web春秋 はるとあき

春秋社のwebマガジン

MENU

人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

『蛇と梯子』と仏教の解脱

人生ははたしてゲームだろうか?

 決まったルールもなければ、勝敗もないという意味では人生は決してゲームだとは言えません。またゲームと違い、人生にはリセットボタンもありません。しかし、現代人の多くが自らの人生をまるでゲームのように楽しんでいるのではないでしょうか。ライバルよりポイントを稼いだときはウキウキし、負けたときはへこむ。そこには「負け戦こそおもしろい」という強かな者もいれば、「どうせ負けるしかないゲームを放棄してしまえ」という者もあらわれてきます。仏教の教える(とされている)輪廻転生説やキリスト教の地獄や天国の教えの背景にも、この「人生はゲームだ」という感覚があります。いったんゲームのように把握された人生において、宗教は悪い行いには厳しい罰、善い行いにはご褒美を約束します。例えば次のお言葉のように。

 

 「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい」(ルカによる福音書12:33)

 

 一回切りの人生の「外側」に天国と地獄を作ったり、来世を想定したりすることによって「自殺」という人生のいわばチート行為を禁じることもできます。その一方、「負け戦こそ本当の勝ち!」というややゆがんだ宗教倫理も誕生します。今生において敵を愛したものこそ、あの世では敵に勝てるのです。今生において欲望を満たさないで忍んでいるものこそ、一足先に輪廻転生のメリーゴーラウンドから脱出し涅槃を得られるのです。

 宗教は私たちが日ごろ没頭しているゲーム(この世の日常生活)に外側(あの世の永遠の安楽)を作ることによって、従来の勝ち負けをひっくり返し、人生には別の意味を与えることに成功しました。仏教と呼ばれている宗教もキリスト教と呼ばれている宗教もしかりです。しかし、私が日本で出会った仏教(禅)はそういう宗教ゲームとは違います。私が教わった仏教では、解脱はゲームの最終ゴールではなく、むしろ実践の第一歩なのです。仏教の実践は「解脱ゲーム」を辞めることからスタートします。

 「坐禅しても何にもならない」と耳にタコができるほど言われたのは、そのためです。悟りを求めて日本に渡っていたのに、師匠には「悟りすらない!」と一喝されたのは、人生ゲームの特別賞のようなものを追い求めていることを見抜かれていたからだと思います。

 

 さて、ここではもういっぺん前回の「なぜ自殺をしてはいけないのだろうか?」の中で取り上げた二つの疑問に戻りたいと思います。

①「生老病死のうちの老い、病と死に関してはなるほど、あまり楽しいイメージはない。しかし、その根本にある『生』は違う。僕は生まれたこと自体に文句はない。人生って、総じて考えたばあい苦しい側面よりも楽しい側面は多いのでは? 少なくとも僕自身はこの世に生まれたことを全く後悔していないよ」

②「自分の意志でこの世に生まれたわけではない。それくらいは認めよう。年を取るのも、病気をするのもまあ仕方がない。しかし、そのことにそれほどの不満があるのなら、さっさと死ねばいいのではないか? 『生』は自分で選択できないけど、『死』はいつほとんどどのばあいでも選択できるだろう」

 前回も論じましたが、インドの輪廻転生説はとにかく、この二つのうちの二番目の疑問に答えようとしているのだと思います。「自殺をしても、ゲームは終わらないよ」と輪廻転生説は主張する。つまり、この説によって人生というゲームには「自殺をしてはいけない」という新たなルールが加わったことになります。では、このルールを破った者はどうなるか? 「来世において、この一生よりもひどい目に遭わされる」というペナルティーが課せられるのだそうです。すくなくとも、輪廻転生のルールブックにも、キリスト教のような一神教のルールブックにもそう書いてあります。しかし、そのルールブックを手にしている私たちは、現にそのルールを(まだ)破っていないので、このペナルティーが本当に課せられるかどうか知る術もありません。あるいは亡くなった人々が死後どうなったかというのも分からないので(信じるしかないので)、そもそもゲームの続きがあるかどうかも知ることはできません。

 サッカーであれば、ルールを破ったことの結果をいわばゲームの外から確認できますが、人生は「外側のない」特殊なゲームです。様々なルールブックはあるものの、どちらのルールブックに従えばよいかは分からない。だって、どのルールブックにも「このルールブックこそ唯一正しいルールブックだよ」と書いてあるもの。「赤信号を渡ってはいけない」や「ウソをついてはいけない」というルールはともかく、「自死(自殺)してはいけない」というルールを破ってしまえば(ゲームを棄権してしまえば)どうなるかは、やってみないと分からないものです。そして皮肉なことに、自殺(ゲーム棄権)をしてしまった場合でも、分からないかもしれません。なぜなら、ルールブック通りのペナルティーが本当にあった場合、「ああ、やってしまった」となるかもしれませんが、その自殺が思い通りにいわば成功した(つまり自殺した結果、その人は生まれ変わることなくこの世から消えてしまった)場合、本人は「成功した」ことにすら気づかないでしょう。

