おそろし、雅楽
「舞うと死ぬ」といわれる舞がある。
名を「採桑老」。白装束に身を包んだ老人が、不老不死の妙薬となる桑の葉を求めて舞台をさ迷い歩くその様はかなり異様である。皺だらけで色の白い面に伏せられた鼈甲の目、半開きの口からは不揃いな歯がのぞき、頭には笹、手に持つ杖には鳩が乗っている。舞台に上がるまでは係物と呼ばれる介助者に助けられて歩き、台に上った後の足取りもおぼつかず、次第に歩くことが困難になっていくその舞振りは壮年から晩年までに至る時間の経過と身体の老化を表すとも言われている。
採桑老(天王寺楽所雅亮会第48回雅楽公演会 四天王寺五智光院)(以下すべての写真提供:天王寺楽所雅亮会様)
曲は盤渉調。シ、♯ド、レ、ミ、♯ファ、♯ソ、ラ、シの音で構成される調子(モード)で、陰陽五行説に基づく調子と四季との対応関係(“時の声“と呼ばれる)によると冬に関連付けられる調である。独特の暗さがあり葬式などでも演奏されるこの調で書かれた採桑老は、舞楽ではあるが静けさをも感じる一曲で、老人の存在よりもむしろその周りの空間の広さや、薬草探しの間に過ぎていく時間の長さを強調しているように思える。
鳩杖については、老人の長寿と健康を祈り、また敬老の意を示して贈られる習わしが現代にも伝わっている。鳩は食事の際むせることがないので、老人が食べ物を喉につかえないようにと祈りを込め、また「鳩に三枝の礼あり(親鳥を敬い、その留まる枝より三枝下に留まる)」という言葉があることから老人への礼を表すのだという。その杖を、桑を探す老人はある時は手に持ち、またある時は屈んで抱きしめるように肩にもたせ掛ける。
“桑”という言葉、そして面や引きずった衣装の白さから蚕を想起する人も少なくないのではないか。あの白い、すべらかな肌を頭のどこかで感じながら採桑老の舞を見ると、老いて体もこわばってくるこの老人の中に強烈な“生”を感じてしまう。それは不老不死を求め肉体にしがみつく老人への哀れみか、それとも形を変えまた甦るであろう命への祝福か。
思えば老人の頭につけられた笹も、古くから生命力の象徴とされる植物だ。まっすぐ力強く伸び、冬の寒さにも負けず青々と瑞々しい姿から、若い生命や長寿を表すのだという。やはりこの舞は、老いゆく姿を表しこそすれ、「死」よりも「生」を強く感じる演目である。
採桑老 (聖霊会 四天王寺六時堂内:雨天時)
今でこそ恐ろしいいわれの多い採桑老だが、古くは天皇が見る舞御覧でも演じられたという記録があるため本来はさほど不吉な意味は持っていなかっただろう。それがなぜ、死を招く舞として恐れられるようになったのか。その背景のひとつに、ある事件がある。
殺人事件である。
時は平安時代後期、1100年の6月。その夜、山村政連は刀を握りしめ、闇の中で息を潜めていた。彼は楽人である。舞をよくし、楽の音と戯れた腕は今や人を切り殺さんとしている。殺したいほど憎んだ相手は、かつて親縁ともなった者達だった。
多資忠とその息子、節方。多家は奈良時代から代々続く楽家であり、特に神楽歌と舞に秀で、宮中での演奏・舞を担ってきた。資忠は当時堀川天皇の神楽歌師範だったこともあり、雅楽に熱心だった堀川天皇からの信頼も厚かったようだ。
そんな多家に一度は養子入りをした山村政連。雅楽へ傾ける情熱の賜物か、彼の舞の腕は相当なものだった。
才能のある者は嫌われるのが世の常である。残念ながらこのときも、多家の中に山村政連をよく思わないものが現れ、資忠を次期跡継ぎとして養子に入れることで政連を追い出してしまった。これにより、一度は多姓になった政連は山村姓に戻っている。多家を継ぐつもりで舞の稽古に励んでいた政連の恨みも相当なものであっただろう。
多家には代々家の中で守られてきた一子相伝の秘曲がある。ひとつが「胡飲酒」、そしてもうひとつが「採桑老」である。
