ゲームの意味が分からない!
あの白いひげをつけたおじさんが……
私が「他人のゲームに乗せられている」ことに初めて気づいたのは、五歳のクリスマスの時でした。そのころは母の実家である、古いプロテスタント教会の牧師の家に住んでいました。祖父は牧師、母は医師、父は設計士としてそれぞれ仕事を持っていて、祖母が面倒を見てくれることも少なくありませんでした。夕方、仕事から帰ってきた母に
「あと何回寝ればサンタさんが来るのかな」
と聞くと、決まって
「さあ、いい子にしないと今年は来ないかもよ?」
という返事が返ってきました。「いい子にする」の意味とは、はしゃがないこと、大きな声を出さないこと、一人で自分の部屋で遊ぶこと、読書すること、早寝することなどらしい。
その年のイブの夕方にも「こん、こん」と戸を叩く音が聞こえてきました。
「ネルケ君いるかい?」
ドキドキしながら戸を開けてみたら、やはり白いひげを生やしたサンタが赤いマントを纏ってそこに立っていました。うっすらと雪の積もっている、円頭石舗装されたその小路に。トナカイはそこにいませんでしたが、大通りで待っているのかもしれません。
ドイツのサンタの目つきはなかなか険しい。片手にはプレゼントが入っているはずの大きな袋を、もう片手には杖のようなものを持っています。長い旅で疲れた体を支えるため、ではなく、悪い子供を懲らしめるためです。
プレゼントをもらえるのか、お尻を叩かれるか――それはサンタのその場での判断次第です。
「おお、随分と大きくなったのう。この一年、いい子にできたかい?」
「はぃ……」
私の心もとない返事を確かめるように、サンタは私の横に立っていた母に尋ねました。
「お母さん、そりゃウソじゃないじゃろうな」
母親は難しそうな表情を浮かべて、「う~ん、どうでしょうかね」となかなか私の味方をしようとしません。
「これからはいい子にすると思うので、今日だけは多めに見てあげてください」
ようやく母の口から出たこの言葉に安堵した私は再びサンタさんの方を振り向きました。あのにやにやした表情はペーターおじさんじゃないか! 近くに住んでいた牧師の長男が白いひげをつけて一役買っていただけだと分かった瞬間でした。
数か月前、サンタにどんな手紙を渡そうか考えたときの母のアドバイス――「それはどうかな」「そんなゲームよりも、サンタさんは勉強になるようなプレゼントならくれると思うわ」「とりあえずサンタさんと相談するね」の意味も途端に分かってしまいました。すべてあなた方のゲームだったのね。しかし、私が気づいたことをここで相手に悟らせてしまうと、向こうがあまりにもかわいそうすぎる。ここでは空気を読んで、親たちのゲームに付き合ってあげることにしました。気づかないふりをした方が、こちらも得に思えたからです。子を騙したつもりの親がゲームをしているなら、子も騙されたふりというゲームをする。ここに親子の「ウィンウィン」の関係が成り立つのです。
お母さんは帰ってこない
母に乳癌が見つかったのは、私が小学校に入学する前の年でした。すぐに乳房切除手術をするも、発見が遅かったため、癌はすでに転移していました。母は三七歳の年齢で、父と私そしてまだ幼い二人の妹たちを残して他界しました。
「お母さんはもう帰ってこないよ」
そういわれたのは、小学校一年生の最初の夏休みの時でした。そのときは、私は正直に言って「裏切られた!」という気持ちでした。
「いまさら! いつも帰ってこなかったじゃないか」