 

 では、前回、論じ残していた一つ目の疑問はどうでしょうか。つまり「生きることはそこそこ楽しい」という人に、仏教はどう答えるか。あるいは「生・老・病・死のどれひとつをとっても、自分の思い通りにならないということは認めよう。しかし、だからと言って「一切皆苦」とはいくら何でも大げさすぎるだろう」という人もいるかもしれません。

 実は、その人にも輪廻転生説で答えるしかないと思います。

 「あなたがこのゲームを『苦』と思わないのは、たった一回で終わると思っているからだ。あるいは生まれ変わることがあったとしても、自分の意志で好きなだけゲームをリセットできると思っているのかもしれない。しかし、輪廻転生はそう甘くはない。このゲームは死ぬまで続ければよいものではない。数十回や数百回続ければよいものでもない。何万回やっても何億回やっても、降りることどころか休むことすら許されないゲームだよ。それでも、このゲームを『そこそこ楽しい』と言えるのか?」

 これが「生きることが苦しくない」という人に対する、伝統的な仏教の反論ではないでしょうか。どんな楽しいゲームでも「死ぬまで」はともかく「永遠に」となれば苦痛だろう、と。

 

ゲームはいつ頃、どういうふうに「発明」されたのか?

 ゲームの歴史は文明の歴史でもあります。スポーツの歴史は古代エジプトや中国にさかのぼると言われていますが、ボード・ゲームもまた紀元前3500年より以前から楽しまれているようです。もっぱら頭を使うような戦争ゲームもあれば、サイコロを振って偶然に支配されているゲームもあります。もっとも古いゲームとされているのは、古代エジプトのセネトという、現在のバックギャモンに似たゲームです。中国発祥の囲碁も今や世界中で高い人気を誇り、古代インドのチャトランガは西洋ではチェス、東洋では将棋としてそれぞれ違う形で発展を見せてきました。

 人間が宗教を「発明」したのも、ちょうどゲームが誕生したころではないでしょうか? つまり宇宙というゲームボードの上に、個人というコマを動かし、時間というマスを進めるという世界観と人生観が出来上がったところで、ゲームを支配する「ルール・ブック」(=道徳)と意味付けが要求されます。それを提供するのが、宗教の役割です。ゲームに外側を与えることによって、ゲームの意味付けがされるのです。

 

 宗教の匂いがプンプンするゲームの一例は『蛇と梯子』という古いインドのすごろくゲームです。プレイヤーたちはさいころを振って、ボード上のマスにコマを進めていきます。100個目のマスであるゴールに最初に到達したプレイヤーが勝つという極めてシンプルなゲームです。途中には忠義・忍耐・布施行・信仰・貞操・努力・慈悲・悟り・懺悔といった梯子のマスがあり、ここにコマを進めたときには前へ大きくジャンプできます。たとえば「悟り」という76番目のマスにコマがとまれば94番目のマスまで進めます。78番目のマスである「懺悔」からは、なぜか一気に100番目の「モクシャ(Moksha=解脱)」へジャンプします。私がここで他力本願的なにおいを感じるのは、禅僧だからでしょうか?

 一方でボードの後半では梯子の数をはるかに上回る「蛇たち」が待っています。反抗・虚栄・邪淫・盗み・嘘・飲酒・浪費・怒り・貪りといった悪行を表すこれらのマスにコマがとまると、来た道を途中まで逆戻りしなければなりません。ゴールが目の前に見えている98番目のマスが「プライド」すなわちエゴへの捉われ。「もう少しだったのに!」と思ったそのとたん、26番目のマスから再スタートしなければなりません。そして最後から二番目、99番目のマスは「情欲」。生存本能とも深く結びついているこの最後のマスを踏んだ時、29番目のマスまで逆戻りです。

 仏教と『蛇と梯子』にはいくつもの類似点があることにお気づきの方も少なくないでしょう。仏教の根本教理である「八正道」(解脱するために実践しなければならない八つのこと。つまり物事を正しく見、思い、語り、業(おこな)い、命(いとな)み、精進し、念(きづ)き、そして定(おちつ)くこと)や「六波羅蜜」(苦しみのある世界(=此岸)から苦しみのない世界(=彼岸)に渡るための六つの方法。すなわち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧)のこと)の一部はそのまま梯子としてゲームに採用されています。

