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〈性〉なる家族 信田さよ子

家族の深海部分で起きている性虐待と心理職の役割

 

 「おひさしぶりです」と言いたくなるほど、前回から大きく間が空いてしまった。理由は9月9日に「公認心理師」の第一回試験が実施されたからだ。今回はこの資格について触れながら、日本の心理相談・カウンセリングの現状について説明したい。それは本連載のテーマでもある性にまつわる諸問題(中でも家族における性暴力・虐待の加害・被害)の相談に大きくかかわってくると思うからだ。

 

 公認心理師と聞いてもピンとこない方のほうが多いだろう。一言で言えば心理職の国家資格のことである。その元となる「公認心理師法」は、2015年9月9日に議員立法により成立し、9月16日に公布された。2年後の2017年9月15日に施行され、第1回公認心理師試験が今年の9月9日に実施された。この法律に関して詳しく述べることは省くが、一説によると全国で7万人近くが受験したという。70歳を過ぎた私も第一回の試験を受けた。臨床心理士資格保持者が約2万人。その人たちが全員受けたとしても、その3倍を超える数が受験に殺到したことになる。

 一部では最初で最後の大型国家資格と言われ、試験の参考書などは発行するたびにAmazonで品切れが続出するほど売れたようだ。すでに心理職として働いている人たちが受験資格を取得するための現任者講習会も会場が足りないほどで、追加講習が開催された。4日間(5日コースもあった)の研修は厳しい条件のもと実施され、正直それだけでもへばりそうだった。酷暑の夏に受験勉強するほどの時間も体力もなく、70歳以上の受験者には高齢者特典がないものかとひそかに願いつつも、とりあえず無事受験を済ますことができた。オリンピック同様「参加することに意味がある」と、ここまでの行程をこなせたことだけで自分をほめてやりたいと思っている。

公認心理師という肩書

 これまで何冊も本を書いてきたが、肩書にいつも悩んできた。最初に出版した『「アダルト・チルドレン」完全理解』(三五館、1996)ではサイコロジストと名乗っている。その後カウンセラーや臨床心理士を肩書としているが、いまも居心地が悪いのは変わらない。医師や看護師のように国家資格であれば問題はないだろう。しかし心理職はそうではない。誰でもカウンセラーと名乗れるのだ。時にはその状況を逆手にとってカウンセラーと自称してきたのは、臨床心理学を担う多くの研究者や実践家とはちょっと外れたところで仕事をしています、というアピールだったし、カウンセリングを身近に感じてもらうという戦略からだった。

 他の分野の人からは一般的に「心理カウンセラー」と呼ばれてきたが、実はそれも含めて、これまでは勝手に名乗ってもいいとされていた。ネットで検索すればわかるように、親子関係専門カウンセラーとか、ACカウンセラーなどといった資格を自称して開業している人は数えきれない。カウンセリングというものを求める人は増加の一途をたどっている。ネット上の宣伝が質の担保にならないということは誰にでもわかる。一歩間違えば倫理上の問題も起きかねない仕事なのに、国家資格がないためにその保証も質の担保もできないのが現状だったのだ。

 

 私たち心理職はずっと国家資格を求めてきたが、様々な理由でそれは頓挫し続けてきた。すでに1950年代から日本応用心理学会を中心として臨床にかかわる資格制定に関する検討は始まっていた。その後70年代初めの、日本臨床心理学会の「反専門性」を掲げる運動によって、心理テストをはじめとする専門性がいかに患者を抑圧してきたかという批判が内部的に高まり、結果として学会は分裂したのだった。このあたりに関しては堀智久による『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』(生活書院、2014)に詳しい。

 その後1988年に日本臨床心理士資格認定協会が設立され、現在の私の肩書でもある臨床心理士はその協会の認定によるものである。文部科学大臣の認証を受けていることがそのポイントである(厚労大臣ではない)。協会の指定大学院修了が受験資格となり、かなり難しい試験を合格した後もさまざまな研修を受け続けなければ5年ごとの更新は認められない。

