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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

人類の歴史はたった一人のためにあった

 

念仏をとなえたからと言って、往生できるかどうか?

 往生のために、、、念仏するのが浄土宗や浄土真宗、成仏のために、、、坐禅をするのが禅宗……これが一般的なイメージではないでしょうか。しかしこの考え方はまさにゲーム感覚です。鎌倉仏教以前の日本仏教もそうだったかもしれません。しかし、鎌倉時代に浄土真宗と曹洞宗を日本で開いた親鸞聖人と道元禅師はまさにこのような考え方に批判的であったため、日本仏教のゲームチェンジャーとも言えます。まずは親鸞聖人からごく簡単に見ておきたいと思います。

 著名な『歎異抄』によれば、その著者である唯円坊は親鸞聖人にこう聞いたことがあったそうです。

 「いくらお念仏をとなえても、特に救われた気がしない。そもそも早く極楽往生したいという気持ちもない……どうしたことでしょうか?」(「念仏申し候(そうら)えども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)の心おろそかに候(そうろう)こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候(そうら)わぬは、いかにと候(そうろう)べきことにて候(そうろう)やらん」)

 念仏者にとって、大問題です。極楽往生するためにこそ念仏しているはずなのですから。ところが、親鸞さんはなんとこう答えています。

 「お前もそうだったのか! 実は、私も全く同じだ。よく考えてみれば、天地が踊るほど喜ぶべきことを喜ばないでいるからこそ、確実に救われるのでは?」(「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり」)

 また別のとき、親鸞聖人はこう言っています。

 「私は法然上人のところで他力本願の教えを聞かされ、念仏だけを教わった。しかし、念仏をすれば地獄に落ちるという人もいる。あるいは私も、法然に騙されて念仏のせいで地獄に落ちるかもしれない。私はそれでも構わないのだ。なぜなら、自力で成仏できそうにないこの私は、地獄の他には行き場がないのだから」(「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰(おお)せを被(かぶ)りて信ずるほかに、別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候(そうろう)。そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を申して地獄にも堕ちて候(そうら)わばこそ、すかされたてまつりてという後悔も候(そうら)わめ」)

 親鸞さんは「ダメもとで念仏をとなえよう」と言っているのだろうか?

 

親鸞の信念とパスカルの賭け

 一見すると、親鸞聖人がここで使っている理屈は、どこかで有名なフランスの哲学者ブレイズ・パスカルの「賭け」に似ていると思います。

 簡単に要約すると、数学者でもあったパスカルはある思考実験によって、神の存在を信仰することが確率論的に考えた場合、「有利」であると結論した。なぜかといえば、神が本当に存在しているかどうかは分からないとしても、存在した場合にはその神を信仰したものだけが救われ、信仰しなかった者は地獄に落ちる(とキリスト教が教えている)のだから、信じないより信じた方が有利に決まっている。では、神が存在しなかった場合はどうか? その場合は天国も地獄も存在しない(そして、輪廻転生のような死後世界もおそらくない、とパスカルは考えていたのだろう)から、信じていようがいまいが「プラマイゼロ」です。結論は、神を信じることで損する(地獄に落ちる)ことはあり得ず、得する(天国に昇る)ことはあり得る。神を信じなかった場合は逆で、損することあっても得することはあり得ない。

 もちろん、パスカルの理屈には突っ込みたくなる点はありすぎるほどあります。まずは、神が存在した場合、どうしてそれがキリスト教が想定している「信じるものを救い、信じない者を地獄に落とす」ような神でなければならないのか? その逆であってもいいじゃないか? あるいはこういう神もいるだろう。

 「お前が神を信じているのは認めるが、お前の信じている神の名は私の名ではないぞ!」

 同じ一神教でも、キリスト教の神とイスラム教の神が果たして同じ神で、同じ基準で人間たちを裁くかどうか、わからないのではないか? ましてや、ヒンドゥー教のように多数の神の存在を認めれば、どの神を信じたかによっても死後の運命は変わりそうだ。

