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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

「なんだ、おまえか!?」――順タウマゼインと逆タウマゼイン

「君見ずや、絶学無為の閑道人。妄想を除かず、真を求めず。無明の実性即仏性、幻化の空身即法身。」

 

 これは禅宗で読まれる『証道歌』という経典の最初の一行です。意訳をすれば、こうなります。

「あなたはまだ気づかないのか、学ぶことをすべて学び終え、無為に生きている暇人(ひまじん)に? その人は自分の迷いを取り払おうともせず、悟りを求めようともしない。迷いの世界こそ本当の世界であり、この仮の姿の他に、本来的なものはどこにも存在しないのだ」

 経典をこのように現代語に訳すと、せっかくのありがたみが失われるという人がいます。そのためか、一人前の僧侶を育成している専門道場では、お経の内容についてほとんど何も教えられません。修行僧たちが求められているのは、経本を持たずに暗誦できることと、読経にふさわしい美しい声です。なぜなら、お葬式や法要の場で「住職さん、そのお経の意味を説明してもらえませんか?」と聞かれることがまずないからです。万が一そう聞かれた場合は、「いや、仏の教えですから、曰く言い難し……」と逃げていけばいいのです。

 

 しかし、仏教の眼目は他でもなくこの私自身がいかに生きるべきかであったはずです。原文のままで読めばちんぷんかんぷんでしかない経典を自分に引きつけて、自分の言葉に置き換えて、一人称的な読み方をしないでどうするか? 私が22歳の時に安泰寺に上山した際には師匠からそう言われましたし、33歳の時にその跡を継いだときから弟子たちにそう言ってきました。

 安泰寺では毎年、豪雪で外界から遮断されている3ヶ月の間は自給自足の農業活動を休み、もっぱら経典を紐解く時間が与えられています。鈴木大拙が禅を欧米に紹介してから、多くの経典が英語にもドイツ語にも訳されました。それらを手がかりに、世界中から集う求道者たちが時には拙い日本語で、時にはブロークン・イングリッシュで議論をかわし、自らの生き方の道標を求めています。

 ちなみに、『証道歌』を最初に英語に訳したのはやはり鈴木大拙です。1935年に出た『Manual of Zen Buddhism』で、「君見ずや、絶学無為の閑道人」は

 

 "Knowest thou that leisurely philosopher who has gone beyond learning and is not exerting himself in anything?"

 

 と訳されています。いやしかし、この文をこのように「勉学と努力を超越している、あののんびりとした哲人をあなたは知っているのか?」と英訳しても、自分のこととして読めない人が多いのではないでしょうか。そもそも仏教をむりやりに自分に引きつけないで、その御教えをただただありがたく鑽仰すべきだというお方もいるでしょう。

 しかし、仏教を棚に置いてある、中身の知らない缶詰のように崇めてはいけないというのが禅の立場です。釈尊の「天上天下唯我独尊」にせよ、臨済の「一無位の真人」にせよ、道元の「身心脱落」にせよ、親鸞の「ひとえに親鸞一人がためなりけり」にせよ、すべてを私自身に引きつけて読まなければ、仏祖の道は絶えてしまう気がします。そういう読み方は失礼に当たらないどころか、そういう読み方こそしなければ、仏教を台無しにしてしまう気がするのです。

 

無為に生きるのはなかなか難しい

「日常語で「無為に生きる」といえば悪い意味ですが、道教や仏教では、有為を脱して無為に生きることこそが最高の境地です。いろは歌では「うゐのおくやまけふこえて…」と詠われていますが、その「けふ」が今日です。

 

しかし、無為に生きるのはなかなか難しいです。ついついこいつのやっているゲームにのめりこんでしまうので」

 

 これは、永井均先生の連続ツイートです。2016年6月1日……。この呟きが私の琴線に触れていなければ、この連載を書くことはおそらくなかったのでしょう。わずか数行の間に、人生というクソゲーを変えるための秘訣が簡潔に表現されている気がします。

