永久には保証されなくなったわたしたち、だからこそ
序
今からちょうど10年前——2015年の大晦日、わたしは大学受験の勉強もそこそこに紅白歌合戦を観ていた。流行を拒絶することがアイデンティティの一部であった自分にとって、紅白はオーバーグラウンドの音楽に物申す絶好の機会だった。紅白を「冷笑」的に眺める態度は、おろかにも世間と自分とのあいだにあるズレを演出するための戦略だったのである。
そんな当時の自分の青さを思うと、枕に顔を埋めて「あ゛あ゛あ゛あ゛」とやりたくなる衝動に駆られるけれど、今日の紅白パフォーマンスをめぐる「炎上」も、その方向性は違えど、ある種の冷笑的態度に起因するところが多い気がする。
昨年末の紅白では、フィメールラッパーのちゃんみなによる《NG》のパフォーマンスが今日のフェミニズムの現在地を示したが、それは同時にさまざまな批判にも晒された。きらびやかなボディースーツを身にまとい、「NO」を突きつけるちゃんみなのステージは、これまで多くの女性を突き刺さしてきたまなざしの体現だったはずである。それへの心ない断罪は、適切か/適切でないかのジャッジというより、「世間と自分のあいだにはずれなど存在しない」という前提に基づく一種の冷笑によるものではなかったか。
さて、実は10年前の紅白において、これとは別のベクトルから物議を醸したパフォーマンスがあった。西野カナの《トリセツ》である。2015年9月にリリースされた西野カナの27枚目シングルであり、彼女はこの曲によって、9年連続の紅白歌合戦出場を果たした。取扱説明書の体で恋人への要望をユーモラスに綴ったこの曲は、「女性が共感できる曲」として、かなりの支持と認知度を獲得した。
しかしながら《トリセツ》をGoogleの検索窓に入れてみると、全角スペースのあとにすぐさま「めんどくさい」というキーワードが立ち上がる——そう、この曲は当時、女性の「めんどくさい」側面を象徴する楽曲として、しばしば槍玉に挙げられたのである。
一方でこの曲は、2015年当時のロマンチックラブ・イデオロギー、つまり「恋愛を通じて『運命の人』と出逢い、結婚して家庭をつくる」という規範に則った楽曲でもある。つまり《トリセツ》は二重の意味で、規範的な女性性を立証・補完する曲として批判されうるのだ。一方は「めんどくさい」女性イメージの体現として、もう一方は「恋愛」「性愛」「生殖」を三位一体とする理想的なビジョンへの抵抗として、である。
このような背景により《トリセツ》は、世間で広く愛聴されてきた楽曲でありながら、同時にたくさんの批判を受けてきた。しかしながら、歌声、歌詞、衣装、パフォーマンスなどによって女性の抑圧を力強く描き出した《NG》のような楽曲が議論の対象となっている今だからこそ、この楽曲に立ち帰る必要があるのではないだろうか。
当然ながら、ちゃんみなが示したような、従来的な女性性のコードへの抵抗を試みる表現が重要であることは間違いない。だが、ある時点で「規範的な女性性」とされた何かを実践していた(ように見える)アーティストの事例をここで改めて考えてみることは、新たな視点を我々に与えてくれるかもしれない。性をめぐる規範の再編は、一見従来的で、保守的と思われるような表現のなかにこそ、複雑なかたちであらわれる場合がある。
ゆえに今回は、《トリセツ》において示された女性の欲望が、今日のわたしたちに一体何を示してくれるのかを考えてみたい。西野カナの楽曲は、女性がいかにロマンチック・ラブ・イデオロギーの言説を、選択可能な女性性のひとつとして引き受けてきたかを考えるための、重要なサンプルである。そしてそれは、今日の我々がしばしば目にし、また我々自身が内面化する「冷笑」へのアンチテーゼになる可能性を秘めているかもしれないのだ。
シンガー/アーティスト/シンガーソングライターとしての西野カナ
西野カナは2010年代を通じて、主に女性ファンから高い人気を獲得したシンガー/アーティスト/シンガーソングライターだ。2008年にシングル《I》でメジャーデビューした彼女は、テレビドラマや映画、CMなどの主題歌を多数担当し、日本のポピュラー音楽のオーバーグラウンドにおいて安定した活動を継続してきた。本稿が取り上げる《トリセツ》も、映画『ヒロイン失格』の主題歌であった[1]。
