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人生というクソゲーを変えるための仏教 ネルケ無方

仏教という脱出ゲーム

  「人生というクソゲーを変えるための仏教」連載はこれで、もはや第3回目です。

 そろそろ「仏教の話かと思ったら、お前自身の話ばかりじゃないか」というお声が聞こえそうです。実は今までも、あちらこちらで講演会の際にそう言われたことがあります。正直に言って、私にはとても理解しがたいフィードバックです。「仏教の話かと思ったら、「仏の教え」の話に過ぎなかった」というご批判なら、分かります。第三者としての「仏」の教えになんか、私だってうんざりしています。仏教とは、しょせん自分自身のことです。なぜこの世に生まれたかということも分からないこの私自身がいかに生き、いかに死に臨むか……それこそ仏教のテーマであったはずです。仏教の話の主人公はお釈迦さまでも阿弥陀様でもダメです。自分でなければ、誰を主人公として仏教を語ればよいでしょうか?

 自分が主人公だからこそ、釈尊は弟子たちに「自己を拠り所とせよ」という命題を残し、この世を去ることができたのではないですか? 鎌倉時代に、道元は「仏道をならふといふは、自己をならふなり」と言い、自分のあり方を仏教のメイン・テーマと見做したし、親鸞は阿弥陀如来の他力本願を「ひとえに親鸞一人がためなりけり」、他でもなく自分一人のために立てられたものとして受け止めました。

 彼らの教えと実践とを学ぶために来日した私がどうして、今ここの自分を棚に上げて、仏教を論じることが許されようか。それでも今回は百歩譲って、いったん“ガチな”仏教の話をしたいと思います。ネルケ無方というやつの話にはまたいずれ戻ることとして……。

 

仏教の根本教理

 さて、仏教はどういう教えなのでしょうか。

 自分のことをあえて棚上げして、なるべく客観的にこの問いに答えることはかなり難しい。なぜなら、日本という狭い島国に伝わっている仏教だけをとっても、奈良時代から続いている華厳宗、法相宗と律宗、平安時代から幅を利かせている空海の真言宗と最澄の天台宗、そして鎌倉時代から庶民の間にも広まった浄土教(浄土宗・浄土真宗・時宗など)、禅宗(曹洞宗・臨済宗・黄檗宗)や法華信仰を拠り所としている日蓮宗とその諸派の教え……と実践は多岐に渡り、相反する側面も少なくないからです。ましてや釈尊が実際に説いた教えを一番忠実に守ってきたといわれている南アジアのテーラワーダ仏教や、今欧米で最もポピュラーになりつつあるチベット仏教まで視野に入れると、「これが仏教だ!」という一つの答えが出る気配は全くしません。

 それでもほとんどの仏教徒が認める教えとして

 一切皆苦(いっさいかいく)

 諸行無常(しょぎょうむじょう)

 諸法無我(しょほうむが)

 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)

 という四法印が挙げられます。ゲームという比喩を使って、四法印の内容についてじっくり考えたいと思います。

 

「四苦八苦」とは

 まずは「一切皆苦」からご説明します。

 釈尊は2500年前に王子として生まれ、そのまま行けば国王になり得たはずなのに……親の期待に反して王位を捨て出家の道を選んだ。なぜか? 何の不自由もない生活を送っていた釈尊はなんと「生きることは苦」だと言い出したのだそうです。この世に生まれたのも、年を取るのも、やがて病気をして死ぬのも……一切合財が苦。しかし、現代人の私たちからすればその釈尊の物言いはあまりにも大げさに聞こえるかもしれません。たしかに、「人生は色々」。うれしいこともあれば、辛いこともある。どうして一切がすべて苦だと言えるのだろうか。

 「苦」の原語はドゥッカ。諸説はあるようですが、軸の壊れた車輪のごとく、思うように前へ進まないことから来ているという説を読んだことがあります。つまり、人生においては、何一つ思うようにいかないこと、すべてが物足りないこと、それが「一切皆苦」の意味ではないでしょうか。ゲームの比喩を使えば、まさに「人生というクソゲー」を喝破しているのが仏教です。人生をクソゲーたらしめているものとして、知名度が高いのは「四苦八苦」というゲームの八つの物足りない側面です。

