路地裏から巨大コンサートまで——新しい音楽を探してムンバイを歩く(前編)
アポが取れない国
前々回と前回にわたって、ゴアとパンジャーブという、インドのなかでもユニークな音楽カルチャーを持つエリアを特集した。今回は満を持して、インド最大の都市ムンバイの音楽シーンについて書くことにする。
ボリウッド映画の制作拠点としても知られるこの街は、新しいインディペンデントな音楽カルチャーの中心地でもある。2024年末、私はムンバイのヒップホップ・シーンの調査に出かけた。そこで見て聞いて体験したエピソードを、前後編に分けてお届けしたい。
ムンバイでの調査が決まった私は、まず日本人なら誰もがするように、できるだけアポイントを取ってスケジュールを固めようと試みた。限られた期間で、できるだけ多くの人に会い、いろんな話を聞いて、さまざまな経験がしたい。そのためにはしっかりと予定を組む必要がある、というのがごく一般的な日本的な考え方である。ところが、インド人の考え方は真逆で、彼らは先々の予定を決めるのが好きではない。地元の音楽シーンに興味を持つ私に協力したいと思ってはくれているようなのだが、返ってきた返事のほとんどは「じゃあ、ムンバイについたら連絡して」というものだった。
渡航の2ヶ月前に提出した調査計画に確約済みの予定はほとんどなく、計画というよりも願望に近かった。ムンバイに降り立った時点でも、恐ろしいことに滞在中の予定はほぼ白紙状態。それでも、想定以上に面白い体験ができてしまうところが、インドという国の素晴らしいところだ。
ちなみにこの時の調査内容は、2025年4月に発行された『季刊民族学』192号「ダースレイダー責任編集 ヒップホップ――逆転の哲学」に書いている。ぜひそちらも読んでいただけたら幸いだ。
ムンバイ到着は夜だった。
宿に着いたのはほとんど夜中だったが、一息つく暇もなく、いろんな人に「ムンバイに着いた。いつなら会える?」というメッセージを打ちまくる。
宿泊先はクルラ地区。ここはボリウッド初のヒップホップ映画『ガリーボーイ』の主人公のモデルになったラッパー、ネイジーが生まれ育った街だ。空港近くの高速道路は日本の首都高よりもきれいに整備されていたが、この地域は初めてインドを訪れた約30年前とまったく変わらない街並みが広がっている。VEG.(菜食)とかNON VEG.(肉料理あり)と書かれた食堂や、飲料水やパーン(噛みタバコ)などを売る個人商店が並び、夜でも多くの人が行き交っている。シャッターが降りているのは小さな町工場のようだ。白いタキーヤ(つばのない浅い帽子)を被った男性が多いのは、この地域にムスリムが多いことを示している。ここでは観光客はもちろん、外国人もまったく見かけない。
ホテルまで送ってくれた友人は「このあたりはムスリムが多いから開発が遅れているんだ。こんなところに泊まって大丈夫か」とナチュラルな偏見の入り混じった心配をしてくれた。閑静なエリアに住むヒンドゥーの友人から見たら、このあたりはスラム同然に見えるのかもしれない。
窓の外から聞こえる下町の喧騒を子守唄に眠りについた翌朝、スマホをチェックすると、昨夜連絡したスラムのヒップホップスクールから返事が来ていた。
「ムンバイへようこそ。今日の午前中だったら会えるけど、どう?」
ずいぶんと急だが、ありがたい。ぜひとも訪れたかった場所だ。もちろん二つ返事でアポイントを取り付けた。
スラムの子どもたちはみな踊る
まるで本物の小学校のような教室で、子どもたちが輪になって盛り上がっている。本物の小学校と違うのは、教室の壁が色鮮やかなグラフィティに彩られていることだ。子どもたちが次から次へと輪の真ん中に飛び出してきては、得意のダンスを踊る。若い先生が抱えたラジカセからは、オールドスクールなヒップホップのビートが大音量で響いている。
いたずらっぽい笑顔で輪の真ん中に飛び込んできた男の子は、裸足でリズミカルなステップを踏むと、今度はすっと体を落として両手を軸にぐるんぐるんと体を回転させてみせた。子どもたちが踊っているのはブレイキン(ブレイクダンス)。男の子がビートに合わせてピタッとフリーズを決めると、大きな歓声が沸いた。
私がいるのは、「ザ・ダラヴィ・ドリーム・プロジェクト」(TDDP)。映画『スラムドッグ$ミリオネア』や『ガリーボーイ』の舞台としても知られるムンバイ市内の巨大なスラム街、ダラヴィにあるヒップホップを教えるフリースクールだ。