政連が多家を離れた際、すでに胡飲酒の舞は先代から受け継いでいた。残る採桑老の舞を習うため、政連は資忠の屋敷を訪れる。しかし今や多家の者ではなくなった政連に対し、資忠は採桑老の伝授を断った。そこで凄惨な事件は起きたのである。このときの政連の怒りはいかほどであったか。人を殺しては自身も楽の世界には帰れまい、そして長い歴史の中受け継がれてきた秘曲の舞も断絶することになる、それでもやはり、手にかけずにはいられなかった。芸に身を捧げた楽人が2人の人間の命を奪ってしまうほどに、雅楽の伝承というものは重要なものだったのだ。
このような因縁の歴史もあってか、近年復元された採桑老にもあまり縁起の良くないいわくが多く噂されており、実際に舞人が数年のうちに死亡した例もある。
しかし身も蓋もないことを言えば、採桑老を舞うのは熟達したお年寄りばかりであるから、舞って数年のうちに亡くなるのは単に寿命なのではないかという話もまことしやかに囁かれている。
見るだけならリスクは無い。頻度はやはり少ないが、最近は民間団体などによって採桑老が舞われる機会が時折あり、DVDも発売されている。ちなみに多家で採桑老が断絶した際、その伝承を繋いだのが京都とは少し離れた天王寺(大阪)で採桑老を受け継いでいた天王寺楽人である。天王寺の採桑老には「洟をかむ手」という振りがあり、そのコミカルな演出はやはり大阪の醍醐味といったところだ。秘曲を舞う勇気に敬意を払いつつ、舞人と自分の長寿を願いながら、封印の解かれた舞をぜひ鑑賞してみてほしい。
走る老猿!対するは聖徳太子(?)
蘇莫者の舞楽をはじめて見た時の衝撃が忘れられない。舞台中央にはけむくじゃらの猿のような生き物、そして西の高欄の脇に立ち背をピンと伸ばして笛を吹いているのは雅楽界の者なら誰もが知る笛吹きのレジェンド、芝祐靖先生であった。
猿の顔は金色に塗られ、ブロンドの長髪に大きな銀色の目。皺の多い顔から突き出した赤い舌だけが鮮やかな色彩を面に加えている。「毛縁の裲襠」と呼ばれるふさのついた衣装に黄色(朽葉色)の蓑を重ねて着ているため、体はふさふさと毛で覆われているようだ。手に持った撥はゼンマイのようにも、木の根のようにも見える。
蘇莫者(聖霊会 四天王寺石舞台〔筆者注:こちらの面は黒い〕)
一方、笛を吹く男性の姿は整った様子で美しい。唐冠と呼ばれる左右に纓(羽のようなもの)がついた冠を被り、赤い装束に太刀を佩いた姿は舞台上でとても精悍に映える。
老猿と対峙して笛を吹くその姿勢はしんとして、その人の周りだけ空気が止まっているかのようだ。聞けば、この笛を吹く役は「太子役」と呼ばれるという。聖徳太子の「太子」である。毛むくじゃらの猿と聖徳太子。2人の関係にどんな由来があるのだろうか。江戸時代の楽書『楽家録』から2つの説を見てみよう。
一説には、役行者が笛で蘇莫者の曲を吹きながら大峯を歩いていると、笛の音に感嘆した山神が現れて(現在「蘇莫者嶽」と言われるのはこの山である)、これを舞った。現在伝わっているのはこの舞を模したものであるとかいう。
また一説には、聖徳太子が河内国〔現在の大阪府南東部〕の亀瀬を行く時、馬上で尺八を吹いていると、山神が現れてこれを舞った、などと言われている。一説、役行者以レ笛吹二蘇莫者之曲一、行二大峯一之時、感二歎笛音一而山神出現 今謂二蘇莫者嶽一即是也 而舞レ之今所レ傳模二此舞一也 云云
一説、聖徳太子行二河内國龜瀬一之時、於二馬上一吹二尺八一、山神出現舞レ之 云云