 こいつのやっているゲーム、つまり「勝った、負けた」「得した、損した」という世界にのめり込まないこと。それこそ禅の「自分の手放し」ではないでしょうか。道元の言葉を借りるなら「身心脱落」、さらに大袈裟に言えば「涅槃寂静」の境地でしょう。

 本来お坊さんが教えなければならない仏教の核心を、大袈裟な言葉を一切使わないで伝えてくれているのが永井先生のTwitterアカウントだ、という気すらします。私が近年よく使っている「禅とは、仏教とは、ゲームを降りること」という表現が永井先生の受け売りであるのは今さら明かす必要もないかもしれません。

 

 私が永井哲学に触れてから、仏教との多くの類似点とともに、決定的なズレにも気づきました。永井先生はそもそも仏教徒ではないですし、仏教を語ろうとしないので、それは当然としか言いようがありません。しかし、私自身は永井哲学と禅仏教はどこで繋がり、どこがズレてしまうかが今まで上手く表現できずにいました。この接点と違いをはっきりすることが、この連載の残りの狙いです。 

 

 私は2016年6月1日のつぶやきに触発されながら、えも言われぬ違和感を覚えました。いや、そこから何か危険な匂いを感じたとすらいえます。このツイートにはどうも、辻褄の合わないところが多過ぎます。その辻褄の合わなさははたして永井哲学に内在しているのか、それとも私自身の(的外れな?)受け止め方に由来しているのか? 

 

 まず一つ、「無為に生きる」ということについて。永井先生が指摘されているように、仏教では有為を脱して無為に生きることこそが最高の境地とされています。有為がゲームのポイント稼ぎを意味するなら、無為に生きることはゲームを降りることとほぼ同じ意味です。有為と無為というこの区別こそ、仏教の目指すところを何よりもクリアにしています。

 ところが、有為と無為を区別するこのこと自体は、有為の世界でしか意味をなしていないのです。つまり、「有為を脱して無為に生きよう」というその思いこそ有為(作為)的なのです。無為に生きるのがなかなか難しく思えるのも、無為に生きようという作為がそこに働いているからではないでしょうか。

 ここにはどうやら「悟りたいと思っている間は、絶対に悟れない」や「マインドフルでいようというその思いこそ、マインドフルネスの一番の妨げになる」ことと同じカラクリが働いています。

 ですから、「そもそも無為に生きることなんて、不可能だ」と言うこともできます。「無為に生きよう」という思いはもちろん、「あっ、今は無為の状態に入ってる!」という気づきさえ有為の世界でしか通用しません。

 しかし、その逆のことも考えられるのではないでしょうか。つまり、どんなに作為的で有為に生きていようと、そういう作為的な生き方も根本においては無為である、と。

 なぜなら、自分で作為的かつ有為に生きようと決めてそうしているのではなく、無為自然の働きによって否応なくそうさせられていると言えるからです。

 つまり、無為においてのみ有為に生きることができるのです。問題は、それを自覚するかどうかという点です。自覚がなければ、せっかく無為に生きているのにその事実が無に等しいですが、自覚があれば、その自覚がかえって邪魔して無為が有為に反転してしまいます。

 「無為に生きる」ということの中には、こういうパラドックスが含まれています。次回以降は瞑想の実践について考察したいと思いますが、その際再びこのパラドックスに触れることになるでしょう。

 

「こいつのゲーム」にのめりこんでしまう〈私〉とは?

 「ついついこいつのやっているゲームにのめりこんでしまうので」というつぶやきに関して、もう一つの疑問が頭に浮かびます。

 ここでつぶやいているのは、そもそも誰か? それはいうまでもなく、アカウントの持ち主である永井均という哲学者であるはずです。では、ツイートの中で言及されている「こいつ」は誰か? 