 その中でも一番具体性の高い五番目と六番目からご説明いたします。愛する者たちがいずれ別れなければならないのが「愛別離苦(あいべつりく)」、いやな奴と一緒に生活しなければいけないのが「怨憎会苦(おんぞうえく)」。どんなに好きだったおばあちゃんでも、いつかはあの世に旅立つ時が来る。親だって、私の母のように人生半ばで帰らぬ人となることだってある。一番悲しいのは、親より先に子が逝ってしまうことです。一方、幼稚園になじめず、学校ではいじめられ、会社でも毎日いやな上司にしごかれる……家を一歩出ると、食うか食われるかの世知辛い世間が待っています。愛別離苦と怨憎会苦の中に人生のほとんどが要約されているようにも思えますが、それはこの苦の表面でしかありません。

 人生ゲームの中で何が一番大事なのか? お金というポイントなのか? 出世というボード上のポジションなのか? スペックの高い戦友たちとのつながりなのか? 健康というキャラクターの「命」なのか? それらのすべてはゲームにおいては大事に決まっていますが、その根源に働いているのは「愛されたい」という欲望ではないでしょうか。愛したり、愛されたりすることによってゲームプレイは左右されます。

 しかし、「愛している(愛したい)」と「愛されている(愛されたい)」というのは非対称的です。愛されたいということは、その人に認めてもらいたいということではないでしょうか。相手が自分のありのままを受け止めてくれていると実感した時、本当に愛された気持ちになる。親が「生まれてきてくれてありがとう」と言って子を承認し、子が親に「私を生んでくれてありがとう」と感謝する……そういう時、親も子も自分のスコアとは関係なく「ああ、今までこのゲームに参加してよかった!」と思える。美しいお話ではありませんか。

 

「愛」という名の支配欲

 愛する人がいれば、愛される人がいる。しかし、その「愛」がうまく伝わらない場合もあるでしょう。あるいは、うまく伝わらないというのが愛の常かもしれません。「自分のありのままを受け入れてもらっている」――そう感じたとき、人は愛された気持ちになるのではないでしょうか。しかし、「私はあなたを愛している」と言った時には、相手のありのままを本当に受け入れているのでしょうか。そうではなく、自分の都合で作り上げた相手のイメージを「愛している」と言っているにすぎない場合がほとんどではないでしょうか。つまり「あなたを愛している」と言うことは、「あなたを私の思うとおりにしたい」という思いの裏返しに過ぎないのです。

 子というコマが親のゲームの中で思うように進まなければ、「生まれてきてくれてありがとう」がいつの間にか「そんな子を生んだ覚えはない!」に変わり、そう言われた子もまた「こっちだって、生んでくれと頼んだ覚えはないさ」と開き直る。

 

「自分たちの劣化した遺伝子を残すために、俺を生んでおいて……どうしてくれるつもりだ!」

 

 「愛している」とは多くの場合、支配欲の表れでしかありません。そろそろ自分のゲームがしたい子が親のゲームの支配から自由になりたいというのが反抗期です。しかし、誰かに惚れ始めたころ、同じことを繰り返します。

 親すらなかなかありのままに認めてくれなかった自分を「好きでいてくれている」相手がそこにいる! 「好きだ」と言われると、誰だって嬉しい。しかしその「好きだ」の裏には、「自分の物にしたい」「ゲットしたい」という思いがあるでしょう。いくら「好き」と言ったって、相手はしょせん自分のゲームの中のコマにすぎません。SNSの時代では、この心理はすごくわかりやすくなっています。「いいね」をもらうために、「いいね」をする。フォロバする。コメントにコメントする。フレンドを増やす。既読スルーしない。

 愛別離苦とは、何も好きだった相手を病気や不慮の事故で奪われるということだけではない。そうではなく、「好きだ」と言っていた相手が好きでなくなること――ひょっとしたら、最初から好きではなかったことに気づくことです。「好きだ」と言っていた自分も相手のことを本当に好きだと思っていなかったし、「好きだ」と言ってくれた相手も自分のことを好きだと思っていなかった。ただ、それぞれのゲームの中で「あいつなら私の役に立つだろう」と思ったのか、あるいは束の間に本気で「自分の存在が無条件で承認されている」と誤解したのか……そのどちらかでしょう。

