web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

宇宙時代と大乗仏教 田中公明

第11回 一切智者とラプラスの悪魔

 第7回では、大乗仏教ではブッダを過去・現在・未来の三世を遍知する一切智者とするが、セム系の宗教、つまりユダヤ教、キリスト教、イスラム教が説く全知全能の神とは異なり、できないことが三つあるという仏の三不能を紹介した。
 つまり仏は過去・現在・未来を通じて普遍的に適用される因果律を悟って一切智者性を獲得した。しかし前回で見たように、仏といえども定業じょうごうを転じることはできない。つまり因果律に反する行動は取れないし、取ることもない。それでは仏は運命を前にしては、何もできないのだろうか?
 大乗仏教では、仏の衆生救済の事業は無功用むくゆう(アナーボーガ)、つまり無作為であるといわれる。『華厳経けごんきょう』「十地品じゅうじぼん」によれば、菩薩は修行を積み重ねて第八不動地に到達すると、無功用を成就するという。
 「十地品」によれば、それまで修行者は意識的に修行に励んできたが、第八地に至ると一切の作為がなくなり、無功用の修行ができるようになる。それは人が夢の中で、深い河を渡ろうとして努力して種々の方策を巡らすが、いまだ河を渡らないうちに目が覚めると、これまでの努力をすべて放棄してしまうのと同じである。そこで第八地は、別名「無功用地」とも呼ばれるとしている。
 これは、禅の修行階梯を図示した「十牛図じゅうぎゅうず」で、悟りを象徴する牛を捜索に出かけた牧者つまり修行者が、牛を発見して家に連れ帰るが、やがて牛の存在を忘れて第七「忘牛存人ぼうぎゅうそんにん」となり、ついには牛も牧者の存在も空無となる第八「人牛倶忘にんぎゅうくぼう」の境地に至ることを想起させる。これは十牛図の作者とされる廓庵かくあんが、『華厳経』の十地説を知っていたからではないかと思われる。
 また『大乗荘厳経論だいじょうしょうごんきょうろん』「菩提品ぼだいほん」によれば、仏の衆生教化の働きは無功用であり、自然に目的を達することができる。それは天鼓てんく、つまり神々の太鼓が打たなくても自然に音を発するように、衆生教化のための説法をし、魔法の宝石、如意宝珠にょいほうじゅが、自然に衆生の願いを叶えるように、衆生を救済するのと同じであるという。
 ここで注目すべきなのは、漢訳の註(サンスクリットには対応なし)で「如意宝珠の無心なりといえども」「天鼓のた無心なりと雖も」とあるように、無生物である如意宝珠と天鼓が、仏の衆生救済と説法の喩えとして用いられていることである。
 如意宝珠と天鼓は何れも想像の産物であるが、生物ではなく無生物である。如意宝珠は、現代科学の粋を集めても製造することはできないが、天鼓のような楽器は、現代の科学技術でも自動演奏システムを用いれば可能である。つまり如意宝珠と天鼓は、物理的因果律に支配される物であるが、それは衆生救済の役に立つ。それと同じように、仏の衆生救済の事業も物理的因果律に従っているが、可能なのである。このように仏は、因果律に反する行動は取れないし、取ることもないが、無作為に衆生救済ができるとされている。
 このように仏の実践が無作為なのは、仏が主観・客観の二元対立を超越していることと関係している。
 本シリーズの冒頭で示したように、仏教は因果律が時間・空間を超えて普遍的に適用されることを主張している。そして仏教の因果律には、①物理的因果律、②道徳的因果律、③救済論的因果律の3つが渾然と融合していると述べた。このうち②道徳的因果律については、神々の王者といえども、悪業あくごうを積み重ねれば次の一生では地獄に墜ちると主張することからも明らかである。また③救済論的因果律に関しては、大乗仏典が四諦したい、十二因縁、八正道はっしょうどうなどの仏教の救済論・実践論が、時間・空間を超えて普遍的に適用されることを強調することを指摘した。そして大乗仏教を特徴づける他土仏信仰は、このような思想から発展したものと見なしうる。
 ところが①物理的因果律が外界の物質世界に普遍的に適用されるとしても、それとは別に、和辻が仮に立てた「外界および他の我に対立して、知り、感じ、意欲する主体である」自然的な立場の自我の存在を認めてしまうと、その自我は、物質世界に普遍的に適用される物理的因果律が適用されない例外的存在になってしまう。
 それは現代天文学でいうところのビッグバンの開始点や、ブラックホールの中心にあるとされる質量が無限大になる点のように、あらゆる物理法則が適用できない特異点のようになってしまうのである。
 仏教が自我の実在を認めようとしなかったのは、和辻をはじめとする近代の思想史家が指摘したように、バラモン・ヒンドゥー哲学のアートマン説に対抗する意味合いがあったことは否定できない。しかしそれと同時あるいはそれ以上に、仏教の基本的前提である因果律絶対主義に反するという理由があったからだと思われる。

 いっぽう仏の一切智性は、近代哲学における「ラプラスの悪魔」のパラドックスに類する難点を内包している。ピエール・シモン・ラプラス(1749~1827)はフランスの数学者、物理学者、天文学者で、それぞれの研究分野において優れた業績を遺した。

