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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

勝利よりルールという新たなゲーム?

仏教にとって自由意志とは?

 人生がゲームなら、仏教はそのゲームから潔く降りることを説いています。二度とポイント稼ぎゲームをしないこと。お金にせよ、地位にせよ、セックスにせよ、あらゆるポイントはやがて水の泡となる。どんなにスペックの高いプレイヤーでも、やがてゲーム・オーバーです。

 無常・無我・縁起を説く仏教はゲームが終わった視点から全体を見渡そうとします。前回では、このゲームを永遠に繰り返される『蛇と梯子』に例えてきました。そもそもこのゲームは人生をモデルに作られているとしか考えられないので、「人生は『蛇と梯子』のようなゲームだ」と言ってもトートロジーのようなものです。

 仏教が無常・無我・縁起と相反するようにも思える輪廻転生説を説く目的の一つは、人生を自殺といういわばチート行為によって簡単に終わらせないためではないかと、前々回推測しました。どのマスからでも簡単に『蛇と梯子』を降りられたら、修行の意味も解脱というゴールも消えてしまうからです。だれかれなしに死んでしまえば無に帰する訳にはいけません。死んだことで、ゲームは終わらない。ゲームは再び始まり、再びサイコロを振らなければなりません。ゲームの再スタートから解放されるのは悟ったもののみ、ブッダや阿羅漢のみです。

 さて、自由意志に関して仏教はどう教えているのでしょうか。私たちはある程度、自分の人生を自分で生きている感覚を持っているのではないでしょうか。朝、目覚まし時計の音で目が醒めたとしても、布団から起きなければならないのは自分だ。「後5分」と思って、結局寝坊してしまえば、「それは自分が悪かった」となります。この口を動かすのも、手足を動かすのも、全部「この自分」ではないでしょうか。自分の頭で考え、行動をすること。自分の言動や行動に対して、責任を持つこと。欧米ではもとより、戦後の日本でもやたらと言われ、信じられてきたことではないでしょうか。

 ところが、仏教は無我と言い、自我に実体がないと主張します。また仏教の言う縁起は、なにも「良い」とか「悪い」とかいう意味での縁起ではなく、あらゆる物事は関係性の中でしか成立し得ず、独立には存在し得ないということですから、自立して考えたり行動したりする主体などを仏教は認めるわけがありません。少なくとも、そのはずです。そしてこの世界観は、近代の自然科学の世界観とも非常に噛み合わせがいいのです。宇宙の全ては互いに影響し合いながら、同じ自然法則の支配下にあります。もちろん、人間の脳も例外ではありません。そのため、脳が生み出す「意識」なるものも、その分泌物である思いや考え、ふとした思いつきから「熟考した結果として下された判断」までの全ては明日の天気と同じように、自然法則によって決定されています。自由意志なんて、人類の前近代的な迷信でしかない、と多くの脳科学者も主張しています。実際に坐禅などをしていて、次々と頭に浮かんでくる思いや考えを眺めていると、それまで「自分で考えていた」つもりの自分が、実はほぼ自動的に勝手に思い浮かんでいる考えに反応しているだけだったことが判明します。主人公として人生の舞台で振る舞っていた自分は、実は操り人形に過ぎなかったかもしれません。自分で考えているのではなく、考えさせられているだけ。行動しているのではなく、行動させられているだけ。私の指がキーボードを打っているまさにこの時も、実は「打たされているだけなのでは?」と思ったりします。いや、そう「思わされているだけ」かもしれません。

 

決定論を攻撃した釈尊

 実は、一人一人の人間を含め、宇宙の全ての働きはすでに決定されているという説は、2500年前のインドにもありました。それは『沙門果経』、『毛髪布経』や 『一法品』といったパーリ経典の中で紹介されています。それによれば、当時の聖職者カーストの中にマッカリという婆羅門がいて、このように教えたそうです。

