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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

東洋の智慧に憧れて

  禅の眼目は悟りである。悟りが智慧であるにせよ、覚醒であるにせよ、歓喜であるにせよ……その悟りを手に入れるためにこそ、人は頭を丸めて仏道を目指すのではないか? 悟れる保証はないにせよ、何十年も厳しい修行を続けていれば見性体験の一つや二つくらいはできるはず。逆に言えば、悟りを開くことができなければ、そもそも修行をすることは時間の無駄である。悟りは修行の目的。修行は悟るための手段。現実問題は、いかに修行と悟りのコスパをよくするか、である。いかに少ない修行で、いかに大いなる悟りを得られるか。

 以上は、私が十代の頃ドイツで出会った禅のイメージでした。なぜそのようなイメージを持つようになったのか、そしてそのイメージが今どういうふうに変わったかを説明したいと思います。

 

 そもそも欧米人に広くZENという言葉を紹介したのは、岡倉天心のBook of Tea(茶の本)が最初ではなかったでしょうか。1906年初版のこの本では、日本の茶の湯として中国の道教と禅が取り上げられています。

 「仏教徒の間では、道教の教義を多く交じえた南方の禅宗が苦心丹精の茶の儀式を組み立てた。僧らは菩提達磨の像の前に集まって、ただ一個の碗から聖餐のようにすこぶる儀式張って茶を飲むのであった。この禅の儀式こそはついに発達して十五世紀における日本の茶の湯となった。」

 「わが国の偉い茶人は皆禅を修めた人であった。そして禅の精神を現実生活の中へ入れようと企てた。こういうわけで茶室は茶の湯の他の設備と同様に禅の教義を多く反映している。」

 その後、欧米でZENブームを起こしたのが、鈴木大拙の書物でした。1927年の『Essays in Zen Buddhism』、1934年の『An Introduction to Zen Buddhism』、1935年の『Manual of Zen Buddhism』といった本で、大拙は初めて「Zen Buddhism(禅仏教)」なる造語を使っています。戦後に出た『Zen and Japanese Culture』(1959年)やエーリッヒ・フロム共著の『Zen Buddhism and Psychoanalysis』(1960年)は今、欧米における禅の古典です。

 その「Zen Buddhism」は19世紀からショーペンハウアーやニーチェらも着目していた旧来の仏教とはどうやら違う、新鮮味のあるアプローチとして紹介されています。当時から欧米型の文化の行き詰まりを実感していた多くの知識人はこれに着目をし、ハイデッガーなどもその影響を受けていると言われています。その一方、大拙やその他、明治時代から欧米人に日本の文化を紹介した多くの日本人は、武士道、茶道や禅といったものを紹介するために英語の概念を用いるしかなく、そのためにはまず欧米の文化を学ぶ必要があったことは言うまでもありません。ですから、欧米に影響を与えた禅などは、欧米に大いに影響されている禅でもあります。

 

大拙の追求不可能な「特殊体験」

 有名な「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」という言葉の通り、禅は言葉には囚われない実践を通じて、自らの本来の姿を自覚する(見性)体験を目指しているというのが大拙の主張です。そのため、その著書に頻出しているkenshoやsatoriという欧米人にとって聞き慣れないローマ字が大拙の「禅仏教」のコアをなしています。大拙はkenshoやsatoriを英語で、enlightenment experienceつまり神秘体験として説明しています。悟りの段階を十牛図を使って説明する際に西洋心理学の用語を使ったり、西田幾多郎にも影響を与えたウィリアム・ジェームズの『宗教経験の諸相――人間性の研究』を引き合いに出したりすることで、そのsatoriなる体験は欧米人にとって理解しやすくなった一方、禅や悟りという概念がもはや欧米化してしまったと言わざるを得ません。

 それはともかく、大拙のいう「悟り」や「見性」は言葉に言い表せない、二元論を超えた体験として紹介されています。厳しい修行の果てにそういう悟りに到達することもあれば、ふとしたことで悟ることもある。坐禅をしなければ悟れないということもなければ、坐禅さえすれば必ず悟れるということでもない。

