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宇宙時代と大乗仏教 田中公明

第4回 仏教の因果観―仏教は因果律絶対主義である―

 私は学生時代から数えると50年以上、仏教を研究している。仏教にはスリランカや東南アジアのテーラヴァーダ仏教、中国、日本、朝鮮半島、ベトナムの大乗仏教(東アジア仏教)、そして内陸アジアのチベット仏教という三つの大きな流れがある。それらの間で聖典や教義は大きく異なっているが、それらに通底する根本思想としては、時間・空間を超えて普遍的に存在する因果律を承認することが挙げられると思う。
 仏教では、信者を追悼する際に「●●氏は、生前から因果の理を深く信じ」という表現が使われることがある。因果の理という言葉は、西洋哲学の術語では因果律に相当するが、これは故人が物理学者だったという意味ではない。仏教には、仏教でいうところの真理すなわち仏法ぶっぽうと、因果の理、つまり因果律が等価であるという認識が存在する。そして因果の理は、いつの時でも、どの世界でも普遍的に適用されると考えるのである。
 これは天体物理学者が、この銀河系から数十億光年離れた銀河で、何が起こっているのかを物理法則を用いて解析することに似ている。銀河系から数十億光年離れた銀河には、地球とは異なった物理法則が適用されるのなら、このような解析は意味をなさない。
 また高性能な天体望遠鏡で捉えられた数十億光年離れた銀河の映像は、実際には数十億年前の姿なのである。しかし物理法則は現在も数十億年前も、等しく万物に適用されるから、数十億年前の銀河も物理法則で解析できるのである。つまり物理法則は、時間と空間に拘わらず万物に適用され、それには例外が存在しないという事実は、すべての科学的認識の大前提になっているといっても過言ではない。
 このように言うと、「仏教は科学である」といった短絡的な意見が出てくることを心配しているが、仏教が現代科学と両立できる宗教であることは、承認されるであろう。それでは仏教と自然科学の因果律の相違点は何なのだろうか?
 私は、仏教の因果の理には、①物理的因果律の他に②道徳的因果律と③救済論的因果律の三つの側面があり、これらが渾然と融合しているところに、仏教の因果観の特色があると考えている。仏教では、②善因楽果、悪因苦果の因果応報を説く。良い行いをすれば必ず幸せになり、悪事を働けば必ず苦の果報を受ける。これは世俗的レベルでいえば、勧善懲悪思想となる。仏教が、その長い歴史の中で――一部の例外を除けば――為政者から歓迎されることが多く、政治的な弾圧を受けることが少なかったのも、そのためと思われる。
 しかしながら現実の社会では、悪事を働いてもノウノウと生きている人がいる一方、善良な人がなかなか報われないという事例が、至る所に見られる。また善悪の業を重ねる前に、胎児や幼児の段階で死んでしまう者もいる。つまり実際には、善因楽果、悪因苦果の原則が必ずしも貫徹されていないのである。もし善因楽果、悪因苦果を、単なる努力目標や良心の問題であるとするなら、それでもよいであろう。また仏教の説く基本的道徳規範である「五戒」や「十善」をとりあげ、五戒を保ち、十善を実践する者は周囲から愛され、経済的にも裕福になるといった現象は、統計学的に裏づけられるかも知れない。
 しかし因果応報を時空間を問わず普遍的に適用できる絶対的理法、ダルマと解するなら、どうしてもこの一生だけでなく、前世や来世を想定して、トータルバランスをとる以外には方法がないように思われる。
 ドイツ観念論哲学を大成したカントは、『純粋理性批判』において神の存在証明を否定したが、『実践理性批判』では一転して「実践理性の要請」として神の存在を許容したといわれる。キリスト教のように絶対者としての神を認めなかった仏教は、道徳律に普遍的な妥当性を与え、実践理性の要請に応えようとしたのである。そしてこのような道徳律の普遍妥当性、つまり「天網恢々てんもうかいかい疎にして漏らさず」を実現するためには、どうしても前世、来生の存在が必要になってくる。
 仏教学者の間では、輪廻転生説はインドで一般的な死生観であり、仏教はそれを取り入れただけだという考え方もあるが、道徳律自体が時空間を超えた普遍妥当性をもつと考えるなら、どうしても輪廻転生説を導入せざるを得なかったとも考えられる。
