自分探しのインド、あるいはインドの自分探しと日本インド化計画
自分探しの国
これまで「インド映画と音楽」「インド料理と音楽」というテーマで書いてきたが、第1回、第2回にこれらのトピックを選んだのには、いちおう理由がある。はっきり言うと、それは「インドの新しい音楽」というニッチな内容を書くにあたって、映画や料理というポピュラーなインドカルチャーと関連づけることによって注目を集めようという姑息な打算である。
インドという国に惹かれる日本人は少なくないが、昨今とくに人気が高いのが「インド映画」と「インド料理」の二大カルチャーだ。
インド映画に関しては、今では日本でも毎年何本もの作品が公開され、鳴り物や紙吹雪で盛り上がる「マサラ上映」や、在日インド人と熱心なファンが集う自主上映会が毎週のようにどこかで開催されている。
インド料理の盛り上がりもすごい。今ではプロからアマチュアまで愛好家がたくさんいて、「ムッタイ・ワルワル」とか「ミーン・モイリー」といった、知らない人にとっては「ラーメン二郎」の注文方法より難解な、呪文のような料理名が説明なしで通じるコミュニティが形成されている(前者はタミルナードゥ州の卵炒め、後者はケーララ州のココナッツミルクとスパイスで魚を煮込んだ料理)。
とはいえ、インド映画やインド料理がここまで人気になったのは、せいぜいここ10年、20年のこと。
インド映画やインド料理が広く受け入れられる前の日本で、インドという国のイメージをかたち作っていた大きなカルチャーといえば、それは「自分探しの旅」だった。インドは、若者が自分探しの旅に出る、定番の目的地だったのである。
1990年代のインドには、旅の間、意味もなく無精ヒゲを伸ばしてみたり、ドミトリー(安宿の相部屋)で自分がどれだけ安く旅しているか自慢しあってみたり、タイダイ染めにシヴァやガネーシャがプリントされた地元の人は着ない服を着てバックパッカー気分に浸ったりする日本人の若者が大量発生していたものだった。なぜこういうエピソードがすらすらと出てくるのかと言うと、全部私がやったことがあるからで、若気の至りというのは本当に恐ろしい。
そういう若者たちが必ず携えていたのが、ガイドブックの『地球の歩き方』だった。インターネットのない時代、バックパッカー的な旅をするための情報を日本語で得る手段は限られており、このガイドブックがほぼ唯一の選択肢だった。
『地球の歩き方 インド』の冒頭には、昔からエッセイとも散文詩ともつかない「人間の森へ」というタイトルの文章が掲載されている。それがまさに自分探し系バックパッカー直撃の名文なので、ここで引用してみたい。
インドは「神秘と聖性の国」だと言う。
またインドは「貧困と悲惨の国」だとも言う。
だがそこが天国だとすれば、
ボクらのいるここは地獄なのだろうか?
そこを地獄と呼ぶならば、ここが天国なのだろうか?
楽しい旅行をしようとしているのに、いきなり悲惨とか地獄とかいう言葉が出てきて、ショッピングやグルメ旅を考えていた人は、たじろいでチケットをキャンセルしてしまいそうだ(そういう人はそもそも『地球の歩き方 インド』を手に取らないかもしれないが)。
文章はさらに続く。
インド……それは人間の森。
木に触れないで森を抜けることができないように、
人に出会わずにインドを旅することはできない。
文章の独特の圧の強さに思わず納得しそうになるが、冷静に考えれば、「人に出会わずに旅することはできない」っていうのはインド以外の国でも同じなんじゃないだろうか。ともかく「人間の森へ」は、こんなふうに結ばれている。
さあ、旅立ちのとき、魂まっ裸のトリップを!
