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宇宙時代と大乗仏教 田中公明

第6回 映画監督になった活仏―ゾンサル・キェンツェ―が日本で語ったこと―

 中央チベットにおいてチベット仏教ゲルク派を出身母体とするダライラマの権威が確立していた19世紀、「無宗派」(トゥンタ・リーメー)と呼ばれる新たな宗教運動が、東チベット(カム)に興った。その代表的な人物が、ジャムヤン・キェンツェイワンポ(1820~1892)である。彼はチベット仏教サキャ派に属していたが、ニンマ派、カギュー派などの教義にも精通し、従来の宗派の枠にとらわれない幅広い宗教活動を行った。そこで彼が没すると、その業績を追慕する人々によって、ゆかりの寺院に生まれ変わりとされる幼児が引き取られ、新たな転生ラマ(活仏かつぶつ)の名跡が誕生した……
 このように書くと、何だかチベット仏教の歴史を読んでいるようだが、チベット人(ブータン国籍)がメガフォンを執った初めてのチベット語映画「ザ・カップ――夢のアンテナ」(1999年)の監督キェンツェ・ノルブこそ、このジャムヤン・キェンツェイワンポの生まれ変わりとされる転生ラマ(活仏)なのである。
 なおジャムヤン・キェンツェイワンポは「無宗派運動」の旗手であっただけに、没後は各宗派が、それぞれゆかりの寺院に活仏の名跡を設けた。したがってダライラマやパンチェンラマとは異なり、彼の生まれ変わりは一人ではない。しかしキェンツェ・ノルブは、ジャムヤン・キェンツェイワンポが本拠としたゾンサル寺(サキャ派)の活仏(ゾンサル・キェンツェ)であり、東チベットで最も由緒正しい活仏の一人として、多くの信徒の尊崇を集めている。

