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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

私一人の坐禅が世界を救う!

 道元禅師を坐禅抜きに語れないのは周知の通りです。現世利益も、来世のより良い世界への生まれ変わりも、道元の眼中にはありません。坐禅という行為すら「無功徳」、つまり悟るために修行をするわけではないと言うのです。では、なぜ坐禅をするのか? 今回はこの問題から出発しますが、道元にとって坐禅に負けないくらい大事なもう一つの概念である「発菩提心」に着目したいと思います。坐禅と菩提心にはどういう関係性があるのか、また道元自身の菩提心がいかに変容したかということを考えてみたいと思います。

 道元が中国から帰国して間もない頃に書いた「普勧坐禅儀」(1227年著)や「弁道話」(1231年著)では、彼は何よりも坐禅の実践(だけ)を勧めています。そのころの道元は、坐禅に比べれば経典の勉強や戒律の厳守、あるいはその他多くの修行は全て不要だと主張しています。極言すれば、「坐禅さえすれば、悟りもいらない!」というのが初期の道元のスタンスです。なぜなら、ただ坐るという行為(だけ)に悟りが現れているからです。

 

道元の「不親切」

 道元が最初に執筆した『普勧坐禅儀』という短いテキストは、中国の『禅苑清規』の中の「坐禅儀」を下敷きに書かれています。坐禅の環境の整え方や食事の注意ごとから、足の組み方や手の組み方まで、道元は多くの文言をそのまま再利用しています。例えば、『普勧坐禅儀』のコアとも言える次の言葉もほぼそのまま中国のテキストで使われています。

 

 「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず……此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯是れ安楽の法門なり。……竜の水を得るが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。」(『普勧坐禅儀』)

 

 坐禅はゲームの世界(その勝ち負けも、ゲーム内のルールも含む)からのブレイクタイムです。坐禅は竜が水に戻るように、虎が山で遊ぶように、長い間「お留守」にしていた「今ここ」に戻るだけで十分なのです。

 道元は中国の「坐禅儀」から多くの文言をそのままコピペしている一方、いくつかの重要な変更も行なっています。例えば、中国の「坐禅儀」の最初の一文は以下の通りです。

 

 「夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし」(『禅苑清規』「坐禅儀」)

 

 日本の臨済宗の元祖とされる栄西禅師はこの一文を『興禅護国論』に引用していることでも有名ですが、要はこれから説明される坐禅修行は自分一人のためではなく、生きとし生けるものの救いのためになされなければならないという意味です。これこそ、大乗禅の精神です。ところが、道元の『普勧坐禅儀』には慈悲のジの字も出てきません。誓願、菩薩や衆生といった概念はここでいっさい使われていません。道元の『普勧坐禅儀』はやや哲学的とも言える問いから始まっています。

 

 「原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮(か)らん」(『普勧坐禅儀』)

 

 ここでいう「道」とは宇宙の真理のこと、つまりブッダが悟った真実そのものを指していると思います。その真実がどこにも行き渡っているというのに、なぜそれを実践(修)し、実証しなければならないのかというのは、まさに中国に出発する前の道元の問いであったのです。日本に戻った後の道元の答えはこうです。

 

 「直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かにして、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖(いえど)も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)うる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)既に然り、今人(こんじん)盍(なん)ぞ弁ぜざる。」(『普勧坐禅儀』)

 

 これを私の言葉でやや自由に訳すれば、次のようなことです。

 たとえ頭で完全に理解したと思っても、いくつかの悟り体験を得たとしても、まるで誰もかつてみたことのない世界を自分がこの目ではっきりと捉えたとしても……あるいは宇宙の真理を自分が掴んだ、仏の心を明らかな自分のものにした、そして空を突き抜けるほどの志を持ったとしても……そう思ったならば、あなたはまだ頭の世界(入頭の辺量)の中で遊んでいるに過ぎない。首より下の体はまだゲームからの出口を見つけていないのだ(出身の活路を虧闕す)。

 (生後間もない頃に「天上天下唯我独尊」を喝破していたにもかかわらず)6年間苦行を続けた釈尊を見てみろ。9年間、少林の洞窟の中で面壁した達磨大師の話を忘れてしまったのか? 彼らの実物見本に習わないで、どうして「道」のことが語りえるのか? ここでは道元が自らの哲学的な問いに哲学的な答えを与えることなく、まず喝を入れているだけに聞こえます。では、肝心な坐禅はどうするのか?

