二人称の永井哲学の可能性について――「あなた一人だけが特別!」
前回「ここからは禅修行の実践の話に移りたいと思います」と書いたのですが、永井哲学でまだ言いたいことがありましたので、今回はそれについて書いて、実践の話は次回とします。
第11回「人類の歴史はたった一人のためにあった」の中で、私は「この世界のどこにも類を知らない、唯一無二の存在とは何か?」という問いの答えを、臨済禅師が「喝!」や拳骨の一発で与えるだろうと書きました。森岡正博先生は、『まんが 哲学入門――生きるって何だろう?』(講談社現代新書、2013年)の中で同じことを二人称的確定指示「プギャー!」でしようとしているのではないでしょうか。ところが、どこまでも一人称の〈私〉に拘っている永井哲学はそういった「伝道」に消極的というか、否定的にすら見えています。
その永井哲学とある意味では対極をなすのが、マルティン・ブーバーの『我と汝・対話』 (植田重雄訳、岩波文庫、青 655-1、1979年)です。永井哲学の中心にあるのは唯一無二の〈私〉なのに対して、ブーバーは〈われ〉は〈なんじ〉があってはじめて〈われ〉となる、と繰り返して強調しています。たとえば次のような箇所です。
「わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう」(15頁)
「わたしは向かい合う〈なんじ〉の閃きの中に輝く形態を、経験的世界のすべての明るさよりもはるかにはっきりと認めることができる」(17頁)
「〈われ〉は〈なんじ〉と関係にはいることによって〈われ〉となる。〈われ〉となることによってわたしは、〈なんじ〉と語りかけるようになる。すべて真の生は出会いである」(19頁)
「たとえば、結婚の場合、二人の男女が相互に〈なんじ〉を示すことによって、真のそれが成り立つのであって、それ以外には結婚の意味に新しい生命を与えることはできない。双方いずれの〈われ〉でもない〈なんじ〉が結婚をつくり出すのである」(58頁)
ブーバーの哲学の出発点は〈なんじ〉との出会いですが、永井哲学にはいわば三人称的な《私》があっても、〈私〉の二人称は見当たりません。「あたかも自分が(自分ひとりが!)これを思っているかのように、読んでもらわねばならない」という愛の表現がギリギリ許されても、そこで話し手と聞き手のそれぞれの〈私〉(ましてやそれぞれの〈あなた〉!)が出会うことはあり得ないのです。
唯一無二の〈私〉はこのこいつしかなく、その他大勢の人は百歩譲って《私》(二重山括弧付きの私)、つまり誰にでもある一般化かつ複数化された〈私〉でしかありません。しかし、その《私》というのは他者とのコミュニケーションを取るために必要不可欠な概念であって、その内容はむしろブーバーの「それ」に近く、幽霊の如く虚しくはないでしょうか? つまり、永井哲学は孤独の極まりと言っても過言ではないでしょう。すくなくとも永井先生ご自身は、「そうだよ」と答えそうです。
絶対に満たされることのない承認欲
2019年9月14日には、永井先生はTwitterでこう呟いています。
朝日カルチャーセンターの連続講座が終わった後の不完全燃焼感も手伝って、このつぶやきに触発された私は先生に長たらしいメールを送りつけてしまいました。
「寿命が尽きるまでの食料品は宇宙船に乗せて、私はたった一人で宇宙に向かって旅立っている。四六時中、地球と交信ができてあらゆる情報は入手できる。ところが、ある日に気づくことがある。地球からの受信がちゃんと届いているのに、こちらからの送信はどういうわけか、地球には届いていないらしい。地球側から私の存在がまったく承認されていないのだ。当然、そのうちは地球の役所では勝手に「死亡届」が出されてしまうのだろう。そう気づいたときに、私が普通に、あるいは楽しく生きることはできるのだろうか? 私(=ネルケ)の考えでは、このたとえはある意味では私たち人間の普通の状態を表わしているのではないかと思います。何せよ、「承認欲」というときに、「私の価値」ではなく、「私の存在」を承認してほしいという場合、ネルケ無方という個人の特徴などを承認してほしいというわけではもちろんなく、そいつの存在を承認してほしいわけでもない。個人としての私はどうでもよく、先生の表現を使えば、比類のない〈私〉を承認してほしいのだ! しかし、それは無謀なご注文であるのは承知の上で、だれでもいわば「送信のできない(届かない)宇宙飛行士」です。
先日、私が新宿で使っていた、シモーヌ・ヴェイユの「愛するとは、他者の存在を信じることだ」という言葉は、言い換えれば「愛とは他者の存在の承認」とも言えるでしょう。この場合も、「承認する(=信じる)」とはもちろん、その人の個性を認めるとか、価値を認めるとか、つまりその人の比類のある存在(一切分の一の自分)を認める(信じる)ことではなく、認めようのないその人の比類のない存在(一切分の一の自己、〈私〉)を認めてしまうのではないでしょうか。