謎めいた言葉で、インドは君に呼びかけている……。
「さあ、いらっしゃい! わたしは実は、あなたなのだ」
ズドーン! そうか! インドとは、実は自分のことだったのか!と思うかどうかは別にして、旅の目的地が自分自身とは、まさに自分探し。この「人間の森へ」は、迷える若者がインドに求めるものを、抽象的ながらストレートに著した文章として、歴史に残る名文だろう。この文章は、1981年に発行された『地球の歩き方 インド』の初版から掲載されていたものだそうで、驚くべきことに、最新の2025~26年版にも変わらずに掲載されている。
「人間の森へ」と同様に、長年巻頭に掲載されている「犀の角のように、ただ独り歩め」という中村元先生訳のブッダの言葉もまた味わい深い。「ひとり」の表記が「独り」である部分なんて最高だ。インドに行くなら絶対に一人旅じゃないといけない。仲良しグループでの卒業旅行なんてもってのほか、といった感じすらする。
ここで描かれているインドは、目覚ましい発展を経て、今では新興大国BRICsの一角を占めるまでに成長したIT大国ではなく、信仰と精神文化が根付き、差別や貧困といった数多くの社会問題を抱えながらも、素朴で逞しく生きる人々が暮らすインドだ。
インドにしてみれば、別に謎めいた言葉で日本人に呼びかけたつもりはないだろうし、魂まっ裸でトリップされてもなあ、と思うことだろうが、日本ではインド旅行にこういうイメージを持っていた人が一定数存在していた。というか、今もそういう人が結構いるかもしれない。
インドの旅に自分探し的な魅力があることは身をもって知っているが、いつまでもインドにステレオタイプなイメージを投影するだけでなく、新しいカルチャーにも目を向けてみようぜ、というのが、この連載を通して私が言いたいことだ。
インドに魅せられた外国人ミュージシャンとステレオタイプなインド
インドで若干滑稽な「自分探し」をしていた日本人たち(おもに自分)を弁護するために言うと、こんなふうに神秘的な精神性をインドに求めていたのは日本人だけではなかった。むしろ、物質主義的な現代社会に対するカウンターカルチャーがさかんな欧米のほうが、インドを理想化する傾向が強かったように思う。西洋社会におけるインドかぶれの第一人者であるビートルズは、多忙なスケジュールの合間を縫ってリシケーシュのヨガ道場に滞在したり、アルバムにインドの楽器を導入してファンにまったく人気のないエセ古典音楽風の曲を収録したりするなど、かなりの重症っぷりだった。ビートルズとインドについては、また改めて詳しく書くこととしたい。他にも、ジャズのコルトレーン夫妻やファラオ・サンダース、ギタリストのジョン・マクラフリン、ミニマル・ミュージックのテリー・ライリーなど、インドの音楽や精神性に魅せられた欧米のミュージシャンは多岐に渡っている。
90年代のイギリスには、ビートルズ以来のインドかぶれをこじらせたクーラ・シェイカーというバンドもいた。彼らはヒンドゥー教のマントラ(お経みたいなもの)をロック風にアレンジしたり、インド哲学で「真理」とか「実存」を意味する「タットヴァ」という曲をリリースしたりと、過剰なインド趣味を揶揄されながらも、結構人気を博していた。
アメリカに視点を移すと、60年代のヒッピー・ムーブメント以来、ヨガや瞑想などのインド系精神文化がさかんなカリフォルニアでは、ワンダーラスト・フェスティバルとかバクティ・フェスティバルといったヨガと音楽に特化したフェスが開催され、ファンを集めている。出演者にMC YOGI(ヨギはヨガ行者の意)という変わった名前の白人ラッパーがいたのでチェックしてみたところ、シタールが使われたビートに「ぎゃーてーぎゃーてーはらぎゃーてー」という般若心経の一節がサンプリングされた曲をやっていた。失礼ながらちょっと笑ってしまった。
もちろん日本にもインドに影響を受けたミュージシャンはいる。自分探し系インドソングの日本代表を挙げるなら、長渕剛の「ガンジス」をおいて他にないだろう。