 さらに仏教では、人間というより生きとし生けるもの、衆生しゅじょうの苦悩の原因を究め、それを取り除くことによって救済されるという、③救済論的因果律を説いている。仏教が教義の中心とする四諦したい、十二因縁、八正道はっしょうどうなどは、衆生の苦の原因を絶ち、正しい実践によって苦悩から解脱げだつすることを目指す修道論である。そして仏教では四諦、十二因縁、八正道なども、みな時空間を超え、普遍的妥当性をもつ真理だと考える。
 主要な初期大乗仏典の一つに『華厳経けごんきょう』があるが、その「四諦品」では、苦集滅道くじゅうめつどうという四つの真理、四諦がこの娑婆世界で様々の異名で呼ばれるだけでなく、他の世界においても、多くの名前で呼ばれると説いている。
 つまり仏教が説く③救済論的因果律も普遍妥当性があり、他の世界でも同じような思想が説かれ、実践論が普及しているとするのである。前著『仏菩薩の名前からわかる大乗仏典の成立』(春秋社)で指摘したように、『華厳経』は数多い大乗仏典の中でも、大乗仏教の宇宙的性格が最もよく現れている経典といわれる。
 『華厳経』は、菩薩が悟りに至る①十信②十住③十行④十廻向⑤十地⑥等覚・妙覚の五二位を説くのが主要な教理内容とされていた。これに対して「四諦品」などの前半部分は、経典の本篇に入る前の序分じょぶんと見なされていた。ところが最近の研究で、仏の普遍性を説く「如来名号品」や仏教の実践の普遍性を説く「四諦品」などの前半部分こそ『華厳経』の原初形態であり、60巻、80巻からなる『大華厳経』は、むしろ前半部分に相当する原始『華厳経』から発展してきたことが分かった。
 つまり仏教の説く真理が時間空間を超えて普遍妥当性をもつことを強調するのが『華厳経』の根本思想であり、それが大乗仏教の宇宙的性格を最もよく示す『大華厳経』に発展したと見られるのである。
 このように近代科学と仏教は、ともに時間・空間を超えて普遍妥当性をもつ因果律の存在を前提として構築された点では共通している。しかし仏教では、科学的に客観的に検証できる①物理的因果律の他に、科学的に検証することが困難な②道徳的因果律と③救済論的因果律を立て、それも時間・空間を超えて普遍妥当性をもつと主張する点が異なっているといえる。
 前述の通り、仏教の説く②道徳的因果律、善因楽果、悪因苦果の原則は、現実社会においては必ずしも貫徹されていない。5世紀に入ると、インドでは無著(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)兄弟が現れ、唯識ゆいしき思想という絶対的観念論を構築した。これは科学的には検証することが困難な②道徳的因果律と③救済論的因果律を、阿頼耶識あらやしきと呼ばれる潜在意識を設定することにより説明するものである。
 衆生の表層意識は死ぬと失われるが、阿頼耶識と呼ばれる潜在意識は輪廻転生を繰り返しても存続しつづける。阿頼耶識は悟りを開いて仏になり、識が智に転化(転識得智てんじきとくち)するまで存在しつづける。そして衆生の善悪のごうは、阿頼耶識の中に蓄積され、それが一定の時間を経ると苦楽の果報として発現する。
 このように設定すると、科学的には検証することが困難な②道徳的因果律の存在を合理的に説明できると考えたのである。したがって外界の物質世界は、衆生の阿頼耶識が作り出したものとなり、その実在は否定される。唯識思想が絶対的観念論とされる所以である。
 唯識派は、外界の事物の実在を否定するのに極微ごくみのパラドックスを用いる。インドの物質論は、外界の事物は、極めて微細でこれ以上分割できない極微(パラマーヌ)からできていると考えた。ところが極微が大きさをもたないと、それは存在しないことになり、一定の大きさをもつとするなら、それは上下左右の面をもつことになり、これ以上分割できないという定義に反することになる。
 このようにして唯識派は、外界の事物の実在を否定したのである。このような極微のパラドックスについては、第12回で、量子力学の問題を考えるところで、改めて論じたい。