 道元はまず「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量を止めて、作仏を図ること莫れ……」(『普勧坐禅儀』)という前置きをします。全てを手放して、仏になろうという思いを捨てること。そのためか、ここでは「誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし」というような思いも坐禅の邪魔にしかならないと道元は考えていたのではないでしょうか。坐禅をする際は、仏のことも菩薩のことも一切忘れてよい、と。

 そして足の組み方、手の組み方など体の姿勢を説明してから肝心な話に入ります。

 

 「身相既に調えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右揺振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなわち坐禅の要術なり」(『普勧坐禅儀』)

 

 姿勢が調ったら、ほっと一息深呼吸……そして上半身を左右に動かしてから、山のように安定して坐り込む。誰もそこで思おうと思っていないのに、思いがふと思われている。「思量箇不思量底」をそういうふうに解釈できないでしょうか。思わないところで、どうして思いが思われるのか? 答えは非思量、思いでは掴み得ない。道元は、これこそ坐禅のコツだと言っています。

 これは『普勧坐禅儀』の決定版と言える「流布本」からの引用ですが、実は「天福本」という道元が中国から日本に戻って間もない頃に成立したバージョンもあります。そこでは「思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり」という謎めいた文言はまだ使われておらず、「念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり」とあります。意訳すれば、「思いが浮かんだら、その思いに気づけ。気づいたら、その思いを手放せ。そうして自分を束縛しているあらゆるもの(縁)から自由になれば、自ずと今ここ、この自分になりきるだろう。坐禅のコツがここにあるのだ」とでもなるでしょう。これも実は、『禅苑清規』の「坐禅儀」の丸写しです。

 タネ本のユーザー・フレンドリさに比べれば、道元の「流布本」のなんと不親切なこと! 瞑想の実践者なら、誰しもそう感じるのではないでしょうか。その一方で、『禅苑清規』の「坐禅儀」で使われている実践方法は、昨今のマインドフルネス・マニュアルでも紹介されるようなメソッドにそっくりではありませんか?

① 意識を身体や呼吸に置く

② いつの間にか考え事を始める

③ 考え事をしている自分に気づく

④ 考え事を手放す

⑤ ステップ①に戻る

 使い手にとって、この方法はステップ・バイ・ステップでこれほど親切なものはありません。

 

マインドフルネスの落とし穴

 それではなぜ、道元がこのご親切な指導をあえて「不思量底如何思量。これ非思量なり」という雲を掴むような話に変えてしまったのでしょうか。理由は複数あるかもしれませんが、1つは方法論に無理があるという点ではないでしょうか。

 マインドフルネスといえば、不乱のままで長時間(最低でも数分間)自分の身体の感覚や呼吸を意識し続けている状態だと考えている人も少なくないでしょう。今ここ、自分の身体に現に起きている様々な感覚をありのままに感じること、と。

 ところが、多くの場合は30秒もしないうちに、頭の中で「昨日、あいつにまたあんなことを言われた……許せない! 今度あいつに会ったら、こう言ってやろう。でも、そう言うと、あいつもまたこう言い返してくるから……」という問答が始まってしまいます。身体はじっと坐ったままですが、心はもはや今ここにおらず、頭の中で展開されているゲームに没頭している状態です。

 その状態がいつまでも続くわけではありません。ある時点で、考え事をしていることに気づくのです。つい先まで考え事をしていながら、その考え事をしている自分にすら気づいていなかったのに、はっと「考え事をしている」と気づく! 多くのマインドフルネスの実践者が次の瞬間、「しまった!」と反省しているのではないでしょうか。呼吸を観察するはずだったのに、ついつい考え事をし、せっかくのマインドフルネスの時間を無駄にしてしまった、と。

 しかし、そうではないでしょう。「考え事をしている!」と気づいた時点で、マインドフルネスを失ったのではなく、その気づきこそマインドフルネスが起きた瞬間です。最初の数十秒の呼吸の観察が「気を付けの姿勢」なら、考え事に没頭していた時間は放逸状態です。しかし、気づこうと思わないまま、考え事をしている自分にはっきりと気づいている瞬間こそ、マインドフルネスの一番純粋な状態ではないでしょうか。このマインドフルネスの実体験から「思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり」という「流布本」の謎めいた文言を捉え直してはいかがでしょうか。

 

 「考えないようにしようとしていても、考えは浮かんでしまう。ふと浮かんでしまったその考えにどうして気づくことができるのか? どこから現れたか分からないこの気づきこそ非思量であり、ほんとうのマインドフルネスである」