 それもおそらく、ご本人のことでしょう。永井先生はここで、ご自身への戒めを表しているように読めます。「気をつけなければ、自分自身のやっているゲームにのめり込んでしまう」、と。

 しかし、この発話は誰に向けられているのでしょうか。Twitterのような公の場で発表している以上、このつぶやきが不特定多数の読者の目に触れることは当然ながらわかっているはずです。

 現に、私を含め多くの人はこのツイートに「いいね」をしています。つぶやいている本人がそれを意識しようがしまいが、「ついついこいつのやっているゲームにのめりこんでしまう」と言っているまさにその最中、永井先生はTwitterというゲームにのめり込んでいるのではないでしょうか。

 そう感じたのは、私だけではなかったようです。永井先生は件のつぶやきのあとに、TOMOAKIさんという方と次の問答をしています。

 

TOMOAKI「はじめまして。永井先生にお尋ねしたいのですが、ゲームをやっている「こいつ」とは、誰のことでしょうか…?永井先生ではない、他人なのですか…?」

 

永井均「永井均さんという人のことです。」

 

TOMOAKI「ですが、疑問が出てしまいまして…。では、永井均というひとの、ゲームにのめり込むのは、何、というか、誰、なのでしょうか?永井均というひとが、永井均というひとのゲームにのめりこむというのは、おかしい気がするのですが…。」

 

 まさにここがポイントです。「こいつのゲームにのめり込んでしまう」の「こいつ」が永井均という人ならば、そうつぶやいているのはだれか!? それはまさに、永井均ご本人ではないでしょうか。しかし、答えは次の通りです。

 

永井均「もちろん、のめり込むのは永井均という人ではなく〈私〉です。」

 

TOMOAKI「お返事、ありがとうございました。質問をして、これほど冷や汗と後悔に苛まれたのは、初めてでした。疑問が湧いて来てしまいますが、抱え込み、黙考したいと思います。」

 

 ゲームしているのは永井均だが、のめり込むのはこいつ(永井均)ではなく〈私〉……永井均先生ご本人からそうつぶやかれても困るのです。だって、そこでつぶやいているのはどう見ても得体の知れない〈私〉ではなく、まさに問題の「こいつ」ではないでしょうか。それでも「いや、こいつじゃなくて〈私〉だよ」と反論されれば、永井均先生が分裂症を起こしているのか、あるいは離人症にでもなっているのかと心配される方もおられるかもしれません。

 しかし、そここそ永井哲学の魅力とも言えるでしょうが、その主張を三人称的な立場でもなく、二人称的な立場でもなく、一人称の立場から捉えなければなりません。

 仏教の教えであれば、お経の言葉を恐れ多くて自分に置き換えられない人も多いでしょう。ですが、永井哲学の場合はまさにこの置き換えをしないと、そもそも何が問題なのか理解できないのです。

 一人称の立場からだけ、「こいつではなく、この〈私〉!」と言いたくなってしまう気持ちが共有できるのではないでしょうか。いや、「共有」というよりは「理解」というべきでしょうか? 何せよ、「この〈私〉!」は絶対に共有されてしまってはいけないものですから。かといって、「こいつではなく、この〈私〉!」と言いたくなるその気持ちを理解するということは、「実はそのことは絶対にこいつの口から言っても伝わらない!」ということを理解することでもあるのです。

 

 「もちろん、のめり込むのは永井均という人ではなく〈私〉です」というつぶやきが永井均先生の口から聞こえると、「何を言っているのだ!」と反応するのが普通ですが、私自身が「人との比較の世界に嵌り、損した得した、勝った負けたというそのゲームで一生を過ごすのは嫌だな。たまにはネルケ無方というこのキャラを一服したいものだ」と考えた場合はどうでしょうか。あるいは読者ご自身が、自分の頭の中で試しにそう考えた時は、十分にその思いの意味が理解できるのではないでしょうか?

