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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

如来は我なり、されど我は如来にあらず

 

出家していない僧侶たち

 日本の僧侶に「あなたはなぜお坊さんになったの?」と聞くと、「だって、お寺の長男として生まれたんだもの」というような珍答が返ってきたりします。今に始まったことではありませんが、多くの僧侶は自ら仏門に入ったのではなく、気がついたらお寺という舞台に乗せられ小僧の役を演じさせられています。檀家さんが見守る中で仏教系大学に送り出され、本山で修行生活を送り、お寺に戻ったらしばらくは副住職としてのんびりと過ごしています。師匠に当たる父親が倒れたら、いよいよ自分の番です。代々の住職たちが守ってきたお寺を自分の息子が継ぐまで、今度は自分が守らなければならない……私のように趣味半分で禅の道に入った者として、本当に頭の下がる思いがいたします。

 いや、これは決して冗談で言っているつもりはありませんよ。彼ら日本の僧侶のほとんどには、子供のときには別の夢があったはずです。ましてや思春期の頃には、「親父のようなクソ坊主だけには、絶対になりたくない!」と思っていたはずです。その思いを手放し、自分の夢を捨てて、場合によっては好きな彼女と別れてまで師匠と檀家の手によって敷かれたレールに乗るわけです。「僧侶」という役を演じ切るまで、どれだけの苦労があったことか……私など、想像することすらできません。彼らの受動的な態度こそ、第8回目「語り得ないことを語ろうとする人たち」に取り上げた「主体性のない釈迦」にどこか似てはいないでしょうか? ひょっとして、日本の寺院の後継息子たちこそ、禅の理想とされている「無我の境地」や「思いの手放し」を身をもって示しているのかもしれません。

 若きブッダの道と、日本のいわば「普通の僧侶」の道はまるで正反対です。一方は「天上天下、唯我独尊」と宣言し、一方は自分を無にしている。一方は親の期待に反して宮殿を飛び出して出家し、一方はお寺という「我が家」に留まり、大人しく世襲している。仏教はゲームを降りることからスタートしているはずなのに、なぜか日本の多くの僧侶は一度もそのゲームを降りていませんし、そもそもゲームを降りることを許されていません。なぜなら、「僧侶ゲーム」に参加する(させられる)ことを仏教だと思っているからです。今はおそらくどの宗派でも現状は同じだと思います。出家するという経験のない彼らを果たして僧侶と言えるかどうか……。

 

生まれの宗教と選択する宗教

 さて、日本には75000ほどの仏教寺院があるそうです。コンビニの数よりも多いですが、残念ながらコンビニと比べればほとんどその存在感が発揮されていないように見えるのは、私だけでしょうか。日本仏教で一番割合が多いのは浄土真宗と曹洞宗です。4割ほどのお寺はそのどちらかの宗派に属しているようです。

 浄土真宗は他力本願を説き、信者たちは阿弥陀如来の助けを願っている。一方、曹洞宗の宗旨は只管打坐(ひたすらに坐禅すること)と即心是仏(そのままで自分が仏であったことに気づくこと)です。浄土真宗では極楽往生のために念仏を行い、曹洞宗を含む禅宗では仏になるために自力で修行をするというのが一般的なイメージではないでしょうか。自力か他力かということも自分の問題として考えたことのある人は少ないでしょうから、自分の宗旨の選択で迷う日本人は皆無でしょう。代々お世話になった菩提寺のお墓には、ゆくゆく自分も入るのでしょうから。つまり、日本人は個人として宗教を選択していないのです。たまたま生まれた家の仏壇を守ることを「仏教徒である」と考えているようです。

 

 キリスト教の場合、教会は世襲制ではないので、牧師の長男が仕方なく牧師となった父親の後を継ぐということはまずあり得ません。日本の小学校の校長先生が、息子を次期の校長先生にできないように、牧師にもそんな権限などありません。本当にその道を目指したものでなければ、牧師という重大な責務は任せられないのです。