ここに来るまで歩いてきたダラヴィの目抜き通り「90フィート・ロード」は、人とバイクと車でごった返していた。活気にあふれた大通りの様子は、スラムという言葉が持つ殺伐とした印象とは程遠い。買い物だろうか、一人で歩いている女性の姿もよく見かけるので、少なくとも日中はそんなに治安が悪いわけでもないようだ。道の両側には小規模な商店や飲食店が並んでいる。確かに建物は粗末だし、こわれたトタン屋根をブルーシートで補強している店も多いが、それはクルラでも同じだった。
発展ばかりが注目されがちなムンバイだが、このあたりは完全にその発展から取り残されている。印象的なのは、英語がまったく通じないということ。道を尋ねても、英語で話しかけた瞬間に食い気味で「イングリッシュ、ナヒーン!(ノー!)」と返される。観光客やビジネスの出張者が訪れる場所ならどこでも英語が通じるムンバイだが、ここで生きていくためには英語はまったく不要なのだろう。
TDDPの門をくぐると、ブレイキンやラップを教えるメンターの若者たちが笑顔で迎えてくれた。全員男性で二十代。程度の差はあるが彼らは英語が堪能で、ダラヴィの外の地域から来ているという。
教室に集まっているダラヴィの子どもたちは小学生から中学生くらい。対照的にほとんど英語ができない。インドでは、英語は高収入・高ステータスの仕事に就くために欠かせないスキルだ。だから両親はできるだけ子どもを英語で授業を行う学校に通わせたがる。しかし英語で授業を行っている学校の多くは私立校で、貧しい地域で暮らす人々は、必然的に子どもをヒンディー語やマラーティー語で教育する公立校に通わせることになる。南インドからの移住者の多いダラヴィには、タミル語で教える学校もある。
ここの子どもたちが直面する困難は、教育の質や貧困だけではない。この地域にはアルコールやドラッグ中毒、DVなど多くの問題があり、スラム出身者に対する偏見もまだ根強い。そんなダラヴィの子どもたちに、ヒップホップによる自己表現を教え、他者に認められる経験を通して健全な自尊心を育てようというのが、このフリースクールの目的だ。
ダラヴィのヒップホップスクールの流儀
TDDPでは、ラップ、ブレイキン、グラフィティ、ビートボクシングというヒップホップを構成する四大要素を子どもたちに無料で教えている。「ヒップホップの四大要素って、ビートボクシングじゃなくてDJじゃなかったっけ?」と思う人もいるかもしれないが、スラムの子どもたちが、機材やレコードを必要とするDJを習うというのは現実的ではない。ターンテーブルのかわりに口を使ってさまざまなリズムを表現するビートボクシングのほうが、ここではヒップホップを構成する要素としてふさわしいのだ。
スクールについての説明を聴きながら案内されたのが、先ほど紹介したブレイキンの教室だった。鳴り続けるビートに乗って、今度はボリウッド映画にも出演したことがあるという男の子三人組が出てきた。彼らは逆立ちの体勢で頭を軸に回転するヘッドスピンに挑戦。うまくできなかった子は照れ笑いをしている。
次に出てきたのは、ぎくしゃくと歩く男の子だった。顔つきに比べてかなり小柄で、脚が不自然に短い。彼になんらかの障がいがあるということはすぐにわかった。リズムに合わせてステップを踏むのも大変そうな彼が、三点倒立のポーズを決めると、教室に大きな喝采があふれる。ヒップホップによる子どもたちへのエンパワーメントとしては、ちょっと出来過ぎなくらいに美しい光景だ。
ダイナミックに踊るブレイキンにしろ、リズミカルに韻を踏むラップにしろ、ヒップホップはパッと見てカッコ良さが分かりやすい。特別な道具を必要とせず、体ひとつでできるヒップホップは、スラムの子どもたちが楽しみながら自己表現するのにぴったりのアートフォームだ。当然ながらここはニューヨークでもアトランタでもないので、ここで子どもたちが楽しみながら学んでいる内容は、その母国であるアメリカのヒップホップカルチャーとは大きく異なる部分もある。