 欧米人に向けて書かれた『An Introduction to Zen Buddhism(禅仏教入門)』の中では、大拙は「悟りは禅の存在理由である。悟りなくして禅は禅ではない(Satori is the raison d' être of Zen, without which Zen is not Zen.)」と書いています。1939年に出た、この本のドイツ語の序文を書いているのが、なんと心理学者のカール・グスタフ・ユングです。上の言葉を引いて、ユングは次のように推理しています。

 「西洋の神秘主義者が『開悟』という言葉によって理解しているもの、もしくは宗教的意味でそのように呼ばれている内容について把握することは、西洋の悟性にとってもそれほど困難なものではないかもしれない。しかしながら、東洋の『悟り』は、ヨーロッパ人にとっては、追求することがほとんど不可能な、特殊な種類とやり方による開悟なのである」(「禅の瞑想」『ユング心理学選書⑤ 東洋的瞑想の心理学』創元社より)

 この序文は現在は英語版にも転載されています。ユングの視点はおそらく今も、多くの欧米の知識人の東洋思想に対する憧れをよく表しています。

 

 鈴木大拙の他に、禅ブームに大いに加担したのがドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲルです。1924年から、東北帝国大学で哲学の教鞭を取っているかたわら、彼は阿波研造を師として弓道を学びました。戦後に出された『弓と禅』はドイツをはじめ、欧米諸国で広く読まれ日本語にも訳されています。多くの読者にとって、特にインパクトのある読みどころがあります。師匠の阿波が弟子のヘリゲルを真夜中に呼び出し、二人きりで弓道の秘訣を伝授するシーンです。暗闇のお堂の中で、師匠はまず一本目の矢を的に放ちます。そしてその後、もう一本を……阿波がヘリゲルに蝋燭を灯すように伝えると、二本目の矢がなんと一本目の矢の芯をついて的に刺してあったではありませんか! ヘリゲルが阿波から受け取った「弓道の精神」とは、自分が矢を射るのではなく、「『それ』が射るのだ」というものでした。それはおそらく、禅でいう「無為の働き」でしょう。ヘリゲルの目からは、阿波の境地は悟りそのものにしか見えなかったはずです。そしてこの本を手にした多くの読者たちも、そのような神秘的な体験に憧れていました。

 

 

 大拙らが欧米で紹介した「悟り」はこのように追求することがほとんど不可能なものとして受け止められました。それを手にいれるためには、いくら二元論的な思考を巡らせても無理。あるいは旧来の仏教のように戒律を厳守し修行を続ければ到達し得るようなものでもありません。では、欧米人がそのような特殊体験に魅力を感じたのは一体なぜでしょうか? それは、鈴木大拙らが度々「悟り」を言葉で言い表せないほど素晴らしい、至福の体験として描いているからです。戦前から着目された禅が戦後、ヒッピーたちの間で人気となったのも無理ありません。

 鈴木大拙の亡き後、アメリカで禅の指導を行っていた鈴木俊隆老師やヨーロッパで活躍した弟子丸泰仙老師の周りに集ったのは、髪を長く伸ばしている、日本の修行僧の厳しい顔とは対照的な顔つきの若者が中心でした。彼らは、坐禅をすればLSDと同じようなトリップができるのではないかと期待していたようです。向精神薬やマッシュルームを服用することによって、瞑想の効率を上げられるという言説は今も欧米の禅センターで耳にします。瞑想の効率とはつまり、いかに少ない坐禅実践でいかに深い神秘体験を得られるかということです。悟りの世界の中にまで「コスパ」という概念が持ち込まれていたわけです。

 

キリスト教と神秘体験への道としての禅

 さて、私が禅と出会ったのは1984年のドイツの地方都市でした。そのころは鈴木大拙はもちろんのこと、欧米人に坐禅の実践を伝えた鈴木俊隆老師や弟子丸泰仙老師も亡くなっていました。当時のドイツでは、「キリスト教的禅」が流行っていました。そのバックグラウンドを簡単に説明すると、1929年に宣教師として日本に派遣されたフーゴ・ラッサール神父がその第一人者です。彼は1945年に広島市内で被爆し、後に帰化して愛宮真備という日本名も持つようになりました。神父としての活動を続けながら、禅の公案修行を始めました。小浜の発心寺を経て、鎌倉で三宝教団という在家団体を立ち上げていた山田耕雲師の弟子になりました。