母は病院の仕事が忙しく、癌で入退院を繰り返す前もあまり家にいませんでした。やっと帰って母に「一緒に遊ぼうよ」と声をかけても、「今日は疲れたから、また今度ね」と言うばかり。何度も「お母さん、ね、ね」と言うと、しまいには「うるさいから、あっちへ行け!」とあまり相手にしてくれない母でした。
おそらく母の中では、その内に独立して医院でも開こうという思いもあったのでしょう。そのときには、もう少しゆとりもできて、子供たちの相手もできる……と。しかし、親たちのそういう「物語=ゲーム」を私が知ることもなく、終わってしまった。その内に帰ってくるかもしれない母は、二度と帰ってこない人になってしまいました。
私が学校から帰ってくると、家の中はシーンとしている。幼い妹たちはまだ幼稚園にいる。父もしばらくは帰ってこないだろう。一人で部屋に坐って、窓の外で遊んでいる同級生たちを眺めていると、私はなかなか宿題をしようという気持ちにはなれませんでした。同級生たちは明るいうちにサッカーをしたかったようです。宿題はその後でもできる……そういうふうに考えていたのではないでしょうか。しかし、私の頭には同級生たちとちょっと違う疑問があったのです。
「どうせ死ぬのに、なぜ……?」
学校がだるい。宿題は手につかない。同級生と遊びたいという気持ちもない。その内は窓の外を眺めるのにもうんざりして、ベッドの上で寝そべってただただ天井を見上げました。
明日も今日と同じ退屈な日が待っているだけだ。このままじゃ、何も変わらない。
「なぜこんなことに?」
宿題の意味とは?
ある日の夕方、帰宅した父に宿題の意味を聞いてみました。父は当たり前のように
「宿題をしないと、成績が下がる。勉強に遅れてしまうと、留年を食らうぞ。下手をすると、高校に行けなくなるよ」
と言いました。
何にせよドイツに「学年」という概念はなく、同じ日に入学した子供たちが数年後そろって卒業をするということはまずありません。それはなぜかと言うと、留年や飛び級をする子が多いからです。それぞれの努力や能力によって、あるいは生活環境の影響にもよって、ゲームのステージが上がるペースが違うので、友達より二、三年遅れて卒業をすることも珍しくありません。
日本にも義務教育だけで学校を終える人、高卒で社会人になる人、大学まで進む人など同じ人生ゲームでもいろいろなルートはありますが、ドイツではその振り分けはすでに小学校四年生が終わろうとするころにされ、五年生以降の「勝ち組」と「負け組」はまったく違う環境で過ごすことになります。日本のように、中学校まで地域の子供と一緒……というわけではありません。実際問題として、高校に行けない子供も多くいます。スタートラインが同じでも、走り出したらゲームの勝ち負けが目に見え、肌でも感じられ、形でも現れます。
「でも、なぜ高校に行かなければならないのか」
「大学に進学するためだよ。お父さんだって、大学で建築を学ぶのに勉強を頑張ってきたぞ」
なるほど、今の学校からさらに上の学校へ進むためには、成績というポイントを稼がなければいけないらしい。しかし、なぜ高校や大学といったステージを目指さないといけないのだろうか。そこで何かが変わる気配がまったくしないのに。
「そりゃあ、いい会社に勤めるためだよ」
そういう父が毎朝出勤している後姿は決して嬉しそうには見えませんでした。
「なぜ会社に勤めなければならないの?」
「君たちを養うために決まっているじゃないか!」
大学を卒業した後にはめでたく就職し、生活のために働く。その内に素敵なパートナーに巡り合えば、結婚して子供を持つこともできる。その子供も自分以上に立派に育ってもらい、自分以上にいい大学、いい会社に勤めてもらう……。しかし、その意味は結局何なんだ!