 「じつにまた、愚者と賢者と〔を問わず、有情たち〕が流転し輪廻して〔最後には〕苦の終局をなすであろうようなこれら、百四十万と六千と六百の胎をはじめとして…(中略)…八百四十万の劫があるのである。 そこ(輪廻)では、“私はこの、戒、誓戒、苦行、あるいは梵行によって、未だ熟していない業を熟させ、あるいは熟した業に繰り返し触れて滅ぼしてしまおう”ということは存在しない。…(中略)…楽苦は升で量られた〔ように定量〕であり、限定された輪廻にあって増減はないし優劣もない。 たとえば、またじつに、糸の球が投げられると、まさにほどけながら転がるが、じつにそのように、愚者と賢者と〔を問わず、有情たち〕は、流転し輪廻して〔最後には〕苦の終局をなすのである。 」(『沙門果経』、 https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn02/dn02c05.htm より引用)

 要するに、人生ゲームのコマは「投げられた糸の球がほどけながら転がるように」マスを進んだり戻ったりします。そうしているうちに、個人のスペックや努力とは関係なく、決められた回数だけサイコロを降れば、最後にはやがて『蛇と梯子』を降りることが約束されています。ところが、釈尊はこのマッカリの説を目の敵にしています。

 「なんであれ多くの沙門婆羅門たちの説にふくまれるもの、そのうちではマッカリの説が劣ったものといわれている」(『毛髪布経』)

 「比丘たちよ、私は、このように多衆の不利益のため、多衆の不楽のため、多衆の不利、不益のため、神々と人々の苦のために行道するものを、他に一人も見出すことはありません。比丘たちよ、それすなわち愚人マッカリです。…愚人マッカリはまるで人間のための投網であって、多くの人々にとって不利益、苦、災い、不幸のためのものとして世間に生じています」(『一法品』)

 普段は冷静そのものの釈尊も癪にさわってしまったようです。それはともかく、仏教にとって(少なくともパーリ経典が代表している原始仏教にとって)自由意志はなぜ必要不可欠なのでしょうか。全ての行為がカルマとなり、カルマの結果として新たな行為が起こると考えれば、人生のどこにも自由意志なるものが入る余地はなさそうです。しかし、カルマの結果として菩提心が起こり、修行が行われ、解脱が得られることは絶対にあり得ないと釈尊は考えていたのではないでしょうか。なぜなら、カルマの結果としてカルマが消滅されるはずがないからです。カルマの完全な消滅である解脱も、それに至る修行も、またその最初の志である発菩提心もいわば自動的に起こってしまっては困るのです。いや、近代の自然科学に洗脳されている私は特に困らないと思いますが、解脱やそれに至る道を独占したい昔の宗教家たちは困っていたのではないでしょうか。

 

 つまり、八百四十万劫の間『蛇と梯子』を続けてもゲームは終わらないということです。今ここ、この一生において「もうサイコロを振らない」という決断が必要です。この決断はカルマの結果としては決して起こり得ません。修行とは、カルマの流れに逆らうことであり、発菩提心とはそれまでカルマに流されていた自分に気づき、「これ以上、流されるまい」と思い立つこと。つまり、菩提心が起こる前のゲームとその後のゲームは方向性は逆です。前のゲームはサイコロ(カルマ)に支配されていたのに対して、後のゲームでプレイヤーはようやく自由を獲得します。仏教で発菩提心を何よりも大切にしているのは、そのためではないでしょうか。

 

自由意志はあってもなくても同じ

 余談になりますが、私自身が自由意志についてどう考えているかと問われれば、答えは輪廻転生の場合と同じです。あってもなくても、私は困らないのです。私は多くの人の例に漏れず、自由意志はないことが理に適っていると思っています。諸法が無我なら、輪廻転生も自由意志もないほうがスッキリしていいのではないでしょうか。