1993年のアルバム「Captain of the Ship」(名盤!)に収録されたこの曲では、聖なる河のほとりで火葬され、灰になってガンジスに流されてゆく死者や、聖地で死ぬためにこの河を訪れ臨終の時を待つ老人、牛飼いの少年たちと出会った思い出が歌われている。
「Bye Bye ガンジス お前は黙ったまんま/Bye Bye ガンジス 答えなど始めからない/あるのは今 確かに「俺」ここにいる」と歌われるこの曲のクライマックスは、「人間の森へ」と並んで、「インド自分探しの殿堂」が作られたあかつきには殿堂入りが確実な名フレーズだろう。
ここで強調しておきたいのは、インドに対する「自分探し」のイメージは、あくまでも外国人旅行者による「外からの目線」で形成されたものだということだ。インドに偉大な精神文化の伝統があることは言うまでもないが、「人間の森」に暮らす当のインド人のほとんどは、日本人がインドで抽象的な自分探しをしていた頃、もっと現実的な、稼ぎの良い仕事や経済的な成功を得るために必死だったはずだ。その彼らの上昇志向のエネルギーが「貧しくとも生き生きと暮らす人々」というイメージ形成の一因になっていたと思うと皮肉な話だ。
この連載の初めにも書いた通り、その頃のインドのポピュラー音楽は映画音楽ばかりで、「自分探し」的な気分にはまるような音楽は存在していなかった。本気で自己の内面を追求するなら、ガチの宗教音楽こそが自分探しにぴったりだったかもしれないが、そこまで浮世離れする度胸があった人は、私を含めてほとんどいなかったはずだ。私は旅の間、よくボブ・ディランやジャニス・ジョプリンを聴いて旅情に浸っていた。バックパッカーの間ではボブ・マーリーなんかも人気だったと記憶している。当時から見ても古い音楽ばかりなのは、途上国であるインドにどこかノスタルジックな気持ちを抱いていたからだろう、と今になって思う。
日本インド化計画、完遂?
高野秀行氏の『異国トーキョー漂流記』という本の中に、「日本をインド化するフランス人」という話が出てくる。フランス人が「日本をインド化する」とはどういうことかというと、日本人がインド人に「神秘的な精神文化に生きる人たち」というイメージを持つように、外国人たちが、日本文化に対して、なかば願望に近いミステリアスな理想を投影しているということである。
高野氏が会った東京の片田舎に住む欧米人たちは、日本ではほとんど知られていない「ブトー」(舞踏)に打ち込みながら、日本社会には溶け込まずにコミュニティを作って暮らし、ブトーがまったく分からない高野氏に対して「日本人だからその真髄を理解しているのではないか」と期待する。インドで自分探しをする外国人旅行者も、バックパッカーの溜まり場である安宿を泊まり歩きながら、「インドの人々の哲学的な眼差しの奥に、生きるヒントが隠されているのではないか」とか勝手に思ったりしているので、この「日本をインド化する」という呼び方はじつに的を射ている。
唐突にこのエピソードを持ち出したのには理由がある。
1960年代のビートルズの時代から60年が経ち、私が初めてインドを訪れた1990年代からも、30年の時が流れた。その間、インドは急速な経済成長を遂げている。いまでもインドに深淵な哲学や精神文化が根付いていることは否定しようがないが、それはそれとして、都市部では、多くの人たちがそういう伝統とはあんまり関係なく生きている、というのもまた確かだろう。豊かさによって生活がグローバル化し、それによってアイデンティティの喪失や孤独感に苛まされるというのは世界共通で、インドもまた例外ではない。
そうなると、インド人たちもまた、どこか外国にまだ知らない神秘的な文化があり、そこに幸せに生きる秘密が隠されているのではないかと考えるようになってくる。インド人がそのように考えるとき、その探求先はどこの国なのかというと、それは先ほど紹介したフランス人たちと同様に、ここ日本なのである。
