ビジネスにおけるドレミファソラシドを考える──「価値」のはなし
前回の結びに、この連載(この旅)のはじまりを、表現手段であるビジネスそのものをいろいろな視点から紐解いていくことからはじめてみよう、とご提案しました。まずは、ビジネスという営みが成立するとは、そもそもどういうことなのか。その成り立ちやメカニズムを解きほぐしていきたいと思います。「価値」「生産」「商品やサービス」「資源」「資本」など、この営みへの理解を深めるうえで鍵となる概念について、あらためて考察していきます。
それらは、ビジネスという表現手段のドレミファソラシドのようなもの。
ピアノも鍵盤を叩けば音は鳴ります。でも、一つひとつの鍵盤の音の違いを区別し、音と音符の対応関係がわかるようになれば、音楽をもっと自由に奏でることができるようになりますよね。それは、ビジネスも同じだと思います。事業表現に用いる手段、その基本となる音を一つひとつ確認していきましょう。
今回は、ビジネスにおける「ド」。「価値」についてです。
ふさわしい手段を探しにいく
はじめに、ぼくの大好きな写真家の話を紹介させてください。京都の京北に暮らしている外山亮介さんという写真家がいます。家業が着物の染め屋だった彼は、家業を継ぐのではなく、日本各地の同世代の職人さんたちのポートレートを撮り始めました。そして、北は青森から南は鹿児島まで、20名の職人さんたちのポートレートを撮り続けた中で、自分がやっている行為は目の前の職人さんに対して敬意を欠いているのではないかと感じるようになったそうです。職人のみなさんのものづくりの姿勢に対して、あるいは伝統工芸が持つ蓄積された知恵の一部としてなされる仕事の重みに対して、パシャっと一瞬で切り取る行為の軽さが、嫌だなと思った、と。
職人のみなさんは、ものをつくるということを全てやっている。素材も、技法も、道具でさえ適したものがなければ自分でつくる。カメラで撮るという行為そのものを、職人の皆さんに対するリスペクトにふさわしいかたちでやるならば、自分も同じように道具までも吟味し、根本からつくるべきなのではないか。そう考えて、カメラという道具が生まれたところまで遡ってみたのだそうです。写真が工業化される前の技法までさかのぼり、素材から手でつくる職人さんを撮影するのにふさわしい、ものづくりとしての写真をつくろうと。
そのとき外山さんは、「別の未来もありえた」と言っていました。例えば、現在のカメラは解像度が高いとか、シャッタースピードが速いとか、連写できるとか、バッテリーが長持ちするとか、携帯性に優れているとか、そういった方向に進化してきたけれど、もっと違うカメラもありえたはずだと考えた。それで彼は、湿板写真が撮影できる巨大なカメラを自らの手でつくりました。湿板写真は、ガラスやアルミの板に感光液を塗り、それが乾く前に撮影し現像する、古典的な写真技法です。シャッタースピードは1分半から3分間。人物を撮影するためには、カメラの前でじっと止まってもらいます。それでも人は動くものなので、その微細な動きまでが写る。それが、職人の内面を掬い上げるような表現を生み出すんですね。
つまり彼は、光を用いる職人となった。時間を切り取るのではなく、時間を重ねる表現としてのカメラをつくったのだと思います。(そして今では、アリストテレスや墨子が視ていたであろう光景までを自らの手でつくり、追体験するなかで発見した「Tempusgraph(テンプスグラフ)」という時間を描くための独自の技法を用いて活動しています。このお話もご紹介したいのですが、それはまたどこかで。)

左上:外山亮介《種 Seed, 2008》「導光 Leading Light」展 2019
右上:外山亮介《芽 Sprout, 2018》「導光 Leading Light」展 2019
左下:50x60cmサイズのアンブロタイプを撮影することが出来る、自作のウルトララージフォーマットカメラ
右下:外山亮介《芽 Sprout, 2018》「導光 Leading Light」展 2019
