第9回 主観・客観の二元対立は存在しない
前回で見たように、主観・客観の二元対立自体を虚妄であると考える思想は、大乗仏教に特異なものといえる。仏教では、他の宗教・思想に対して、仏教を特徴づける三つの教説、三法印の一つとして諸法無我を説いてきた。つまりアビダルマの段階では、自我を分析して色受想行識の五蘊を立て、五蘊は存在するが自我自体は存在しないと説いた。大乗仏教では、この無我説を発展させ、主観・客観の二元対立も存在しないと説いた。
そしてこの思想をはじめて明確に表明したのが、唯識派の初期の論書の一つである『中辺分別論』である。その「弁相品」第一偈には、つぎのように説かれている。
「虚妄な分別がある。そこに於いては二は存在しない」
「いっぽうそこには空性がある。そこにおいてそれがある」
この偈は、古来から難解なものとされてきた。その理由は「そこ」とか「それ」とかいう指示代名詞が多く、何を指しているのか分からないからである。とくにサンスクリット語原文とは異なり、漢訳やチベット訳には男性・女性・中性のジェンダーがないので、指示代名詞が何を指しているかが、ますます分からなくなっている。
なお註釈を参照すると、「そこに於いては二は存在しない」の二は、所取・能取(グラーヒヤ・グラーハカ)つまり客観と主観の二者である。「そこにおいて」は女性於格なので、第一偈中で唯一の女性名詞である「空性において」ということになる。つぎの「それがある」の「それ」は男性名詞なので、「虚妄分別」を指している。
つまり主観客観の二元対立は、兎角つまりウサギの角のように存在しない。虚妄分別も究極的な真理の次元では空であるが、我々が迷っている限りは存在する。もし虚妄分別が実在すると主張すれば、すべての存在は空であるという大乗仏教の基本的テーゼと矛盾することになる。そこで「空性においてそれがある」と説かれたのである。以上がこの難解な一偈の大意であると思われる。
つまり主観・客観の二元対立は存在しないという議論は、仏教の基本的テーゼである諸法無我から導出された主張であるが、それが明確に説かれるようになったのは、『中辺分別論』などの初期の唯識系論書からである。
なお、その後のインド大乗仏教とそれを継承したチベット仏教では、唯識説よりも初期大乗以来の空思想を説く中観派が高く評価され、唯識説は仏の真意を正しく解明していない未了義の教えとされるようになった。それにも拘わらず、凡夫の誤った認識には所取・能取の二があるが、悟りの世界には所取・能取の二元対立がないという主張は、その後のチベット仏教でも、了義の教えとして尊重されるようになった。
インドの後期大乗仏教からチベット仏教まで、大乗仏教の教理学として広く学ばれたものが般若学である。これは大乗仏教の根本聖典である『般若経』を、弥勒に帰せられる論書『現観荘厳論』に基づいて解釈するもので、チベットの僧院における教理研究のスタンダートとなり、現在でも広く学ばれている。
チベットの般若学については、拙著『<般若学>入門』(大法輪閣、2014年)で詳しく紹介しているが、ここでは般若学において、所取・能取の問題が、どのように扱われているかを見ることにしたい。
『現観荘厳論』は『般若経』のスタンダードなヴァージョンである『二万五千頌般若経』(大品般若経の原典)を、Ⅰ一切相智、Ⅱ道種智、Ⅲ一切智、Ⅳ一切相現等覚、Ⅴ頂現観、Ⅵ漸現観、Ⅶ一刹那現等覚、Ⅷ法身の八章に分科して解釈する。
このうちⅠ一切相智、Ⅱ道種智、Ⅲ一切智は、仏の智慧(一切相智)、菩薩の智慧(道種智)、声聞の智慧(一切智)を説いた部分である。つぎのⅣ一切相現等覚、Ⅴ頂現観、Ⅵ漸現観、Ⅶ一刹那現等覚は、仏の智慧を成就する四種の加行を説いている。そしてⅧ法身は、修行の果としての仏身とその衆生救済の働きを説いたものである。(表参照)

衆生は発心してから、三大阿僧祇劫という無限に近い時間をかけて福徳・智慧の資糧を積み、法身を成就、つまり悟りを開くことになる。そして四加行の最後に置かれたⅦ一刹那現等覚こそは、修行を完成させて成仏する「最後有の菩薩」の悟りの瞬間に何が起こるかという、仏教にとって最も重要なトピックを扱っているのである。ところが『二万五千頌般若経』においてⅦ一刹那現等覚に対応する部分は、ネパールに伝存するサンスクリット原典では、木村高尉氏校訂テキストにして26頁ほど、チベット訳(中国蔵学研究中心編『丹珠爾』所収本)でも60頁と、けっして長くない。
これは『現観荘厳論』に基づく『般若経』解釈が、経典成立当初からのものではなく、いわば後付けされたものであるからと思われる。
そしてⅦ一刹那現等覚は、さらに(1)未熟一切無漏法一刹那現等覚、(2)異熟一切無漏法一刹那現等覚、(3)無相一切法一刹那現等覚、(4)不二相一切法一刹那現等覚の四つに分科されるが、これは菩薩が悟りを開いて成仏する瞬間に何が起こるかを、四つの面から分析したものである。