インドの書店に行けば、世界的ベストセラーになったエクトル・ガルシアの「Ikigai」や、曹洞宗の僧侶で庭園デザイナーの枡野俊明のZen(禅)についての本など、日本の精神文化に関連する本が目立つところに並んでいる。日本の精神文化のルーツは仏教だから、仏教が生まれたインドの人々がわざわざ日本に拠り所を求めるのは不思議な気がするが、彼らにしてみると、物質的な価値観がすっかり浸透してしまった自国の伝統に立ち帰るよりも、未知の外国文化の中にこそ、生きるヒントが存在しているように思えるのだろう。「Ikigai」と並んで「Ichigo Ichie(一期一会)」もインドで人気の日本語フレーズだ。
つまり「インド人が日本をインド化する時代」がやってきたのである。インド人にインド化して見られるということは、日本は実はもうインドなのではないか。かつて筋肉少女帯の大槻ケンヂは、1989年にリリースされた「日本印度化計画」という曲のなかで「日本を印度にしてしまえ!」と叫んでいたものだが、あれから35年余り、我々の気づかないうちに、日本のインド化計画は完遂していたのかもしれない。
インディペンデント音楽流行の背景
経済成長によって形成されたインドのミドルクラスの子どもたちは、生活レベルを維持するために、日本よりもはるかに過酷な競争社会を勝ち抜かなくてはならない。都市部では、教育レベルや、職業のグレード(給与水準)が、社会的な階層を決定づける「新しいカースト」として機能しつつある。彼らは物質的な豊かさと引きかえに、良くも悪くも伝統的な価値観から離れ、グローバルな資本主義社会に生きざるを得なくなった。若者たちは、親やコミュニティの生業を継ぐのではなく、より良いとされる職に就くために、学び、働くスキルを磨くことが求められているのだ。
こうした社会の変化こそが、インドでインディペンデントな音楽シーンが流行する要因になったと筆者は考えている。前提として、インディペンデント音楽が広く聴かれるようになるには、経済成長による可処分所得の増加、新しい流通媒体の普及、そして若者を取り巻く環境の変化という3つの要素が必要だ。
例えば、若者に熱狂的に受け入れられた音楽の元祖であるロックンロールが1950~60年代のアメリカで流行した背景には、戦後の好景気によって拡大した中産階級、レコードやレコードプレーヤーの普及、そしてティーンエイジャーという新しい社会的存在の登場があった。それまで単なる大人への過渡期と見なされていた10代が、保守的な価値観に反発し、自らのアイデンティティを模索する独立した世代として台頭したのだ。この世代の「自分探し」こそが、新しい音楽文化を生み出す土壌となった。日本でも1960年代のフォークブームは、高度経済成長による生活水準の上昇、音楽再生機器の普及、そして学生運動を中心とする社会のうねりといった複合的な変化が揃ったことで初めて起きた現象だった。
まさに今、インドでもそれと同じような現象が起きている。急速な経済成長による生活スタイルの変化、ストリーミングという新しい音楽の消費形態の浸透、そして社会構造の大きな変革によって、若者たちは古い世代とは異なる感覚や価値観を育み始めている。インドでも、新しい世代のリアリティに根差した、新しい音楽が必要とされているのだ。
Ikigaiとアニメ――新しいインド音楽のなかのニッポン
かつて欧米のミュージシャンたちが、自分の音楽にインドの要素を取り入れたように、インドの若いアーティストたちも、音楽に日本的な要素を取り入れたり、日本語のタイトルを付けたりするという現象が起きている。
前述のベストセラーのタイトルにもなった「Ikigai」は、私の知る限りでは、ベンガルールのジャズ/ヒップホップバンドのファキール・アンド・ジ・アーク(Fakeer and the Arc)のアルバムタイトル、ニューデリーのプログレッシブロックバンドであるヤティン・スリヴァスタヴァ・プロジェクト(Yatin Srivastava Project)や、チャッティースガル州のローファイ・アーティストのプリトゥヴィ(Prithvi)の曲名に使われている。