 つまり、ゲームの世界(世の中の大人たちが「現実」と呼んでいる、まさにその世界)では私はネルケ無方というこいつを演じるしかありませんが、もしここにそのゲーム=演劇から距離を置いて一服したり、静かに観察することだけができる別の場がなければ、そのゲームはあまりにも息苦しいものになってしまいます。少なくとも、私は永井先生のつぶやきをそういうふうに理解しております。

 しかし、前述したように、そういうふうに人に向かってつぶやいた時点で、もはや別のゲームを始めていると言わざるを得ないかもしれません。 あるいは、誰にもこの思いを漏らさずに、たった一人で頭の中で静かに「ついついこいつのやっているゲームにのめりこんでしまう」と考えた場合でも、その思いも実はこいつのゲームの一コマでしかないとなぜ言えないのでしょうか。

 他でもなくこの私は近年、よく「坐禅とはゲームを一服することだ、出家とはゲームを降りることだ」などと言っていますが、ゲームを降りるというメタ・ゲームだってあるわけです。こいつのゲームにのめりこまないというのも、まさにこの「こいつ」の念の入ったゲームではないでしょうか。

 そもそも、私がこの頭の中で考えたことも、この胸で感じた感情も全て、こいつから独立して考えられ、感じられる訳ではないでしょう。つまり、こいつのゲームにのめり込むのも、あるいはのめり込まないのも、全て〈私〉と同時に「こいつ」でもあるのです。

 

「私はなぜ〈私〉なのか」という問いは、誰の問いなのか?

 私が最初に永井哲学に出会った時の疑問は、次の通りです。

 「私(=こいつ)はなぜ〈私〉なのか」という問いはそもそも、誰の問いなのか? 

 それはいうまでもなく、ネルケ無方であるこいつではなく、〈私〉の問いのはずなのに、気がつけばこいつの口から発せられているわけです。その時、「それはお前じゃなくて、俺のセリフだ!」と言いたくなってしまうのですが、そう言いたくなるのも〈私〉でありながらこいつでもあるのです!

 

 2016年の春、これらの疑問が頭から離れない私はYouTubeに「永井均さんの哲学について」という5本の動画を投稿しました。それを見た永井先生はその時、間違っている箇所も指摘しながら「精確で本質的な問題を提起している」と私の問いを認めてくれました。では、その時の永井先生の答えはなんだったかと言えば、次の通りです。

 

「全体として〈私〉というモノが私であるこの人間とは別に実在しているかのように語られている点が気になった。〈私〉は、〈今〉と同様、あくまでも独自の内容のない無内包の現実性にすぎないので。」

 

 「私」(=こいつ)が〈私〉であるということは、あくまでもこいつの目から現に世界が見え、こいつの体が殴られれば現に痛いということ(=無内包の現実性)だけなので、その剥き出しの事実が世界内の一人である「私」から独立して何かをなしうるというわけではない。

 つまり、その問いが現にこいつの問いとして問われていれば、それがまさに〈私〉の問いでなければなりません。しかし、だからといって〈私〉が主体的にその問いを問うているわけではありません。「私(=こいつ)はなぜ〈私〉なのか」という問い自体、こいつのやっているゲームの一環ではありませんか? その問いを人に向かって発言し、永井哲学まで構築することに至った永井先生も、それにこうして付き合っている私やその他の永井ファンは、〈私〉に目覚めたつもりで実は永井哲学という新たな言語ゲームにのめりこんでいるだけではないだろうか? そういう疑問を感じているのは私だけではないはずです。

 その一方で、こう言うこともできるでしょう。「私(=こいつ)はなぜ〈私〉なのか」という問いはこいつの言語ゲームの中で発せられている以上、有為であらざるを得ません。しかし、多くのプレイヤーの口から同じ問いが発せられているにも関わらず、こいつの口だけ、、から他でもないこの〈私〉が問おうとしている問いが発せられているという事実に変わりはありません。

 有為の世界では、どのプレイヤーも同じ問いを問うているのですが、無為の世界では、そもそも〈私〉の問いしか意味を持ち得ません。つまり、永井哲学という言語ゲームに付き合っている以上、有為にプレイするしか仕方がありません。しかし、そのゲームに参加するためには、そもそもの問いの意味が理解されなければならない。つまり、無為に生きている〈私〉を獲得していなければならない。