「お父さん、どうせ死ぬのに、なぜ生きなければならないのか」
私が本当に聞きたかったのが、これでした。聞きたいことはゲームの次のステージに進むために、このステージでやらなくちゃいけないことではなかった。そうではなくて、ゲーム自体の意味が知りたかったのです。
父はすこし困惑している様子でした。しばらく考えてから、こう答えました。
「ほら、君が生まれる前には何もなかっただろう。君が死んだ後も、おそらく何もない。でも今は、この数十年の間だけは、生きているじゃないか。お父さんもよくわからないけど、この人生っていうのは、永遠の無に挟まれた、わずかな間の楽しいパーティーのようなものじゃないかな」
こういう質問が出たら、キリスト教の影響が強い欧米では「神さま」や「天国と地獄」という話が持ち出されることも多いでしょうが、父は私がそれに騙されないだろうということに気づいていたのか、一時的なパーティーと永遠の無という比喩を使っていました。
父自身がその比喩にどこまで納得していたかは分かりませんが、私にはピンと来ませんでした。何にせよ、この退屈な日々のどこが「楽しいパーティー」なのか!? あるいは百歩譲って、高校や大学というステージに進んだ後の人生がより楽しくなったとしても、その「パーティー」だっていつかは終わって、永遠の無に戻るのではないか? その時点、つまり死んだときには、まったく何もなかったのと同じではないか? どんな楽しいパーティーでも、終わってしまえばパーだろう? どうせ死ぬなら、いっそ自殺してしまった方が話が早いのでは?
謎の扉
「パーティーの終わり」について、私は数年間どちらかと言えば興味本位で考えを巡らせていましたが、その思考は突然現実味を帯びてしまいました。ある日曜日、父に「話がある」と呼ばれて椅子に坐らされました。
「ヒルデガルド伯母さんのこと、憶えているだろう?」
憶えていないわけがない。ついこの間、遊びに行ってきたじゃないか。
母の姉はスイス人と結婚してから、首都のベルンで母と同じように医師として病院に勤めていました。母が死んでから、父は私や妹たちを学校の休みの間に伯母の家に預けたことも何回かありました。子供のいない伯母と伯父は私たちをよくかわいがってくれましたが、その伯母はなんと、ある日自ら死ぬことを選んだのだと言うのです。死因は睡眠薬の飲みすぎだった、と父の重い口から知らされました。
その時の私の胸の中では、言いようのない虚しさと同時に「そういう手があったのだ」という思いが同居しました。つまらないパーティーに最後まで付き合う必要なんてない。「死」という出口はいつもそこにある。その扉を開けるか開けないかは、自分の決意次第だ。
自殺をすれば、私とともにこの生きづらい現実世界も消えるはず。もし自殺した後にこの現実世界の苦痛をはるかに超えるような地獄が待っていれば、それは自殺しない方がいいに決まっている。しかし、そんな地獄はおそらくおとぎ話だろう。
あるいは死というものが、この現実世界だけが消え、私が出口のない暗闇の中で、たった一人で閉じ込められる状態であれば、それは想像するだけでも怖いことです。しかし、私はそうは想像できませんでした。むしろ二度と覚めることのない深い睡眠状態のようなイメージがあったのです。
学校から家に帰って、自分のベッドの上で寝そべって生や死についてあれやこれや考えることが私の日課となっていましたが、つい昼寝をしてしまうことはしばしばあって、そのときが一番幸せな気がしました。眠っている間、私の意識が消えているのにどうして幸せを感じることができるのかと聞かれれば、私も不思議です。今から眠りに落ちようとするときの気持ちよさ、眠りから覚めようとする、睡眠の世界と現実世界の境目での「別れ惜しみ」のような感覚は確かにあったのです。死んだ後、そのような状態がずっと続くのであれば、これほどいい話はないとも思いました。
しかし、本当に自殺をすればこの現実世界とともに私も消える確証があるかと言えば、それはやはりないのです。おとぎ話が本当で、私が想像している昏睡状態のような死がかえって夢物語に過ぎない可能性だって否めない。
一方で、自殺しないとなにも変わらない。いや、ある日突然私の目の前を覆う暗い幕が開かれる瞬間は来るかもしれない。あるいは今の息苦しさが徐々に緩和される可能性だってある。
でもそんな気配はまったくしない。確かなのは、自殺した後には現実世界に戻れないことだ。たとえば、その時になって「戻りたい!」と思っても、そういう選択肢はもはやない。自殺をしなければ、なにも変わらないかもしれない。文字通り、死ぬまで何も変わらない可能性もある。