日々の暮らしの中で、自分の生きがいに思いを馳せる時間を持つ日本人はほとんどいないと思うが、そんなことはお構いなしに、「生きがい」というコンセプトはインド人たちの心を強く惹きつけているようだ。2017年に出版されたエクトル・ガルシアの「Ikigai」は、大ベストセラーとなり、なんと2020年から2022年の3年間にわたって、インドでの書籍の売り上げナンバーワンの座を維持したという。今ではヒンディー語、マラーティー語、ベンガル語、タミル語、カンナダ語など、インド各地の言語へと翻訳もされている。
「自己のIkigaiを探す」とは、言い換えればすなわち自分探しにほかならない。自我をしっかり持っているように見えるインド人たちにも、ついに異国のカルチャーに「自分探し」をする時代がやってきたのだ。
「Ikigai」のほかにも、インド人ミュージシャンによる日本語タイトルの作品はたくさんある。
宮崎駿の影響を公言しているデリーの電子音楽アーティストKomorebiは、「Ninshiki」というアルバムを2020年にリリースしている。彼女によると「ニンシキとはin dreamsという意味」とのことで、うーん、ちょっと違うかなと思うが、この絶妙な誤訳はなかなか素敵だと感じる。コルカタ出身のシンガー・ソングライター、サヤンティカ・ゴーシュ(Sayantika Ghosh)の楽曲「Samurai」は、80年代っぽいカラフルなSFアニメ調のミュージックビデオが楽しいエレクトロ・ポップだ。コロナウイルス禍のロックダウン中に書かれたこの曲は、「サムライのように平常心を保ちたいという心情」を表したものだそうで、彼女の内面を模した2人の女性キャラクターの造形は、人気漫画・アニメ『鋼の錬金術師』の影響を受けているという。ムンバイのアンビエント音楽家リアツ(Riatsu) は、「Tabi」とか「Kumo」といった日本語タイトルの曲を発表している。彼に不思議なアーティスト名について尋ねたところ、『BLEACH』に出てくる霊的エネルギーの「霊圧」から取ったとのこと。
こうして日本語タイトルの曲を引用しているアーティストたちのエピソードを並べると、彼らがいずれも日本のアニメから影響を受けていることが分かる。アニメはIkigai以上にインドで絶大な人気を誇るジャパニーズ・カルチャーなのである。
ヒップホップ・シーンにも浸透する日本のアニメ
いまや日本のアニメは世界中で親しまれているが、インドでの人気は想像以上だった。若者向けの店が並ぶムンバイのバーンドラ地区で地元のバンドやラッパーのTシャツを探してみたところ、並んでいたのは『呪術廻戦』や『NARUTO』のイラストが使われたTシャツばかり。アジア最大のスラム街とも呼ばれるダラヴィ地区のヒップホップ・スクールでは、アートの授業で子どもたちはヒップホップ的なグラフィティ・アートではなく、日本のアニメのイラストを描いていた。インドのリアルなストリートカルチャーを探しに行ったはずが、まさか日本のアニメに出会うことになるとは。
世界的人気ラッパーのミーガン・ザ・スタリオンやリル・ウージー・ヴァートがアニメ好きを公言し、第1章で触れたローファイ・ビートがアニメとヒップホップを繋ぐジャンルとして確立していることからもわかるように、いまやヒップホップとアニメは切っても切れない関係だが、それはインドでも同様である。ゴア出身の人気ラッパー、ツムヨキ(Tsumyoki)の首には「悪鬼滅殺」という漢字のタトゥーが入っているが、これは、『鬼滅の刃』に出てくる言葉だ。『ドラゴンボールZ』からの引用をリリックに用いるラッパーも多く、ハヌマンカインドにいたっては、「かめはめ波(Kamehameha)」というタイトルの曲まで発表している。