 永井哲学は、いわば有為の「私」と無為の〈私〉の二人三脚ゲームではないでしょうか。つまり、それ以外の生活の場面でもそうであるように、こいつのゲームにのめり込まないことが難しいどころか、絶対に不可能といえるでしょう。しかし、のめり込んでいるのはどこまでもこいつです。こいつのゲームに気づいている〈私〉だけは無為の世界に残っていざるを得ません。〈私〉の側からすれば、こいつがいくらゲームをしていても、〈私〉だけはこのゲームに絶対にのめり込めないと言えます。

 

 私からすれば、永井哲学の最大の難点はまさにここにあります。「私」と〈私〉は全く次元を異にした概念であるにも関わらず、本来許されないはずの「「私」はなぜ〈私〉なのか」という問いが出発点となり、ついつい「〈私〉が(!)こいつのゲームにのめり込んでしまう」という自己矛盾したつぶやきまでしたくなってしまうところです。

 

問題を感じているのが〈私〉で、それを考え進めているのが「こいつ」?

 永井均先生と池田晶子先生の興味深い対談があります。池田さんはそこで、後に私も疑問に思ったことを永井さんにぶつけています。

 

池田 「…ところで、このオリジナルな永井哲学を展開しているのは、果たして永井均さんなんですか、それとも〈私〉なんですか。今日はそこから伺いたいと思っているんです。」

永井 「でも、〈私〉と永井という人は、現実には同一であるわけですから、どちらと答えることはできないんです。」

池田 「それは論理的に考えれば、ということですよね。私は、論理的に答えられない言わば印象を聞きたいんですよ。印象では、どちらが永井哲学を展開しているのか。」

永井 「印象としては、問題を感じているのは〈私〉の方、それを推し進めるために頭を使っているのが永井、ですかね。具体的に、頭と知識を使って考えているわけですから。永井としての自分がたまたま学んだ者を使わないと、考えられない。」

池田 「じゃあ、その問題を提起したのは〈私〉ですか。」

永井 「うん、印象としては、そう。」

池田 「ご著書ではそういうことは言っていませんが、なぜですか。私にはそのところが一番面白いと思うんですが。」

永井 「言う機会もないですし。一応論理的に書いてますからね。」

池田 「論理的でないことは言いたくないという感じですか。」

永井 「そう、成果だけを述べたいじゃないですか。楽屋裏を見せるより。」

池田 「でも、すくなくとも私は、ある考えが発生するその瞬間にこそ、考えることの面白さはあると感じるんです。それに、出てきたものだけを受け取ると、かえって分かりづらいと感じる人の方が多いと思いますけど。ある程度裏話をした方が。」

永井 「いやいや、裏話でわかるようでは、ちょっと困るんです。」

『2001年哲学の旅 コンプリート・ガイドブック』(新潮社)p.220

 

 哲学者同士のやりとりなので、永井さんは最初こそ「〈私〉と永井という人は、現実には同一」とその問いに論理的に答えようとしていますが、最後には池田さんの誘惑に負けたのか、印象としては〈私〉の問いと答えています。その問いについて考えているのが永井でも、それを感じているのが〈私〉である、ということではないでしょうか。この二つが現実に同一でも、印象として乖離してしまうこともあるでしょう。

 私を含め、多くの人々が永井さんのTwitterアカウントに惹きつけられている理由の一つは、著書の中で隠されている楽屋裏を見せていることではないでしょうか。

 

「なんだお前が喋っているのか」というつまらない気持ち

 例えば、次のつぶやきも、読むと永井哲学の楽屋裏を垣間見た気にさせます。

 

 「人といるときだけ一人の人になる人と一人でいるときにも一人の人である人とがいるような気がする。

私はもちろん前者で、一人でいるときは、体を起こしていることさえ苦痛なので、たいてい横たわっている。」

 