 私なんかが神の役を演じることが許されたのならば、パスカルのような打算で「あなたのことを、もちろん信じ(ていることにし)ました!」というような連中を真っ先に地獄に落とし、正直に「申し訳ないけど、あなたなんか信じることはどうしてもできませんでした」と告白するような人こそ自分のそばにおきたいと思います(退屈な天国では、そういう人こそ話し相手になれそうなので)。

 

 そういった数々の穴に目を瞑れば、パスカルの言っていることは次の通りです。

 「信じれば、(神は存在しないという)最悪の場合は『無』。最善の場合は『天国』。信じなければ、(神は存在するという)最悪の場合は『地獄』。最善の場合は『無』。 どう転んでも、信じることで負けクジを引くことはあり得ない」

 この理屈は(上記のツッコミどころを無視すれば)ゲーム理論的には全くその通りです。

 

非行・非善の念仏

 親鸞聖人の思考実験の前提は、少し違う。一神教の神と違い、阿弥陀如来はたくさんいる如来たちの一人にすぎない。また、自らの修行によって成仏できる道も、親鸞聖人は決して否定しない。しかし、自分だけはいくら修行しても成仏できないだろうという覚悟から、こう結論しています。

 「念仏すれば、(他力本願が嘘だったという)最悪の場合は『地獄』。最善の場合は『極楽』。念仏しなければ、自分はどっちみち『地獄』。だから、自分には念仏しかない」

 この理屈もゲーム理論としては間違いないと思います。念仏することによって、得することはあっても、損することは絶対にあり得ない。ただ、パスカルの理論が普遍的であるのに対して、親鸞聖人が自分だけの話をしていることは注意すべきです。法華経の教えを忠実に実践することによって救われる人もいるかもしれない。坐禅によって成仏できる人もいるかもしれない。しかし、自分だけには、それができない。できないからこそ、全てを念仏というカードに賭ける。

 そういう意味において、親鸞聖人にとって「煩悩具足の凡夫」としての自覚が不可欠です。この自覚があって、初めて無条件の念仏ができるからです。そうして「悪人正機」つまり「自力で救われない自覚のある人ほど確実に救われる」という説が成り立つと思います。

 

 しかし、親鸞聖人は果たしてパスカルの賭けのように、念仏を自分にとって「有利」だと思っていたのでしょうか? おそらくそうではないと、私は思います。彼は口で「下手をすれば地獄に落ちるかもしれないが、ダメもとでも念仏をとなえていよう」と言っていますが、その態度は自信に満ちています。親鸞聖人は地獄に落ちるどころか、現に救いを得ていることを、疑う余地なく信じていたのではないでしょうか。

 

 同じ『歎異抄』で親鸞聖人はこういうことも言っています。

 「念仏を、この私がとなえているわけではないし、私のためでもない。何々のための、、、念仏ではないから、それを『非行』と言い、それによって何か『いいこと』をしようとしないから『非善』と言う」(「念仏は行者のために非行・非善なり。わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なり」)

 親鸞聖人は、自分がとなえている念仏の功徳の力によって、必ず救われると固く信じていたのではありません。そうではなく、自分ほど信仰のない者の口から念仏の声が聞こえていることに驚いていたのです。

 「現にこの口から念仏の声が聞こえているそのことこそ、まさに極楽往生の証拠なのでは?」

 私にはそういうふうに聞こえますが、親鸞聖人はどこまでも「必ず救われ(てい)る」とは言ってくれません。なぜだ!?

 

得は迷い、損は悟り?

 禅僧の私が読むと、親鸞聖人がここで言語化しようとしていることがそのまま坐禅にも当てはまります。坐禅を私がするのではない。坐禅が(私において)坐禅をするから、坐禅は非行であり、無為の行である。また、澤木興道老師が繰り返し言う「坐禅しても何にもならん」という言葉も、『歎異抄』の中で伝わっている親鸞聖人の言葉の数々を背景に頷けます。何にもならない坐禅だからこそ「非善」であり、善悪や損得というポイント稼ぎゲームの外側にあります。

 