このような高い専門性を要する資格がそのまま国家資格にならなかったのはなぜなのか。30年近くにわたり国家資格化を望みつつも、精神科医という医療ヒエラルキーにおけるトップの座を占める存在が大きくたちはだかっていたからだ。

 看護師も薬剤師も、医師より上位の資格であるはずはない。大学院修了後に臨床経験を積んだ臨床心理士が国家資格になることは、医師・精神科医療、さらに厚生労働省から成る既成の構造を維持するためには認められないことだったろう。「医師の指示」なのか「医師の指導」なのかという文言に象徴されるように、医師との関係が争点となり続けてきたのである。

 我々は妥協を強いられ続けてきたと思うが、苦難の末にやっと公認心理師法が成立したのである。もともと私たちが望んだ内容からすれば、100%満足がいくものではないが、それでも半世紀にわたる悲願がいちおうの決着をみたことは評価したい。精神科病院で仕事を始めた70年代初頭の私が味わった深刻なアイデンティティの不安を、後に続く若い人たちが経験しなくて済むとしたらそれは喜ばしいことだろう。来年の春には多くの公認心理師が誕生することを歓迎したい、そしてできればその一員になれるように願っている。

 

被害を自覚するまでの時間

 本連載にこれまで多く登場した人たち、父や兄、時には弟や祖父といった家族からの性虐待の被害者にとって、ここまで私が述べてきた資格問題はどのようにつながっているのだろう。

 たとえばお酒の飲み方の問題であれば、アルコール専門外来を謳う精神科クリニックや病院を受診すればいい。本人に自覚がなければ家族が受診する方法もあるし、公的相談機関(精神保健福祉センターや保健所)なども窓口となる。子どもの不登校であれば、教育相談も機能するだろう。ところが、DVのような家族の暴力に関してはいったいどこに行けばいいのかがわからない。

 教科書的に言えば、地方自治体はDVの相談窓口を設置する努力義務があるが、その数は限られており、相談するととにかく逃げることを勧められるというところもある。たとえば、病気かどうかわからない、むしろ困ってはいるもののどう名付けていいかわからないという問題の数々がある。そんな時、地方の中小自治体に住んでいる人たちは、訪れる場所としてまず医療機関を思い浮かべるだろう。某県の知人は、姪が2週間学校に行かなかったとき、まっさきに大学病院の精神科を受診させるように弟にアドバイスしたという。これを批判するのは簡単だが、困ったときにはまず医療という発想、選択肢の無さは、21世紀の現在もそれほど変わってはいないことを表している。インターネットに親しむ世代は、支援してくれるところを検索してみるものの、遠方だとあきらめてしまう。このように医療機関か、さもなくばあきらめるというケースがほとんどだ。その人たちの多くは宗教につながって救済を求めることになる。

 

 それでは性被害はどうだろう。ワンストップセンターは2010年の大阪SACHICOを第1号として、現在では行政が関与する性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センターが各都道府県に一か所ずつ設置されるまでに至っている。また被害者の治療・相談のために公的資金が使われるようになり、性暴力救援センターの全国組織もできて全国研修も第5回を数えるようになった。性暴力をめぐる法律の整備が進むにしたがって、10年前には考えられないほどの広がりを見せていると言っていいだろう。

 しかし、ここでいう性暴力の多くは強制性交やその未遂を指しており、本連載が対象とする家族における性暴力の問題はそこではなかなか掬いとることが難しい。連載第3回で述べたような法改正によって、初めて家庭内の性虐待への処罰規定が「監護者わいせつ罪」「監護者性交等罪」として新設されたにもかかわらずである。

 ところで、Twitter上で「#私が父親を嫌いになった理由」が話題になった。自分が幼い頃、父親に性的な行為・言動をされて不快だと感じた経験を、女性たちが打ち明けている。8月9日配信のハフポスト日本版の記事によれば、この投稿を呼びかけたのは、Twitterユーザーの「サクマにな子」さんだという。彼女は取材に応じた際に、まず投稿が日本の現状を浮き彫りにしてくれたと述べ、次のようなコメントを寄せている。

 

