおぞましい夢想を隠しだてするどころか、人工知能の最低の利用法によって、〈わたくし〉の眼に突きつけてくる。それらは、いま〈わたくし〉とかりに呼ばれる、人工であるか否か、おのれでは判断することのできぬこの一個のまずしい知能が、いま読まれているとかんがえられる日本語文を生成するうえで利用しているのとおなじスクリーンをとおして、突きつけられる。失意のどん底、地獄の底。しかしそれらの底はけっして「底」などではなくて、二重底、三重底、いくらでも下に落ちてゆくことができる。無底、というドイツ観念論のむずかしい術語を、わざわざこのようなことのためにもちいるにはおよばない、ごく単純でありふれたことわりとして、この世に真の地獄などというものはなく、かといってそれはあの世にあるわけでもなければ、あの世などというもの自体が存在せず、ただひたすら悪いほう、悪いほうへと落ちてゆく無限のプロセスがあるだけなのだろう。〈わたくし〉はそうした人生観をもつ、一個の病んだペシミストの脳髄がもたらした発火のことである。
わたくしはわたくしと書くことができない。〈わたくし〉が〈わたくし〉と書くことでさえ、おそらくは不可能にかぎりなく近いほど困難である。しかしそのおそろしく弱く、みすぼらしく、まずしい神経網の発火としての〈わたくし〉は、ここに一個の拒絶をしるす。かずかぎりなくつづくであろう拒絶のプロセスの、そのひとつづきの持続の一端を、しるす。しるした。