ゾンサル・キェンツェ
 彼は現在、チベット系の「ゾンカ語」を国語とする世界で唯一の独立国ブータンに在住している。これは彼が、チベット人を父、ブータン人を母として、母親の母国ブータンに生まれたからである。
 ゾンサル・キェンツェが映画に興味をもったのは、チベット仏教をテーマにした映画「リトル・ブッダ」(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1993年)の製作に当たって、学術顧問を務めたことがきっかけといわれる。そして彼は、流暢な英語力を武器に、アメリカやヨーロッパで多数の信徒を獲得し、現在欧米で最も人気の高いチベット仏教指導者の一人となっている。
 私は2019年に、博士論文『インドにおける曼荼羅の成立と発展』(春秋社)の英語版、An Illustrated History of the Mandala, From its Genesis to the Kālacakra-tantra(Wisdom Publications, 2018)の出版を記念して、ゾンサル・キェンツェの母校であったロンドン大学のSOASのBuddhist Seminorで講演を行ったことがある。英国は物価が高いので、私が訪英する時は、宿泊費や食費を節約するため貧乏旅行をするのが常であったが、この時はロンドン大学や大英博物館にほど近いホテルに泊めてもらい、食費の心配をすることもなく滞在することができた。
 ロンドン大学は国立のため、それほど資金が潤沢なわけではないが、私の講演は、ゾンサル・キェンツェが設立したキェンツェ基金の資金によって賄われていることを知った。そのような訳で、私も知らず知らずのうちに、東チベット第一の活仏のお世話になっていたのである。
 ゾンサル・キェンツェは、彼が活動拠点とする米国と、生まれ故郷のブータンを往復する時、日本に立ち寄ることがある。彼の教団は世界中に支部をもっているが、私が会長(当時は副会長)を務めるチベット文化研究会が、その日本支部となっている関係で、トランジットで短期滞在したゾンサル・キェンツェに講演会をお願いしたことがあった。会場は、東京愛宕山の青松寺せいしょうじだったと記憶しているが、その時のゾンサル・キェンツェ・リンポチェの講演(英語)が、とても面白く示唆に富んでいたので、本章では、それを紹介してみたい。
 ゾンサル・キェンツェは、「私たちは仏になることを目指して修行しているが、成仏すると聞いても踊躍歓喜ゆうやくかんぎの気持ちがなかなかおきない。私は推理小説を読むのが好きで、いつも誰が犯人なのかワクワクしながら読んでいる。しかし仏が推理小説を読んでも、最初の1頁を読んだだけで、犯人が誰かが分かってしまう。ギャンブルをしても、誰がどれだけ勝って、誰がどれだけ負けるかが瞬時に分かってしまうので、少しも面白くない。」(取意)と語った。私にはこの講話がとても印象的だった。
 それはちょうど『歎異抄たんにしょう』九に、唯円ゆいえんが「念仏申し候らへども、踊躍歓喜の心、おろそかに候うこと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候らわぬは、いかにと候うべきことにて候うやらんと」尋ねたところ、親鸞しんらんが「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房同じ心にてありけり」と答えたという話を想起させる。
 大乗仏教では、仏は過去・現在・未来の一切を知る「一切智者」とされる。つまり仏は―もし知ろうとほっすればの話であるが―すべてを知ることができる。それは仏が過去・現在・未来を通じて不変な因果の理を完全に悟っているからである。
 そこで身の周りに起きるすべての事象が何故起きたのかを、知ることができるとされている。歌舞伎「与話情浮名横櫛よわなさけうきなのよこぐし」の切られ与三郎の名台詞に「お釈迦様でもご存知あるめぇ」というのがあるが、仏教の教理上は、切られ与三郎が生きていたことも知ることができるのである。
 しかし仏になると、ゾンサル・キェンツェがいうように、推理小説だけでなく勝負事もギャンブルも、すべて結果がわかってしまうので面白くも何ともないということになる。また仏や仏法を悪し様に非難する者がいても、仏は彼らが悪業あくごうの結果、どのような苦悩を受けることになるかがすぐに分かるので、まともに怒る気にならない。
 仏にとっては仏教の敵対者である魔王も、常侍の弟子阿難あなん尊者も、完全なる悟り(阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい)に達しておらず、自分がどこから来てどこに行くかを知らない点では哀れな衆生の一人に過ぎない。「仏は一切衆生を見ること一子の如し」というが、それはブッダが博愛主義者だからではない。このように一切智を成就すると、世の中の者とは全く異なった世間の見方をするようになる。このように一切智者が衆生を哀れだと見ること、つまり一切の条件をつけない慈悲は、無縁むえん大悲だいひと呼ばれる。
 つまり仏は一切智者であるため、われわれ凡夫ぼんぷとは全く異なったものの見方をし、全く異なった行動をとることになる。『法華経ほけきょう』に、仏は「世間が見るようには世間を見ない」(不如三界見於三界ふにょさんがいけんのさんがい)と説かれるのはこのためである。そこで仏は、一切智者であるために、通常の喜怒哀楽を超越している。ゾンサル・キェンツェと親鸞という、時代も宗派も異なる二人の仏教者が、仏になることに踊躍歓喜の心を感じなかったのは、二人が仏の本質をよく知っていたからに他ならない。