アートの授業では、子どもたちはヒップホップ・スタイルのグラフィティではなく、普通の水彩画や、ポケモンやNARUTOなどの日本のアニメのイラストを描いていた。ムンバイでも公共の場にヒップホップ風のグラフィティを見かけることは多いが、子どもたちにとっては、記号的なアートより、好きなキャラクターを描くほうが楽しいに決まっている。ピカチュウの絵を描くほうが楽しいなら、ここではそれが正解なのだ。
ラップを教えているメンターたちと話していると「最近のヒップホップもいいけど、インドの音楽を理解するにはクラシックを聴かなきゃだめだ」と言う。クラシックとはインドの古典音楽か、それともヒップホップの「古典的名盤」のことだろうか。
「オススメを教えて」と聞くと、彼らが名前を挙げたのは、ラター・マンゲーシュカルとかキショール・クマールといった往年の映画音楽の名歌手だった。日本的な感覚で言えば、美空ひばりや石原裕次郎のような歌謡曲、懐メロだが、なるほど確かに彼らはインドのポピュラー音楽の「クラシック」だ。
世代的にも文化的にも、メンターたちは小さい頃からヒップホップを聴いて育ったわけではない。ヒップホップというカルチャーに強く惹かれながらも、自分たちの大衆文化をルーツとして誇る彼らのバランス感覚は、自然で気取りがなく、好感が持てた。
ところで、ヒップホップというカルチャーには、性的、暴力的な内容のラップや、事実上の「落書き」であるグラフィティなど、反社会的な要素も多い。インドでも一部のラッパーの反道徳的なテーマのリリックが批判を受けている。エンパワーメントといえば聞こえはいいが、とても子どもの教育には向かないようにも見える。この点について、彼らはどう考えているのだろうか。
TDDPの代表に「ヒップホップにはミソジニー(女性蔑視)や、ドラッグや暴力をテーマにするような教育にふさわしくない面もあるのではないか」と訊いてみたところ、「子どもたちにはいつも『Do the right thing!(正しいことをしなさい)』と教えている。この教室からボリウッド映画に起用された子どもたちもいます。汚い言葉を使ったりしたら、チャンスが逃げてしまう」という答えが返ってきた。
先生に教えられたきれいな言葉しか使わない連中が本当にリアルなヒップホップなのか、なんて意地悪なことを考える必要はないだろう。はるか遠いブロンクスの集合住宅で生まれたヒップホップが、遠く離れたムンバイのスラムで子どもたちを勇気づけている。この現実の前で、机上のヒップホップ論を持ち出しても何の意味もないのは明らかだ。
「『Do the Right Thing!』って、スパイク・リーの映画のタイトルみたいですね」と伝えると、「そうなの? 全然知らなかった」と代表は笑った。
パンジャーブの「世界的スター」、ムンバイに降臨
その日の夜に訪れたのは、ごみごみとしたスラムとはうってかわって、真新しいオフィスビルやショッピングモールが並ぶBKC地区の巨大屋外ライヴ会場だった。パンジャービー・ヒップホップの大スター、カラン・オージュラのムンバイ公演の2日目。会場の雰囲気は、お台場で開催されるヒップホップ・フェス「THE HOPE」によく似ていた。近年再開発されたこの地区の人工的な街並みは、埋立地のお台場にそっくりだ。昼に訪れたTDDPから距離にしてたった2キロほどだが、ここでは全てが巨大で人工的、そして明確な都市計画のもとに作られている。
会場に入る時、私は少々緊張していた。この日私は前回紹介したパンジャーブのカリスマ的人気ラッパー、シドゥ・ムーセ・ワラのTシャツを着ていた。ギャングに射殺されるという衝撃的な最期を迎えた彼は、生前、カラン・オージュラとビーフ関係(ヒップホップにおける対立関係)にあった。このTシャツにオージュラのファンがどんなリアクションをするのか見たくて着て来たのだが、ガチのギャングっぽいファンがいたら、面倒なことになるかもしれない。ダラヴィのヒップホップ・スクールはいい人ばかりだったが、パンジャーブのヒップホップはラッパーが撃ち殺される世界だ。
結論から言うと、この心配はまったくの杞憂だった。チケット価格のせいか、客層はミドルクラスの常識がありそうな若者ばかり。杞憂どころか、いろんな人たちから「そのTシャツかっこいいね!」と話しかけられた。