彼女の公式ホームページには「リアルな恋愛観を綴った歌詞と、類まれな歌声が話題を集め、女性ファンを中心にブレイク。またそのキュートなルックスから数々のファッション誌の表紙を飾るなど、ファッションアイコンとしても絶大な支持を集めている」という紹介文が掲載されている[2]。音楽雑誌やTV番組などのマスメディアにおいて、女性の悩みに寄り添う「恋愛の神様」「恋愛のプロ」として扱われてきたことも見逃せない点のひとつだ[3]。
さて、本節冒頭で彼女を「シンガー/アーティスト/シンガーソングライター」という周りくどい表現で形容したのには理由がある。彼女は自分が歌う楽曲の歌詞を自身で手がけながら、作曲は他の作曲者に委ねる、という制作スタイルをとっている。その点において、彼女は本連載第1回で提示したシンガーソングライターの暫定的な定義に、一部当てはまり、また一部は当てはまらない存在といえる。
とはいえ本稿の目的は、彼女を「シンガーソングライターか/そうでないか」という議論の俎上に乗せたり、限定的な定義から彼女を検討することではない。重要なのは、シンガーソングライターをめぐって存在する二つの重要な要素——「自作自演」と「自己表現」の神話が、西野の活動のなかにも存在していることである。たとえば彼女は、2014年にデビュー5周年を記念したファンブック『LOVE STORY』のなかで、作詞活動について次のように述べている。
最初の頃は自分で歌詞を書くのは大変だなって思っていました〔中略〕でも、今は自分で書きたいっていう思いの方が強いから不思議だよね。やっぱり人に書いてもらった歌詞を100%自分の気持ちで歌うのって難しいと思う。すべて人が書いた歌詞で私が歌うとなったらなんだか女優さんになった気がする。セリフを読んでいるみたいな感覚かな?言葉使いの違いや考え方の違いがどうしても出てくるから、なんだか演技しているようなイメージになっちゃうんです。それに、私の歌詞は自分の体験談をたくさんちりばめていて(笑)、だからこそ共感してもらえるのかなって思うし[西野,2014: 59]。
このように西野は、歌詞を自ら手がけることの重要性を強調する。他の誰かによって書かれた歌詞を歌うことは、彼女にとって「女優」的な行為——つまり自分の感情とは別の何かを「演じる」行為に近いのである。また彼女は、自分が書く歌詞が「自分の体験談」に基づくものであり、それが聴き手の共感を呼ぶ一因なのではないか、と分析する。これはシンガーソングライターを取り巻いてきた「自作自演」の神話に、とてもよく似ている。
加えて西野は、歌詞を書く際に一種の「企画書」のようなものを製作することを公言している。曲中におけるストーリーや、登場人物の性格を想定したのちに「自分の経験や友達の話を組み合わせて歌詞をのせる」[ibid.: 61]という西野の作詞手法は、フィクションとして想定された他者像に自らの姿を投影する、という点においても、「自己表現」の一形態として興味深い。
また先ほどの紹介文では、彼女の「歌詞」「歌声」「ルックス」といった要素が、「女性ファンを中心にブレイク」した理由として挙げられていた。たしかに西野カナの場合、作詞を担いながら作曲を他者に委ねるという体制によって、「自作自演」という要素は相対的に後景化されている。だがその一方で、彼女自身の言葉や体験は、女性の共感を呼ぶための装置として巧みに機能していたのではないだろうか。
実は西野のように、作詞のみを手がける女性シンガーというのはだいぶ前から一定数存在している。そのことは日本における「シンガーソングライター」という存在を、さらに複雑にしてきた。だがこのような複雑さはむしろ、どのような要素が歌い手の「自己」の一部として承認されるのかを考えるための、よい材料になるだろう。
《トリセツ》とロマンチック・ラブ・イデオロギー