 その一方で、連載第3回「仏教という脱出ゲーム」でお話したゲームのエンジンともいえる「貪瞋痴(とんじんち)」の内の貪(むさぼり)と瞋(いかり)のほかに、様々な破壊行為が蛇という形でコマの進み方を邪魔します。仏教の教義の中で最も古いとされているパーリ経典によれば、釈尊が悟りをひらく前にマーラ(仏教の悪魔的な存在)から誘惑されました。

 「無駄な骨折りを辞めて、宮殿に戻りなさい。かわいい奥さんと息子さんが待っているよ」

 「早く国に戻れば、全世界を支配する大王になれますよ」

 このささやきに耳を貸さなかった釈尊の前にはやがて、マーラの三人の美しい娘たちが現れ、やはり彼を誘惑します。彼女たちは「貪瞋痴(とんじんち)」であり、道の最後まで求道者を悩ませる「情欲」の象徴でもあると思います。

 

修行は『蛇と梯子』のようにはいかない

 仏教側からすれば『蛇と梯子』には致命的な欠点があります。一つは、このゲームにはプレイヤーの決定権がまったくないということ。運任せでマスを進み、善行も悪行も「そうなったらそうなったで」という感じで受動的に受け止めるしかありません。

 一見、この受動的な世界観こそ仏教との親和性が非常に高いと思われるのではないでしょうか。だって、諸法無我(物事に実体はなく、「自我」も本当は存在しない)は四法印の中心をなす教理の一つです。また、「縁起」の教えも似たことを説いているように思われます。この世でのすべての事柄は縁に触れて起きているということ。銀河の星たちの運動から、今の私の心の中で起きている思いや感情まで、すべてはそれぞれ複雑に絡み合っている多くのファクターの結果として現れた現象に過ぎず、どこを探しても「私」を構成するようなホムンクルス(頭の中でレバーを左右に動かして、自主的に意思決定などができるような小人)は見当たらない。

 

受動的世界観と輪廻転生

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといつしよに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

 1922-23年に制作された宮沢賢治の『春と修羅』という「心象スケッチ」の始まりです。仏教の根本教理である諸行無常・諸法無我や縁起の教えを賢治がどう受け取ったかを、ここから読み取ることができるのではないでしょうか。「わたくし」はホムンクルスでもなければ、マスを解脱に向かってと進むコマのようなものでもありません。

 「わたくし」は色受想行識という五陰(五蘊)によって構築されている世界(連載第3回を参照)の一つの現象に過ぎず、つまり「空」なのです。「わたくし」と呼ばれているものもそのなかで「せはしくせはしく明滅し」続ける現象の一つに過ぎません。さて、ここで言われている「仮定された有機交流電燈」とは何でしょうか。仏教が否定している「実体我」(輪廻の主体にも、行為の主体にもなりうる自我)なのでしょうか。それとも、私の存在をはるかに超えている神のような「如来」のことなのでしょうか。それはともかく、賢治は「その電燈は失はれ」と言い切り、ここに光っている「ひとつの青い照明」の存在のみ認めています。しかし、その存在は同時に「あらゆる透明な幽霊の複合体」でもあり、平たく言えば、みんなとつながっているようにも思えます。

 

これらについて人や銀河や修羅や海胆は

宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

たゞたしかに記録されたこれらのけしきは

記録されたそのとほりのこのけしきで

それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで

ある程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに

 みんなのおのおののなかのすべてですから)

 

 ここで言われている「新鮮な本体論」はさておいて、賢治の世界像は極めて大乗仏教的に聞こえます。今ここに現れているすべては一つの風景、つまり心象スケッチである。虚無といえば虚無、しかしこの虚無(空)なる風物は「このとほりで」目の前に現れ、空はそのまますべてのすべてでもある。まさに般若心経の「色即是空、空即是色」ではないでしょうか。

 つまり、この解釈の仕方があっていれば、それは何も賢治一人の物ではなく、多くの大乗仏教徒に共通する解釈ではないでしょうか。ところが、仏教より古くからインドにあった輪廻転生説は、この「無常」「無我」「縁起」という概念ときわめて噛み合わせが悪いように思います。

 なぜかと言えば、「無常」「無我」「縁起」を宮沢賢治のように理解すれば、何が生まれ変わるかは説明できなくなります。輪廻転生の主体が風化してしまうわけです。

 「あらゆる透明な幽霊の複合体」として点されている「わたくしといふ現象」が消えたとき、その現象はどうして「転生」するのだろうか。賢治の仏教観でいけば、今ここの「わたくしといふ現象」の中にはすでに生きとし生けるものがすでに転生してしまっていますし、私は同時に生きとし生けるものの中で生きていることになっていないでしょうか? 「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべて」が無我や縁起の本当の意味ならば、「仮定された有機交流電燈」と共に因果応報の教えも個人持ちのカルマの概念も失われてゆくはずです。