生きとし生ける者の中の一つとしての私は、「私のかけがえのない存在を認めてほしい」という無理な注文を出し続けている。ところが、永井先生が繰り返し強調されているように、神ですらネルケ無方が〈私〉であるということに気づいていない。つまり、神の存在を想定しても、ネルケ無方は承認されても、肝心な〈私〉は承認されないのだ! 神ですら承認しえないこの〈私〉を、他者に承認してほしい、これが承認欲の正体ではないでしょうか(もちろん、ほとんどの場合はそれは外見、金、ステータスなどによって、個人としての自分を承認してほしいといういわば「普通の承認欲」に隠されていると思います)。
承認されたいのは、「私」としての存在ではなく、〈私〉の存在! こんな欲深い承認欲が満たされるはずもないが、菩薩(あるいはシモーヌ・ヴェイユのような「聖人」)は逆に、自身は承認されようがされまいが、他者のそういう承認欲に答えようとしている。宇宙飛行士の例でいえば、「お前のこと、ちゃんと受信できているよ」という、届くかどうかわからないmessage in the bottleをそれでも、宇宙空間に向かって発信する。
〈私〉を承認できるのは、最終的には他者ではなく、私のみである。しかし、そのきっかけを他者が作ることはできる。「お前はかけがえのない存在を生きている」…送信されたこのメッセージがはたして受信されるかどうかは、送信した本人にはわからない。しかし、同じメッセージをかつて受信し、〈私〉に気づかされてしまった経験のあるものなら、他者にも発信せずにはいられないだろう(=したがって、菩提樹の下でこのメッセージを受信したブッダは、ただ単に「おしゃべり好きで」生きとして生けるものに向かってそのメッセージを「転送」したとは思えない。釈尊の悟りはいわば転送せずにはいられない「迷惑メール」であった!)。
このことはまさに、私が新宿で提起しようとした問題とつながっています。
親がそれぞれの子供の個性を認め、価値を認め、「己の内部」として愛したとしても、子供の承認欲はそれで満たされないでしょう。子供は親から、「みんなと同じように」愛されたいのではなく、ましてや「親の一部」として承認されたいでもなく、比類のない存在(したがって兄弟のなかの一人ではなく)として承認されたい。ところが、最愛の親もそのご注文だけには答えられない。内山老師の表現を使えば、奥さんと自分は二分の一の存在ではなく、一分の一の存在。親と子供も一分の一の存在。ところが、その一分の一の存在をこの〈私〉ととらえて、したがって生きとし生けるものを「〈私〉の内容」として受け止めてしまえば、他者の〈私〉を否定してしまい、その比類のない存在を承認できなくなるでしょう。
だから、第六図(比類のない〈私〉への気づき)からさらに出て、第一図(私秘性:だれでも「比類のない存在」である)を迂回し、他者に「お前こそ、比類のない存在」という矛盾したmessage in the bottleを送るの、菩薩だと思っています。
たとえはまずいかもしれませんが、複数の子供の耳元で、それぞれほかの子供の聞こえないように、「これは絶対に秘密にしなければならないことだが、実はお前のことだけ愛している」とささやくようなこと。そしてこのメッセージが届くころには、そうやって愛されているのは「兄弟のなかの一人」の自分ではなく、まさに比類のない存在であったという気づきを願う。子供がそう気づいてくれれば、そういうふうに愛されているのは実は自分だけではなかった(しかし、自己だけであった)と気づく」
「絶対孤独」という一種の悟り
本来なら、このようなメールは迷惑フォルダーに捨てると思いますが、これに懇切丁寧に対応してくれるのも永井先生のすごいところです。2019年9月16日には「唯一人関係ある私的メールを送ってくれた」と褒めた上で、連続ツイートでこう答えています。
そして、 私の長文のメールから「再びゲームに参加し、…新しい菩薩のルールであそぶこと」の話を引用してから、次のように結んでいます。
永井先生は「私のは宗教の基の基だけあってまだ宗教になってはいない」と言っていますが、果たしてそうでしょうか? ガチの先生の哲学書である『世界の独在的存在構造』(春秋社、2018年)にだって、先生のお言葉はそっくりそのままお返しできないでしょうか。
「自分ではない筆者がこれを書いて、自分はそれを読んでいるということを忘れて、あたかも自分が(自分ひとりが!)これを思っているかのように、読んでもらわねばならない」(294頁)
「では、それを書いているあなたはだれだ?」
私は語り得ないことを承知の上で、それでもなお語ってしまう永井先生に菩薩の姿が見えているのですが、永井先生は私の言っている大乗仏教の菩薩には否定的で、むしろ「(絶対孤独である)というその認識自体が一種の悟りであり、したがって救いにもなりうるのではないか、と考えてみたい」と言っています。
ここで水掛け論を始めるつもりは毛頭ありませんが、哲学者と自称する永井先生すら、やはり宗教の領域にしっかりと足を踏みいれているのではないでしょうか。
愛はその人そのものに向けられたもの?