役行者(修験道の祖、役小角。吉野の金峰山や大峰などを開いた。)や聖徳太子が笛あるいは尺八を吹き、山神がこれに感じて現れたという逸話である。役行者の説については、鎌倉時代の楽書『教訓抄』に「笛の音を愛でて舞い出した山の神が、役行者に見つかって舌を出した」という記述もある。これらの説について、音楽学者の田辺尚雄(1883−1984)は「後世の附会説〔筆者注:後から付けた説〕であることは明らか」「之れは其の舞態から見て印度楽であらう」とし、インドの古神話にある、クリシュナ王子の笛を聴いて鬼畜もまた感嘆して舞ったという故事を表すものではないかと結論づけている(『東洋音楽史』 1930)。
それでは、実際に蘇莫者がどう舞われるのかを見ていこう。
蘇莫者 京不見御笛当役:聖徳太子(聖霊会 四天王寺石舞台)
太子役が舞台端で笛を吹き始めるとすぐに、他の笛奏者もそれに加わっていく。同じ旋律を吹いてはいるが、吹き出すタイミングがそれぞれずれているため笛の音は入り乱れ、カオスの様相を成す。「乱声」である。
「雅楽は雅な宮廷音楽」というイメージだけを持っている者には想像もできない、異様な音空間だ。乱声は神霊を呼び起こす音だという(教訓抄巻一)。このカオスの中、金の毛で覆われた山の神がゆっくりと登場する。
舞もまた、雅なイメージとはかけ離れている。笛の乱声の中、舞台中央に山の神が仁王立つ、と、
ダダダダダッ
と足音を立てこちらに走ってくるのである。そうして観衆をギョッとさせたかと思うとくるりと踵を返し、また向こうへダダダダダと戻っていく。これが何度も繰り返される。
乱声が終わると、いよいよ蘇莫者の曲が始まる。この曲に特徴的な「振動拍子」というリズムで、太鼓がドン、ドン、ドンドンドンドンドドドド……と次第に速くなるように打たれていく。荘厳な曲と太子の流麗な笛に乗って、山の神は腕を大きく振り、軽快に動き回る。恐ろしげな見た目に反し、舞振りはなるほど「楽しくなって踊っちゃった」感があり、笛の音に感じて思わず舞い出したという逸話も頷ける。小さくぴょんと飛び跳ねて見せる様もなんとも可愛らしい。見れば見るほど愛おしくなってくる、第一印象とはギャップのある山神である。こうしてひとしきり踊ったあと、満足したのか山の神は首をひとつ振り、またゆっくりと帰って行く。
「とらえ所がない」「なんだかよくわからない」と言われがちな雅楽だが、このように由来の面白いもの、舞振りに特徴があるものなどストーリーとともに楽しめる演目も多い。また、聖徳太子のような教科書でお馴染みの人物が登場するとグッと身近に感じられるのではないだろうか。ということで、今回最後にご紹介するのは『枕草子』で知られる清少納言が言及している舞楽である。と、その前に、少し舞楽について説明を。
舞楽とは? 雅楽の中での位置付け
雅楽には大きく分けて3つのジャンルがある。ひとつは日本に古くから伝わる歌舞を起源とする「国風歌舞」で、神楽歌や東遊など、主に宮中や神社での儀式・祭礼に使われる。もうひとつは多くの人が「雅楽」と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう大陸由来の楽舞である。これらは五世紀から九世紀あたりにかけて、中国や林邑(ベトナム周辺)、朝鮮・渤海(現在の朝鮮半島北部〜中国東北部)などから伝わった楽舞を源流とするもので、「管絃」と呼ばれる器楽合奏の形態と、「舞楽」と呼ばれる舞に器楽が伴奏する形態とがある。最後が平安時代に作られた「歌物」で、日本各地の民謡に大陸風の音楽のメロディーを付け歌った「催馬楽」と、漢詩に節を付けて歌った「朗詠」とがある。
おそらく一般の人が「雅楽」として一番馴染みのある、先ほど2つ目に挙げた渡来の楽舞で使われる音楽は、由来する地域や系統によって「唐楽」と「高麗楽」とに分けられ、管絃では基本的に唐楽のみが演奏される。舞楽には左方の舞と右方の舞というこれまた2つのジャンルがあり、中国大陸系の左方は音楽が唐楽(主に中国・林邑から伝わった音楽)で衣装が赤・金系統、朝鮮半島系の右方は高麗楽(主に朝鮮・渤海から伝わった音楽)で衣装は緑・銀系統という違いがあるため、見た目だけでも容易に見分けられる……はずなのだが、例外もあるため案外トラップが多い。