 ドイツで出版されたラッサール神父の本は、いくつも日本語に訳されています。『禅――悟りへの道』『禅とキリスト教』『神体験への道としての禅冥想――神秘的祈りへの手引』『禅と神秘思想』……その題名からも伺えるように、彼の関心は伝統的な禅修行というより、マイスター・エックハルトという神秘主義者の書物に見られるような「神との合一」にあったようです。ラッサール神父は毎年、母国であるドイツにも旅し、講演活動や接心会を行いました。その影響で、ドイツ国内でも複数の神父や牧師が禅指導をするようになり、私も高校生の頃にはその一人にしばらく師事していたのです。この人もやたらマイスター・エックハルト、ヤーコプ・ベーメやアンゲルス・ジレージウスといった神秘主義者たちのお言葉を禅の公案と引き合いに出したり、長々とリルケの詩を引用していたように記憶しております。

 私はというと、そんな美しいお話より早く肝心な悟り体験がしたかったのです。私がもしあの時、「あなたが求めている、その悟りとは一体なんだい?」と聞かれたならば、きっと答えに窮していたと思います。自分がそこで何を求めているのか、正直に言って自分でも分からなかったのです。しかし、何が何でも悟らなければダメだという気持ちだけはなぜか強くありました。

 人生の意味が分かりたい……無意味なゲームを脱出したい……全く別な世界へ行ってみたい……そのような気分でした。

 

 

 私が1990年から京都へ留学し、あちらこちらの禅寺で修行体験を重ねた頃から、私が持っていたイメージと日本人の禅に対する考えの違いに気づきました。特に私の周りにいた大学生たちは禅に見向きもしなかった。超能力がほぼ毎日どこかのテレビ番組で取り上げられていた当時、「あの古臭い禅をするくらいならオウム真理教を試したほうがいい」と真顔で言われたこともあります。どうやら、日本の若者には「禅修行=罰ゲーム」というイメージしかなかったようです。小学生の時にお寺に連れられて棒でしばかれたとか、新入社員の研修が禅寺であったとか……そういう記憶を持っている日本人は今も少なくないかもしれません。そういう日本人にとって、禅は何らかの素晴らしい体験どころか、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ我慢大会でしかないでしょう。その挙げ句、「こんな辛い思いをするくらいなら、普通の世界で皆と同じゲームをプレイしたほうがまだマシだ」という別の意味での「お悟り」が待っているのかもしれません。そういう「お悟り」を期待してこそ、親が子供を、会社が新入社員を、お寺に預けるわけです。

 つまり、彼らの考えている「お悟り」はどうやら、この世でおとなしくすることという意味だったようです。「お悟り」とは、ゲームを脱出することどころか、ゲームがゲームであるということをも忘れてしまうことです。

 

安泰寺の「庭詰」

 庭詰(にわづめ)と旦過詰(たんがづめ)は、禅宗の専門僧堂に入門しようとする際に行われるテスト期間のようなものです。今はほとんどどの僧堂でも形式化されていますが、昔の中国で入門希望者を数日間も門前に立たせておいて、期間中には罵倒を浴びせ、冷たい水まで浴びせていたという伝説に由来しているようです。安泰寺は宗門で認められている専門僧堂ではないということもあって、そのような激しい庭詰などは行っていません。それでも、私が1990年の秋、縁があって安泰寺を最初に訪れた時には、それまでの禅のイメージがひっくり返ってしまったのです。

 安泰寺は兵庫県の日本海側にある、人里から遠く離れた自給自足の禅寺です。環境からして、私には別世界への入口に見えていました。ここでしばらく坐禅を続けていれば、やがて悟りが開かれるかもしれない……。しかし、そうは問屋が卸さなかったのです。私は安泰寺でまず、内山興正老師の「安泰寺へ残す言葉」を読まされました。それは老師が1975年の引退の際に提唱した次の7点でした。

 

1 人情・世情ではなく仏法のために仏法を学し、仏法のために仏法を修すべきこと。

 私は決して人情・世情的な目的で安泰寺に来たつもりはなく、悟りを開いて自分の人生問題を解決するつもりだったのです。がしかし、どうやらその「悟りたい」やら「自分の人生問題を……」という思いも人情・世情の部類に入れられているようです。そういうものも手放せと言うのです。

 

2 坐禅こそ本尊であり正師である。

 坐禅を「悟るための手段」としか思っていなかった私は、それを自分のゲームの中に落としていることに気づきました。私は坐禅を冒涜していたのだ!