 

 一方の「天福本」で採用されているマインドフルネス・メソッドでは大きな落とし穴があります。それは「之を覚すれば即ち失す」というステップです。考え事に気づいたら、直ちにその考え事を手放すこと。しかし、これは真面目にやればやるほど実現不可能だと感じた実践者は私一人ではないはずです。

 

 「考え事をしてしまった! いけないいけない! 早くその考えを手放して、坐禅に戻ろう」

 

 そう考えれば考えるほど、考え事は手放せないでしょう。そんなことなど考えないで、あるいは最初に気づいたその考え事をそのままにし、直接に坐禅に戻ればいいのです。いや、「坐禅に戻る」も何も、「あっ考え事をしている!」と気づいたその瞬間、自分はもう坐禅に戻っているのだから、さらにすることは何もないのです。

 昨今のマインドフルネスブームにも感じておりますが、「坐禅中に自分の心を観察する……考えなどが見つかったら、直ちに気づいて手放す……」というのは自分の内面のモグラ叩きゲームのようなものです。早く気づいて、早く手放して、マインドフルネス・スコアをあげること! そんなことをいくらしても、「自ら一片と成る」ことはあり得ないのではないでしょうか。

 

仏法を騙し取った道元 

 『普勧坐禅儀』の4年後に著された『弁道話』では、使命感に燃えている道元の気持ちがよく伝わってきます。

 

 「予かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに大白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事ここにをはりぬ。それよりのち大宋紹定のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法救生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし」(『弁道話』)

 

 「中国の浙江の両側でさまざまな修行道場に足を運び、当時の中国仏教の最先端であった禅の五つの宗派(曹洞宗、臨済宗、潙仰宗(いぎょうしゅう)、雲門宗(うんもんしゅう)、法眼宗(ほうげんしゅう))を幅広く学んだ私(道元)はようやく如浄禅師のところに辿り着いた。そこで一生の参学の大事が終了した。その後、国に帰って、生きとし生けるもののために法を説きたいという想いが私の肩に重くかかっていた」とでも訳しましょう。

 しかし、道元が日本の人たちに伝えたかった「一生の大事」は何だったのでしょうか? 彼が中国で掴んだ答えは、これを読んだだけでは全く分からないのです。

 道元が後ほど永平寺を開いてから、修行僧たちに提唱した講義録とも言える『永平広録』の冒頭にヒントがあるかもしれません。

 

「山僧、叢林を歴(へ)ること多からず。ただ是れ等閑(なおざり)に天童先師に見(まみ)えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。」(『永平広録』卍山本)

 

 意訳すれば、「私は多くの修行道場を尋ねたわけではない。たまたま天童如浄禅師に出会うことができて、その指導のもとで私の目が横、鼻がまっすぐ下を向いていることが確認できた。それ以降、もはや人に騙されることはなかった。日本には手ぶらで戻った。一塵も仏法を持って帰って来なかった。」

 ここも悟り体験らしい話は一切出てきません。面白いことに、永平寺にはこの提唱の別バージョンが残っているようです。

 

 「山僧、是、叢林を歴ること多からず。只、是、等閑に先師天童に見えしのみなり。然れども、天童に瞞ぜられず、天童還って、山僧に瞞ぜらる。近来、空手にして郷に還る。所以に山僧、無仏法なり。」(『永平公録』祖山本)

 

 ここでは、「人に瞞ぜられず」ではなく、「天童に瞞ぜられず、天童還って、山僧に瞞ぜらる」と書いてあります。師匠に当たる天童如浄にすら、道元は騙されなかったと言う。そうではなく、自分が師匠を騙して(法を継いで)日本に帰ってきた、と。この文脈を読めば、道元自身が何よりも強調している「正伝の仏法」も結局はお芝居なのでは、と聞きたくなるのは私だけでしょうか。仏教の伝達もゲームに過ぎない? この話にはまた後ほど戻りたいと思います。

 

無仏法こそ真の仏法

 「山僧、無仏法なり」と自称するようになった道元は、帰国して間もない頃「日本には経典こそ伝わっているが、仏法はまだ伝わっていない」というとんでもない主張をしはじめました。しかし、聖徳太子が大陸から伝来した仏教を国造りに生かしてから500年以上経った頃に道元はなぜ、悟りすら求めない坐禅こそ正伝の仏法だと主張したのでしょうか? 「無仏法」の彼はいったいどんな「仏法」を日本に伝えたかったのでしょうか? ここで禅的な答えが許されるなら、坐禅こそ道元の「無仏法の仏法」の表現です。自分を手放して、ただ坐るというその行為自体が、道元の空手還郷の姿であったのです。