私が買った「VIPエリア」のチケットは松竹梅でいうと竹クラスだが、早期割引でも4,999ルピー(約8,400円)もした。後方の安いエリアは3,999ルピー(約6,600円)で、ステージ最前列の「ファンピット」エリアになると9,999ルピー(約17,000円)。特別ラウンジへの入場パスを兼ねたVVIPチケットは24,999ルピー(約42,000円)もする。いくらインドの経済発展が著しいとはいえ、これはポピュラー音楽のチケット価格としてはかなり高額だ。それでも2日間で合計4万人近い若者たちが集まるのだから、オージュラの人気ぶりが分かる。
話しかけてきたファンに「他にどんな音楽を聴くの?」と聞いてみると、いろいろなタイプのヒップホップ好きが集まっていた。
「ディヴァインの大ファンなんだ。今夜ゲスト出演してくれたらいいのになあ」
「ムンバイのラッパーで好きなのはエミウェイ(Emiway Bantai)だね。MCスタン(MC STAN)みたいなオートチューンを使った曲は全部クソ」
「もちろんシドゥ・ムーセワラだよ。ディルジット・ドーサンジとAPディロンも好き」
「俺はなんだかんだ言ってもヨーヨー・ハニー・シンが最高だと思う。バードシャーはクソだね」
音楽ファンが好き勝手にアーティスト談義をするのはどこの国でも同じだが、嫌いなラッパーに対する意見はメディアや業界関係者からは決して聞くことができない貴重な経験だ。
会場にはリストバンドのQRコードで決済するドリンク・軽食コーナーがあるが、物販コーナーはない。これは今回訪れた他のライブやフェスの会場でも同様だった。日本ではアーティストがグッズの販売で儲けるようになって久しいが、音楽シーンが爆発的に成長中のインドではチケット代だけで十分な利益が得られるのだろうか。
オージュラの顔がプリントされた特製紙コップでビールを飲んでいると、オープニングアクトのイッキー(Ikky)のステージが始まった。オージュラとのコラボレーションも多い彼は現代パンジャーブ音楽の最重要プロデューサーの一人だが、パフォーマーとしての人気はそれほどでもなく、まあまあの盛り上がり。
続いていよいよオージュラのコンサートが始まる。ステージ後方のスクリーンの映像や照明が一段と派手になり、観客たちは歌ったり踊ったり、思いっきり楽しんでいる。スマホでの動画撮影に夢中な観客も多い。海外のライブ映像でよく見るような、ガールフレンドを肩車して踊っている男性もいる。
それにしても、ステージの特殊効果がすごい。日本だったらライブのクライマックスで使うようなド派手なレーザーや花火を1曲目からガンガン使う。音響も良い。というか、単純に音がものすごく大きい。日本だったらこんな爆音をオフィス街で鳴らしたら苦情が殺到するはずだ。インド人が大らかなのか、主催者が無神経なのか。
ステージ上にはDJだけではなく、ギター、キーボード、ドラムスからなる生バンドがいて、ほとんど全ての曲がバンドアレンジになっている。あとで聞いたところによると、大物ラッパーのコンサートでバックがDJだけだと、インドでは「ショボい」と思われてしまうらしく、こうした大規模ライブでは、ヒップホップでもバンドによる演奏が必須だそうだ。
オージュラは「Gangsta」のようなヘヴィな曲から「Tauba Tauba」のようなポップな曲までバラエティに富んだ曲をパフォーマンスし、揃いの衣装を着たバングラー・ダンサーたちがステージに登場すると会場はさらに盛り上がった。パンジャービーの観客は多くはなさそうだが、自身のルーツを誇らしげにレペゼンする姿はムンバイカル(ムンバイっ子)から見てもカッコいいのだろう。
コンサート後半には次々とゲストが出演。地元ムンバイ代表のディヴァインが往年のボリウッド・ソングをサンプリングした大ヒット曲「Baazigar」を披露し、オージュラと並ぶパンジャーブ音楽シーンのスーパースター、APディロンは代表曲の「Brown Munde」を歌った。もちろん観客は大喜びだ。
だが、豪華なゲスト陣よりも盛り上がったのは、終盤に披露された往年のボリウッド・ソングのカバー曲メドレーだった。オージュラは典型的なラップよりも歌モノっぽい曲が多いアーティストだが、ラッパーである彼が何十年も前のボリウッド・ソングをカバーして、さらに若い観客たちが声を揃えて一緒に歌っているということにびっくりした。