それでは《トリセツ》の分析に入りたい。本曲は「取扱説明書」の略称をタイトルに掲げており、オフィシャルサイトによれば「男性になかなか理解してもらえない女性の内面、乙女心を『取り扱い説明書』になぞらえて描いたラブソング」であるという[4]。
ゆえにこの楽曲は、はなから「女性/男性には根本的な違いがある」という、異性愛をめぐるありがちな神話からスタートしている。そしてこの楽曲の持ち味はなんといっても、良好な恋愛関係をキープするための要望が、商品の取扱説明書の体で提示されていくところにある。楽曲冒頭の歌詞を見てみよう。
この度はこんな私を選んでくれて
どうもありがとう
ご使用の前にこの取扱説明書をよく読んで
ずっと正しく優しく扱ってね
一点物につき返品交換は受け付けません
ご了承ください急に不機嫌になることがあります
わけを聞いても
答えないくせにほっとくと怒ります
いつもごめんね
でも、そんな時は懲りずに
とことん付き合ってあげましょう
(西野カナ《トリセツ》より引用)
ここで「私」は自己を商品として提示し、「正しく優しく」取り扱うよう要求し続けている。たとえば「一点物につき返品交換は受け付けません」というフレーズは、実際の説明書でもよく使用される文言だが、ここでは「かけがえのない存在」としての「私」を提示する文言として——そして婚姻関係を良好に継続していくための努力を促す文言として、パラフレーズされていく。
さて、歌詞は「定期的に褒めると長持ちするため、小さな変化を褒めるようにしよう」「ただし『太った』などの余計なことは気づかなくてよい」「もし古くなってきて、他の女性に目移りする場合には、二人の出逢いを思い出そう」といった調子で続く。このように、自分の身体や感情を意図的に物象化する姿勢こそ、《トリセツ》を《トリセツ》たらしめるユーモアである。
その一方で《トリセツ》は、恋愛関係を維持していくためには異性の外見的魅力が重要であることを、なんともナチュラルに、なんともキュートに強調してしまう。女性身体を(経年劣化する)商品に重ね合わせることは、文字通り女性身体の消費を正当化することにつながりかねない。その点には正直、筆者も危うさを感じている。
この曲のミュージックビデオもまた面白い。ステージ上に集められた女性たちが《トリセツ》の歌詞を、恋人と思わしき男性にひとつずつ投げかけてゆくのだ。これは「運命の相手」同士である一組の男女が、恋愛・結婚・生殖を引き受けることのロマンを体現した表現であり、まさにロマンチック・ラブ・イデオロギー——すなわち「愛と性と生殖とが結婚を媒介とすることによって一体化されたもの」[千田, 2011: 16]——の具現化として読解できる。それはサビを締めくくる「永久保証の私だから」というフレーズに集約されているようにも思える。
……とまあ、ここまでざっと見てきたように、《トリセツ》は今日のジェンダー論の観点からみると、さまざまな問題を抱えているようだ。女性の身体や感情が「商品」の比喩をまとって意図的に差し出されているし、その背後にはルッキズムやロマンチックラブ・イデオロギーが潜んでいる。
しかしながら《トリセツ》は、上記の観点とはまた別の立場から——恋人に対して無理難題を押し付ける女性イメージの体現として、主に男性から——批判の対象になった。その手の「反発」は、SNSやブログ、インターネット掲示板などで容易に目にすることができる。
だがその正体は、女性の欲望や要求がきわめて具体的な「交渉」であること自体に対する反発ではないだろうか。その際には当然、上記で見てきたようなルッキズム、ロマンチックラブ・イデオロギーは問題視されない。沈黙していることを期待されてきた女性たちが、自らの要求を言葉にし、交渉主体として振る舞うことに対する違和感。それは容易にミソジニー(女性蔑視)と結びつく。
《トリセツ》の奇妙さはまさにここにある。一方では女性身体の物象化を正当化するジェンダー的な危うさを持ち、他方では女性主体の交渉を直接的に描いた楽曲として、ミソジニー的に批判されるのだ。《トリセツ》がリリースされてから10年が経過した今、この複雑さはどのように理解できるだろうか?