「別の未来もありえた」という外山さんの言葉。今、目の前にあるものやこと、それそのものが生まれたところまで立ち返ることで、いま当たり前に見えているものが、別の姿として立ち上がる。ぼくはこの視点と取り組み方にとても共感します。ビジネスもまた、既存の姿だけではないはずです。例えば、「経営」はいつからどうやって生まれたんだろう、他になり得たものは何だろうと想像すると、自由度が増します。今ある道具に対する見方も変わります。ピアノの鍵盤が白や黒ではない姿もありえるのかもしれませんし、もしかしたら調律された正しい音色のほかにも奏でたい音があるのかもしれません。「別の未来もありえた」という外山さんの言葉は、一度手を止めて自分たちの手元にあるものを眺め直してみることから、自分たちの目的にかなうものをつくりはじめる、そんな表現活動のはじまりの合図となる言葉だと思います。
そもそも「価値」とはどういうものだろう
それでは「別の未来もありえた」という視点を携えて、ビジネスという表現手段のドレミファソラシドを、まずは「価値」から眺めていきましょう。
ビジネスという営みを代表する言葉として、それ以上分解できない単位であり基本的な要素として「価値」という言葉があります。価値を創造する、価値を分配する、価値を感じるからお金を支払う、あるいは交換する、労働という価値を提供する、など、ビジネスのための楽譜があるとしたら、まさに基本となる音符として「価値」があります。では、その「価値」とはなんなのでしょうか。外山さんのように、「価値を生む」とはどういうことか、「価値を感じる」とはどういうことなのか、その手がかりを根本まで遡って眺めてみると、「価値(value)」の語源はラテン語の「valere」で、「力がある」という意味があることに出会います。
「力がある」と感じることから
人は生まれながらにして「力がある」と感じる存在に注意を向けるようにできていて、そうした相手からより多くを学べる個体が生き残ってきたと言われています。例えば、赤ちゃんに未知のものを手渡すと、まず大人がそれをどのように扱っているかを観察し、最も上手く扱えそうな人物を見抜いて真似をする、という統計的な傾向があるのだとか。こうした「力がある」と感じる人物に従い、そこから学ぶ能力が高い個体ほど、生存に有利だったというのです。
自立する頃になると、何が自分たちにとって有用なのか、生きるために嬉しいことなのかを、世界の中から見抜くことが重要になります。「力がある」と感じ、周囲に放つ匂いを嗅いで、あるいは動物が食べているから大丈夫、というように、さまざまに発見が繰り返されてきたのでしょう。そして、漠然としたものの中から、何かを「わける」「区別する」ことができた。つまり、人に「発見」され「用いる」ことができると「区別された」とき、世界に「価値」という差異がひとつ刻まれる。それが「価値」だと思うのです。
動詞のみの世界から名詞をもつ世界へ
最初の「価値」の発見は、同時に最初の「編集」であるとも思います。人が生きていくことは、〈見る〉〈食べる〉〈取る〉〈ちぎる〉といった、さまざまな動詞で構成されています。その動詞が、より可能な状態になるものが有用なものである、という学習を繰り返し、未価値だったものが価値化されてきたのではないでしょうか。それはつまり、世界に「できる」がひとつ増える、ということでもあります。
例えば、「この草は、私が〈食べる〉ということをより可能にするものだ」「あの木のほうが硬いから〈叩く〉をより可能にするものだ」「あの葉はちぎりやすいから〈覆う〉をより可能にするものだ」というように、生きるための行為がより可能な状態になるものは有用だ、という学習があり、区別され、価値をもつものという構造が共同体のなかに生まれる。この「発見」と「共有」がある方向性を持って繰り返されることが「価値づけ」なのだと思います。そのプロセスはまさに「編集」でもあります。そして、動詞をより可能な状態にするものが「価値」あるものと区別され、やがてその価値に名前がつくことで「名詞」が生まれたのだろうと思います。
このように、自分の、あるいは自分たちの動詞がより豊かになるということに対して人は価値を感じ、それが経験的に覚えられ、共同体に共有され、学習され、継承される。この継承が起こると、共同体と共同体のあいだに学習の差が生まれ、より生存率の高い共同体が形成されていく。例えば、「火」の発見と利用は、消化器官に使うエネルギーを脳に回すことを可能にし、大脳の発達を促しました。火の有用性を発見し、利用できた共同体のほうが「力がある」、つまり「価値」があるように感じられたのでしょう。「価値」が人を惹きつけ、結びつけ、共同体として維持と拡大をさらに促したのだと思います。