日本の伝統やアニメの影響が、インドのラッパーの作品のビジュアルイメージに使われることもある。若干雑なときもあるのはご愛嬌だ。デリーのラップデュオ、シーデ・モート(Seedhe Maut)が2023年にリリースしたアルバム「Lunch Break」のアートワークには、サムライらしき二人組が描かれているが、AIが生成したと思われるこのイラストが、とにかく変なのだ。二人とも体には矢が突き刺さり、どうやら落武者のようなのだが、浪人風の見た目の男性は、切り傷を負い、腕には包帯を巻いた状態で、路傍の岩に腰掛けて、なぜか蕎麦を食べている。もう一人のメガネをかけた鎧武者は、血が滴る刀に串刺しにしたバーベキューのような肉を豪快に食いちぎっている。二人の前にはカツカレーと思われる皿が置かれ、背景には桜吹雪と二匹の龍が舞っている。いくらなんでも、わけがわからなさすぎる。念のため言っておくと、彼らのラップのスキルやビートメイクのセンスはとても良い。ちなみにこのアルバムには『NARUTO』に登場する組織から名前をとった「Akatsuki」という曲も収録されている。
そもそも、ジブリやハガレンやNARUTOに出会う前から、多くのインドの若者は日本のアニメに親しんで育ってきている。『ドラえもん』や『クレヨンしんちゃん』は言うに及ばず『忍者ハットリくん』や、なんと『こち亀』までヒンディー語の吹き替え版が作られ、子どもたちの人気を集めているのだ。ちなみに『こち亀』のインドでのタイトルはそのまま『Kochikame』。意味が分からないと思うが、東京の下町で騒動を巻き起こす型破りな警察官は、インドの子どもたちから見ても面白いらしい。
たくさんある日本の子ども向けアニメの中でも、ダントツで人気なのが藤子・F・不二雄先生の『ドラえもん』だ。前述のダラヴィのヒップホップスクールを訪れたとき、子どもたちへのお土産に日本のどら焼きを持って行った。Tirakitaというインドグッズを扱っている通販サイトに、彼らがアニメの中でしか見たことのないどら焼きは必ずと言っていいほどインド人に喜ばれると書かれていたからだ。
方々で配っていたのでプレゼントできるどら焼きは最後の一つしかなく、「みんなでシェアして食べて」と伝えると、子どもたちにブレイキンを教えているメンターの若者は、「わあ!『ドレーモン』のドラケーキだ!」と大興奮(インド人はドラえもんとどら焼きをこう呼ぶ)。しまいには、「これは子どもにはあげない。一人で食べる!」と言い出した。それくらいうれしいという意味だと思って微笑ましく見ていたら、彼は本当に子どもが見ていないところで、一人でどら焼きを食べていた。スラムの子どもたちのために無償で働く心優しい若者さえここまで利己的にしてしまうインドでのドラえもん人気、恐るべし……。
ジャパニーズ・カルチャーを深掘りするインドのアーティストたち
「Ikigai」やアニメのような流行の枠を超えて、さらに深く日本のカルチャーを掘り下げているアーティストもいる。デリーのマスロック/プログレッシブメタルバンド、クラーケン(Kraken)は、2017年に日本風のアートワーク(桜色の背景に五重の塔と箸としゃもじが描かれている)のEP「LUSH」をリリースしている。彼らに日本のアーティストからの影響を訊いてみたところ、「いくつか挙げるなら、上原ひろみ、山下洋輔トリオ、きゃりーぱみゅぱみゅ、菊池雅章、Uyama Hirotoだね。ヒップホップならNujabes、Ken the 390、Gomess。映画なら宮崎駿、今敏、岩井俊二」という答えが返ってきた。アニメの主題歌をやっているようなアーティストの名前が挙がるものと思っていたので、あまりにも幅広い好みとアンテナの張りっぷりにびっくりしたものだった。コルカタのテクノ・デュオ、ハイブリッド・プロトコル(Hybrid Protokol)に、彼らの「Tetsuo」という曲について、「『AKIRA』のキャラクターからタイトルを取ったの?」と尋ねてみると、そうではなく塚本晋也監督による日本最古のサイバーパンク映画の『鉄男』だという。あらゆるコンテンツが溢れている時代に、インスピレーションを求めてカルチャーを深いところまで探る彼らの姿勢からは、我々も学ぶべきところが多いのではないだろうか。