 ところが、仏教が古代インドの輪廻転生説を否定しないどころか、それを肯定しているようにしか読めないお経はたくさんあるのです。前回は、その理由の一つは「自殺防止」にあるのではないかと論じました。一切皆苦が真ならば、そして「死んだらパー」といういわば近代思想も間違っていなければ、脱出ゲームは極めて簡単に終わらせられます。自死(自殺)をすれば、苦しみが終わるはずです。そんなに簡単に終わってしまえば、せっかくの脱出ゲームが面白くない――そういう思いから仏教の中にあえて輪廻転生説を残したのではないか? それはすくなくとも、考えられる説明の一つです。輪廻転生説を採用していなければ、仏教というゲームはひょっとして今日まで伝わってこなかったかもしれません。生きることを「苦」と感じたものが全員、自死(自殺)してしまえるからです。

 しかし、従来の仏教が輪廻転生説を採用しているように見えるのは、多くの現代人(とくに私のような理屈っぽい現代人)の頭を悩ませています。輪廻転生説と無我・無常・縁起の教えはあまりにも噛み合わせが悪すぎます。それは一部の仏教徒が「できれば輪廻転生抜きの仏教現代バージョンが欲しい」と言いたくなる理由でもあるのではないでしょうか。

 今の私自身はどうかと聞かれれば、輪廻転生はあってもなくてもいいような気がします。仮に仏教の「現代バージョン」が正しければ(つまり輪廻転生がなければ)このネルケ無方という一人の人間が死んでしまったあとには「わたくしといふ現象」は消え、いわば自然に解脱してしまうはずです。賢治の言葉を借りれば、その電燈とともにひかりも失われるはずです。

 その一方、輪廻転生説が正しければ、その電燈が失われたあともひかりはべつの「わたくしといふ現象」として「せはしくせはしく明滅」し続けているはずです。そのべつの「わたくし」と今ここに明滅しているわたくしがはたして同じであるかどうか、どういう基準で「同じ」と言えるかどうか今の私の頭では判断しかねるほど難しい問題です。

 しかし、仮にそういう別の電燈があたらしい「わたくしといふ現象」として明滅したとして、それはしょせん「今と同じことじゃないか」と言わざるを得ません。輪廻転生の結果が「今ここ、このわたくしといふ現象」なわけです。そのため、輪廻転生があってもなくても、今の私にとっては同じことに思えるのです。

 

仏教と自由意志の噛み合わせも悪い?

 諸法無我と縁起という思想から自己決定権のない受動的世界観として仏教が理解されるという話をしましたが、欧米の現代人の一部が仏教を高く評価する理由は、自由意志という「古臭い迷信」を否定しているように見えるからです。無我を教える仏教は「自由意志なんて幻だ!」と主張しそうですが、じつはそんなに簡単ではないのです。

 私たちは毎日の生活の中で自分の思い通りにふるまっているつもりではないでしょうか。もちろん、心にもないことをつい言うこともあるでしょう。いや、それはむしろ言わないでおこうと決めていた本音だったりしますが……それはともかく、朝から晩まですべて自分自身の采配で行動しているわけではありませんが、いざというときには私たちは「自分の意志で」考えたり、決断したり、行動を起こしたりすることができると思っているのではないでしょうか。ところが、賢治の言う「仮定された有機交流電燈」にはそのような能力があるのでしょうか。人間の自我というものはしょせん、大いなる縁起の働きがせわしく点滅している「現象」に過ぎないのではないでしょうか。その「現象」のどこに、はたして「自由意志」なるものがあるのでしょうか?

 

 前回少し触れましたが、仏教が150年ほど前から欧米で注目されるようになってから、キリスト教よりも肯定的に評価されることがしばしばありました。

「従来の宗教よりも自然科学に近い」

「教えは実践者自身の経験に基づいて徹底的に検証されなければならない」

「不条理がゆえに信ずる教義もなければ、絶対神もない」

 そのため、「自由意志は幻に過ぎない」と最近の脳科学が言い始めたら、「そうだ、仏教の無我・無常・縁起の教えも同じことを言っている」と言う仏教徒もあらわれてきましたが、仏教は果たして自由意志を否定しているのでしょうか。実は、釈尊は自由意志を否定しているどころか、はっきりと肯定しているようにしか読めない経典が存在しますが、それについてはまた次回検証したいと思います。

 それはともかく、2500年前から伝わっている仏教の教えが真実であるかどうかという問題と、仏教が現代人の感覚に合うかどうかとは別問題です。仏教をキリスト教よりも「現代的」と評価したい人もいるかもしれませんが、それはしょせん希望的観測でしかないという可能性もあります。

タグ

バックナンバー

著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

キーワードから探す

ランキング

お知らせ

  1. 春秋社ホームページ
  2. web連載から単行本になりました
閉じる