使われる楽器にも違いがある。なんと右方舞で使われる高麗楽には笙が入らない(!)のである。そのためお稽古会などでも高麗楽の演奏の間は悲しくベンチ(床?)と楽器を温めるはめになる。また、笛も龍笛ではなく「高麗笛」という少し細い笛が使われる。龍笛奏者の楽器ケース(笛筒)に笛が2本入るようになっているのはそのためだ。
また、鼉太鼓(舞楽の際、舞台奥の左右に置かれる巨大な太鼓。音もすごいが値段もすごい)にも二種類あり、左方では左、右方では右に配置されたものを使用する。左方の太鼓は打面に三つ巴の模様があり、周辺の火焔飾りには龍が、そして上部には太陽のシンボルが付けられている。一方右方の打面は二つ巴、火炎には鳳凰、そして上部に月を表す銀色の飾りが付く。このような飾りの違いや、左方・右方の舞が二つセットで「番舞」として演じられることなどに、雅楽の根本にある陰陽思想が見て取れる。
舞楽は衣装も大変煌びやかで、管絃合奏には無い見所が多くある。「神社で流れてるCDでしか雅楽に触れたことが無い」という人はぜひ、舞楽も一度見てみて欲しい。それまでのイメージとは違った雅楽の姿が見られるはずだ。
髪を振り乱し舞う姿は──鬼となった后か、それとも
「春はあけぼの」とこの世の佳きものについて書き残した清少納言だが、雅楽についてもしばしば言及している。
舞は 駿河舞。求子はとても趣がある〔筆者注:どちらも現存する国風歌舞。「東遊」という組曲の中のひとつ〕。〔中略〕抜頭は髪を振り上げている目つきなどは気味が悪いが、楽はやはりとても面白い。舞は 駿河舞。求子、いとをかし。〔中略〕抜頭は髪振り上げたるまみなどは、うとましけれど、楽もなほいとおもしろし。
今回取り上げるのは、清少納言に「うとまし」と言われてしまっている「抜頭」である。
真っ赤な顔、だらりと垂れ下がった黒髪に釣り上がった太い眉、ギラギラと金色に光る目は大きく見開かれ、異様なほどの感情の昂りを見せている。これが清少納言も気味悪がった抜頭の舞人の姿だ。
抜頭(卯之葉神事奉納舞楽 住吉大社石舞台)
片手に撥を持った右方舞人は、腕を大きく振り回しながら舞台上を動き回る。首を激しく振るたびにざんばらの髪が面にふりかかり、真っ黒に染めた絹縒りの髪の間から覗く赤い顔と金の目がいっそう恐ろしい。動きが激しく勇壮な舞振りだが、撥を置いて両手を天に差し上げ、顔に沿っておろす動作は泣いているようにも見える。
この異様な姿と舞は何を表しているのか。これにはなかなかドラマチックな由来が諸説語られている。まずは『教訓抄』を見てみよう。
この曲は天竺〔インド〕の楽である。婆羅門〔インドから日本に渡来した仏教僧。菩提遷那とも〕により伝来したもので随一の曲である。舞の作者は詳らかでない。一説によると、沙門仏哲〔林邑国(南ベトナム)の仏教僧。南天竺で婆羅門僧正に師事した〕がこれを伝え、唐招提寺にとどめ置かれたという。唐の后の嫉妬のすがただとかいう。(詳細不明)。古老の語るには、唐の后が嫉妬をし給い鬼になってしまったのを、宣旨によって楼に閉じ籠められたが、破り出られて舞われた姿を模してこの舞を作った。ただ作者は伝わっていない。もっともこの説は不審である云々。后の名前も伝わっていない。此曲天竺ノ楽ナリ。波羅門伝来随一也。舞作者非レ詳之。一説云、沙門仏哲伝レ之、置二唐招提寺一云々。 唐ノ后嫉妬㒵云々。未レ詳。古老語云、唐ノ后、物ネタミヲシ給テ、鬼トナレリケルヲ、以二宣旨一楼ニ籠ラレタリケルガ、破出給テ舞給姿ヲ模トシテ作二此舞一。而無二作者一。尤不審云々。無二后御名一。