日本の音楽に関する話をしていて、もっとも驚かせてくれたのは、ヒップホップやEDMの人気プロデューサー、カラン・カンチャン(Karan Kanchan)だ。彼は、ラーター・マンゲーシュカルが歌う1966年のボリウッド映画『ラブ・イン・トーキョー』の主題歌「サヨナラ・サヨナラ」は、都はるみの「好きになった人」のパクリなんじゃないか、という日印両国のポピュラー音楽に相当精通していないとできない面白すぎるツッコミをしてくれた。調べてみたところ、「好きになった人」のほうが『ラブ・イン・トーキョー』の2年後にリリースされているので、どうやらパクリ説は思い過ごしだったようだが、彼がそこまで深く日本の音楽シーンを掘り下げてくれているということにいたく感動した。
彼は自身がプロデュースした曲の再生回数が主要サブスクで軒並み10億再生を超えているという相当な売れっ子である。最近では念願叶って、大ファンだというAwichがデリーのKR$NA(クリシュナ)と共演した曲のビートを手掛け、夢を叶えた。「Hello」と名付けられたその曲の中で、日印の人気ラッパーは、カラン・カンチャンの発案で「はじめまして」と「ハンジ・ナマステ」と両国の言葉で韻を踏みながら挨拶を交わしている(「ハンジ〔ハーン・ジー〕」は「イエス、マダム/サー」といった意味)。極東と南アジアのラッパーのコラボレーションにふさわしい、素晴らしいライミングだ。
さらに突き詰めると、インドには「日本語で歌うシンガー」まで存在している。ムンバイ出身のシンガーソングライター、ドリシュティ(DrishT)は、アニメへの興味から日本に興味を持ち、独学で日本語を学び、日本語で作詞した曲をいくつかリリースしている。彼女の『コンビニ』は、コンビニに行ってパンケーキの材料を買い、調理するまでを歌ったキュートな曲だ。
この曲を書いたとき、彼女はまだ日本に来たことがなく、日本で撮影されたVlogなどを見て想像して歌詞を書いたという。好きな日本のアーティストを聞いてみたところ、「大橋トリオ、久石譲、林ゆうき、Tempalay、Burnout Syndromes、Radwimps、米津玄師、神山羊、King Gnu。あ、百景とU-zhaanを言い忘れました」とのこと。私のインドのインディペンデント音楽に対する知識もたいがいインド人に驚かれるが、彼女の博識ぶりには度肝を抜かれた。
文化が混じり合って生まれる、新しい「懐かしい」
数多いインド人アーティストによる日本語タイトル曲のなかで、いちばんのお気に入りを選ぶとしたら、ヒンドゥスターニーの古典音楽をルーツに持ち、ボストンの名門バークリー音楽大学出身という経歴を持つサンジータ・バッタチャリヤの「Natsukashii」という曲だ。
この曲は英語で歌われるポップなオーガニックソウルで、かつて別れた恋人との思い出を振り返りながら、傷つけてしまったことを悔やんだり、二人の時間に感謝したり、相手の幸せを願ったりするという内容。日本語のタイトルが付いた曲を、アメリカ留学経験のあるインド人の女性シンガーが、英語で歌って母国でリリースしているというわけだ。
「懐かしい」という言葉のニュアンスはノスタルジックともちょっと違うし、日本語固有の表現なのかもしれない。一語で「内なる平和」や「心の平安」を意味するサンスクリット語の「シャンティ」という言葉が外国人にとって魅力的なのと同じように、「懐かしい」には彼女を惹きつける響きがあったのだろう。
インドと日本の文化や伝統、そして欧米で生まれたポピュラーミュージックが混ざり合って新しい音楽が生まれ、日本人にはありふれた「懐かしい」という言葉も新鮮に聞こえる。じつに素晴らしいことじゃないか。
最近は日本でも南アジアからの観光客を見ることが多くなったが、インドのインディペンデント系ミュージシャンのなかにも、日本を訪れる人が増えてきている。インドのアーティストのみなさんには、ここ日本で思う存分に自分探しをしてもらって、もっともっと面白い作品を作ってくれることを期待したい。
ようこそ日本へ。私は実は、あなたなのだ!
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