 仏教聖典のジャンルの一つに、「アヴァダーナ」(譬喩ひゆ)というものがある。これはブッダの在世当時に仏弟子や在家信者の身の周りに起こった出来事に取材しながら、弟子たちがブッダに、その出来事が起こった原因を尋ねると、ブッダはたちどころに過去世のこれこれの出来事が、その出来事の原因であると謎解きをするという物語である。
 そしてこの「アヴァダーナ」はまとめられ、数十話や百話に及ぶアヴァダーナ文献が成立するようになった。インド亜大陸で伝統的な大乗仏教と密教の混淆形態が消滅した後、英領インドの外交官であったB・ホジソンによってネパールのカトマンズ盆地に残存していた大乗仏教が発見され、はじめて欧米に紹介された。その時、ホジソンが請来したネパール仏教のテキストは厖大な量に上るが、これらは英領インドの首都があったカルカッタ(現コルカタ)のベンガル人のパンディットによって解読されることになった。
 しかし彼らにとって、大部の大乗仏典や仏教の教理を説いた論書は難解なものであった。そこで彼らにとっては読みやすいブッダの前世の物語「ジャータカ」や「アヴァダーナ」のあらすじが、最初に欧米に紹介されることになった。
 これに対して日本では、「アヴァダーナ」は、無知蒙昧な一般信徒に仏教の因果応報や勧善懲悪の思想を教えるために創作された「鰯の頭も信心から」といった物語で、深遠な大乗仏教の哲学や実践体系を説いた文献よりは一段も二段も劣ったものだと考えられてきた。そこで現在でも、「アヴァダーナ」は、インド哲学仏教学ではなくインド文学の研究分野として扱われることが多い。
 しかし「アヴァダーナ」を読むと、当時の仏教徒が、万物は因果律によって支配されており、それを完全に解き明かすことができるのは一切智者であるブッダだけであると考えていたことがよく分かる。そしてその場合、強調されるのは道徳的因果律であり、善因楽果、悪因苦果の教説に重点が置かれている。
 とくにチベットでは、クシェメーンドラ(990~1070頃)が編集した108話からなる『アヴァダーナ・カルパラター』が普及しており、その108話を描いたタンカ(軸装仏画)のセットが、極めて多くの作例を遺している。これは僧侶が信者を前に、軸装仏画や壁画を示しながら絵解きをするために用いたからである。第4回で、「●●氏は、生前から因果の理を深く信じ」という話を紹介したが、ネパール・チベットの仏教圏では、「アヴァダーナ」を通じて、因果応報の理が広く信徒に浸透しているのである。
 このように仏教では、仏を過去・現在・未来の三世の一切を遍知する一切智者とする。仏教における一切智については、川崎信定教授の『一切智思想の研究』(春秋社、1992年)に詳しい。同書によれば、ブッダの一切智の範囲が、どこまでを指すかについては古来から議論があった。しかし大乗仏教・密教では、ブッダは、もし意欲すればという条件つきではあるが、無限の過去の出来事を知り、数阿僧祇あそうぎ劫の未来まで予知することができるとされている。
 第2回で見たように、阿弥陀仏あみだぶつが、極楽往生した衆生に、はるか未来の成仏とその国土・名号みょうごうまでも授記じゅきすることができるのは、このような仏の一切智者性を前提としたものに他ならない。しかしこのように考えると、歴史的ブッダ=釈迦牟尼しゃかむにの伝記に、一切智性と矛盾する記述が散見されるのも事実である。ブッダは、バラモンが居住しており布施ふせが受けられなかったパンチャサーラー村で、なぜ托鉢たくはつを行ったのか? ブッダは、将来教団に災いをもたらすことになるデーヴァダッタ(提婆達多)やスナクシャトラ(善星)の出家を、どうして許したのか? 等々である。
 川崎教授が指摘したように、これらの仏の一切智者性に対する論難に対し、仏教では種々の救釈きゅうしゃくを用意している。しかし原始仏教の段階では、ブッダは過去・現在・未来を通じて不変の理法を悟ったとしても、大乗仏教が考えるような一切智性を成就したとは考えてはいなかったであろう。
 ところがブッダの教説を聴いて修行し、煩悩を断って阿羅漢果あらかんかを得た仏弟子も、なお世間的な問題に関しては無知が残っていた。そこで仏は彼ら声聞乗しょうもんじょうの聖者とは異なる一切智性をもつと考えるようになった。そこで大乗仏教の教理学では、仏の智慧は一切種智(サルヴァーカーラジュニャ)といい、小乗の聖者のもつ一切智(サルヴァジュニャ)とは異なるとされるようになった。しかし歴史的人物である釈迦牟尼を、大乗や密教が定義するような一切智者とすることには無理があったといわざるをえない。
 なお第11回では、仏の一切智者性とそれに伴う問題点について、仏教と科学の両面から考察することにしたい。

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著者略歴

  1. 田中公明

    1955年、福岡県生まれ。1979年、東京大学文学部卒。同大学大学院、文学部助手(文化交流)を経て、(財)東方研究会専任研究員。2014年、公益財団化にともない(公財)中村元東方研究所専任研究員となる。2008年、文学博士(東京大学)。ネパール(1988-1989)、英国オックスフォード大学留学(1993)各1回。現在、東方学院講師、富山県南砺市利賀村「瞑想の郷」主任学芸員、東京国立博物館客員研究員、チベット文化研究会会長。密教や曼荼羅、インド・チベット・ネパール仏教に関する著書・訳書(共著を含む)は70冊以上。論文は約140編。くわしくは個人ウェブサイト(http://kimiakitanak.starfree.jp/)を参照。

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