「恋愛というけど、恋と愛はそこが違うんだよ。恋はその人の持っている何らかの性質に向けられるものだけど、愛はそうじゃない。愛はね、その人そのものに向けられたものなんだよ。…恋が愛に移行するためにはね……、歴史が必要なんだ」 (永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』、ちくま学芸文庫、2007年、83頁)
こちらは、恋と愛という分け方で愛が論じられています。恋とは、世界の中で大勢の人たちと横に並んで存在している他者に向けられているのに対して、愛は「その人そのものに向けられたもの」だとされています。永井哲学を読み込んだ読者ならば、当然ながら「その人そのもの」を相手の〈私〉と解釈するのではないでしょうか。しかし、永井哲学は一人称で考えない限り、意味をなさないのではないでしょうか。相手の〈私〉を愛することなんて、幻想以外にあり得るのでしょうか? だって、互いの存在を承認し合えないことが「人間の普通の状態」ならば、どうして人そのものを愛することが可能でしょうか? その愛こそ宗教、悪く言えばアヘンではないのか?
いや、アヘンと分かっても、インサイトの言説に同意したい自分がいるのも否めません。相手の〈私〉こそを愛さない限り、いわば世界の中で存在しているその人のいわば外側に恋しているに過ぎないでしょう。私だって愛する妻や子供の「その人の持っている何らかの性質」ではなく、まさに「その人そのもの」を愛していると思いたいです。ですが、ブーバーが強調するような真の生としての出会いは、永井哲学において絶対にあり得ないのではなかったでしょうか。なぜなら、相手の〈私〉と私の〈私〉の違いを永遠に知り得ないからです。しかし、頭ではそう分かっていても、やはり相手の性質ではなく、その人そのものを愛さねば……。
チェックメイトの覚悟――「では、そう言うあなたは誰か?」
最近の著書の中では、永井先生は全く愛を語らなくなってしまったのですが、その姿勢をいまでも実践で示しているのではないでしょうか? 例えば、『知のスクランブル』所収「自分とは何か――存在の孤独な祝祭」では、高校生を相手に「みなさんは、この世界にたくさんいる人間たちの中から、どうやって自分を識別していますか?」と二人称複数形で呼びかけてから、次のように永井哲学のコアと言える部分をなんと二人称で表現されています。
「あなたにだけ、殴られると「実際に」痛いという途轍もないことが実現する。あなたの眼にだけ、「実際に」見えるという途方もないことが起こる。…【中略】…あなたの眼にだけ「実際に見える」という途方もないことが起こっていることをあなた以外のだれも決して認めない…【中略】…。あなた以外のすべての人が、あなたのことを、そんな特別なところなど何もない、ただの普通の人間だと言うであろう」(永井均「自分とは何か――存在の孤独な祝祭」日本大学文理学部編『知のスクランブル』、ちくま新書、2017年、19、31頁)
永井哲学という言語ゲームでは、ここで「では、そう言うあなたは誰か?」と言った者勝ちです。永井先生は内心で、聞いている高校生一人一人に、そうしてチェックメイトされることを望んでいるのではないでしょうか? 「あなたにだけ途方もないことが起こり……あなた以外のすべての人がそれを認めない……」、永井先生の口から出るこの矛盾した言説は、観音さんの説法に聞こえるのです。