「他者あっての自己」——西野カナをめぐる議論
ここでは理解のための手がかりとして、西野カナを取り上げたいくつかの議論を参照してみよう。先にも述べたように、彼女は「女性の共感」を広く獲得したアーティスト、という称号を手にしながら、同時にさまざまな批判を被ってきた存在である。西野は、10枚目のシングル《会いたくて 会いたくて》がリリースされた当時、周囲から「いろいろ言われた」ことを告白している[西野,2014]。そこで西野に向けられた批判は、《トリセツ》のそれにかなり近いところがある。すなわち女性の「主体性」をめぐる問題だ。
たとえば哲学者の戸谷洋志は、自著『Jポップで考える哲学』のなかで、《会いたくて 会いたくて》を取り上げている。サビの「会いたくて 会いたくて 震える」というフレーズが象徴するように、この曲は去っていった恋人に対する喪失感をテーマにした楽曲だ。彼はメルロ゠ポンティの「癒合性」という概念を参照しながら、失恋を「曲の主人公である『私』の生命を脅かしている」状態として位置づけ、恋愛という特殊な状況下において「自分と恋人とが分離不可能であるように感じられ」ているのではないか、と指摘する[戸谷,2016: 102–108]。
たしかに「会いたくて震える」というフレーズは、かつての恋人の不在が自らのアイデンティティを揺るがすほど、大きな影響力を持つということを示しているだろう。つまりこの楽曲の特徴は、失恋を「自己の存在基盤そのものを揺るがす出来事」として捉えている点にある。
加えて同曲では、男性との関係修復や、新たな行動に向かう能動的な選択はほとんど描かれない。「会いたい」という言葉のくりかえしによって増幅する欲望は、ただ負の感情として、彼女の内面に留め置かれるだけである。これは本曲のミュージックビデオにも端的に表れており、自室のようなセットのなかで悲しげな表情で歌う西野の様子は、なんとも弱々しく我々の目に映る。
このような他者との恋愛関係から構築されるアイデンティティは、《トリセツ》をはじめとする2010年代中盤以降のラブソングの特徴の一部であるとして、日本のラブソングにおける恋愛表象の変遷を分析した中條千晴は、次のように指摘している。
2010年前中期においても確固たる認知度を保つ西野カナやmiwaなどのヒット曲の歌詞にみられるように、男性に対して女性側が自らを低く見せる姿勢〔中略〕や、自らの主体性が男性からの愛によって成り立つような状態〔中略〕に葛藤するといった楽曲が目立つようになる。男性の語り手が「弱い僕」を自認しつつ悶え続ける一方で、女性はそんな男性を愛することに対して(すら)相手からの認証を得なければアイデンティティが成り立たないというジェンダーバランスを欠いた位置関係は歌詞において慣例化している[中條,2021: 185–186]。
上の引用では、まさに西野の提示する「私」が、恋人関係にある他者との関係性のなかで成立した存在として分析されている。これは戸谷の分析とも重なり合う、重要な指摘だ。中條の言うように、このような傾向は、90年代後半以降のラブソングにおいて見られた女性性の周縁化——女性アーティストの主体性が「逸脱か恋愛至上主義か」という二択に絡め取られてきた、という歴史的文脈からも考える必要がある。
実際のところ西野をめぐる評価は、肯定的なものにせよ否定的なものにせよ、女性をめぐる主体性のありかを問うものだ。肯定的に見るならば、彼女は女性のネガティヴな感情を肯定する存在であり、一方では女性の主体性を(異性愛を前提とした)男性の側に留め置く存在である。ゆえに今《トリセツ》を聴き直すなら、この両方に目を向けるべきだろう。
ポストフェミニズムと西野カナ
ここで改めて注目したいのは、それでも《トリセツ》が2015年当時の女性たちの支持を「共感」のもとに広く集めた、という事実である。たとえば高橋幸が指摘するように、ロマンチック・ラブ・イデオロギーは、日本において70年代から80年代にかけてのウーマンリブにおいて、既に批判の対象となっている[高橋,2021: 11]。とはいえ周知のように、恋愛・結婚・生殖をめぐる理想的なビジョンは、形を変えながら今日に引き継がれている。