しかし、いつでも自殺できるというオプションは保留される。今日自殺しなくても、明日はそれができる。あるいは一生自殺しなくても、どうせ百年後には私は死んでいるのであろう。そんなに急ぐ必要はない。たかが百年の辛抱だ。あるいは途中で挫折してしまったら、その時また考えればよい。
扉の向こうに何が待っているかは知らないが、自殺というオプションがあるかぎり、この世を急いで出る必要はない。
「しばらくはこちら側に居続けよう。いざというときに死ねばよいから」
この思いこそが、ある意味で私を救ったのです。
ゲーム三昧の日々
「人生というゲームの意味が分からない。意味がないゲームになんか、最初から参加しない方がいい」
そう思っていた私はなぜか、そのころからゲームの世界の中にのめりこんでしまいました。当時、私を魅了したゲームはもちろん「人生」という大きなゲームではなく、サッカーのように体を張って遊ぶゲームでもありません。ある日、変わっていると評判だった私は、ハラルドというやはりクラスの中で少し浮いているもう一人の男に声をかけられました。「今日、僕の家で遊ばない?」
医師の家に育っていた彼は兄と年が離れていて、なかなか遊び相手が見つからないらしかったのです。
「お友達ができたの? よかったね」
ハラルドの家に着いた時、誰よりも彼のお母さんが喜んでくれました。私はそれ以前、ゲームといえば妹たちと遊んだすごろくのイメージしかありませんでした。サイコロを振って、相手のコマを取ったり取られたり……。ドイツでは知らない人はいないというMalefiz(『バリケード』)やMensch ärgere Dich nicht(『イライラしないで』)など、ゲームは当時から何種類もありましたが、なかなかルールを飲み込んでくれない妹たちに対してイライラしていました。
そのつど父親に「ほら、『イライラしないで』でイライラする奴はだーれ?」と小馬鹿にされましたが、父親もせっかくの週末なので子供相手にゲームしたくないらしく、遊んではくれませんでした。小学生になってから妹たちに『ハルマ』や『ナイン・メンズ・モリス』といった、いわば「頭を使うゲーム」も教えましたが、簡単に勝ってしまうからまったく張り合いがありませんでした。
しかし、同学年のハラルドとの対戦は面白かった! チェッカーやオセロに飽きたころには、トランプをしたり親から習ったチェスや囲碁に挑んだりしました。それまで退屈で仕方がなかった週末も、ほとんどハラルドの家で遊ぶことになりました。
しばらくしてから、マックスという転校生が学校にやってきました。眼鏡をかけていた彼からは、オタクのにおいがプンプンとしました。同類をかぎつけていたハラルドと私は彼を誘い、三人で遊ぶことになりました。三人もいれば、それまで敬遠していた『モノポリー』や『リスク』のようなボードゲームも面白くなり、スカートというドイツの伝統的なカードゲームもできるようになりました。チェスは純粋な頭脳の勝負でしたが、マックスが加わってから遊んだゲームには予測不可能な偶然が絶妙に絡み合い、三人の駆け引きもゲームの決着を左右するようになりました。
ちょうどそのころ、『ウサギとハリネズミ』が第一回目のドイツゲーム大賞を受賞しました。私たち三人もすぐこのゲームのとりこになってしまいました。すごろくゲームでありながら、さいころはありません。プレイヤーはニンジンカードでマスを進むことができますが、その計算方法がなかなか凝っています。進みたいマスの数の三角数に応じて、ウサギたちはニンジンを食べなければいけません。一マスならニンジンが一本、二マスなら三本、三マスなら六本……というふうに、カードをたくさん出すほどコスパは下がるのです。後ろへ下がり、集団の中で隠れると逆にニンジンが稼げるのです。ゴールインする前には、プレイヤーたちは手元のレタスカードを専用のマスで消費しなければいけませんが、そのタイミングが肝心です。
初心者から数学オタクまで楽しめるこのゲームこそ、後のドイツ・ボードゲーム・ブームの地平を切り開いたと言っても過言ではないでしょう。1973年にスコットランド人によって発明されたこのゲームのもともとのタイトルはThe hare and the tortoise(『ウサギとカメ』)でした。言うまでもなく、あの足の速いウサギと遅いながら着実に真っ直ぐ進むカメの有名な競争が由来ですが、ドイツではイソップ寓話よりもグリム童話に出てくる一生懸命に走るウサギにズル賢いハリネズミが勝つという話がよく知られているため、改名されたようです。
ウサギとハリネズミの競争より『キツネ狩り』をせよ!