 

3 坐禅は具体的に「得はマヨイ、損はサトリ」を実行し、二行(懺悔行、誓願行)、三心(喜心、老心、大心)として生活の中に働く坐禅でなければならない。

 「得はマヨイ、損はサトリ」は第11回「人類の歴史はたった一人のためにあった」でも紹介した澤木興道老師の有名なお言葉です。損はサトリ? でも、坐禅が損得ゲームを降りることであれば、何もあえて損を選ぶ必要はないんじゃないの……という反論があれば、「坐禅は生きたままで死ぬことだ」としか言いようがないでしょう。全てを損なう覚悟がなければ、坐禅にならないのです。

 しかし、続く懺悔行と誓願行は厄介かもしれません。少なくとも、そこで何となくキリスト教的な匂いを嗅ぎつけた私は「え?」と思っていました。悟りを求めている気持ちがまだゲームを離れていないと言うのなら、悪い行いを反省したり、人のために尽くそうという志を立てたりするのもしょせんゲームなのでは?

 喜心、老心、大心とは道元禅師が『典座教訓』という書物で、典座の心構えを説くために使っているお言葉です。

 典座とは、修行僧のために料理をする役目です。「皆がお堂で坐禅しているのに、なぜ私一人だけが台所でアイツらのメシを作らなければならないのか? せっかく作ってやったメシを黙って食っておいて、皿洗いも手伝わないくせに!」

 お寺では黙食が基本なので、食後も誰も「ご馳走さま」とも「美味しかったね」とも言わないものです。それでも典座が人間に生まれ、仏縁をいただき、典座として修行させてもらっていることに感謝できるようになれば、それは「喜心」です。老心とは親心です。自分を勘定に入れないで、ひたむきに相手を思いやる心です。そして大心とは山のように高く、環境に左右されない。海のように広く、あらゆるものを受け入れる心。

 とてもじゃないけど、私にはそんな心の準備ができていませんでした。

 

4 誓願を我が生命とし深くその根を養うこと。

 ここでもまた「誓願」というお言葉……大乗仏教で言う誓願の基本は「衆生無辺誓願度」から始まる四弘誓願です。数えきれないほど多くの苦しむ人々の救いに役立つというお約束ですが、自分自身の問題すら解決していないのに、どうして「衆生を救うこと」など約束できるのでしょうか? どう考えたって、まず私自身が救われなければならないのでは?

 

5 向上するのも堕落するのも自分持ちであることを自覚して修行向上に励むこと。

 思えば、私が大雨の中で安泰寺に上山したばかりのとき、まず真っ黒い液体がはっていた五右衛門風呂に入れられました(当時、台風の影響でお寺の生活水がひどく汚れていました)。そして風呂上がりに住職のいる方丈に呼ばれ、これもまた妙に黒い色をしたお茶を出されました。

 「何をしに、この安泰寺に来たんだ?」

 「仏教を学びに来ました」

 「アホ、ここは学校じゃない。お前が安泰寺をつくるのだ!」

 内山老師の言う「向上するのも堕落するのも自分持ちである」はおそらく、後に私の師匠となった住職の「お前が安泰寺をつくる」に通じるのではないでしょうか。今も忘れない、安泰寺での最初のやり取りです。

 

6 黙って10年坐ること、さらに10年坐ること、その上10年坐ること。

 30年も坐ること!? 30年坐れば、一体どうなるのだろうか? 仮に「今すぐにでも悟りたい!」という思いを30年間先延ばししたとしよう。そうして30年も、本当に悟りのことも何も忘れないで坐禅をすれば、結果的に悟れるのだろうか? その保証さえあれば、30年坐ってもいいかも……。

 私の勘ぐりを見抜いたのか、安泰寺の先輩たちにはこう言われました。

 「22歳のお前が30年坐れば、52歳になる。それだけのことだ」

 今の私は55歳です。3年間おまけで坐禅したことになりますが、いまだに悟れる気配がしません。

 