 それまで日本に伝わっていたのは官僧体制の国家仏教で、出家といえども煩悩丸出しの権力争いに参戦しているものも、趣味半分で隠遁生活を楽しんでいる者もいましたが、それらのどこに釈迦の教えがあるのかと道元が疑問に思ったのは無理なからんことです。当時の僧侶の多くは貴族階級に生まれながら、出世の道を閉ざされてしまったせいで出家せざるを得なかった僧侶です。せめて立派な伽藍で、当時の文化最先端でもあった仏像に見守られながら、綺麗なお袈裟を纏いお経でも唱える……。

 道元からすれば、坐禅こそ仏法の結晶であり、その坐禅が実践されない限り仏法が日本に伝来したとは言えないと思ったのかもしれません。道元の周りには志のない僧侶たちだけではなかったでしょう。少数ながら、自らの生死の問題を解決するために経典と向き合い、修行に励んでいた僧侶たちもいたはずです。現に真言宗に阿字観という瞑想法があり、道元が出家した天台宗にも止観という坐禅にそっくりの修行があったのです。天台宗の『摩訶止観』や『天台小止観』といった瞑想マニュアルに比べれば、道元の『普勧坐禅儀』は話にならないほど初歩的なことしか書いていないのです。

 しかし、それらの修行方法も所詮は仏法を求める手段であっても、無仏法の仏法ではないのです。

 

 「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法、すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり」(『正法眼蔵』「現成公案」)

 

 というのが『正法眼蔵』の中でも最も有名な「現成公案」(1233年著)という巻の一節です。真面目に法を求めれば求めるほど、その法から離れてしまいます。「その法」とは今ここ、この自己すなわち本分人のことです。つまり、仏の教えは文字として日本に伝わってきたけれども、僧侶たちは経典だけに目を奪われ、今ここを見失ってしまっているというのが道元の主張でした。その主張が簡潔にまとめられているのが、1231年著の『弁道話』の冒頭です。

 

 「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。

 この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

……もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす」(『弁道話』)

 

 諸仏如来の単伝の妙術を道元はここで、まず「自受用三昧」という言葉に託しています。私はこの言葉を「当たり前の自分に戻ること」と解釈しています。そのためには端坐参禅、つまりただ坐ることが一番の近道です。誰しも、いつもどこでも「今ここ、当たり前の自分」を生きているはずなのですが、そのことに気づかなければそれは現れてこないし、そのことを実証しなければ自分のものにならないのです。

 「もし人、一時なりといふとも……」に続く文言はやや難しいですが、簡単にいえば他でもなくこの私一人が、今という一時だけでも足を組んで手を組んで、「仏になろう」という思いすら手放して黙って坐っていれば、全宇宙が悟りに包まれる、と。今ここ、この私の坐禅があってこそ、はるかの昔に成仏した阿弥陀仏や釈迦仏の菩提が生かされ、彼らの悟りも初めてピカっと光るということではないでしょうか。阿弥陀といえ釈迦といえ、彼らの物語は所詮は物語でしかなく、肝心な主人公は誰かといえばその物語から自由になるべき自分自身でした。道元の言葉からは、そういう響きがしませんか?

 

 道元の思想の特徴の一つは、悟りに至る実践(修)とその果てに到達されるべき悟りの境地(証)を分けていないところにあると言われています。専門用語で言えば、「修証一等」です。この考え方は、『弁道話』の次の文言で明確に表現されています。

 

 「仏法には修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指(じきし)の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。」(『弁道話』)

 

 簡単に意訳すると、こういうことではないでしょうか。

 仏(覚者)の視点から見れば、仏になるための実践(修)とその目的である悟り(証)は一つで等しい。(仏になるために修行をするのではなく)そもそも仏だから修行をせざるを得ないので、最初の踏み出した修行の第一歩の中には悟りの全体が現れているのだ。修行のイロハを教える際に「修行の結果として悟ろうと思うなよ」と言うのはそのためだ。「悟ろうと思うなよ」という言語活動自体が悟りの直接的な表現なのだ。このように表現される悟りには限界がないし、その悟りの実践は今ここ、すでに始まっているのだ!

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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