 澤木興道老師の次の言葉も有名です。

 「得は迷い、損は悟り」

 老師がここで言いたいことは、おそらく同じです。「何にもならない坐禅って、時間の損でしかない。そんなことをする暇があるのなら、少しでもためになる、、、、、仕事や快適な娯楽に時間を費やした方が得」という常識を真っ向から否定し、損得のゲームを離れることが悟りだということではないでしょうか? しかし、そこに反論する人がいるかもしれません。

 「損得のゲームを離れるのであれば、あえて『得は迷い、損は悟り』と言う必要はないだろう。『損することは美徳』みたいに、結局は従来の価値観をひっくり返しているだけなのでは? それよりむしろ『損得は迷い、損得を超えた生き方が悟り』と言うべきじゃないか?」

 ごもっともな反論です。得が迷いなら、損も同じように迷いです。得に拘らないのが悟りなら、損にも拘る必要もない。しかし、それは「損までして悟りたくない」という言い訳に聞こえなくもありません。この間の坐禅会の後も、こう質問する人がいました。

 「坐禅はゲームを降りることだと聞いてから、日常生活の中でもあまり勝ち負けに拘らないようにしているつもりです。以前は人に負けないで頑張っていけたのに、最近は負けることが多くなってしまった気がします。ポイント稼ぎのゲームを降りていながら、勝ち続ける方法はないでしょうか?」

 私を含め、この質問を聞いていた周りの者が失笑してしまいましたが、本人は真面目な顔で訊いているのです。言うまでもなく、「ゲームを降りた状態で勝ちたい」というその思いこそ、ゲームを降りていない証拠ですし、「損しないで悟りたい」というのはまさに迷いそのものです。

 

悪人正機説はルサンチマン?

 似たような反論は、親鸞聖人の「悪人正機説」に対してもできます。

 「悪人こそ確実に救われるって、単なる善人に対するルサンチマンじゃないか。何も『悪人正機』と言わなくても、阿弥陀如来は悪人も善人も平等に救っていると言ってもいいのでは? 善人より悪人が優先される理由は何か?」

 その答えは、悪人の自覚でしょう。「修行ゲーム」や「功徳を積むゲーム」、あるいは「お念仏ゲーム」ですら……いくら頑張っても、仏の目には敵わないというのが悪人です。そういう悪人こそ、ゲームを降りる準備ができているのです。

 善人は、ゲームがうまくいっている人のことです。善人は、ゲームの中で稼いだ「功徳ポイント」を決して手放したくありません。

 しかし、この悪人正機説はいまやあまりにも有名になりすぎてしまったかもしれません。世間でも、勝者より敗北者であることが有利とされている場面が多いでしょう。そういう時には、あえて悪人ぶったり無理して負け組の仲間入りをしたりすることもあるでしょう。実際に、浄土真宗の歴史の中では古くから「本願ボコリ」として知られているようです。つまり、いつの間にか損が得(得が損)、負けが勝ち(勝ちが負け)、悪が善(善が悪)というふうに価値がガラッと変わってしまいました。

 しかし、ポイントの加算の仕方が変わったからといって、それはしょせん同じポイント稼ぎゲームの逆バージョンに変わりはないでしょう。それならば、ルサンチマンと言われても仕方がありません。しかし「損は悟り(悪人正機)」という言葉の本来の意味は、「悟りゲーム」や「救いゲーム」のルールの変更ではなく、そのゲームを降りる方向を示すことにあったことを忘れてはいけないでしょう。

 だからこそ、親鸞聖人は「念仏すれば救われる確率が上がる」とも「念仏していることが、極楽往生がすでに確定している証拠だ」とも言わず、「あるいは地獄に落ちるかもしれない」とだけ言っていたのではないでしょうか。つまり、念仏さえしていれば、極楽往生なんてどうでもよくなるはずです。坐禅さえしていれば、悟らなくたっていいと同じように。もっと言えば、坐禅すら「する」必要なんてありません。坐禅すらしないのが、本当の坐禅なのだから。

 

誰が、誰のために、念仏をするのか?