無理やり日本にたとえれば、Creepy NutsやBAD HOPがライブのクライマックスで尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を歌うようなものだ。たとえてはみたものの、まったくイメージが湧かない。ダラヴィのメンターたちが言っていたように、ここではボリウッド・クラシックは単なる往年のヒット曲ではなく、彼らのルーツであり、ソウル・ミュージックなのだろう。
終演時にはこれまた日本のオフィス街ではありえないほどの大量の打ち上げ花火が上がり、コンサートは大盛況のうちに幕を閉じた。
音楽で家を建てたインディペンデント・プロデューサー
ムンバイに到着して数日後、友人で人気プロデューサーのカラン・カンチャンから連絡があった。IIT(インド工科大学)ボンベイ校の学園祭「ムード・インディゴ」の「ヒップホップ・ナイト」にDJとしての出演が決まったという。IITはあのMIT(マサチューセッツ工科大学)を超える難関とも言われる理系の名門大学だ(国立大学にも関わらず、IITはなぜかいまだにこの街の旧名ボンベイをその名に冠している)。
1973年から開催されているムード・インディゴは、スポンサーの獲得からイベントの企画まですべて学生によって運営されており、アジア最大の学園祭とも言われている。インド人はなにかと「アジア最大」と言いがちなので実際のところは分からないが(例:アジア最大のEDMフェスティバル。「ダンス天国、ゴア!」の回参照)、公式ウェブサイトによると、海外から招聘したミュージシャンのパフォーマンス、ボリウッドダンスやビートボックスのワークショップ、さらには「犬と一緒に絵を描こう」というワケの分からない催しまで、多様なプログラムが行われ、3日間で15万人もの人が集まるという。
今年のメインステージでは、初日と三日目はボリウッド系の有名シンガーがトリを務め、二日目の「ヒップホップ・ナイト」ではデリーの人気ラッパー、ラフタール(Raftaar)がヘッドライナーを任されている。カラン・カンチャンはラフタールの前にDJとしてプレイすることになったそうだが、これだけの規模のイベントへの出演が数日前に決まるとはなんともインドらしい。
ヒップホップ・ナイト当日、待ち合わせ場所に指定されたのは、ムンバイ郊外にある彼の自宅だった。スタジオを兼ねた立派な3階建ての戸建て住宅で、少し前まで近くのマンションで暮らしていたが、音楽の収入でこの家を購入したという。
「ムンバイでは庭付きの家は珍しいんだ。ぜひ写真に撮ってよ」と彼は窓の外の芝生の庭を指差した。ヒップホップで有名になった若手プロデューサーが土地も住まいも高いムンバイでこんなに大きな家を建てるなんて、インドの音楽シーンにはめちゃくちゃ夢がある。
リビングには、彼が京都で和楽器バンドのメンバーからプレゼントしてもらったサイン入りポスターや、渋谷で買った大貫妙子のレコードが飾られていた。彼はシティポップからYOASOBIまで幅広いジャンルをフォローする日本の音楽マニアで、かつて三味線の音色を使った日本風のトラップ・ミュージック「J-Trap」を作っていたこともある。
日本のカルチャー好きを公言する海外のアーティストは珍しくないが、IITボンベイ校への道中、シャッフル再生していた彼のカーステレオから都はるみの「好きになった人」が流れてきたのにはびっくりした。それを聞きながら彼が「ラター・マンゲーシュカルの『Sayonara Sayonara』(1966年のボリウッド映画『Love in Tokyo』のテーマ曲)はこの曲をパクってるんだよね」と言うのを聞いた時は、さらに驚いた。
実際は「サヨナラ・サヨナラ」のほうが「好きになった人」の2年前にリリースされており、パクリ説は誤りなのだが、日印の大衆歌謡に対する見方が面白すぎる。
競争の激しいムンバイの音楽シーンで彼が成功することができたのは、ひとえにその旺盛な探究心と努力、的確なマーケティング能力による。ヒップホップに限らず、ヘヴィなベースミュージックからポップな歌モノまで、あらゆるジャンルで個性を発揮する彼は、みるみるうちに売れっ子になった。ネットフリックス映画のテーマ曲や、ボリウッド映画をサンプリングしたディヴァインの「Baazigar」など、数々の話題曲を手掛け、今ではDJとしても引く手あまただ。