 ところが、私は生まれてこの方、ほとんど毎日「自分の頭で考え」「自分の意志で行動」してきたつもりです。この原稿を書いているまさにこの時、ソファに背を凭れながら「このネルケ無方は今回、どんな原稿を書かされていくのだろうかね」と楽しみにしながらただ傍観しているわけではありません。締め切りがすでに一週間も過ぎたので「今日こそ書かなければ」という思いで一生懸命書いているわけです。本音を言えば「気がついたら勝手に書き上がっていた」モードで、私だって書いて(書かされて)みたいのですが、前週も前々週もどこからもそういう「向こう側から書かされる」スイッチが入ってこないわけで、仕方なく自分で書くしかありません。

 

 ですから、もし今夜にでもアメリカの有名な大学教授か誰かが「僕の最新の研究では、自由意志が証明された!」と発表したとしても、私の人生はそれで一向に変わりません。私は今まで「自由意志があるかのように」振る舞っていたからです。最初から、そういう振る舞い方しか知らないのが人間ではないでしょうか。幻想であったはずのそれが仮に証明されたなら、「まあノーベル賞が取れるといいね」とか「それにしても、リベット実験のあの騒ぎは一体何だったのか」としか言いようがありません。

 

 あるいは逆に、「自由意志は幻想に過ぎない」といわれ続けようが、「だからどうしろと言うのだ」というのが私の反応です。

 もし「あなたには自由意志がないのだから、今までの行動を改め、あなたの人生を変えなさい」と言われれば、こう反論します。

 「そのためには、私の自由意志が必要でしょう?」

 もし逆に「あなたには自由意志がないのだから、あなたは自分で自分を変えることができない」と言われれば、「ああそうですか、では今まで通り自由意志のつもりで生きていればいいですね?」となります。

 

 これまで見てきた通り、初期仏教は輪廻転生に加え、自由意志を前提としています。輪廻転生がなければ、仏教の出発点である「一切皆苦」が言えなくなります。一回きりの人生の場合では「私は生まれてこないほうが良かった」と言う人もいれば、「本当に生まれてきて良かった」と言う人もいるでしょう。後者を説得するためには、輪廻転生しかありません。

「来世はあるいは天上界にのぼることができたとしても、来来世は地獄かもしれないぞ?」 

「どんなに面白いゲームであっても、永遠に続けなければならないゲームは苦痛でしかないだろう?」

 

 仏教では苦しみと共に、その原因である貪瞋癡(とんじんち)を自覚させようとします。貪とは貪り、ポイントを稼ぎたい、コマを進めたいという思い。瞋は自分からポイントを奪った相手に対する怒り、蛇マスから滑った時の悔しさのこと。そして癡とはゲームをゲームとして見抜けない無知のこと。ゲームをゲームとして見抜くことから菩提心が発します。

 

ゲームのルールと八正道

 ゲームをゲームとして見抜いた(発菩提心)後、カルマに逆行するという修行に入ります。貪りや怒りを初め、あらゆる執着を減らすのは仏教の八正道です。具体的には正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という8つの実践です。

 最初の二つ、正見(しょうけん)と正思(しょうし)は物事を正しく見ることと正しく理解することですが、それはつまり仏の世界を見ることです。しかし、そういうふうに解釈すると、この二つが八正道の実践の結果として、最後に得られる智慧や悟りではなく、最初の入口として置かれていることが説明できないので、正見を「ゲームに没頭せず、その正体を見抜くこと」と、正思(しょうし)を「ゲームの出口にいたる道筋を考えること」と読み替えるのは自由すぎるでしょうか。

 それに続く正語(しょうご)は正しい言葉遣いという意味です。真実を語り、嘘をつかないことだけではなく、相手を言葉で傷つけないことです。正業(しょうごう)は言動以外の行いにおいても正しく振る舞うことです。殺生や窃盗をはじめ、人に危害を与えないこと。また正命(しょうみょう)とは正しい行いができる生活スタイルのことです。犯罪行為で生計を立てないことはもちろんのことですが、インドでは僧侶が農業を絶対にしないと聞きます。その理由の一つは、土を耕すときにミミズなどを傷つけてしまうからだそうです。つまり生きとし生けるものの苦しみを考えれば、農業も正命に反してしまうのです。八正道の中心をなすのは、戒律に即した行為と生活全体なのです。