やがて道具を獲得していきます。ある動詞をより可能にするもの、その塊である道具を手にできた共同体がより強くなる、「力がある」状態になる。道具という、ある動詞がより可能になるものの塊は、材料の選び方、形状、つくり方など、それ自体が発見と共有の繰り返しによって育まれた知恵の塊で、人生の長さを超えて、世代を超えて受け継がれます。人々の学習が結晶化されて、人生を超えていく。時間的にも空間的にも、知恵が伝承され、重なっていく。道具そのものも、洗練され、改良され、より「力がある」状態を有していく。「力がある」もの、「価値」あるものに付けられた名前も受け継がれ、名詞のある世界になっていく。
名詞が生まれるとき
「名詞」というものがどう生まれるのか。職人さんが使う道具をつくることが専門の、ある職人さんから聞いた興味深いエピソードがあります。
今、国内には道具のつくり手がいなくなることで継承が難しくなっている技術がたくさん生まれています。その方は道具をつくる職人となるために、その当時日本に一人しかつくり手がいなくなっていたある道具に注目し、それをつくる技術を学ぼうと職人のもとに弟子入りしました。数年を経て成長し、日本国内にその技術の職人が二人になれた頃のこと。一人で作業している分には、道具に名前をつける必要はありません。手取り足取り指導を受けているうちも、「あれ」「それ」と指差し指示で道具を指定できます。しかし、修練を重ねてつくり手が二人になり、背中合わせで作業するようになると、「何々を取ってください」と言わなければならず、そこで初めて道具に名前をつける必要が生じたそうです。
目の前のそれを指差しで認識し合うことができない、そんな状況でそれを伝達しようとするとき、「名詞」が必要になる。名付けは、共同体の学習が共有されていくための装置でもあるのだと思います。それは、言語の発生に近いのかもしれません。
価値とは、学習の結晶
「価値」というものは、このようにして形づくられていく。そのプロセスを人は「学習」と呼び、わかったことを「技術」や「知恵」と、できたものを「言葉」や「道具」と、そして、その集積を「文化」と呼ぶとするならば、人々の営みの基本には「発見」と「共有」のプロセスがある。ビジネスという営みもまたそうだろうと、ぼくは思います。
またこのように考えをめぐらせるなかで、もうひとつ重要な気づきがありました。それは、「発明」という言葉の内実への理解です。
「発見」とよく似た用い方をされる言葉に「発明」という言葉があります。「発明」とはもともと世の中に存在していなかったものを新たにつくりだすことです。では、どのようにして「発明」は可能になるのでしょうか。そこには、「発明」以前に〈発明する〉をより可能にするものの「発見」がある、と気づきます。また〈発明する〉という試行錯誤の成果を「発明」だと気づくためにもまた「発見」が必要であることもわかります。このように捉えたとき、「発明」への人々の参画性が大きく広がることに気づきました。
さらにもうひとつ気づくことがありました。それは、「価値」あるものの交換を促すものは、共同体による学習量の「差異」なのではないかということです。
ある人が何もないただの葉っぱの一群の中から、〈食べる〉という行為をより可能にするもの、「力がある」ものを発見し、試してみる。食べることができたという経験が、その葉っぱを他の葉っぱと区別させ、共同体として共有される。学習がなされ、食べられるものが増え、結果として寿命が延びるようなことが起きる。道具や言葉が育ち、さらに価値を感じる対象をつくりだす。
つまり、「価値」があるものとは、共同体による学習の結晶。みんなでどれだけ学習してきたかが価値を形づくる源泉であり、その「差異」が、欲しいという欲求、交換したいという欲求を生む。そう考えると、例えばぼくたちが日常的に使っている文房具ひとつとっても、さまざまな時代と地域での学習の蓄積であり、技術の連鎖です。ペンを育んできた人類としての学習量にあらためて驚くとともに、あのペンとこのペンの違いの背景にある企業をはじめとした共同体としての学習の質の差に目を向けることができます。そして、ビジネスという営みを、共同体で学習し続ける、とても人間味のある行為であるとも思えてきます。
今回は、ビジネスにおけるドレミファソラシドの「ド」である「価値」について考え、その音色をあらためて確かめてみました。そこに、これまでとは少し変わった響きを感じてくださったとしたらとても嬉しいです。次回は、「レ」としての「生産」の響きにも、耳を傾けていきましょう。
「事業表現」という新しい解釈で、どんなことを感じたか。みなさんが見た風景を、ぜひ教えてください。