 この気持ちを、私は痛いほど分かるつもりです。人といると、どうしても「人と人との間」というゲームに参加させられてしまうのですが、一人でいる時のみ、そのゲームから解放されます。しかし、その時「人をやめた」と思っているのは誰か? それは〈私〉とともに、ネルケ無方というこの人ではありませんか? つまり、人を辞めることすら、こいつから独立してはできないのです。

 

「zoomなんかを使って喋っていると喋っている自分の顔を見ながら喋ることになって、なんだお前が喋っているのか、というつまらない気持ちになるね。」

 

 これはコロナ禍に入ってしばらくの、2020年6月16日のツイートです。私もその頃、ズームで坐禅会を開いたりそれこそ永井哲学の勉強会に参加したりしましたが、同じような気分を味わったことがあります。喋っている最中には決してプレイヤーの一人としてゲームに参加しているつもりはありません。

 そんなことはあり得ないとわかっていても、その人を俯瞰しているもう一人の〈私〉のつもりで画面に写っている自分の顔を見ていると、〈私〉のつもりで喋っていたその言葉たちが、なんと「こいつ」の口からベラベラと喋られているではありませんか! では、その時「なんだ、お前か!」とガッカリしているのは誰か? 「もちろん、ガッカリするのはネルケ無方という人ではなく〈私〉です」と言いたいところですが、言うまでもなく、〈私〉がガッカリしているということは、ネルケ無方という人がガッカリしていることでもあるのです。こいつが喋っていたことにガッカリし、こいつがガッカリしていたことにさらにガッカリする〈私〉……いや、その〈私〉もまた「こいつ」と表裏一体にあらざるを得ません。

 こんな思いをめぐらしながら、私は2020年7月28日に永井先生のつぶやきをリツイートし、次のコメントをつけました。

 

「このように、喋っている自分を他者と見なして、「なんだお前か」というつまらない気持ちを味わったことのある人は多いだろう。

同じように、次の瞬間についさっき「なんお前か」と驚いていていた自分を他者と見なして、「なんだお前が驚いているのか」という二重の驚きがある。これもつまらない。」

 

 ギリシャ哲学の頃から、自分や世界のあり方を問う原動力は「タウマゼイン(驚き)」とされています。タウマゼインとは、「太陽があり、月があり、世界がある! なぜあるのだ?」「なぜか、世界の中に自分がいる! 一体全体、なぜだ?」というような、だれしも子供の頃に体験しただろう驚きのことです。

 鏡に映っている「こいつ」はどうやら、私と同一人物らしい……と気づいた時にも、そのような驚きを味わうのではないでしょうか。永井哲学は、その驚きをいつまでも味わい続ける営みと言うことはできないでしょうか。

 鏡に映っている自分の姿という例で言えば、「こいつが私なのか!?」というのは大発見であり、幼児が大人になるための第一歩であると同時に、自分をつまらない気持ちにさせる気づきでもあったりします。

 だって、鏡に映っている「こいつ」なんか、天上天下唯我独尊の私じゃない! 太陽や月やその他、世界内の大勢の他者と横並びできるようなこいつに還元できない〈私〉こそ、永井哲学の肝です。

 永井哲学を働かせているのは、「なぜか、世界の中に私がいる!」という驚きではないでしょう。そうではなく、「なぜか世界があり、そのなかにはたくさんの人たちがいる。しかし、その中にはどういうわけか、皆と横並びできないとんでもない奴が一人だけいる!」というのが永井哲学のタウマゼインの原型ではないでしょうか。

 他の人たちも皆口を揃えて、「私こそそうだ!」と言い、あるいは天上天下唯我独尊のつもりで振る舞ったとしても、現にそうなっているのはこの〈私〉だけだ、と。

 ですから、永井先生からすれば、自分の哲学が多くの読者の反響を呼んでいることは嬉しいことであると同時に、寂しいことでもあるのではないでしょうか。

 なぜなら、理解されるということは天上天下唯我独尊の座から突き落とされることを意味します。永井先生の立場からすれば、自分の哲学は他者に理解されてはいけないし、理解されることは原理的にあり得ないことです。

 いや、他者だけではなく、日常生活を営んだり、喋ったり考えたりするこいつにすら、本当は理解され得ないという気持ちはどこかにあるのではないでしょうか。

 だからこそ、〈私〉が言おうとすることを、画面に映っているこいつが喋ってしまうと、つまらない気持ちになるのではないでしょうか? いくら「〈私〉とこいつは、現実には同一である」と頭で分かっていたとしても……。

 

 私のリツイートには、火童多問第一という方からまもなくコメントがつきました。それは私に大事なヒントを与えてくれました。

 

「つまらないですか?