唐代の妃が嫉妬に狂って鬼となり、牢獄を駆け出て舞った様を模しているのだという。この説から、先ほど「泣いているようにも見える」と書いた舞振りは后が髪を掻きむしる姿だとも言われている。
もうひとつの由来が、「猛獣に父を殺された息子が仇を討った際の感情の昂りを表している」とされるものである。この説については『楽家録』にこう記されている。
通典〔唐の杜祐による政書〕によると、抜頭は西域で生まれたもので、胡人が猛獣に噛まれてしまい、その子供が獣を探してこれを殺したさまがこの舞に象られたのだ。引ニ通典一曰、抜頭出二西域一、胡人爲ニ猛獣一所レ噬、其子求レ獣殺レ之爲ニ此舞一以象也
このような父と子の話に関連する説は、唐の楽書「楽府雑録」にも見られる。泣いているような面は親を失った子どもの姿を表しているのだという。
また、田辺尚雄は著書「東洋音楽史」でこう述べている。
抜頭は支那の書には鉢頭、撥頭、馬頭などとも書いてあって、此の文字それ自身に意味があるのではなく、外国語の発音を写したものであることは明らかである。〔中略。胡人が猛獣に殺され仇討ちしたとの説が紹介される〕舞人は身に胡服を纏ひ、異様な相貌をした大面をかぶり、頭部には鬣髪と思はれるものがあり、手に短かい桴を持って活潑に勇躍しつゝ舞ふ。其の飛躍する有様や、頭部に鬣を有するところから見て、馬を想はしめるところがある。〔中略〕高楠順次郎博士は之れをリグ吠陀〔筆者註:リグ・ヴェーダ。古代インドの聖典〕及びアタルヷ吠陀〔筆者注:アタルヴァ・ヴェーダ。リグ・ヴェーダに並ぶ4つの聖典の中のひとつ〕の中にあるPeduの馬Paidvaを表はした踊であるといふことを発見された。
Pedu王に神から与えられた勇敢な白馬Paidvaが、王を襲おうとした悪蛇を退治したというインド神話から、抜頭の踊りと名前が来ているというのである。田辺は抜頭と還城楽(別名見蛇楽、舞台に蛇を置き、舞人がそれを捕まえる舞)が元はひとつの曲で、前半を抜頭、後半を還城楽に分けたのではないかとし、そう考えればこのPedu王とPaidvaとの話に符合すると唱えている。PeduかPaidvaか、どちらが抜頭の由来になったかはわからないが、高楠は発音の観点からPaidvaの音訳ではないかとしている。
抜頭(卯之葉神事奉納舞楽 住吉大社石舞台)
このように、ひとつの舞だけ見ても様々な起源説が出てくるのが歴史の深い雅楽ならではの楽しみである。それでは、清少納言が「いとおもしろし」と言った楽についても見ていこう。
日本にも千年前から伝わる変拍子
この曲でまず面白いのが拍子の取り方だ。しばしば(ブラックミュージックなどと比べて)「日本人はリズム感が無い、複雑なリズムについていけない」などと言われることもあるが、日本の伝統音楽に詳しい諸賢であればそんな通説は全く見当違いなものと一蹴されることだろう。プログレッシブな拍子を持つ能、裏打ちや鮮やかな息合いに溢れたお囃子などなど、日本に古くから伝わるリズムは実に多様かつ複雑なものである。これは雅楽も例外ではない。この抜頭には、6拍子や5拍子のリズムが使われているのだ。
抜頭の音楽で使われる6拍子のリズムを、雅楽では「早只四拍子」という。2拍・4拍を一まとまりとして繰り返していく拍子で、練習では正座した太ももを上、右、上、上、右、右と叩きながらメロディーを歌い、曲を憶えていく(腿の叩き方には人によって違いがある)。異なる拍子同士をくっつける(この場合2拍+4拍)ことを西洋音楽の世界では「混合拍子」といい、なかなか演奏が難しいものだが、雅楽の世界でも千年前からこの混合拍子が使われているのである。