7 真面目な修行者達が悩まないでいいような修行道場であることを願って互いに協力すべきこと。

 私の悩み苦しみは、人生というクソゲーに没頭していることに起因している。そのゲームを降りるため、他者と横並びできない天上天下・唯我独尊の〈私〉(本来の自己・無位の真人・無我の我・天地いっぱいの命……言葉は何でもいいのですが)に立ち返るべきであったはず。ゲームに関与しない〈私〉に立ち返ったとき、どうして仲間たちと「協力すべき」と言えるのだろうか? この〈私〉に仲間が存在し得ないことこそ、天上天下・唯我独尊という気づきのポイントではなかったのか?

 そもそも、仏教では「帰依三宝」から出発します。仏(ブッダ)、法(ダルマ)、そして僧(サンガ)を自らの拠り所とするのです。ブッダとは覚者のことで、ダルマとはブッダが目覚めた真実のこと。ですから、そういう真実を信じている人なら、誰しも仏と法には帰依したいという心が起きるはずです。しかし、僧(サンガ)の場合だけ、状況は違います。帰依の対象は抽象的な覚者や真実ではなく、自分と同じような生身の人間、下手をすれば社会不適合者ばかりです。サンガと言えば聞こえはいいのですが、冷静な目で見ればボンクラの仲良しグループではないのか? なぜ社会人になりそびれた者たちに「帰依」し、なぜ彼らと協力する必要があるのだろうか? 高い志を自認しながら仏門に入った者なら、おそらくわたしだけでなく、三宝の一つであるサンガに対して、こういう疑いを持ったでしょう。

 安泰寺へ残す言葉の最後のポイントは、今の私の言葉で言えば「他のプレイヤーたちと協力しなければ、人生というクソゲーを変えることができない」という単純なことです。前回の「〈私〉の気づきと《私》の築き」で言えば、唯一無二の天上天下・唯我独尊の自己に驚くためには、その他大勢の《天上天下・唯我独尊の自己》たちを築かなければなりません。そうして築かれた彼らとともに、各々の《私》に気づきやすい環境であることを願って、互いに協力してここに修行道場(=新しいゲーム)を築くというのが内山老師の誓願ではなかったでしょうか。

 

身を容るるに地無し

 仏教にとって、とりわけ大乗仏教にとって、慈悲は智慧と並ぶほど重要なテーマです。その慈悲と誓願が深く関わっているのは言うまでもありません。慈悲のないところで誓願は立てられないし、誓願のないところでは慈悲が現れないからです。また、日頃の修行生活や坐禅の内容をその誓願に照らし合わせれば、自ずと懺悔の気持ちも沸かざるを得ないと思います。智慧の光を浴びてこそ、我が迷いがはっきりと自覚される。だから、悟れば慚愧を得るという人たちも少ないながらいたのだと思います。澤木興道老師が、次の日本の浄土系仏教の句を多用しているのもそのためでしょう。

 

 松影の 暗きは月の 光かな

 

 悟ることほど嬉しいこともなければ、これほど恥ずかしいこともない。従来の私からの解放であると同時に、この私を真正面から受容することでもあるからです。

 

 曹洞宗の修行過程において、法戦式(ほっせんしき)という通過儀礼があります。私はそれを1998年の春、修行5年目で行うことが許されました。この儀式では首座(しゅそ)と言われる主役は全員が納得するまで、修行仲間と問答を交します。それは考え方によっては一種の「論破ゲーム」ですが、私の場合も含めてそれはあらかじめリハーサルされていることがほとんどです。つまり、その場で首座が論破される心配は皆無に等しいのです。それはともかく、問答が繰り広げられる直前に、首座は腹の底から叫びます。

 

 「任(にん)に当たって他に譲り難し。乞(こ)う満堂の龍象、試みに法戦一場せんことを!」

 

 要するに、「かかってこいよ!」ということです。天上天下・唯我独尊まではいきませんが、「この私が、どんな質問にも答えるぞ」という自信満々の態度がそこに現れています。もちろん、その後の「論破ゲーム(=法戦)」が台本通りに進めば、負ける心配は最初からないのです……そしてめでたく首座の勝ちが決まれば、次のセリフを言うのです。

 