 「好きだ」という言葉の意味は、「欲しい」に過ぎなかった。「欲しいものリスト」にあったあのものが宅配便で届くと、箱を開けた瞬間にうんざりしてしまう。好きだったはずなのに! ティンダーで知り合ったあの人と会った瞬間、「違うな」となる。今ここ、この自分との距離が遠ければ遠いほど、そのものは輝いて見える。恋しく思えたそれに近づいて、手に取ると「なんだ、つまらない!」――これこそ愛別離苦と怨憎会苦の本当の意味ではないでしょうか。別離したときに「愛」した者同士の気持ちが、いざ会すれば「怨憎」に変わるというジレンマ。

 私たちが繰り返す恋愛ゲームだけがそうではない。人生の中で「いいね」は様々な形で入手できます。お金ポイント、出世ポイント、承認ポイント、幸せポイント……いくら稼いでも、稼いだ途端につまらなくなる。何も世間ばかりのことではありません。禅修行の世界だって同じことです。坐禅をしたりお経を読んだりすることだけが修行ではない。お掃除をするのも、作務をするのも修行。一日二十四時間、修行ポイントを貯めて悟りをゲットしようとする……一日一禅、向上心をもって! しかし修行三年目の中途半端な悟り体験では、もはや誰も「いいね」をつけてくれない。最終解脱のような、ドでかいやつを手に入れなければ! さあ、修行するぞ!

 四苦八苦の七番目である「求不得苦(ぐふとくく)」は愛別離苦・怨憎会苦と同じことをさらに一般的かつ抽象的に表しています。求不得苦は読んで字のごとく、求めたものが手に入らないこと。逆に言えば、実際に手に入ったものは、自分が本当に欲しかったものとは違う、ということです。ゲームで言えば、どんなにポイントを稼いで、スコアが上がっても「これでいい」というのがありません。ましてや、稼いだポイントは決して自分のものとはならず、必ず「ゼロ」に戻るということを考えればこのゲームに本気で付き合おうとする気が失われるのはごく自然なことではないでしょうか。

 四苦八苦の八番目は「五陰盛苦(ごおんじょうく)」。見るもの聞くもの、口で味わうものも体で感じられるものもすべて物足りない。胸がいつも不満でいっぱい。頭で堂々巡りしている思いや感情はネガティブなものばかり。どこにも落ち着く場所はない。簡単に言えば、これが五陰盛苦です。

 

ゲームは五陰(五蘊)で構築されている

 五陰とは、般若心経でおなじみの五蘊と同じ意味です。つまり、私たちが「世界」を構築するときに使っている色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)という五つの要素です。

 「色」とは色彩の「色」でもなければ、色気の「色」でもありません。私の目の前にあるあのトマトも「色」なら、そのトマトを見ている私の目も「色」です。つまり、人間の体とその外界を含む、物理的世界のすべての物です。

 トマトが現に見えているという感覚を「受」と言います。トマトのこの生き生きとした「赤さ」や「丸さ」、現代っぽく言えばクオリアが「受」なのです。

 では「想」とは何か。その赤くて丸いものを「トマト」として捉えるのが「想」なのです。私たちはふだん、トマトが直に赤くて丸く見えていると思っていますが、実はそうではありません。下の二つの図をご存じの方も多いと思います。

 

図1

図1(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PSM_V54_D328_Optical_illusion_of_a_duck_or_a_rabbit_head.png)

出典:Wikimedia Commons

 

図2

出典:Wikimedia Commons

 

 図1を最初に見た瞬間、何が見えましたか? 「ウサギ」ですか、それとも「カモ」ですか。図2は人によって「顔をあちら側に向けている若い女性」、あるいは「おばあさんの横顔」に見えるはずです。

 しかし、「ウサギ」(あるいは「若い女性」)と答えた人に「カモ(おばあさん)にも見えませんか?」と聞くと、しばらくするとウサギに見えたものがカモに変わったり、若い女性に見えたものがおばあさんの姿に変わったりします。このような経験を、私たちは普段からします。なにも変わっていないはずなのに、目の前の物が(時には世界全体が)変わって見えることがあるのです。そのとき「色(しき)」や「受(じゅ)」のレベルではもちろん、何の変化もありません。変わっているのは「想(そう)」つまり認識です。純粋な感覚を想いで捉えて、概念に置き換えるという作業です。そうして概念に置き換えたそれを自分にとって快・不快・そのどちらでもないに分類します。

 それまでただ単に赤くて丸かった物体が「トマト」として認識されると、「美味しそう、食べたい!」となるのが「行(ぎょう)」です。あるいは、トマトだと思っていたそのものを掴んでよくよく見れば、ゴムのボールだったと分かった時には「なんだ、つまらない」と捨てる。追いかけたり、逃げたり、無視したりするというリアクションが「行」なのです。