 正精進(しょうしょうじん)とは正しい努力のこと。ゲームに勝つために一生懸命に頑張ることではなく、むしろゲームを降りる方向に励むこと。

 最後の正念(しょうねん)と正定(しょうじょう)はそのための瞑想実践です。正しい気づきと、正しい心の安定です。これがなければ、ゲームの正体を見抜いた後でもどうしてもその中に没頭してしまうでしょう。

 

 しかし、ここで一つの疑問が浮かんでくるかもしれません。仏教はゲームを降りることを目指しているはずなのに、八正道の大半は嘘をつかない、人を傷つけないなど、不正すなわちルール違反をしないことを説いているのは不思議ではありませんか。

 

 生老病死の一切を「苦しみ」と見なす仏教からすれば、性行為を禁じる戒律があるのは当たり前ですが、なぜ戒律で殺生は禁じられているのでしょうか。「誰だって、殺されるのは嫌です」と言われればそうですが、長生きをすればその分だけ苦しみも多くなるというのが仏教のはずです。殺生行為は殺された相手にとってむしろ苦しみの削減ではないのか?

 いや、ここも輪廻転生説が登場します。「人は一回殺したくらいでは死にませんよ」と輪廻転生説の支持者に反論されそうです。しかし生まれ変わったところで、苦しみはゼロからスタートするではありませんか。あるいはかつてのオウム真理教のように、仏教の実践者が「ポア」(殺生)された後には、より良い境遇で生まれ変わるはずだという理屈も成立します。「殺すべき」とまでは言えなくても、仏教者が「殺してはいけない」というのはなぜでしょうか。

 また、托鉢などで与えられた物以外には取らないという戒律が仏教にありますが、無我・無常・縁起の教えなら、そもそも「私のもの」「人のもの」「与えたり、与えられたり」という概念自体を覆し、フランスの無政府主義の父と言われるプルードンのごとく「所有とは盗みである!」と喝破すべきではないでしょうか。

 ゲームを降りるのが目的なら、仏教はむしろ「ルールなど、気にする必要はないよ」というスタンスをとってもおかしくないはずですが、仏教は極めて穏健です。なぜ仏教僧は世間のゲームに没頭している「普通の人」と同じように、あるいはそれ以上にこのゲームのルールを守ろうとするのか。

 

なぜ仏教はルールを守ろうとするのか?

 考えられる理由の一つはこうではないでしょうか。普通の人のゲームの中では、仏教者は寄生虫としか見なされない。自分たちでポイント稼ぎなどをせず、子孫も残さず、生産をしない。与えられたものでその日をしのいでいるだけです。その意味とは何かと問われれば、「ゲームを降りるためだ」としか答えない。しかし、仏教者のその「ゲームを降りるためのゲーム」が続けられるためには、その外側にある普通のゲームを楽しんでいる人たちの何らかの支援が必要となります。食べ物も恵んでもらわなければいけないし、お寺の伽藍も修復してもらわなければなりません。そのためには、社会的にも「ウケのいい」イメージ作りが必要になってきます。

 「役には立たないが、最低限のルールを守っている」

 「決して悪い連中ではない」

 「選手というより、審判のような存在?」

 仏教者はこういうイメージチェンジを図っていたのではないでしょうか?

 

 あるいは、そこまで勘繰らなくても、こういうことは言えるのではないでしょうか。

 サッカーなどもそうですが、ゲームに参加しているところでは「何があっても、ルールだけは絶対に守る」という態度では勝てません。勝つためには、少々のルール違反を犯さなければなりません。ましてや、審判が見ていないところでルールにこだわっていれば、ライバルにやられる一方です。ルールより勝利が大事ということは、ゲームに没頭しているプレイヤーの常識です。普通の人をそのゲームの無意味さから目覚めさせようとする仏教は、「ルールより勝利」という常識を覆し「勝利よりルール」すなわち戒律をベースにした八正道の実践を説いたのではないでしょうか。そう考えると、仏教にとってルール自体が大事ではない。ゲームを降りるのが目的ですから、ゲームのルールを守る必要は本来ないはずです。しかし、ゲームの勝利への囚われからプレイヤーを自由にさせるために、あえてルールを厳守させているのではないでしょうか。