ぼくはその「お前」を見つけたとき、感謝がありました。 

だって、ずっと待っていてくれたんですよ。気づくまで。(誰が気づいたのかは定かでないが)

 

というか正直すまんかった、ずっとぼくがしゃべってるものだとばかり思ってた。」

 

 その時、私の中にそれまでハマらなかったパズルのピースがようやくハマりそうな気がしてきました。私より三歩下がって歩いているもう一人の私から私を見、そしてそのもう一人の私よりさらに三歩下がっている私から見る……のではなく、先端の私に立ち戻ってはどうか? 「ゲームを降りる」というゲームを降りる、というゲームを降りる……のではなく、最初のゲームにそれこそ本気でのめり込んではどうか?

 

「なるほど、そういう「逆タウマゼイン」もありますよね。

今までの「なぜか俺が・・・!」という順タウマゼインがつまらなくなり、つまらなかった「なんだお前か・・・」に懺悔・感謝・帰依したくなり時。 それが受肉・十字架か?

 

タウマゼインに使っているのは解脱した阿羅漢。 逆タウマゼインからの「すまなかった・・・」という方向転換が大乗の発菩提心?」

 

 これはあくまでも、その時に頭を浮かんだことのスケッチにすぎません。「こいつに還元できない(が、どうしてもこいつのゲームにのめり込めそうになっている)〈私〉がいる!」というのが順タウマゼインなら、「それでも〈私〉はこいつなのだ!」というのが逆タウマゼイン。

 仏教でいう修行は順タウマゼインのような気づきからはじまり、ゲームを降りること(=無為に生きること)を目指します。そっち方向の修行ばかり進めていると、あるとき「ゲームを降りるというのも、こいつのゲームにすぎないのでは?」「無為に生きようとするのも、実は有為なのでは?」ということに気づきます。「ゲームを降りようとする」というメタ・ゲームをも降りるという手はありそうです。無為に生きようとする、この思いもまた有為な計らいに過ぎないと気づいた時に、「無為に生きよう」という思いも手放せばいいのです。しかし、とだれでもすぐ気づくでしょう。「それだって、さらに念の入ったゲームに過ぎないのでは?」

 

 道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」には「迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」という一文があります。簡単に言えば、迷いに気づくのが仏で、悟りに囚われているのが迷える衆生ということです。

 私の4年前の気づきは、これに似ている気がします。それまでは世界に実在しない〈私〉ばかりを本当の自分だと思い、〈私〉への気づきを悟りだと思っていました。ですから、その悟りを邪魔しているこいつのゲームにのめり込まないように気をつけていたのですが、それはまさに「悟に大迷なる」ありさまでした!

 私が迷いの根源と見做していたこいつに向かって「なんだ、お前か」とガッカリするのではなく、「ずっと待っていてくれたんだね、ぼくが気づくまで! というか正直すまんかった、ずっとぼくがしゃべってるものだとばかり思ってた」という逆タウマゼインは「迷を大悟する」のこと。

 

 さて、ここからは禅修行の実践の話に移りたいと思います。順タウマゼインと逆タウマゼインがあるように、坐禅、修行や悟りにも「順」と「逆」という二つの方向性があるのではないでしょうか。ここまでは悟りや修行の順方向をメインに考えてきましたが、ここからは逆方向の矢印に光を当てたいと思います。それこそ、人生ゲームを変えるためのヒントになりそうな気がしますが、その話は次回以降のテーマにしたいと思います。

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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