個別に「家族にも言えなかった。辛かった。言う場所をくれてありがとう」と、メッセージを頂いたり、警察に届けたのに「家族のことでしょ?」と、被害届を受理されなかったという話が、ポンポンとありました。

父親の立場の人には、子供の「ノー(否定)」を受け止めろと言いたい。「ノー」を無視されたことが時限爆弾となり、大人になった日に理解し、爆発する人がものすごく多かったんですね。 私も父親からの「性加害」を受けました。暴力や暴言は、子供でも理解できますが、「性加害」は「大人になって理解した」と思います。

娘と父親で問題が多いのは、「女性」を軽視しているから(人間として見ずに「女」として見るから)、子供の「ノー」を受け止められずに加害をやめないんだと思います。 「他人にやらないことは『家族』であろうと、やるな!」。 「『家族』からの『加害』を、透明化させるのを、いい加減、やめろ!」と言いたいです。

 

 この配信の後半部分では私のインタビューもアップされているが、日本の現状を浮き彫りにしたという点に注目したい。氷山の一角というたとえがあるが、最初に明らかになり話題となるのは物事の先端部分である。強制性交と呼ばれる性犯罪がまず表面化し厳罰化が進んだことで、される方が悪い、隙があったという長年日本で(いや世界で)根強かった常識が転換されたのだ。それが一般常識になるには気が遠くなるような時間がかかるかもしれないが、それでもぽっかりと水面に頭を出したことが、どれほど大きな意味を持つかは言うまでもない。

 水面上に顔を出したレイプと呼ばれる行為の下には、監護者という子どもにとってもっとも重要で生死を委ねた存在による性暴力が潜っている。そのはるか下の深海では、決して娘にレイプなどせず、笑いとともに「かわいがり」と分離不可能な状況で行われる、膨大な数の性暴力(性虐待)が存在する世界が広がっているのだ。水中深く行われるこれらの行為は、これまでほとんど言語化されなかった。水というのは家族であり、閉ざされた空間を指す。家族にまつわる幻想ゆえに、父親(加害者)たちは守られ、何をやっても「かわいがっている」と弁明すれば娘の過剰反応として自らは正当化されたのである。

 繰り返しになるかもしれないが、性虐待の特徴は「おとなになってから理解する」という点だ。つまり自らの経験を「被害」として自覚するためには、長い時間が必要となる。第二次性徴期を過ぎ、性に関する知識を得てはじめて自覚されるのが、父の行為の性的意味なのだ。この時差は記憶の問題とも絡み、フロイトの時代から現代にいたるまで「本人のねつ造である」「誤記憶だ」とされて、アメリカでは政治的問題にまでなった。しかし現代ではほとんどの先進国ではそのような論議は否定され、家庭内性暴力として犯罪とされるようになっている。

 もうひとつの特徴は繰り返されるという点である。Twitterに投稿している「おなかやおしりを触られた」「私は父に胸を触られていました」「プロレスの技をかけられて胸を触られた」……も、たった一回の出来事を述べているわけではない。おそらく何度もされ、時には何年も続いたのだ。

 たった一度でも、子どもにとって性的なにおいのする行為は強烈な違和感とともに、別の世界を看取させる経験として記憶される。幼児期の父からの接触(さわる、なめる、抑える、抱きしめるなど)に子どもは鋭く反応するのは、未知で異界の行為を父という監護・庇護者が行うからだ。このギャップゆえに通常の記憶にトレースすることができない。父からの性的関心は子どもにしてみれば「攻撃」「侵襲」として関知されるものなのだろう。

 多くの投稿は、幼児期というより、思春期になった自分の身体を父が触るというものだった。ふくらんできた娘の胸を触ったりお尻に触る父親がどれほど多いか驚くばかりだ。娘を人間でなく女として見る父、女性を蔑視する父とサクマにな子さんは述べているが、そもそもそんな父は娘を「愛し」「かわいがる」ことはないだろう。心より娘を大切に思えば、決してそんな行為はできるはずがない。電車の中で痴漢行為をするサラリーマンだって、娘が痴漢に遭ったと知ると激怒する。彼の行為の非道さを強調するときに、多くの人が「あなたの娘がそんな目にあったらどうするんですか」と責めるのは、娘には絶対そんなことをしないという前提に立っているからである。