 交通ルールよりも道路を渡るという目的が優先されるなら、深夜の3時に誰が赤信号の前でボーっと立つのか? しかし、「深夜の3時でも赤信号は絶対に守りましょう」という仏教は、歩行者の目を道路の向こう側から離し、今ここにあるもの(赤信号)に戻します。仏教のみならず、世界中の聖職者がいつの間にか社会ゲームの審判役を任せられるようになったのも、このことと関係しているのではないでしょうか?

 

仏教も結局はゲーム!?

 八正道を実践するとは、要するに今まで通りのポイント稼ぎをやめて仏教の教えにそって生活をすることです。この修行を続けていけば、やがては解脱し涅槃を得るはずです。しかしこの道のりがまた、かなり遠いようです。発菩提心して修行生活に入ってからでも、三阿僧祇劫という時間が必要だという宗派もいるくらいです。1劫は43億2000万年だそうで、これだけでも十分長い修行と思われますが、阿僧祇とは1056とか1064とも言われています。阿僧祇劫に比べれば、私たちが住まうこの宇宙の誕生からやがて訪れるその終わりまでの期間はわずかなものです。これにさらに「三」を付け加えたのは、私は仏教者たちのブラックユーモアだと感じずにはいられません。

 

 細かい数字はともかく、長い修行の果てには、実践者はやがて四向四果という悟りに至る最終段階に到達します。4段階はそれぞれ「向」(プロセス)と「果」(ゴール)に分けられています。詳細は省きますが、それぞれのステージに到達するために、どの執着をどの程度に減らさなければならないのかが決められています。

 まずは預流(よる)という初段階に辿り着きます。このステージではまだゲームを降りることは許されませんが、死んだ後には残り7回のみ生まれ変わることになります。一来(いちらい)という2段階目に到達すると、人間と天道を一往復するだけになります。3段階目の不還(ふげん)は欲望の支配から自由になり、ありのままの世界が見られる位です。最後の阿羅漢は今生の終りに悟りに至り再びゲームに戻らないのだそうです。

 

 ゲームを降りるはずだった仏教はこうして、立派な「修行ゲーム」を構築してしまったのではありませんか!? 輪廻転生があるかどうかも分からないのに、誰が本気で三阿僧祇劫もかけて阿羅漢を目指そうというのでしょうか。

 この修行ゲームは大きな矛盾をはらんでいます。

 私たちは物心がついた頃から何らかのゲームに参加させられています。家庭でポイントを稼がなければ、サンタさんはプレゼントを持ってこない。学校でポイントを稼がなければ、もっといい学校には進めない。好きな人の前でポイントを稼がなければ、彼氏や彼女ができない。社会でポイントを稼がなければ、生活はできない……無常・無我・縁起をベースに、仏教はこのポイント稼ぎゲームの無意味さを看破していたはずです。ところが、「学校」「恋愛」「会社」「家」という凡夫のステージが「四聖諦」「八正道」「四向四果」という仏教実践のステージに変わっただけで、ゲーム自体は何も変わっていないでしょう。「俺のバイク」「俺の女」「俺の家」の延長線上で「俺の坐禅」「俺の修行の成果」「俺の悟り」を求めているだけです。

 従来のゲームでは、欲望を多く満たした者は勝者と見なされていました。仏教では、このゲームを降りるために別のゲームを用意していました。本当にゲームを降りたいのなら、自分の個人的な悟りや解脱はどうでもよくなるはずなのに。仏教にも「煩悩に溺れている凡夫」と「ゲームを見抜いた実践者」という歴とした勝ち組と負け組があります。ゲームの勝利を忘れさせるためにルールを重視した結果、仏教はいつの間にか勝利の意味がすり替えられ、別のポイント稼ぎゲームに変わっただけではありませんか!?

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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