本曲を聴きなおしたとき、わたしは『ブリジット・ジョーンズの日記(Bridget Jones’s Diary)』という映画への批判を思い出した。ロンドンで出版社に勤める32歳独身女性のブリジット・ジョーンズが、仕事や恋愛、ダイエットに奔走する姿をコミカルに描いた作品なのだが、この映画はポストフェミニズムの代表的な論者のひとり、アンジェラ・マクロビーによって批判された。
本連載のタイトルにもなっている「ポストフェミニズム」とは、連載第一回にも書いたように、フェミニズムが掲げてきた諸目的や思想、特に女性の社会的権利の獲得が、ある程度定着したとされる社会状況のことである。そして今日では、そのような状況を批判的に問い直す議論として扱われる場合もある。
マクロビーは、女性の社会的権利がある程度獲得された「はず」である2000年代中盤の英国で、経済的な自立・性的な自由を謳歌するブリジットが、結局は結婚をゴールに見すえた「伝統的な女性の喜び」に奔走する背景に注目した。ブリジットも結局のところ、典型的なフェミニズムのイメージによって強調された「自立する自己」よりも、「他者あっての自己」を意図的に選択しているように見える。
《トリセツ》で描かれる女性を、そして《トリセツ》に共感する女性を、今日から見て「ポストフェミニズム的だ」と嘆くことはたやすい。たとえば、この曲がリリースされた2015年は「女性活躍推進法」が施行された年でもあった。女性が労働を通じた「活躍」と「自立」を男女平等の実現と結びつけたこの法律は、一見するとフェミニズムの成果の一部のようである[5]。他者との結びつきによって構築される自己を繰り返し強調した西野は、ある意味時代に遅れをとった存在として映るかもしれないし、もしくはそのような状況下においてなお、「他者あっての自己」を選び、強調する存在として、今我々の目に映るかもしれない。
しかしながら《トリセツ》は今日、一方では「自立」や「主体的」であることを求められ、他方では主張すること自体を嘲笑されるという、複雑な女性主体がそれでも/それゆえに抱える不安や弱さを、結果的に体現した楽曲として聴くこともできるのではないだろうか。実際に西野は《トリセツ》リリース後のインタビューにおいて、次のように語っている。
「トリセツ」を作るときは、ただ“好きです”とか、“あなたのそばにいたい”という気持ちを伝えるんじゃなくて、もっと女の子のリアルを表現したいなって思ったんです。女の子の独り言の中に、ちょっとしたコミカルさや可愛さ、愛情表現としての嫌味っぽい部分とか……。カップルの会話の中で、“言いたいことを可愛く言う”みたいな歌詞を書けたら面白いな、と思ったんです〔中略〕理想とする女性像は〔引用者註: 西野自身の中に〕常にあって、年齢を重ねるごとにその女性がどんどん強くなっているんです(笑)。恋をしていなくても、十分毎日が楽しいし、一人でも全然平気で生きていけそうな。女の人ってそういうものなのかもしれないなって思うけど、でもだからこそ、そこに弱さとか、可愛さを持っている人に憧れますね。[6]
西野自身の中にある「理想の女性像」についてのエピソードは示唆に富んでいる。彼女のなかでの理想は「恋をしていなくても、十分毎日が楽しいし、一人でも全然平気で生きていけそう」な「強い」女性である。だが西野は、同時に「弱さ」や「可愛さ」を併せ持つ人物に魅力を感じているという。前者は、まさに「他者あっての自己」と対照的な主体——つまりフェミニズムによって理想とされてきた主体であるように思われるが、西野はそのような自立的な主体にも確実に内在する、脆弱性のありかに注目しているのである。