最近では、デリーのベテランラッパーKR$NAのアルバムで、大ファンだというAwichが参加した曲をプロデュースしている。ビートメーカー/プロデューサーという仕事は、言語の影響が大きいラッパーと比べて、国境を越えやすい。そう遠くないうちに、彼が日本の音楽シーンでも活躍する日が来るかもしれない。
ムンバイ郊外を都はるみや松田聖子を流しながら走るカラン・カンチャンの車は、会場のIITボンベイ校に近づいてきた。
アジア最大の学園祭
ムード・インディゴが行われるIITボンベイ校は、まるで日本の地方の国立大学のような広大な敷地に、いくつもの校舎が点在している。キャンパスに入ってからさらに車で数分。到着した屋外のコンサート会場は、学園祭というよりも本格的な野外フェスのようだった。巨大スクリーンで飾られたステージの規模は先日のカラン・オージュラのコンサートと比べてもまったく遜色がない。観客エリアの後方にはムンバイの人気ファストフード店の屋台が軒を連ねている。
サウンドチェックが一段落したところで、学生スタッフがケータリングを持ってきてくれた。チャパティ生地でスパイシーなフィリングを包んだブリトーのようなフードで、野外でも片手で食べやすい。ドリンクはインドのコーラ「サムズ・アップ」とレッドブルが選べるようになっている。さすが未来のエリート候補というだけあって、彼らのホスピタリティーはなかなかのものだった。
リハーサルが一段落すると、出演までの時間、学生スタッフがキャンパス内にあるホテルのような部屋に案内してくれた。ここでカンチャンは選曲の最終調整。学園祭というイベントの性格上、観客はコアなヒップホップファンだけではないので、盛り上がる曲を慎重に選んでいる。出番が近づくと、今度はスタッフがステージ近くにあるバスを改造したアーティスト別の楽屋に案内してくれた。舞台袖から覗くと、客席エリアは学生たちで満員。パーティーの準備は整っている。
この夜のカラン・カンチャンのDJパフォーマンスは圧巻だった。クイックミックスで次々に曲を変えながら、観客たちをぐいぐい盛り上げてゆく。自身が手掛けた曲やトラヴィス・スコットの「Fe!n」のような世界的なヒップホップ・アンセム、リトヴィズ(Ritviz)などのインド産EDM、そして鉄板のボリウッドと、縦横無尽に選曲するプレイはインドの売れっ子DJの真骨頂だった。
個人的にもっとも痺れたのが、パンジャビMCの「Mundian To Bach Ke」からハヌマンカインドの「Big Dawgs」へと繋いだ部分だ。パフォーマンス後に「2002年と2024年のインド人ラッパーによる世界的ヒットを繋ぐなんて、最高のアイディアだよ」と伝えたところ、「確かにそうだね。意識したわけじゃないけど、2曲ともキーが同じだということを見つけて、繋いでみたんだ」とのことだったが、世代を超えたキラーチューンの連発に、私だけでなく観客も大いに盛り上がっていた。「Wait a minute, get it how to live it…」から始まる「Big Dwags」のリリックはみんな大合唱だった。
とはいえ、この夜もっとも観客の歌声が大きかったのは、ヒップホップではなく、往年のボリウッド・ソング「オーム・シャンティ・オーム」だったように思う。カラン・カンチャンのDJパフォーマンスには何人かのゲストが参加していたが、オーディエンスがもっとも熱狂していたのは、MCアルターフ(MC Altaf)やロカ(Loka)といったラッパーたちではなく、ボリウッドの大物ソングライター・デュオ、ヴィシャル=シェーカル(Vishal=Shekhar)の一人で、シンガーでもあるシェーカル・ラヴジアーニー(Shekhar Ravjiani)だった。
観客たちはハヌマンカインドにもトラヴィス・スコットにも大いに盛り上がっていたので、ヒップホップも好きなのは間違いないはずだ。にもかかわらず、「ヒップホップ・ナイト」の名を冠したイベントや人気ラッパーのコンサートで、ボリウッド・ソングがもっとも盛り上がってしまうというのは、「新しい音楽」を求めてムンバイに来た私にとって衝撃だった。新しい世代によって、メインストリームに拮抗する新しいカルチャーが生まれたと思っていたのだが、それはボリウッドという大木の先に芽吹いた、まだ小さな新芽にすぎないのだろうか。