 欧米のキリスト教信徒の多くは、物心がつくまえに洗礼を受けています。つまり、「気がついたら洗礼を受けていた」というクリスチャンが珍しくありません。しかし、幼い頃に洗礼を受けただけでは一人前のクリスチャンとは見なされません。14歳のときには「堅信」という儀式があります。この儀式は英語では「confirmation」といわれます。その意味は信仰の再確認です。「自分とは?」「人生とは?」といった問いに深く悩み、また異性が気になり始める人もいる頃にもう一度、自分の意思で自分の宗教を選択しなければなりません。それは「宗教か無宗教か」という二者択一だけではありません。同じキリスト教でも、カトリックかプロテスタントかという選択を迫られるのです。プロテスタントは「聖書のみ、信仰のみ、万人祭司」と言い、福音の言葉を信じることのみでどんな罪人でも救われると説いていて、とりわけ浄土系仏教によく似ていると言われています。カトリックも信仰を重要視しているものの、罪を神父に告白したり自らが善行に努めなければなりません。

 その儀式にそなえて、思春期の子供達はまず一年間教会で授業を受けます。毎週のミサに参加し、讃美歌を歌い、お祈りを暗記するだけでなく、自分が堅信しようとしている教義を学ばなければならないからです。そして14歳でめでたく堅信すると、生まれて初めて聖餐への参加が許され、他の信者と同じ杯からワインを飲めるようになります。また、親戚から多大なお祝いをもらえるので、それが理由で堅信する者もいるとか……。

 

 日本人に「あなたは日本に深く根ざしている神道を信じていますか、それとも仏教徒ですか?」と聞くと、「除夜の鐘はお寺で、初詣は神社で」と言われてびっくりする欧米人がいます。

 「では、結婚はどこでしましたか?」

 「いや、それはチャペルで」

 ……

 一方、欧米人にその人の宗教を聞くと、「何々教の何々派」というはっきりした答えが返ってくるはずです。それは、堅信しているからなのです。もちろん「私はもちろん、無宗教だ!」と言う欧米人もいます。そういう人は最初から堅信していないか、あるいは大人になってから教会を脱会しているかです。彼らの多くは無宗教と自認する日本人の大らかさとは対照的で、相手を説得し自らの無神論の正しさを認めさせようとしています。

 「あなたはまさか、神や仏なんて御伽話を信じたりしないだろうね?」

 

 そういう欧米人に日本仏教の話をすれば、こう議論しだすかもしれません。

 「念仏をとなえるだけで救われるなら、膨大な時間とエネルギーをかけて坐禅をするのはあまりにもコスパが悪すぎるのでは? ましてや、坐禅で悟れるかどうかという保証もない」

 「いや、その阿弥陀さんとやらが自分を本当に助けてくれるかが確実ではないから、念の為にちょこちょこ坐禅でもしておいた方が良さそうだ」

 「他力にせよ自力にせよ、宗教ってやっぱりアヘンじゃない? 孤独な人たちの不安を煽り、金儲けをしようとしているだけだよね」

 

 

自力本願と他力本願

 同じ仏教でも、禅と浄土教は対照的に見えます。

 禅はその他の宗派と違い、経典を拠り所としない。そうではなく、その経典を説いた釈尊自身の実践に倣おうとしているのが禅。釈尊の実物見本に倣う、それが出家と坐禅を中心とした修行実践の中身ですが、その意味は決して「ゆくゆく自分も仏になりたいから」ではありません。解脱したい、成仏したいという思いも手放して、ただ坐ることから禅はスタートします。実践者が自らの力で坐禅をするというより、坐禅が坐禅する働きに自分をゆだねているという意味では、禅はもはや自力ではありません。それこそ、「ゲームを降りた状態」です。禅には最初から「自力本願」なんて考えはないのです。

 

 一方の浄土教の教えは仏教の中でやはり独自な味を持っています。釈尊の教えを否定まではしませんが、それまでの仏教と全く違う物語を用意しています。それまでの仏教は「苦しみに気づき、その根源である執着を減らすべく、八正道などを実践し、涅槃を目指す」のですが、「そんなことは自分には無理だ」という自覚から浄土教がスタートします。自力がダメなら、どう救われるか? そこで浄土経典が全く別の物語を用意します。