とするならば、《トリセツ》はたんに前時代的な——女性の社会的権利がある程度獲得された「はず」の社会において、それでも恋愛結婚のロマンに依拠し、自己を進んで商品化するような——存在を体現したのではない。《トリセツ》は、フェミニズムのビジョンの一部が反映された(ように見える)社会状況における「理想」と、それでもなお、女性たちが抱く欲望のあいだに存在するなにかを、結果的に明るみに出している。
わたしはジェンダーについて考える者のひとりとして、女性の意志や主張、選択や交渉が不当に扱われる社会には断固として異議を申し立てる。そのような異議申し立てがさまざまな人々によってなされた結果、獲得された社会状況のなかで、それゆえに抱えることになった複雑な葛藤こそが、今日の「主体」の一形態であるはずだ。
これまで「フェミニズム」と呼ばれてきた闘いによって、獲得されてきた多くのものがある。それはわたしたちが暮らす社会の一部分を確実に作り上げているし、それによって広まった「自己」のありように救われた者も多いだろう。だからこそフェミニズムは、女性が「それでも/それゆえに」欲しいと思うもののゆくすえを、丁寧に扱う必要がある。まさに西野カナが、女性たちに向けてそうしたように、である。それは今日のフェミニズムに対するさまざまな冷笑への、ひとつのアクションになるかもしれない。
[1] 別冊マーガレットに連載されていた漫画『ヒロイン失格』の実写映画。筆者もリアルタイムで購読していたのだが、「幼馴染というポジションにいる自分はヒロインであるはずだ」という少女漫画のセオリーをメタ的に自己投影する主人公・はとりの存在は、当時の少女漫画におけるヒロイン像に一石を投じた、ような気がする。
[2] 西野カナ公式ホームページを参照[2026.01.23閲覧]。
[3] 西野に対し「恋愛の〇〇」というラベリングを行う媒体は多い。たとえば本稿の結論部で引用した2016年の記事では、タイトルで「恋愛ソングのカリスマ」としての西野が強調されていた。この他、ティーン向けのファッションショーであるTOKYO GIRLS COLLECTIONの関連雑誌である『TOKYO GIRLS JOURNAL vol.3』では、西野は「恋愛の神様」と称されていた。
[4] 西野カナ公式ホームページにおけるディスコグラフィーを参照[2026.01.23閲覧]。
[5] 日本におけるポストフェミニズムを論じてきた菊地夏野は、女性活躍推進法を「フェミニズムの右傾化」という側面から論じている。菊地はポストフェミニズムとネオリベラリズムの共犯関係を繰り返し強調しながら、女性の経済的自立というフェミニズムの「目標」のひとつが、女性を労働力として動員するための口実となってしまったことに注目した[菊地,2025]。
[6] オリコンニュース記事「恋愛ソングのカリスマ・西野カナ、『トリセツ』は“おばあちゃんの教え”が生んだ」を参照[2026.01.23閲覧]。
参考文献
中條千晴,2021年,「二一世紀のラブソング——現代日本ポップソングの恋愛表象についての一考察」.『現代思想』第49巻10号,182–193頁。
菊地夏野,2025年,『ポストフェミニズムの夢から醒めて』,青土社.
McRobbie, Angela, 2008, The Aftermath of Feminism: Gender, Culture and Social Change, London: SAGE Publications Ltd、2020
西野カナ,2013年,「恋愛の神様・西野カナかわいいのヒミツ。」『東京ガールズジャーナル = TOKYO GIRLS JOURNAL』 vol.4.
西野カナ,2014年,『LOVESTORY』,講談社.千田有紀,2011年,『日本型近代家族——どこから来てどこへ行くのか』,勁草書房.
高橋幸・永田夏来,2021年,「討議 これからの恋愛の社会学のために」.『現代思想』第49巻10号,8–30頁.
戸谷洋志,2016年,『Jポップで考える哲学——自分を問い直すための15曲』,講談社.