 第9回「父を殺し、母を殺す仏教」の最後では、私は釈尊の発言とされている「天上天下、唯我独尊」に言及し、それについて「禅ではこの摩訶不思議な話を実践者本人に引き戻し、自分自身のありようを自覚させようとしています」と書きました。そしてその回の最後には「この世界のどこにも類を知らない、唯一無二の存在とは何か?」という問いを投げかけました。その答えを臨済禅師なら「喝!」や拳骨の一発で与えるのでしょう(森岡正博先生が『まんが 哲学入門――生きるって何だろう?』で提唱している167頁の二人称的確定指示「プギャー!」はまさにこれに当たると思います)。

 その臨済禅師も、体育会系の修行指導ばかりをしたわけではないようです。こういうやや哲学的な話もあります。臨済禅師はある時、弟子たちに呼びかけました。

 

 「あなた方の体のどこかに、名前も性別も国籍もない本来の自己がある。そいつは常に目から世界を見、耳から音を聞いている。さて、まだそいつの正体を知らなければ、気づけ、気づけ」(「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位の真人有り。常に汝等(なんじら)諸人の面門(めんもん)より出入(しゅつにゅう)す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」)

 

 この「無位の真人」すなわち名前すら持たない自己に気づくためにこそ、臨済禅師は「仏に会えば仏を殺し、父母に会えば父母を殺せ」と言っていたのではないでしょうか。横並びが許されない、唯一無二の存在(天上天下、唯我独尊)に気づけということでしょう。

 

 さて、親鸞聖人はさすがに「仏に会えば仏を殺せ、父母に会えば父母を殺せ」とまでは言っていませんが、『歎異抄』の中でこのように言ったとされています。「父母のために一度も念仏をとなえたことがない」(「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候(そうら)はず」)。

 亡くなったご先祖様のためにこそ「お経さん」をあげ、お念仏を唱えるのだと頑なに信じている日本の仏教徒も少なくはないと思いますが、どうやらそうではないらしいのです。では、いったい誰が誰のために念仏をするのか? その答えはおそらく、「誰が誰のために坐禅をするか」という問いと同じ答えになるのでしょう。

 親鸞聖人にも「唯我独尊」の匂いがする言葉があります。

 

 「阿弥陀さんがその永年の昔から修行に励み、誓願を建てたのは、他でもなくこの私一人のためであった」(「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり」)

 

 阿弥陀さんがその昔、親鸞さんだけのことを心にかけて、法蔵菩薩として誓願を起こしたと言うわけです。それ以外の生きとし生けるものたちは、眼中にもなかった、と。いや、それはどう考えても無理な話ではないか!? 

 いくら日本の浄土真宗の開祖が偉いからと言って、時空を超えた存在である阿弥陀如来が親鸞聖人お一人のためにわざわざ法蔵菩薩として受肉し、誓願を立てて、長い長い修行を経てやがて成仏し、極楽浄土を用意するわけがないでしょう。極楽浄土の門は決して「親鸞聖人お一人様」ではなく、やはり生きとし生けるものの中でも特に自力で救われない者全てのために開かれているのでは?

 浄土真宗の門徒さんであればこそ、そう疑問視するはずです。なぜ親鸞聖人は「阿弥陀さんは皆のために誓願を立てた」と言わなかったのか? だって、親鸞さんが往生したとして、私はどうなるのか?

 

往生とは何か?

 私たちは生まれてこのかた、今ここを離れたことは一度もありません。しかし、そのことが「生きることが苦しい」と言える理由でもあるでしょう。なぜなら、「ここ」より「どこか」が魅力に見え、「今」よりは「いつか」(もしくは「あの時」)に希望や憧れを持ってしまうのが人間の性だからです。しかし、どこまで行っても、行ったそのところが「ここ」になってしまい、タイムトラベルして遠い昔や未来まで行っても、そこが「今」になってしまいます。到達したその「今ここ」で、「あっちへ行きたい、あの時はよかった」という気分が待っているだけです。

 極楽往生を遠い未来の、あの世のできごとのように考えている人も少なくないでしょう。しかし、往生したその極楽浄土にさらなる不満を覚えない保証はどこにあるのでしょうか?