それはともかく、夏休み中もずっと三人で誰かの家にこもって『ウサギとハリネズミ』三昧で過ごしました。顔の青白い私たちを見かねていた親たちからは呆れたように言われました。
「たまには外で、体を使って遊んではどうかね」
「だって、サッカーの試合には入れてもらえないもん。僕たちは、補欠にしかならない」
「じゃ、三人でSchnitzeljagd(『キツネ狩り』)でもすれば? 二時間ほど、フレッシュな空気を吸ってこい」
Schnitzeljagdは森の中でする一種の野外ゲームです。キツネ役はヘンゼルとグレーテルのようにヒントとなる印をあちらこちらに残して隠れますが、ほかの参加者は彼の居場所を見つけなければなりません。昔はそのためおがくず(Schnitzel)を使って、矢印などを地面に書きましたが、私の子供のころは紙切れになぞなぞを書いたりしてそれで代用しました。しかし、インドア派の私たちには向いていないゲームでした。また、そのゲームのそもそもの「意味」が分からなかったのです。
キツネ役を見つけるのが目的なら、見つからないようにするのがキツネ役の目的のはずです。それならば、絶対に解けないように謎を難しくしたり、ヒントが見つからないように隠したりすればいいのではないでしょうか。
母親がまだ生きていたころ、私はまだ地域の子供たちと一緒に遊んだりしていました。私がとくに好きな遊びは「かくれんぼう」でした。隠れているほかの子たちを探すのも嫌いではありませんでしたが、それよりも絶対に見つからないように隠れるのが好きでした。ある時、市の粗大ごみ用のコンテナの中で隠れました。外で次々と「み~つけ!」という声が聞こえましたが、誰もコンテナの中を覗こうとしない。私がここにいるのを想像だにしていないようです。しばらくすると「み~つけ!」というのは「お~い」「もう帰るぞ!」という叫び声に変わりました。いや、それは罠かもしれない。コンテナから出たその瞬間、「み~つけた」となるかもしれない。もうすこし隠れよう。何にせよ、絶対見つからないことが「かくれんぼう」の目的だ。その内、誰の声も聞こえなくなりました。びくびくしながらコンテナを内側から開けましたが、外はもう薄暗くなり、ほかの子供たちは皆家に帰っているようでした。
「よっしゃ、勝ったぞ」という思いで胸を膨らませながら、私も家に帰りました。私の異臭に気づいた母は「こんな遅くまで、どこで何をしたの?」と尋ねてきました。その訳を話すと、母は呆れた顔で「君はゲームの意味がまったく分かっていないのよね」と言いました。
「ゲームの意味?」今度は私があっけにとられました。絶対に見つからないように隠れることこそ、かくれんぼうの意味だったのでは? そのゲームに私が「勝った」のに、なぜ「意味が分かっていない」と言われなければならないのか、それこそまったく分からなかったのです。どうやら、そのころにはすでに「意味」の意味が分かっていなかったようです。
『キツネ狩り』も同じでした。キツネ役が絶対に見つからないように隠れるのは簡単です。しかし、それだと二時間後には家に帰れない。ちょうど二時間くらいの暇がつぶせるように、『キツネ狩り』をするのが私たちのゲームの暗黙のルールになっていたのです。早く意味の分からない『キツネ狩り』を終えて、『ウサギとハリネズミ』に戻るため……。
ルールはあなたが作るのです!