 「命(めい)に依(よ)って首座位を汚さんとは、是れ恐らくは罪過弥天、身を容るるに地無し」

 

 つまり「穴があれば入りたい」というわけです。それまで堂々としていたのに、なぜ急に首座が卑下をするのか? 簡単に言えば、相手を論破したように見せかけたことを恥じているからではないでしょうか。そもそも「不立文字」を提唱している禅の世界では、法戦での勝ち負けなんてどうでもいいはずです。相手を言葉で言い負かしたところで、仏法を説いたことにならないからです。

 芝居とは言え、ここで演じられている恥じらいには、「悟りのカラクリ」に通じるものがある気がします。悟りの内容が天上天下、唯我独尊の〈私〉への気づきならば、そのような〈私〉には隠れ場もなければ、隠れる必要もないのです。なぜなら、永井哲学の用語を使えば、〈私〉とは「無内包の現実性」とも「世界の開闢」とも言われていますが、その現実性や開闢の原点は世界の側からは原理的に見えていないのです。

 つまり、〈私〉がなければ世界は無に等しいとも言えますが、世界の側からすれば〈私〉は世界のどこにもいないことになっています。〈私〉は実在し得ないのです。しかし、まさにそのことを主張するため(そして相手にも同じ自覚を持ってもらうため)には、〈私〉はその他大勢と並ぶ一人としていわば受肉しなければなりません。私はこのネルケ無方として首座の役を演じ、世界の舞台の上に立っていなければならないのです。私が「身を容るるに地無し」と言っているまさにその時、〈私〉は自分の首座という役目の中ですっぽりと隠れているではありませんか! この私が天上天下、唯我独尊? とんでもないことです。

 

 

 臨済禅師の言葉を使えば、〈私〉とは「随所に主となる」(=世界の舞台そのもの)。そのことを達磨大師は「廓然無聖」と、百丈禅師は「独坐大雄峰」と、道元禅師は「自証三昧」といった言葉で表しています。しかし、それを口に出すことによって、達磨も百丈も臨済も道元も、他と並ぶ大勢の役者の一人に成り下がってしまっているのです。

 

 前回の言葉で言えば、〈私〉の気づきと《私》の築きは同時です。目の前の相手に、彼自身の《私》に気づいてもらうためには、禅僧たちは自らの〈私〉を殺し、舞台の上の役者にならなければなりません。臨済禅師の「仏に会えば、仏を殺せ」というお言葉には、そういう意味もあったかもしれません。もちろん、臨済禅師のこの言葉には「仏を外で求めるな! 仏という偶像を破壊して、自ら仏だったことに気づけ!」という意味がまずあったでしょう。しかし、その気づきにとどまらず、内なる仏(=唯一無二の〈私〉)こそ殺せという二段階がそこになければ、そもそも臨済禅師ご自身は口を開くことはなかったでしょう。なぜなら、「仏を殺せ!」という言語行為自体が自らを殺すことを意味します。そうしなければ、相手に「成仏=殺仏」という二重のバトンを渡すことができないのです。

 

 さあ、「天上天下、唯我独尊」というバトンが自分に渡されているまさにこの時、どうだろうか? 今は他でもないこの私が舞台の上に立たなければ、誰が首座の役を果たすのか? しかし、それをすることによって、私も実は天上天下、唯我独尊を裏切っているのだ! 

 

 悟った人は何を得ているのか?

 最後になりますが、皆さんは「悟り」をどう捉えていますか? 

 言葉で言い表せないほどの至福感を伴う神秘体験でしょうか。かつての私は「悟り」をまさにこのようにイメージしていましたが、日本人はどうやら違うようです。むしろ欲がなく、どこかで冷めている人を「悟っている」と言うのをよく耳にします。

 2年ほど前に、私はTwitterで「悟った人が得るものといえば……」というアンケートをとりました。「智慧・歓喜・慈悲・慚愧」という4択でした。応答してくれた177人のうち、「智慧」と答えた人は78人(44.1%)で最も多かったことに特に驚く必要はないでしょう。悟りとは菩提つまり智慧を得るとはいわば教科書通りの答えです。2番目に多かったのは「慈悲」でした。この答えを選んだのは72人(40.7%)で、かなりいい勝負で、3番と4番を遠く離しています。特に浄土系の仏教にとって大事な概念である「慚愧」で答えたのは、17人(9.6%)でした。そして私が最も驚いたのは、「歓喜」がわずか10人(5.6%)しかいなかったことです。どうしてかつての私のように、悟りをこの上ない至福の体験と捉える人はこんなに少ないのでしょうか?