さらに面白いのがこの拍子、右方の舞になるとリズムが変わるのだ。雅楽の唐楽の演奏形態には前述したように「管絃」(楽器だけで演奏するもの)と「舞楽」(舞に楽器の合奏でBGMをつけるもの)とがあるが、抜頭の早只四拍子は右方舞楽で演奏される際に「八多良拍子」と名前を変え、2拍・3拍の5拍子になるのである(ちなみにこの八多良拍子が、「やたらめったら」などに使われる「やたら」という言葉の語源となったとされている)。同じ曲・同じメロディを6拍子・5拍子と拍子を変えて演奏するという、なかなかトリッキーなことを平然とやってのけてしまうのが雅楽の面白さだ。
また、抜頭はメロディーも大変面白い。冒頭からかなり鮮烈な動きをしている(雅楽にしては)ので、ここから見ていこう。
抜頭が属する調子は太食調、ミ、♯ファ、♯ソ、ラ、シ、♯ド、レ、ミからなるモードである。
しかし抜頭の冒頭はこう始まるのだ。
ミーーミ ラーソララーーーーーーーー
か、かっこいい。こんなに端正で印象的なイントロ、なかなか聴けるものではない(と筆者は思っている)。あえてスケール外のGを使い、かつ雅楽には珍しいくらい笙のコード切り替えが細かい。冒頭は龍笛のソロであり笙は入らないが楽譜には記されていて、ラーソララのメロディに合わせてラ、♯ソ、ラを主音とするコードが使われている。メロディのソとコードの♯ソ、これらが半音違いでぶつかっているのも大変面白い。
さらにサビのような部分(と筆者は思っている)にはこんなメロディーもある。
♯ファ―ミレ♮ファーミミー
この半音下がる篳篥のメロディーの展開も大変に歌心があり、思わず体を揺らして演奏したくなってしまう部分だ。メロディーの上下行が激しいこの曲には、何かを訴えるような、心に強く迫るものがある。
抜頭は有名かつ人気の演目で、さらに右方と左方どちらにも舞がある(かつ使う管楽器が変わらない)珍しい演目でもあるため、動画投稿サイトなどにもアーカイブが多い。ぜひ映像で、「おもしろき」楽と不穏な謂れの残る舞を楽しんでみて欲しい。
さて、初回は「おそろし、雅楽」と題して、雅でハイソでファビュラスな雅楽のイメージを180°……とは行かないまでも2°程度は覆せたものと思う。書面での紹介となったが、興味を持たれたらぜひ演奏会や動画でその音楽と舞を堪能してほしい。
抜頭(聖霊会 四天王寺石舞台)
〈次回!「リスにネズミ、そして網に捕らわれた鯉まで!?舞台上でクッキング!?」知られざる雅楽のカワイイ一面をお届けします。どうぞお楽しみに!〉
雅楽に関する伝承・説話や漢字表記・読み仮名などには様々な説があり、ここで紹介しているのはその一部です。
音名は一般の方にわかりやすいようドレミ表記にしました。
文章・写真等の無断転載はお控えください。
***
ご協力者さま(あいうえお順)
天王寺楽所 雅亮会さま
中川優子さま
***
〈参考文献〉
狛近真 撰述 植木行宣 校注『教訓抄』(日本思想大系 23『古代中世芸術論』 岩波書店 1973年)
安倍季尚 編輯 正宗敦夫 編纂校訂 『楽家録』(覆刻日本古典全集 現代思潮新社 1977年)
豊原統秋 撰述 正宗敦夫 編纂校訂 『體源抄』(覆刻日本古典全集 現代思潮新社 1978年)
遠藤徹(2013)『雅楽を知る辞典』 東京堂出版
遠藤徹(2017)『美しき雅楽装束の世界』 淡交社
田辺尚雄 著(1930) 植村幸生 校注『東洋音楽史』 平凡社 2014年
林陽一(2009)『宮中雅楽』 小学館
『皇室 Our Imperial Family』編集部 編集 宮内庁式部職楽部 協力『宮内庁楽部 雅楽の正統』 扶桑社 2008年
小野亮哉 監修 東儀信太郎 代表執筆『雅楽辞典』音楽之友社 1988年
清少納言 上坂信男/神作光一/湯本なぎさ/鈴木美弥 共著 『枕草子』 株式会社講談社 2001年