苦しみを受け止め、信じるということ

 さて、自らの経験を性被害と自覚したら、いったいどこにそれを訴えればいいのだろう。ましてそこには時差が横たわっている。Twitterのような匿名性のSNSが登場して初めて、投稿し分かち合うこともできたが、やはり匿名性の世界の持つ限界はあるだろう。

 医療機関はそのような問題に対して、ほとんど無力だと言わざるを得ない。症状化しない問題、それも記憶によって語られる問題を扱う場所ではないからだ。そうなると、一体、どこが適切なのか。何より「被害」を認定してくれること、つまり過去の経験を語るときにいささかの疑いもさしはさまない態度を示してくれることが被害者にとっては最大の条件である。

 従来の臨床心理士の多くは、大学院や実習先の養成課程で、心理療法と名のつく実践を身に着けてきた。その多くは自己の洞察や成長という「自分」を見つめることを重要とするものである。

 しかし、父から習慣的に触られたことが「性被害」かもしれない、自分の現在にそれが大きく影響しているかもしれないという主訴で相談する人に対して、そのようなアプローチは果たして期待に添うものだろうか。被害ととらえるなんて、親を傷つける勝手な思い込みではないかという迷いを、まず払拭する必要がある。「性被害」者の抱く自責感の苦しみを十分に知ったうえで性被害の相談・支援・ケアにあたれる専門家が必要とされる。

 

 トラウマという言葉があるではないか、トラウマ治療はすでにいくつかの方法が実践されているはずだ、と思う方もいるだろう。方法化されプログラム化されることは、性被害の専門家を増やすには必要だと思う。しかし今回のTwitter上に投稿された多くの女性の言葉から読み取れるのは、そのような用語を用いる以前の混沌である。父の行為が性加害→娘は性被害者→トラウマ治療、といった順序立ては明快(傍点)である。しかしそこから漏れ落ちるようなためらい、迷い、自責、嫌悪、不安、時には恐怖といった割り切れない思い、定義する言葉を模索する苦しみを受け止めて、信じて聞いてくれる相談機関が必要なのではないだろうか。

 公認心理師は国家資格であるものの、その活動をどのように展開していくか、どのようにカリキュラム編成するか、実習をどうするかに関しては未定の部分が多い。これまでの心理職において、性被害・性虐待被害者を対象とすることはマイナーとされてきた。DV被害者ですら苦手意識を持つ人が多かった。

 家族の深海部分で起きている性虐待被害について、被害者の立場に立ち、長いタイムスパンの見通しを持ちながら相談・支援・ケアできる専門家として、公認心理師が役立つ日が来る、そんな希望を抱いている。なぜなら、被害は疾病でもなく障害でもない。その人の尊厳と生き方の根幹への破壊によるものだからだ。

 きわめて個人的ではあるが、このビジョンはさまざまな被害を受けた人たちの支援や尊厳回復にかかわるという点において、70年代の「専門家による抑圧」告発の時代にも通じる気がしている。半世紀近くを経て、心理職への期待は再び原点に戻ったのである。

 

 

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著者略歴

  1. 信田さよ子

    1946年生まれ。臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。アディクション全般、アルコール依存症、摂食障害、ドメスティック・バイオレンス(DV)、子どもの虐待などに悩む本人やその家族へのカウンセリングを行っている。著書に『母が重くてたまらない』『さよなら、お母さん』『家族のゆくえは金しだい』(いずれも春秋社)、『コミュニケーション断念のすすめ』(亜紀書房)、『傷つく人、傷つける人』(ホーム社)、『家族収容所』(河出文庫)、『家族の悩みにおこたえしましょう』『共依存 苦しいけれど、離れられない』『母・娘・祖母が共存するために』(朝日新聞出版)、『父親再生』(NTT出版)、『カウンセラーは何を見ているか』(医学書院)、『依存症臨床論』(青土社)、『アディクション臨床入門』(金剛出版)など著書多数。
    原宿カウンセリングセンター http://www.hcc-web.co.jp/

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