 別に過去の気づきに浸りたいという気もなければ、これからスピリチュアル系の本に書いてあるような神秘体験を得たいというわけでもありません。今の私は「たとえ100年も悟らないで坐ることができたとして、これほど楽しいことはないだろう!」という気持ちです。坐禅しても何もならないのですが、逆に言えば、坐禅している時だけは何も達成しなくていい。いわんや、悟りなんか開かなくてもいい。坐禅は何の使い物にもならないが、坐禅の時は、自分は何者にも使われていない。坐禅は一見最も不自由に見えて、実は最も自由な時間なのです。あるいは「悟らなくたって、人生って結構楽しい」という気づきこそ、一種の悟りと言えるのではないでしょうか。

 悟りの如何を多数決で決めるのもどうかと思いますが、私は智慧・歓喜・慈悲・慚愧のいずれも深く関わっている気がします。

 

 次回は特に道元禅師の著作に注目し、そのことについて検討したいと思いますが、その前に悟りと慈悲について少しだけ考えましょう。

 

 悟った人は必ず慈悲を得られるのでしょうか? この連載の第7回「釈尊はなぜ喋ってしまったのか?」にも書いた通り、釈尊ご自身が菩提樹の下で悟ったときには、その気づきの内容をいち早く生きとし生けるもののために布教したいとは思っていなかったようです。それどころか、釈尊の悟りが一番ほかほかだったそのときには、「もう仕事が終わった」と思っていたそうです。経典の話を信じれば、釈尊はそのままこの世からおさらばする気まんまんだったようです。「それでは一切衆生があまりにもかわいそう」と梵天が無理やりに引き留めていなければ、仏教は誕生しなかったということになっています。

 釈尊の悟りを「我と大地有情と、同時成道す」という言葉で、一切衆生の済度に引き付けたのはだいぶ時代を下ってから誕生した大乗仏教です。この言葉の解釈を巡って、前回紹介した通り、「釈尊の成道と同時に、この惑星の生きとし生けるものも救われた」という解釈がありますが、「いや、ここにはまだ一人だけ救われていない私がいる!」と反論されれば、なかなか答えられないという難点があります。ですから、次の解釈ではどうでしょうか? 釈尊が人生というクソゲーを降りる(つまり成道する)ためには、そのゲームをプレイする必要はどこにもないと気づく必要があった。このことに気づくまで、釈尊は自分のことをゲームの中のキャラクターとしてしか認識できていなかったが、そうではなく、自分は本来そのゲームのプレイヤーであったことに気づけば、ゲーム内のオプションの他に、そのゲームを続けない(涅槃を得る)というオプションも増えた。この気づきのためには、「ゲーム内のその他のキャラクターたちも、それぞれ自立したプレイヤーだ」という築きが必要だったのではないか、というのが前回のタイトルのヒントを与えてくれた「〈私〉の気づきは《私》の築き」という解釈です。ゲームプレイを休むためには、まず「自分はなぜ他でもなくこのキャラなのか?」という疑問を持たなければなりません。そしてこの疑問を持つためには、自分は他のキャラをプレイしても良かった(つまり、他のキャラには他のプレイヤーがいる)という認識がなくてはならないのです。

 この解釈でいけば、釈尊は悟った後にこう思ったのではないでしょうか?

 「このゲームをプレイし続ける必要は何もない。しかし、他のプレイヤーたちはそのことに気づいていないようだ。寿命が保つ間、私が気づいたことをゲーム内のあらゆる方法を使って、プレイヤーたちに知らせてみよう。それが私に残された唯一の遊びなのだ」

 そして今の私が思うには、クソゲーのプレイが遊びに変われば、そのゲームが意外に楽しくなるのです。がしかし、今の私がそう思っているからと言って「悟り」と「慈悲」がセットで現れる保証はどこにもありません。それはもしかしたら、ただ単に私(とその他大勢の仏教徒たち)の希望的観測かもしれません。

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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