1980年代に入って、ハラルドの家族はいつの間にか引っ越してしまい、マックスも私とは別の学校に進みました。三人で遊ぶことはなくなりましたが、私は相変わらずボードゲームの世界に没頭していたのです。インターネットのないその時代には、ゲームの情報を得るのに雑誌しかありませんでした。私は新しくできたSpiel(ゲーム、遊戯、演劇などを意味するドイツ語名詞)という雑誌を買い、その中で私の同類が存在していることを知りました。プレイ・バイ・メールといって、遠く離れているプレイヤーたちが郵便ハガキのやり取りをしているゲームもあると読んで、驚いたのです。アメリカやイギリスにはずいぶん前からそういう「ゲーム文化」があったようで、ドイツにもその波が来ている……とのことでした。当時、ドイツの唯一のゲーム同人誌であったDie Pöppel-Revueの連絡先もそこに記してあったのです。「ゲームとは本来、顔の見えるプレイヤーたちがテーブルを囲んでするものだから、そこまではまらないように気をつけましょう」とその雑誌にはご丁寧にも書いてありましたが、私が同人誌を購読したのは言うまでもありません。その次の月から『ウサギとハリネズミ』をはじめ、様々なゲームのムーブのやり取りを郵便ハガキでやりました。
ちょうどその頃、もっぱらゲームのために使っていた小遣いをはたいて、やはり第一回目のドイツゲーム大賞で「もっとも美しいゲーム賞」を受賞したDas Spiel(『ダス・シュピール』)を買いました。タイトルとなる「ダス・シュピール」(”Das Spiel”)とはすなわち「ゲームそのもの」ですが、当時まったく無名なデザイナーが自費で作っていたこのボードゲームの遊び心が審査員に買われたようです。
届いた箱には、鉄でできた三角形の板と赤、青、緑と黒で300個余りのさいころが入っていました。鉄板にはちょうど一個のさいころが収まる大きさのへこみが45個あって、それをさいころで敷き詰めるとその上にはさらに36個のさいころが積めて、その上には28個……というふうに、165個のさいころを使えば大きなピラミッドが作れたのです。
「はて、このゲームのルールは?」
そう思ってルールブックを探していたら、
「ルールはあなたが作るのです! あなたが作ったルールを私のところに送ってくれれば、後に皆のルールブックに採用するかもしれません」
「なんと間抜けな手口だ。ルールを考えるのがこのゲームのデザイナーのお前の仕事だろうが!」
という毎月の小遣いの行方を心配していた父の口から出た意見とは反対に、私は「作ってみよう」という気持ちになりました。
「そうか、ルールに従うことだけがゲームではない。そのルールを考えたり、試行錯誤しながらゲームを作ることがこのゲームのポイントなんだ」
人生というゲームの意味(=ゴール)も分からなければ、ルールもよく分からない。プレイヤーたちはお金を奪い合い、マスを進めることで出世したつもりになったり、恋愛や旅行で「幸せポイント」を稼ごうとしているようですが、やはりその仕組みが分からない。どれだけ稼げば「勝利」だろうか? 何が負けなのか? どうせゲームが終わるのに、なぜ一生懸命にポイントを貯める必要があるのでしょうか? 「約束のお時間になったため、今生はもう遊べません」と言われたら、どうするつもり?
気づいた時点ですでに始まっている。そして、たいして楽しくもないこのゲームへの参加拒否は、「自殺」以外には思い浮かばない。
一方で、自分で作ったゲームの目的は自分で決められます。ルールも自分が作る。自分のゲームは好きな時に好きなだけできるし、辞めようと思えばいつでも辞められる。なんと安心できる世界なんでしょう。
私がこの時から、「自分のゲームを作ること」にはまり込んだことには無理もありません。人生というゲームが分からなければ、自分が分かるゲームを自分で作ればよい!