 では、「識(しき)」とは何か? 一言で言えば、それは物・感覚・認識・反応の最終段階で構築されるゲームのことです。時間と空間の中で「世界」を作り、その中に「私」というプレイヤーを動かす。まるでマイクラのように……。

 ネルケ無方という青い目の禅僧が今、「人生というクソゲーを変えるための仏教」の原稿を書いている最中です。締め切りが近い。急がなければならない。ちょうど五陰盛苦の話に差し掛かったその時、うまい具体例が浮かばない。そこにテーブルの横においてあったトマトが目に映った。赤く、丸く……と書くと、私の世界像がすでに逆立ちしてしまっています。「私はネルケ無方」「青い目の禅僧である」「原稿を書かなければならない」「締め切りは何月の何日まで」というのは五蘊の最終段階で構築されたゲームにすぎません。そのベースに何があるかと言うと、まだ意味やルールに染められる前の色・受です。想というフィルターを通されて、行というプレイが加わってはじめて識というゲームが発動します。

 

貪瞋痴というエンジン

 そのエンジンとなるのが「貪瞋痴(とんじんち)」という三毒です。最初の二つの毒は分かりやすい。ポイントをパクパク食いながら、敵から逃げ回る……1980年代から世界をとりこにしているパックマンは人間の貪(むさぼ)りと瞋(いか)りの塊です。では「痴」とはなにか? 「痴」は無知のこと、つまり何かに気づいていないということです。それは何かと言えば、ゲームをしていること自体に気づいていないのです。人生のルールが勝手に作られ、その目的も根拠もないことについて無知である―――それが仏教の言う「痴」です。「痴」がなければ、人間はパックマンのように必死にならないはずです。

 もう少し伝統的な言い方をすれば、「痴」とは四法印の中心をなす「諸行無常」と「諸法無我」を知らないということです。私だと言い張っていたプレイヤーは架空の存在に過ぎない。私が稼いだポイントはどうせ失われ、私のゲームはやがて終わる……。いや、ゲームが終わったと思ったとたん、次のゲームが始まっているかもしれない。繰り返される生死の苦を力強く説いているのが、四苦八苦の前半をなす生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)という四苦です。詳しく見ましょう。

 

生まれたくて生まれたわけではない

 生――この世に生まれることで、ゲームはスタートします。もっと厳密に言えば、人間が物心ついた時点で初めて「ゲームしている」と言えると思いますが、この世に生まれたのも物心がついたのも、自分の意志で選んだわけではありません。「よっし、生まれるぞ!」「そろそろ物心つこうぜ!」なんて思う人は一人もいないでしょう。つまり、本人の意志を確認せず無理やりにこの世に投げ出されてしまい、そのうえ言葉をはじめ様々なしつけによってゲームに慣らされて、物心がつくところまで来させられてしまっているのです。 

 「一切皆苦? 仏教ではなぜそんな暗いことを言うのだろうか。人生ほど楽しいゲームなんてないじゃない。まさに神ゲー! ああ、生まれてきて本当に良かった」……そういうおめでたい人たちもこの世にはいるでしょう。その一方、本音を言えば、生まれてこない方がよかったと常々感じる人たちもいる。また、良かったとも悪かったとも言えず、「まあ生まれた以上は80年間くらいこの世界と他のプレイヤーたちに付き合わなければ仕方がない。自殺したいとは全く思わないが、どちらかと言えば、生まれてこなくてもよかったかな」という人もいるでしょう。要するに、ゲームはいきなりスタートしてしまっている。強制参加。そこには何の自発性も認められません。「ルールをあなたが作る」なんて自由ももちろんない。スタートを切った後のゲームの内容はともかく、最初から「好きで」このゲームに参加した人は一人もいないのです。これこそ「生」という苦ではないでしょうか。

 老――ゲームが始まってしまえば、楽しいことも楽しくない(=苦しい)こともいっぱいある。だから、「一切皆苦」と言っても、楽しいことはないという意味ではけっしてない。楽しいことよりも楽しくないことが多いかと言えば、それも必ずしもそうではないでしょう。うまくプレイをすれば、いくらでも「楽しみポイント」は稼げるはず。しかし、他のプレイヤーが稼いだポイントとこちらの手元にあるポイントを比較した場合、どうしても向こうの方が楽しそうに見えてしまう。自分が大勢の人にもれず、月並みに「楽しんでいる」としても、さらに楽しんでいるライバルの「楽しみポイント」が気になって、結局は全然楽しめていないことが多いのではないでしょうか。そのライバルだって自分をさらに「稼いでいる」もう一人と比較して、負けくじを引いたつもりになっているかもしれません。ともかく仏教の言う「苦」は楽しいことの反対(つまり普通の意味での「苦しいこと」)ではなく、楽しんでいるつもりでも全然楽しめていない状態を指しています。