 そもそも往生とは何か? 禅の世界ではこの言葉はあまり使われないと思いますが、あえて禅的な言い方をするなら、答えは「行き着くところに落ち着くこと」です。植村恒一郎先生の言い方を使うなら、「大地のどこまで行っても、いつも天球の一番高いところの真下にいる」という自覚です。親鸞聖人の「ひとえに親鸞一人の為なりけり」というお言葉も、そういう自覚を表しているのではないでしょうか。法蔵菩薩の発願からはるかに時代を隔っている親鸞聖人はそれでも阿弥陀さんの真下に置かれているというわけです。

 どこまで行っても、「あそこ」が「ここ」になってしまう。この真実を「どこまで行っても、生死流転から離れられない」と受け止めれば苦しいですが、それを逆手にとって「どっちへどう転んでも、阿弥陀さんの膝下から落ちることはできない」という安心材料にもできるのです。その時々に行き着いた場所で落ち着くか、落ち着かないかが流転と往生の分かれ道でしょう。

 

 私が「脚下の大地を足で動かしても、「ここ」(天球の一番高いところの真下)を動かすことができない」と、つい先日Twitterで呟いていたら、天山行信先生という浄土真宗の僧侶から指摘をいただきました。

 「これを間違えると全部自分の足元 なんだっていう話になるんですよね。 でも そうじゃない 自分の足元じゃない 天球上があると認識できる所が大事なんだと思います」

 まさにそこがキモです。親鸞聖人だけが天球上の真下(阿弥陀さんの膝下、行き着いた「今ここ」)にいるわけがない。他でもなく私自身も、あなた自身も、そこにいるのです。この自覚があって、初めて「ひとえに私一人が為なりけり」というバトン・タッチができるのです。

 

 親鸞聖人が「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言ったとき、それはひとえに、この無方一人のためだった!

 

 「ビッグバンからこの21世紀までの歴史は全て、今日という一日のためにあり、私という一人のためにあるのだ」と言えば、無理な話だ、と同じような反論が起こるでしょう。

 「そんなわけないだろ! あなたの現在の生活がどれほど多くの人々の犠牲の上で成り立っているのかわかっているのか?

 これまでこの惑星に生きていた人々の数は、なんと1000億人を超えるらしい。あなはその1000億分の1に過ぎないのだよ。ホモ・サピエンスの歴史も30万年とされている。日数で言えば、約1億日だ。私たちが今生きている今日という1日は、つまりその1億分の1に過ぎないのだ。

 この自覚があるなら、少しくらいはあなたの周りにいる人々のことを考え、またこれから生まれてくるであろう未来の人たちのことも心配してくれ」

 

 これは最低限の常識と責任感のある大人の言い分です。お坊さんだって、亡くなった祖先に手を合わせて感謝をし、これから生きようとする子孫を思いやることを教えているではありませんか。ましてや、大乗仏教の理念は菩薩という生き方です。禅僧の一日は「衆生無辺誓願度」という一句から始まっています。自分一人の悟りではなく、生きとし生けるものの済度が目的であったはずです。しかし、「衆生済度」が自分の人生の目的になってしますと、第8回「語り得ないことを語ろうとする人たち」で問題視したように、新たな「人助けゲーム」が始まってしまうのです。

 そもそも世の中で叫ばれている「大人の自覚」こそ命の忘却と言えはしませんか? 「世のため、人のため」と言いながら、今ここを犠牲にしていませんか? 「私たちの子供たちの未来」なんて言うと、いつものパターンで自分を「人類」という壮大なゲーム・ボードの上のちっぽけな1コマとして位置付けてしまいます。そんなことをして、また子供や孫たちにまでそんなことをさせては、なんの生き甲斐もなくなるでしょう。人類に救いがあるのだとすれば、その救いは未来に訪れるわけでも、過去を取り戻すことで得られるわけでもないはずです。救いはいつも天球の真下、今ここになければなりません。と同時に、「自分の足元じゃない 天球の真下がある」というパラドクシカルな認識でかろうじて、「今ここ」における救いが伝達可能になります。

 今これを書いているこの私が「ひとえに私一人が為なり」という思いが胸になければ、どうして過去に恩返しができるのでしょうか? どうして読者のあなたにバトンを渡せるのか? 菩薩も休み休み言え! 「ひとえに私一人がためなり」というこの自覚があってこそ、「今ここ」に生きれるのです。プギャー!

 

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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