 釈尊より遥か昔に、法蔵菩薩という真面目な青年がいて仏になろうとして修行していました。ところが、法蔵菩薩は若き釈尊と違い自分だけで涅槃を目指したのではない。自分の助けを求め、自分の名前をとなえた(つまり念仏した)者を全て救うことができなければ、自分も成仏しないというお約束(=本願)を立てた。その法蔵菩薩は修行を完成させ、阿弥陀如来として成仏したと言われているのだから、今も「南無阿弥陀仏」ととなえれば必ず救われるというのが浄土経典の物語。その遥か昔の物語がどうして伝わったか? そこが釈尊の出番です。経典によれば、釈尊は自力で修行できる人のためには八正道などを説きましたが、それができない人々には「私はあなた方を救えないが、実は遥か昔の阿弥陀如来なら……」とその本願の教えを伝えたのだそうです。つまり、浄土教にとっては釈尊は実物見本ではなく、証人として大事な役割を担っています。

 もちろん、理屈っぽい私なら、突っ込みたくなるところはたくさんあります。他力本願の拠り所となっているのが、法蔵菩薩が立てた18番目の誓願です。

 「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」

 これはつまり、心から救われたいと思って、最低でも十回お念仏をとなえた者を必ず極楽に連れてゆくというお約束ですね。それができなければ、「正覚を取らない」つまり自分も成仏しないと言うのです。しかし、まだ極楽往生していない人々がたくさんこの世の中にいるのはなぜだろうか? 彼らの中には、現に念仏をとなえている人もいるだろうに! まず彼らを往生させてからでないと、法蔵菩薩は成仏しないと言っていたのでは? 法蔵菩薩の誓願が実現してからようやく阿弥陀如来として成仏するはずなのに、一切衆生の済度が未完成のままで成仏したのはなぜか? それから、もう一つ。阿弥陀如来の名前の由来は「無量光、無量寿」だそうだ。つまり計り知れない、この宇宙を満たしている永遠の命の力のことではないだろうか。ならば、法蔵菩薩が自らの修行の力によって阿弥陀如来として成仏したという物語は支離滅裂ではありませんか? 有限の存在者である菩薩がどうして、無限の存在である如来になり得るのでしょうか?

 そうではなく、かつての昔に無限の存在である阿弥陀如来が有限の存在者である法蔵菩薩として受肉したと考えるべきではないでしょうか。数年ほど前に、友達に四谷にある「ボーズ・バー」に連れていってもらいました。浄土真宗の僧侶がバーテンダーを務める、ユニークな飲み屋です。バーの一角には仏壇があり、バーテンダーは1時間おきにお袈裟をかけてお客さんにも読経を勧めています。その時、「重誓偈(じゅうせいげ)」が日本語と英語で書かれている一枚のコピー紙を渡され、私もとなえました。

 その説明文を見てみると「はるかなる昔に仏となられた阿弥陀さまは、すべての苦悩の人びとを救うため法蔵菩薩として現れ、世を超えた四十八の願い(ご本願)をおこされました」と書いてあったのです。ところが、英語訳では主語は阿弥陀ではなく、法蔵菩薩なのです:

 “Bodhisattva Dharmakara, who became Amida Buddha in the beginningless past, appears and...”

 英語では法蔵菩薩の存在が先、阿弥陀如来としての成仏は後ですが、日本語では順番が逆ですね。永遠の昔にあられた阿弥陀如来が菩薩として現れ、誓願を立てたとなっています。

 法蔵菩薩が成仏して阿弥陀如来となったのか、それとも阿弥陀如来が降臨して法蔵菩薩に誓願をおこさせたのか? 前々から疑問に思っていたことを、その場でバーテンダーに確認しようとしましたが、酒が回っていたせいなのか「まあ、どっちでもいいじゃないの」というような返答しか得られませんでした。

 

礼拝の対象は誰か?

 同じ頃に、Twitterで次の2つのつぶやきを見かけました。

 「お勤めの時、ご本尊に向かないで、僧侶を向いて座られる方がいる。時に、三方から囲まれる。ちょっと怖い(笑)。

 「礼拝の対象はご本尊ですよ」とお伝えするも、また私に向かって手を合わせられる。先祖供養心なら位牌や過去帳に向かうと思うんだけど、何でかな。他宗派では僧侶に向いて座るのかな?」(@j_enju · Aug 22, 2020 )

 「 「愛とはお互い見つめあうことではなく、共に同じ方向を見つめることである」サン=テグジュペリ 

 「信仰とはお互い罵り合うことでなく、共に同じ方向に向かうことである」和尚&レッツゴー」(@j_enju · Aug 22, 2020 )

 以前から、浄土真宗の信仰の形がキリスト教のプロテスタントに似ていると言われています。プロテスタントが聖書の言葉を重視しているように、浄土真宗にとってもやはり経典に書かれているお約束が大事だ。プロテスタントの場合も真宗の場合も、行いよりも信仰を問題にします。そして上の2つのつぶやきで現れているのは、「万人祭司」の真宗バージョンです。僧侶が仏と衆生の仲介役ではありません。僧侶も他の門徒さんと並んで、同じ方(つまり仏)を拝むのです。門徒からすれば、僧侶は崇拝の対象ではなく、仲間の一人でなくてはなりません。しかし、門徒さんにそんなことを言えば「僧侶が仲間? おそれ多く……」と反応するでしょう。むしろ僧侶に向かって合掌した方が安心するのでしょう。ところが、私はこのつぶやきをRTしながら、こう書きました。

 「禅宗の場合、本尊に背を向けて面壁することがあります。 仏は追い求めるものではなく、常に私の背後に存在し、私の背中を押してくれている… という感覚がそこに由来しているかもしれませんね。 @j_enju さんの背後にこそ、本尊が現れているのでは? 気づいていないのは本人だけだったりして」

 つまり、サン=テグジュペリの名言のように、お坊さんと信者同士が同じ仏教徒として、同じ方向を見つめるだけでは不十分で、仏とヒトもまた同じ方向を見つめている、という自覚は大事だと私は思っています。あの重誓偈の説明文の通り、はるかなる昔に仏となられた阿弥陀如来が、すべての苦悩の人びとを救うため法蔵菩薩として現れたのであれば、さらに時代を超えてまさに今ここ、この私として現れ、念仏をさせ坐禅をさせ、あるいは法蔵菩薩と同じような誓願を共有させてくれているとはなぜ言えないのだろうか? 

 キリスト教でいえば、これは「イエスキリストを救世主として棚上げするか、イエスに倣って自分の十字架を自分で背負うか」という問題です。

 ちなみに、私のこのRTの返信は「なんまんだぶなんまんだぶ」という浄土真宗のお坊さんらしい答えが帰ってきました。僧侶と門徒が仲間でも、やはり法蔵菩薩をその仲間に入れるのはあまりにも恐れ多いことでしょうか?

 

彼は私でも、私は彼ではない!

 近代の浄土真宗の教義に大きな影響を与えた曽我量深先生の次の言葉は、私の脳裏に度々浮かんできます。

 

 「如来は我なり、されど我は如来にあらず、如来我となりて我を救いたもう」

 

 如来とは言うまでもなく、時空を超えた存在でもあり、阿弥陀さんとして親しまれている永遠の命のことです。この如来が遙かなる昔、法蔵菩薩として現れただけではなく、まさに今ここ、私としても現れています。だからと言って、人類の80億分の1に過ぎないこの私が「如来」であるはずがない。それでもなお、この私において如来が実現し、この実現に気づかない限り、どの方向を向いても礼拝すべき対象は見つからないだろう。

 

 禅には洞山良价の「過水偈」があります。長い間、本来の自分を探し求めていた禅僧は水面に写っている自分の姿を見て、ようやく自分自身に気づきます。

 

 「切(せつ)に忌(い)む他に従って求むることを 

 迢迢(ちょうちょう)として、我(われ)と疎(そ)なり 

 我、今、独り自ら往(ゆ)く 

 処々に渠(かれ)に逢うことを得たり 

 渠、今、正に是れ我れ 

 我、今、是れ渠にあらず

 応(まさ)に須く恁麼(いんも)に会すべし 

 方(まさ)に如々に契(かな)うことを得ん」

 

 意訳をすれば、次のようなことではないでしょうか。「ああ、なんと本来の自分をあっちこっちで探していた年月の長かったことか。探せば探すほど、自分を疎かにしてしまっていることに気づきもしなかった。私は今こうして、一人で旅している。あちらこちらで、あの人に出会う。「あの人」とは、まさにこの私のこと。しかし、私は彼のことではない。今こうして、彼と私は出会った。お互いに、見失わないようにしよう」

 洞山良价の「過水偈」の中の「我」は曽我量深先生の「如来」に対応し、洞山良价の「渠(かれ)」は曽我量深先生の「我」に対応しているのではないでしょうか。彼には顔があり、名前があり、性別があり、国籍がある。しかし、その彼こそ私だと気づいている私には、その気づきのまさにその時において、顔も名前も性別も国籍もない。彼は私だが、私は彼ではない(如来は我なり、されど我は如来にあらず)と言える理由はここにあります。

 

 「父母未生以前の本来の面目」という有名な公案があります。両親がまだこの世に生まれる前の、あなたの本来の姿はなんだったのか? という問いかけです。つまり、世界が二つに分かれる前の自己のことです。そんな自己なんて、どこにあるのかと言われれば、「今ここにあるよ」としか言いようがありません。しかし、その言葉が伝わるためには、聞き手はその「今ここ」を話し手から奪い返す必要があります。だからこそ、昔には弟子の顔にビンタを打つような禅僧もたくさんいました。それはパワハラでもスキンシップでもなく、むしろ老婆心の表れです。相手に「自分探しゲーム」がスタートする前の「これ」を気づかせる方便なのです。

 

 「これ」とは天上天下唯我独尊であり、如来であり、臨済禅師の「無位の真人」であり、道元禅師の「恁麼人」であり、様々な言葉で表現されてきましたが、私は最後に仏教の三身説を使い、その構造を整理してみたいと思います。

仏教の三身説はどこかキリスト教の三位一体の教えに似ています。簡単に言うと、仏教ではダルマそのものを法身、具体的な人間であった釈迦を応身といい、その他大勢の仏・菩薩としての現れ方を報身と言います。一方の三位一体は創造主である父、救世主である子イエス、そして両者をむすび、今でも時代を超えて私たちに働きかけている聖霊です。

 その法身を父と見做し、応身を子と見做し、さらに報身を摩訶不思議な菩薩の身体ではなく、今ここの働きと解釈すれば、私の中ではパズルの枠は出来上がります。

 

 法身 ⇔ 久遠仏(無量寿) ⇔ 父(ありてあるもの)

 応身 ⇔ 法蔵菩薩(歴史上の釈尊でもよい) ⇔ 子(救世主)

 報身 ⇔ 誓願の働き(「南無」という声、坐禅が坐禅する働き) ⇔ 聖霊

 

 そして、その中に私の両側面(我と渠)も最後のピースとして、ピッタリとハマるのではないでしょうか?

 

 法身 ⇔ 名前のない私(「我、今、是れ渠にあらず」、「如来は我なり」)

 応身 ⇔ 名前のある私(「渠、今、正に是れ我」、「我は如来にあらず」)

 報身 ⇔ 名前のある私に、名前のない私の存在に気づかせ、名前のない私に、名前のある私を気遣わせる今ここの働き(「応に須く恁麼に会すべし、方に如々に契うことを得ん」、「如来、我となりて我を救いたまう」)

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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