 ところが唯識派の絶対的観念論は、それまで大乗仏教の根本思想とされてきた中観ちゅうがん派の空思想と矛盾する点があった。中観派の立場では、色受想行識の五蘊ごうんは、すべてくうであり、阿頼耶識も識の一種であるから、当然、固有の実体がない(空)ということになる。それが実在し、現実の世界は阿頼耶識が作り出したものだということになると、「識も空である」と説く大乗仏教の根本聖典『般若経』の教説に矛盾することになるからである。
 中観派の空思想に基づき、現在のチベット仏教の主流派、ゲルク派を開いたツォンカパ(1357~1419)は、その思想的立場を簡潔に表明した『三種最勝道』(ラムギツォウォ・ナムスム)の中で、つぎのように述べている。
 「現象世界に縁起えんぎが例外なく適用されることと、(事物に固有の本性があるという)主張を離れた空の理解の二つが、別々であると思われるうちは、いまだ(釈迦)牟尼の真意がわかっていない。もし(これら二つの理解が)交互ではなく同時に、縁起を例外なく適用されものと見るだけで、智慧が外界(に固有の本性があると見る)執着を打ち破るならば、その時哲学的考察は完成する」
 つまり縁起、すなわち因果律が時間・空間を超えて普遍的に妥当することと、一切の存在に固有の実体がない(空)ことは、少しも矛盾しない。これが分からないうちは、仏教を理解したことにならないと述べているのである。
 大乗仏教では、すべての存在に固有の実体がないことを「空」(シューニャ)と表現する。シューニャは空虚・空無を表す語で、インド文明最大の発見といわれるゼロもシューニャである。そこで「空」という言葉から、大乗仏教を単なる虚無論とする誤解が現れた。またそれが因果律を否定するものと受け取る者も現れた。チベット仏教の教理書を見るとよく分かるが、因果の理を否定することは「断見だんけん」と呼ばれ、「悪見あっけん中の悪見」、つまり誤った思想の中でも最もタチたちが悪いとされている。
 前述のように仏教の因果には②道徳的因果律と③救済論的因果律が含まれるから、これは道徳律と仏教の実践論・修道論という、仏教の大前提を否定する危険思想と見なされたのである。
 このように仏教では、因果の理が厳然と存在することが教理の大前提となっている。そして現代の自然科学とは異なり、仏教では①物理的因果律の他に②道徳的因果律と③救済論的因果律を立てる。そして②と③の存在は科学的には立証が困難であるから、仏教は現代科学とも両立できる宗教であるが、「仏教は科学である」といった短絡的発想には注意しなければならない。
 そして5世紀に入ると、インド大乗仏教の中から②道徳的因果律と③救済論的因果律の存在を論証するために、阿頼耶識という潜在意識に基づいた精緻な教理体系、唯識説が出現した。しかし唯識説はしだいに絶対的観念論に陥ったため、大乗仏教の基本理念に反すると批判されるようになった。なおインド大乗仏教の流れを受け継ぐチベット仏教の教理学では、唯識派が阿頼耶識を持ち出すところを、「心相続しんそうぞく」(チッタ・サンターナ)という概念で説明している。そこで現代のチベット仏教では、②道徳的因果律と③救済論的因果律を心相続という概念で説明するようになっている。
 なおこの問題については、第8回以降で、改めて論じることにする。

 

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著者略歴

  1. 田中公明

    1955年、福岡県生まれ。1979年、東京大学文学部卒。同大学大学院、文学部助手(文化交流)を経て、(財)東方研究会専任研究員。2014年、公益財団化にともない(公財)中村元東方研究所専任研究員となる。2008年、文学博士(東京大学)。ネパール(1988-1989)、英国オックスフォード大学留学(1993)各1回。現在、東方学院講師、慶應義塾大学講師、東洋大学大学院講師、高野山大学客員教授(通信制)[いずれも非常勤]、富山県南砺市利賀村「瞑想の郷」主任学芸員、チベット文化研究会副会長。密教や曼荼羅、インド・チベット・ネパール仏教に関する著書・訳書(共著を含む)は50冊以上。論文は約140編。くわしくは個人ウェブサイト(http://kimiakitanak.starfree.jp/)を参照。

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