その(4)不二相一切法一刹那現等覚は、不二つまり所取・能取の二、つまり主観・客観の二元対立が存在しないことを、成仏の瞬間に悟るという意味である。
そして『二万五千頌般若経』の「菩薩摩訶薩は般若波羅蜜を修行する時、夢を見ず。夢を見る者を見ず」の経文が、(4)不二相一切法一刹那現等覚を説いたものとされる。そしてこの経文では、夢が所取(客観)、夢を見る者が能取(主観)に相当する。なおツォンカパの後継者タルマリンチェンが著した般若学の名著『ナムシェーニンポギェン』によれば、所取・能取の二がないという諸法の真実を、まさに一刹那において現前することが究極の加行であり、最後有(ギュンタ)の菩薩は、所取・能取の二元対立という習気から完全に脱却しているので、このように覚ることができるとされている。
チベットの般若学では、これら四種の一刹那現等覚は、すべて最後有、つまり悟りを開く直前の菩薩の心相続にのみ存在するとされている。したがって四種一刹那現等覚は、(1)を修してから(2)を修するというものではなく、本質的に同一の一刹那現等覚を四種に開いたものに他ならない。
そして最後有の次の刹那に、菩薩は悟りを開いて法身を現証することになるから、一刹那現等覚は、まさに衆生から仏への劇的な転換点といえる。
ブッダは如何にして悟りを開いたのか。多くの仏教者が、種々の観点から、この問題に答えてきたが、Ⅶ一刹那現等覚は、『般若経』に基づく大乗仏教教理の体系化という『現観荘厳論』の立場から、この問題を解明したものといえよう。
そして、ここで与えられた回答は、三大阿僧祇劫に亘る修行の結果として、煩悩・所知の二障が完全に取り除かれると、一刹那に一切の無漏法を現証することができる。そして一切法は夢の如く無相であり、所取・能取の二を離れた不二であるということである。それならその無漏法とは何なのか?それは、つぎのⅧ法身の冒頭で提示されることになる。
いっぽうインド密教で、主観と客観の二元対立の超克を説いた重要な教説としては「菩提心偈」が挙げられる。これは日本真言密教の根本聖典である『大日経』から派生し、『秘密集会タントラ』の「第二分」に継承されたもので、インドでは複数の注釈書が撰述されるなど、広く普及したことが知られる。それは
「一切の事物を離れ、蘊・界・処と所取・能取を捨て去り」
「法無我平等性なるを以て、自心は本不生にして、空性の自性なり」
というものである。なおここにも「蘊・界・処」が出てくるが、多くの注釈書は、これを五蘊・十八界・十二処とし、五蘊・四大(界)・十二処とは解釈していない。また注釈書によれば、「一切の事物を離れ」は、外道つまり仏教以外の宗教を批判したもの。「蘊・界・処と所取・能取を捨て去り」は、説一切有部や経量部などの小乗の部派仏教を批判したものとされる。なぜなら説一切有部などのアビダルマでは、自我は実在しないが五蘊・十八界・十二処は実在すると考えるからである。「法無我平等性なるを以て」は識の実在を主張する唯識派を批判したもので、「自心は本不生にして、空性の自性なり」は中観派の見解を提示したものとされている。
前述のように、インドで密教が盛んになると、哲学的見解では唯識ではなく中観が正統とされるようになった。とくに『秘密集会』の解釈学派である聖者流では、多くの密教者がナーガールジュナやアーリヤデーヴァなど、インド中観派の巨匠を名乗って註釈を著すようになった。これは日本真言宗で、『金剛頂経』系の密教を開いたのが龍猛つまりナーガールジュナであるとされるのと一脈通じている。なお『チベット大蔵経』に収録される「菩提心偈」の註釈も、ナーガールジュナの作とされるが、唯識説への言及が見られるので、明らかに中観派のナーガールジュナの作ではなく、密教のナーガールジュナの作である。
しかしここでも悟りの心である菩提心が、「蘊・界・処と所取・能取を捨て去り」と定義され、悟りの心には主観・客観の二元対立が存在しないと説かれているのである。
このように悟りの世界には主観・客観の二元対立がないという問題は、『中辺分別論』や『現観荘厳論』だけではなく、インド密教でも極めて重要な論点となるが、「ブッダは、『般若経』で一切法の空・無自性を説いた時、舎利弗尊者の顔が見えていなかったのか?」というような設問がチベットでもなされたほど難解で、種々の誤解を受けてきた。
なお拙著『<般若学>入門』では、この問題については、いずれ他の著作で改めて論じたいと書いたが、本連載こそ、その役割を果たすものである。そこで次回では、仏教の無我説と主観・客観の二元対立が存在しないという主張に対して浴びせられてきた論難と、大乗仏教がどのようにしてその論難に答えて来たのかを見ることにしたい。