 ポイント稼ぎゲームでの比較相手は何も向こうにいるライバルだけではありません。それよりも、自分自身との比較が堪えます。たとえば「十年前はまだよかった」というふうに、自分のピークはとうに過ぎてしまったと感じている人もいるでしょう。最初からスペックの高くない自分でも、なんとお粗末なゲーム・スコアだと思ったりする。親のあの期待は……自分自身の目標設定はなんだったのか。ましてや、パワーをはじめ稼いだポイントは減る一方、「命」はこの一つしかない。ああ、昔はまだゴール・チャンスがたくさんあったのに、後半戦の今では試合を逆転できる気配はゼロ……足もつってきたし、早く終了の笛はならないのか? 「老」とはそういう苦です。

 病――『モノポリー』で言えば、「刑務所入り」カードのような意味を持つのが病です。病気をすればこのクソゲーを一服できるからわざと病気になる人もいるかもしれません。いわゆるズル休みですね。しかし、ほとんどの人は病気したくて病気をしないでしょう。病気をすることによって多くのポイントが消費され、せっかく順調に進んでいるように見えたゲームが狂うからです。四苦八苦のなかでも、「病」は分かりやすい苦の形です。よっぽど上手に病気をしないと、病は損でしかありません(そして上手に病気をすることとは、病こそゲームを降りる絶好のチャンスと捉えることです。そのためには他のプレイヤーから「ズル」と名指しされることを覚悟しなければなりませんが……)。

 

終わらないゲームこそ苦しい

 死――死はほかの苦と違い、ゲーム内部の出来事ではありません。ゲーム・オーバーのことです。いつか終わるからこそプレイするに値するとも言えるのがゲーム。そもそも好きで始めたわけではない。それなのに、試合終了が近づけば焦る人も多いのではないでしょうか。人生にはリセットボタンはない。チャンスはこの一回のみ。

 

 「俺の人生って、こんなもんだったのか!?」

 

 楽しいパーティーが終わった後には、永遠に終わらない「無」が待っているのか? 

 ずっと「一切皆苦って、何のことかしら? 毎日まいにち楽しく生きていればいいのよ!」 と言っていた人の前にも、いや、そういう人の前にこそ、最後の「死」という壁が立ちはだかる。いきなり始まって、いきなり終わってしまう人生というゲームを「死」という時点から考えれば、やはり意味がないとしか言えません。子供のころの私のように「人生というパーティーなんて、全然楽しくないじゃないか」と悲観していたような人は、「まあ、長くても100年の我慢だ」と高をくくることはできるかもしれません。いざというときには自殺をすればいい、と。しかし、その考え方こそ「楽観的過ぎる!」と仏教徒から指摘されそうです。

 なぜなら、たかが100年でゲームが終了するならば釈尊をはじめ、多くの求道者があえて出家をし、修行生活を送った意味がないからです。人生が終わった後、もう一回生まれ変わりたい! そう言う人もいるでしょう。しかし仏教は違います。仏教は一回どころか、無数の「チャンス」を約束してくれているのです。稼いだポイントも決して抹消されない。ちゃんと保管される。いや、これは約束や安心材料というよりは「脅し」かもしれません。死はゲームの終わりではないからこそ、安心していられない・・と言うのが仏教です。

 「ゲームは終わらない!」とは、たとえ自殺しても決して終わらないということです。死は世界の出口ではないからこそ、ゲームを変える必要があるのです。

 

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著者略歴

  1. ネルケ無方

    禅僧。1968年ドイツ生まれ。高校時代に坐禅と出会い、来日して仏道を志す。1993年、兵庫県の安泰寺(曹洞宗)にて出家得度。京都の名刹や大阪城公園でのホームレス修行生活などを経て、2002年から2020年まで同寺の住職をつとめる。現在、大阪を拠点に講演活動や坐禅指導を行っている。共著に『哲学する仏教』(サンガ、2019年)。

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