ラプラス(ヴェルサイユ宮殿)
 また彼は、哲学的には決定論者であった。ラプラスの立場は、「全ての事象の原因と結果は因果律に支配されているが故に未来は一意的に決定される」とする「因果的決定論」に属している。 つまり未来が物理的因果律によって決定しており、ある特定の時間における宇宙の全ての粒子の運動状態が分かれば、数理的な解析によって未来を完全に予知することができる。このような能力をもった者を、「ラプラスの悪魔」という。
 ところがラプラスの悪魔による解析が本人にとって不利な結果をもたらす場合、彼は回避行動をとるため、その未来予測は外れることになる。これがラプラスの悪魔のパラドックスである。なおこの問題に関しても、種々の解釈がある。
 まず天体の運動を数理的に解析する手法はニュートンによって確立されたが、基本的には地球と月、太陽と地球のような2体問題であった。しかし太陽・地球・月の相互関係などを解析する3体問題などの多体問題になると、微分では解析できなくなってくる。
 現在では、スーパーコンピューターの劇的な進歩により、恒星が誕生した直後の原始惑星系円盤から太陽系のような惑星系がどのように形成されたかとか、約100億年以内に発生すると予測されている銀河系とアンドロメダ銀河の衝突も、シミュレーションできるようになっている。しかし銀河系に存在する3000億個の恒星の三次元マッピングでさえ、まだ完成していない。ましてや銀河系から約250万光年離れているアンドロメダ銀河の一兆個の恒星の三次元マッピングなどは、現在の科学技術では不可能である。
 つまりこれらのスーパーコンピューターを用いた未来予測も、あくまでシミュレーションに止まるのであり、パラメーターの取り方によっては、異なった結果になることもある。このように現代最新鋭のスーパーコンピューターでさえ、ラプラスの悪魔にはほど遠いといわざるを得ないのである。
 つぎにラプラスの悪魔の前に立ち塞がる難点は、量子力学的な不確定性の問題である。これは、ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901~1976)によって提唱された、素粒子そりゅうしのような微細な粒子の位置と運動量は、同時に正確に決定できないというものであり、それ以後の量子力学の基盤となった。つまりラプラスの悪魔の前提自体が、素粒子のような微細な粒子には適用できないことになった。
 したがって「ある特定の時間における宇宙の全ての粒子の運動状態が分かれば、数理的な解析によって未来を完全に予知することができる」というラプラスの前提自体が、素粒子のような微細な物質には適用できなくなるのである。
 これはあくまで素粒子レベルの問題で、十分に粗大な物には影響を与えないと思われるかも知れないが、これにはエルヴィン・シュレディンガー(1887~1961)が提唱した、有名な「シュレディンガーの猫」という思考実験がある。つまり微視的な物質に存在する不確定性が、十分に巨視的な猫の生死という問題にも影響を与えうることを示したのが「シュレディンガーの猫」である。
 この量子力学的な不確定性の問題に関しても、種々の解釈が存在する。つまり素粒子のような微細な物質には不確定性が本質的に内在していると見る解釈と、物理的な因果律は素粒子を含めた万物に適用されるが、人間のような知的生命体が観測という行為で介入すると、不確定性が生じるという「観測問題」説がある。
 さらに十分に粗大な物質に適用されるアインシュタインの一般相対性理論と、微細な素粒子に適用される量子力学は、未だ一つの体系に統合されていないが、一つの物質世界の相互補完的な両面であるとの見方も可能であろう。私はこれを、前回で取り上げた西田幾多郎の用語にしたがって「絶対矛盾的自己同一」的解釈と呼んでいる。
 つまりビッグバン理論によれば、宇宙は非常に高温高圧な極微の一点から爆発的に発生したとされるが、その宇宙の姿は誰も見た者がいない。我々が知りうる最古の宇宙の姿は、その40万年後とされる宇宙マイクロ波背景放射である。そしてこの宇宙マイクロ波背景放射には非等方性が認められる。つまりビッグバン後40万年にして、すでに宇宙には物質が濃密な部分と、希薄な部分が存在していたのである。
 もし宇宙が極微の一点から爆発的に発生したのなら、すべての方位に均等に拡散するハズであるが、このような濃淡の差が生じたのは、原始の宇宙が極微の世界であり、量子力学的な揺らぎがインフレーションによって引き伸ばされたからだとされる。
 つまり我々の知る恒星系、銀河、局部銀河団、超銀河団、宇宙の大規模構造とボイドから構成される宇宙、つまり一般相対性理論が適用される宇宙が存在するのは、原始の宇宙が量子力学が適用されるほど微細であった時に生じた量子力学的な揺らぎのお蔭なのであり、両者は一つの物質世界の相互補完的な両面であると考えることもできる。
 いっぽう量子力学的問題を仏教的に見れば、それは物理的因果律が例外なく一切に適用される物質世界と、それとは別個の自由意思をもった個我の二元対立によって世界を解釈する認識自体が、誤りであるということになるのではないだろうか。
 これはまさに、第9回で論じた凡夫の誤った認識には所取しょしゅ能取のうしゅの二があるが、悟りの世界には所取・能取の二元対立がないという思想に通じるものである。これは、まさに本シリーズの中心テーマとなるものなので、次回以降で改めて詳しく論じることにしたい。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. 田中公明

    1955年、福岡県生まれ。1979年、東京大学文学部卒。同大学大学院、文学部助手(文化交流)を経て、(財)東方研究会専任研究員。2014年、公益財団化にともない(公財)中村元東方研究所専任研究員となる。2008年、文学博士(東京大学)。ネパール(1988-1989)、英国オックスフォード大学留学(1993)各1回。現在、東方学院講師、富山県南砺市利賀村「瞑想の郷」主任学芸員、東京国立博物館客員研究員、チベット文化研究会会長。密教や曼荼羅、インド・チベット・ネパール仏教に関する著書・訳書(共著を含む)は70冊以上。論文は約140編。くわしくは個人ウェブサイト(http://kimiakitanak.starfree.jp/)を参照。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる