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共に考え、共に感じる人――追悼・高橋巖/飯塚立人

 

 

高橋巖先生 2024年3月29日、朝日カルチャーセンター横浜校講義室壇上にて

高橋巖先生 2024年3月29日、朝日カルチャーセンター横浜校講義室壇上にて

 

 高橋巖氏は亡くなられる前夜、「シュタイナー 『キリスト衝動』」という講演を行い、最期にします、と言って会を終えられた。その18時間後の昼過ぎ、滞在先のホテルの一室で、座して亡くなられていたそうである。近くの会場で、氏が代表であった日本人智学協会の集まりがあり、15人の参加者が久しぶりに自己紹介をしていたときに連絡が入った。そのホテルの部屋のデスクの上に、折りたたんだ1枚の紙が置いてあった。共同体形成に関するシュタイナーの言葉のコピーであった。講演のために用意されたものであろう。夫人の許可を得て、翌日、参加されるはずであった協会の定例会で、その言葉を共有した。亡くなられた3月30日(土)の前後3日間の印象から、高橋氏のことを考える日々が続いている。

 ここ数年、高橋氏は共同体をあらためて追求されていた。ちょうどシュタイナーの『秘教講義』の出版を準備されていたころからである。その方向はひとことで言うと、人智学協会から弱者協会へ、であったと私は考えている。

 「秘教講義」はシュタイナーが晩年、人智学協会を再編することで推し進めようとした、人智学による変革の、さまざまな生活分野の共同体で、献身しようとする人たちに向けて行われた。ちょうど100年前のことである。それは、各々の内にある、「愛の礎石」を自覚するための講義であった。その「秘教講義」を高橋氏は、2001年1月から、日本人智学協会の当時大きく価値転換する途上にあった共同体のために、1講ずつ翻訳し、講義していかれた。そして去年の11月までの23年間、欠かすことなく2カ月ごとに、繰り返し講義された。去年の後半は、特に『秘教講義2』に収録された、人智学協会が再構される際に開かれたクリスマス会議(1923年)で、シュタイナーが行った講演をあらためて講義された。

 「秘教講義」は、春秋社から出版されるまでは、非公開を徹底する形で、協会内だけで講義されていた。その間、新しく協会に入会する人もいなかった。日本人智学協会はオープンでない、閉じている、と内からも外からも批判されてきたが、「秘教講義」はどこに到るか分からない、力を秘めた深い謎であり、どこまでも内で、その共有体験を育てていこうという思いを、参加者は抱いていた。

 『秘教講義』が出版されたのは、2018年の秋であった。出版に伴い、「秘教講義」の公開の講義が京都で始まった。それまでの5年間、京都の集中講義では、クリスマス会議や共同体形成、瞑想や時代の霊性についてのシュタイナーのテキストを読む講義が行われ、話し合いや自己紹介を行っていた。それは「秘教講義」の講義のための準備であったかのようである。1985年に日本人智学協会が創設されたときにも、同じように数年かけて準備がなされていた。私は当時、人智学協会のことは何も知らず、週末の講義に参加していたが、日曜の午後はすべて自己紹介と話し合いに当てられていた。その後、日本人智学協会が作られ、協会から雑誌『人智学』が出版された。その創刊号のテーマは共同体であった。それを読み、高橋氏が「自己紹介」を、シュタイナーの人智学的な共同体形成の要として考えておられることを知った。

 京都の公開の「秘教講義」の講義も、そのように準備されて始まった。そして今年の2月まで、28回の土日の集中講義をしていただいた。全19講の「秘教講義」は2巡目に入っていた。この2月までの1年間は、30時間をかけて、第5講を繰り返し講義された。以前の協会内での講義でも、ある1講を1年近くかけて講義されたことがあった。

 近年の高橋氏は、京都の講義だけでなく、吉祥寺や町田や横浜の講義でも、同じところを繰り返し講義されることが多くなっていた。それは教室の集まりの、在りようの変化に呼応していた。テキストを前に進めることよりも、テキストの共有を深めることが課題になるよう、それぞれの集まりが共同体として形を成してきていたのである。

 そのような変化の中で、吉祥寺、町田、横浜の、三つの関東の教室の参加者たちによる文集が作られた。教室への参加や発言が苦手な方から、真摯な自己紹介の手紙が高橋氏へ送られてきたことがあり、文章による自己紹介を思いつかれたのである。その後、京都の教室でも自己紹介の文集が作られた。氏はその2冊を、宝物のように持ち歩いておられた。講義のたびに執筆者を含む参加者全員の名前を点呼し、顔を確認し、執筆者の話しを聞いて、文集に書き込みをしていかれた。その後、関東と京都で新しく参加された人たちの追補の文集も作られ、福岡でも自己紹介の文集が作られ、この5月に発行された。

 文集を契機として、講義の集まりが氏にとってますます掛け替えのないものになっていった。そして吉祥寺、町田、横浜、京都、福岡、協会のどの講義の集まりも、これこそが秘教講義、と思えるような、共有体験が生まれ得る場となっていった。「秘教講義」をテキストとするから秘教講義なのではなく、テキストは何かに関係なく、テキストの数行を入口として開かれる世界。その数行の、例えば「象徴」や「奈落」という言葉に、何回かの講義をまたいで螺旋を描くように留まる中で、参加者の各々が、「私の講義」としてそこに参加する場が開かれていった。

 心配され、反対されたが、どうしても来て、皆さんにお会いしたかったのです、と最期の講義で高橋氏は言われた。黙っていても人智学、なのだからと言って、まともに声も出ないのに、という反対を押し切ろうとされたそうである。氏の講義はシュタイナー教育の、つまり人智学の実践であった。その高橋氏のシュタイナー教育の根底には、神秘学がある。だから氏においては、黙っていても人智学たり得るのである。その神秘学の根底には、出会い、共同体の希求がある。だから高橋氏は、最期も教室に、会いに来られたのである。

 高橋氏がアカデミズムを去られたのは、そこでは共同体が求められなかったからではないか。美学会で氏が共同体を問題提起されたこともあったそうである。大学で講師として最初に講義された原書講読のテキストは、グァルディーニの『出会い』であった。そして22歳の時に提出された卒論では、独逸浪漫主義の共同体思想を追求されていた。そういう人生の内的希求から、必然的に人智学に向われていたのである。だから、先生は黙っていても人智学以上、と思えたので、最後にそうお伝えした。

 高橋氏の作品のひとつは、日本人智学協会であった。そこに参加する各々が芸術作品にすることができる、社会芸術の作品である。氏は誰よりも、「私の人智学協会」として向われていた。だから高橋氏は、日本人智学協会の代表であった。そこでアクションし、変容しようとされてきた。最晩年も、弱者協会たりえていないことを、ときに強く繰り返し発信されていた。同じように、どの教室も、共同体として氏の芸術作品となった。だから最期の講義で、人智学の本質である美学と共同体を語られ、キリスト衝動の方向として『ビッチェズ・ブリュー』(マイルス・デイヴィス)と『パリからの演歌熱愛書簡』(吉田進著)を紹介された。そこから『夢は夜ひらく』(藤圭子)に行かれるつもりであったが、会場の受講者の発言があり、お話しは途切れた。そこからは完全な弱者として、すべてを飲み込むように、黙って、集中して、会場の方々が語るのを聴いておられた。

 高橋氏の生前最後の著書となったのは、『『社会の未来』を読む』と氏が荼毘に付された4月4日に届けられた『『社会問題の核心』を読む』を含む、『シュタイナー社会論入門』である。そして『『社会問題の核心』を読む』の、最後の「孤独と共同体」のテーマを展開する形で『人智学的共同体形成論』が構想されていた。それらは、氏が2010年前後に行った社会論の講義録、講演録と、近年の共同体論の講演録、講義録から編まれた本であるが、「秘教講義」を「社会的な秘教」として講義し、出版されたことの背景をなす、氏の社会思想が語られている。日本人智学協会はこの十数年、一方で非公開の講義として、内へ向け「秘教講義」を読み、他方で公開の講演会として、外へ向けベーシック・インカムの社会論を語ろうとしてきた。この内と外の活動の一致するところで、『ビッチェズ・ブリュー』と『パリからの演歌熱愛書簡』と『夢は夜ひらく』のキリスト衝動を生かそうとする人びとの、「私」の弱者協会が目指されてきたのではないかと思う。

 高橋氏にとって、純粋な出会いを妨げるもの、霊的民衆でなくさせるものが、権力であった。それが物質的なものであっても、霊的なものであっても、権力的な働きを自覚し、背を向ける者は、弱い「私」を生きる弱者となる。そして、そこに利用価値はない、弱者協会が目指される。吉祥寺、町田、横浜、京都、福岡のどの教室も、弱者協会に向けて、ひとときの独自の共同体が形成されようとしていた。吉祥寺弱者協会、町田弱者協会、横浜弱者協会、京都弱者協会、福岡弱者協会、日本人智学弱者協会をそれぞれが目指す、場を作った、というよりも、参加する人たちにとって、その場となっていたのが高橋氏であった。

 そういう意味では、高橋氏はずっと以前から、弱者の避難場所(アジール)であった。氏が伝えるシュタイナーも、弱者の避難場所となり得るシュタイナーであった。教室や協会の集まりに足を運ぶ少数は、弱者でなくなっているかもしれない。高橋氏が書かれるものを、純粋な避難場所にしている、集まりには来ない人たちがいる。ベーシック・インカムがあれば、読むことで高橋氏の存在を本質直観しているそれらの人たちも、もっと抵抗なく集まりに参加されるかもしれない。そのとき、集まりは弱者協会の共同体にもっと近づけているであろうから。

 高橋氏が去られ、集う場を失った私たちは、もう一度、氏の残された言葉を純粋に避難場所とする、弱者となれるであろうか。各々がそこで、聖霊(パラクレート、慰め手)を受け取れるであろうか。そして霊的民衆でいられるであろうか。高橋氏がホテルの部屋に残されていた、シュタイナーの『共同体を人智学的に形成するために』の1ページに、以下の言葉があった。

 

 私たちの内なる魂の在りようによって、人智学のコトバが響く私たちの心の中に、現実の霊的本性が呼び出せるようにならなければなりません。

 

 弱い「私」を生きる弱者の心に、人智学の言葉は響き、そこに避難場所が生まれる。

 

 私たちの語るコトバ、私たちの感性、私たちの思考、私たちの意志衝動を、霊的な意味で、つまりなんらかの抽象的意味でではなく、現実に霊的に実在する本性が私たちの上に漂い、私たちを見下ろしているかのように、用いることができなければなりません。

 

 この神秘学の魔術に、私たちは高橋氏の講義で触れていた。

 

 私たちが共通して人智学を受容するとき、私たちが共同で体験するものを通しても、現実の共同体の霊が引き寄せられます。このことが感じとれれば、私たちは人間同士、真の共同体の仲間になれるのです。

 

 その場所が共同体となる、聖杯の探求。

 

 高橋氏は最後の数カ月、講義が氏にとっての救済となっていることを伝え、共同体の希求を全身で示された。そして最期の講義で、これからも何らかの形で皆さんと人智学の思想を共有する場を持ちたい、と言って話しを終えられた。講義であっても食事であっても、本であっても音楽であっても、好きなもの、大切なものを共有することが、氏の喜びであった。そして、参加することで分けてもらえる、ということが、高橋氏の美学と共同体の思想による、生き方の一貫した教えであった。高橋氏は、この世を生きる、目覚めた弱い「私」の、能動的な秘儀参入する――対象に出会い、共同体を形成する――生き方の手本となられたのである。

 




ホテルに残された紙片。シュタイナー「共同体を人智学的に形成するために」の訳稿校正紙。

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著者略歴

  1. 飯塚立人

    京都府生まれ。高橋巖著『神秘学講義』に出会い、シュタイナーを知る。京都教育大学で教育哲学を専攻。1984年より高橋巖人智学講座を受講。1989年に渡米。スタンフォード大学教育大学院博士課程でネル・ノディングズに師事し、ケアリングの倫理を学ぶ。1991年より日本人智学協会会員。ケアリング人智学・シュタイナー研究。編著に『シュタイナーの言葉』(春秋社)。

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